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一章 A『DETECTIVE office 乱』

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   一章A 『DETECTIVE office 乱』



 暗い場所だ。明かりは一箇所だけが灯っており、周囲の闇を照らすには乏しすぎる。
 瞬間的に夢を見ていると気づく。夢といっても、内容は三年ほど前に現実として起こった出来事だ。
 正直、思い出して楽しいものではないし、出来れば思い出したくはない。それでも拭えるわけがなく、今も見つめ続けては(うな)される。

「よせッ! 止めてくれ! こんなことを続けてなんになるッ」
 正面には唯一の光源、強化ガラスで作られた巨大な円柱の試験管に、淡く光る薄緑の羊水が満たされていた。
 過去の自分が、パネルを操作する科学者に掴みかかる。
 夢だとわかっているのに、身体は過去の自分をトレースした。
「何をなさるのですか、お止めください!」
「藤堂。――これが我々の天命だ」
 横合いからかけられた声音は、しわがれていながら重厚で老練なものだった。しかし、聞きなれた声にうんざりして叫ぶ。
「これが天命……? こんなものが、いったい何になると言うんだッ!」
 科学者から離れ、横に佇む声の主へと掴みかかった。暗闇のため確かな容貌までは確認できないが、その身は蓄えた白髭や白髪に似合わない体躯だ。鍛え上げられたしなやかな筋肉が、掴んだ腕から理解できる。
「耐えろ。耐えるに値する逆境だと信じろ」
「馬鹿な! これでは朝臣(あそみ)のときとなにも変わらない!」
 力強く薙いだ左腕が、円柱の試験管を示す。
「彼女を使い捨て、今度はラピスなのか……? 俺たちは貴様らの走狗ではないぞッ!」
「言葉を慎みなよ」
 悲痛な叫びと共に胸倉を締め上げようと力を加えた瞬間、首筋に長大なランスが据えられた。
 フォルムの大半を太陽光の金(サンライトゴールド)に輝かせたそれは、待機中のオーパーツである証だ。
 暗がりの奥から伸びる腕がわずかに垣間見える。しかし、そこより先は闇が濃すぎて目視すら不可能だ。あるいは、男の心こそが闇そのものであるかのようだった。
「……お前は、本当にそれでいいのか……。朝臣を失って……何かを想ったからこそ、ここにいるんじゃないのか?」
「僕に呼び起こされる感情なんて、ないさ」
 ランスの使い手は、その言葉を歯牙することなく両断した。二人のあいだに火花が散り、互いに引かない両者の脳裏には闘争という二文字が過ぎる。如何にして先手を取るか、殺伐とした思考に支配されていく。

「アキラ、いいから」

 背後からかけられた言葉に緊張感が消失した。常ならば鈴のように清涼な声音が、今は苦しく掠れている。
 場の中央に存在した巨大な試験管の中には、羊水に浸かった少女がいた。長く伸ばされた桃銀の髪が水中に広がり、さながら天使の翼だ。
「馬鹿な……。なにがいいものか、俺たちはこんなことのために」
「ごめんね……。アキラ」
 最後の言葉を呟き、痛みに堪えて笑みを作る少女は、背後の老人が科学者たちに指示したのを見ていた。
 掴みかかっていた彼が、ランスの男に気を逸らした一瞬のことだ。その事実に気づけなかったことを彼は一生後悔するのかもしれない。少なくとも、忘れたことは未だかつて一度もなかった。
 科学者の手がパネルを操作すると、気泡を揺らして試験管の中身が赤く変色した。併せるように赤い光が影のように室内へ伸びる。
 彼の顔を赤く照らしだし、揺れる少女の影が陰影を刻んだ。
 赤く、赤く、赤く、赤く、その事実に懐かしさを覚え、同時に愛しく想い、それを上回る嫌悪を感じた。

「ああぁぁあぁあぁああぁぁああぁあああぁぁああぁああぁあぁあぁぁっ」

 絶叫と共に夢の中の彼は現実へと帰還する。
 ベッドから勢いよく身体を起こすと、夢よりわずかに大人びて見える少年――藤堂慧(とうどうあきら)は、汗に濡れて額へ張り付く前髪を鬱陶しげに掻き揚げた。
 夢だ。わかっていても呼吸が乱れる。深い深呼吸と共に荒い息を整えた。
 カーテンすら掛けない殺風景な窓を眺めると、外は酷い雨だった。枕元の時計は午前六時三分を示している。三月にして豪雨の空は暗い。憂鬱になりそうだ。
 ふと気配に気づいて左を向くと、少女が椅子に腰掛けていた。
 床に触れるほど長い桃銀の髪を真直ぐに伸ばし、同じく長い前髪は、病的に白い肌を晒した額の真ん中で左右に分けられ、一束だけ鼻先まで垂れている。瞬き一つせずに開かれた黄金色の瞳は、輝くことなく深みを持った糖蜜のようだ。
 見開かれた瞳とは裏腹に、意思の力を希薄にしか感じることができない。まるで背景に溶け込むような少女だった。
「ラピス……。相変わらず気配がないですね」
 その言葉に反応したように、少女――ラピス・ラズリが藤堂慧に顔を向けた。惚けたような雰囲気から返答はない。
「ともかく、おはよう」
 その反応を馴染んだものとして対処し、慧は少女に挨拶を返した。
 彼の言葉をスタートの合図にして、ラピスは膝に乗せていたお盆から納豆を取り出し、軽くかき混ぜてから絡めた箸を突きつける。
「いや、いったい何事」
 おそらく朝食のつもりだろう。グイグイ突きつけて納豆を顔にこすり付けてくる。普通なら拷問の類かと勘違いするところだ。
「こら、止しなさい。納豆は人の食べ物じゃありません!」
 納豆は人の食べ物である。ただし、日系英人の慧にはいささかキツイかもしれない。
 しばらく抵抗していると、ラピスは納豆の絡んだ箸を引っ込め、今度はコップに注いだ水を慧の口元に問答無用で押し付け始めた。
「ちょっ、止めてくださっ」
 ラピスは返答することなく、慧の顔にコップを引っくり返す勢いで水を注ぐ。それに合わせて押し倒され、身体が強制的に後ろへ倒れた。今更だがシーツは水浸しだ。
 それでも馬乗りになって、口元へ納豆と水を押し付ける少女が憎らしい。
 〝走狗ではない〟、夢で叫んだ己の言葉を思い出した。それでも、未だに自分たちは走狗のままだ。こんな生き方をなんと表現すればいいだろう。
「はぁ。……無様ですね」
「あーうー」
 陰鬱な呟きに意味の伴わない言葉が降った。だが仕方ない。
 ラピスはこんなとき正しく返事ができない。外見に見合った思考をすることができないのだ。
 しかし、だからこそ彼女を想えば耐えられる無様だと思う。
 ラピスは超能力ストレス障害(Psychic traumatic stress disorder)――通称PTSDである。
 多くは精神安定を欠く症状が一般的だが、彼女の場合はもっとも酷い部類に入る。ラピス・ラズリは、三年前の一件により精神が行き場を失い、今では赤子のような思考能力しかもたない。以来、慧は誰よりもラピスのことを優先し、彼女の世話を焼いてきた。
 人生はかくも無情なうえに無常を突きつける。実に辛い。だが思うのだ。それでも生きなければならない。生きているうちは、
「もし、これが私の見ている夢の続きなら………色々と悪い夢です」
「あーうー」
 掌で顔を覆った慧を見て、水を拭いていると勘違いしたのか、ラピスもそれを手伝おうと布団の端を顔に押し付ける。その行為が憂鬱な心に優しかった。
 ――いや、まぁ……悪いことばかりじゃないか。
「ちょっとゴシゴシ痛いですけどね」
「あう?」
 ふっと息を吐いてラピスの頭を撫でると、軽々と持ち上げて椅子に座らせる。
「さてと、今日は逆襄さんのところで麻雀でも打ちましょうか?」
「はう!」
 外出を喜んでいるように、垂れ下がった一束の前髪がピコピコと揺れる。その姿に微笑を送って着替えを始めた。
 着替えと言っても簡単なものだ。慧は自分という存在に対して手を尽くさない。とりあえず床に散乱したトレーと朝食を拾い集めながら姿見の前に立つ。
 映りこんだのは自分の姿だ。首の半ばまで伸びた(あおぐろ)い頭髪、わずかに濃淡のある不思議な藍色の瞳は理知的であり、枕元に置かれていた四角いカニ目レンズ――上下の高さが極端に薄いレンズ――のフレームレス眼鏡がよく似合っている。
 未だ少年然とした雰囲気を残しつつも、百七十四センチの痩身が纏う空気は年齢にそぐわない経験の賜物だろう。洗練された仕草を垣間見せていた。
 その容貌はわずかに女性的だが、十分に美形の部類に入る。より正確に言うならば、入る筈だという方が正しいだろうか。
 なにせ頭髪は寝癖でぼさぼさに乱れ、外出時の衣服は年がら年中着た切り雀だ。確かに美しく聡明な印象を受けるが、今一つパッとしない。
 受動的というか、まるで惰性で生きているような印象を受ける。もっとも本人としては、そこまで後ろ向きに生きている気は更々ないのだが。
 自分の外見に頓着しない慧らしく、何着も仕舞われている白のドレスシャツ――所謂ワイシャツ――とタイトな黒のスラックスという普段着を纏い、脇の下に吊るす革製のショルダーホルスターを身に着けて、愛銃のディテクティブトゥルー収める。
 彼の銃はコルト社のアンティークモデル・ディテクティブスペシャルのカスタムであり、装弾数六発の小型回転式拳銃(リボルバー)だ。
 使用する弾丸には、反動が少なく扱い易い380ACP3徹甲弾(アーマーピアシング)を装填できるように改良してある。
 徹甲弾とは、ボディーアーマーや防弾装甲を突破する貫通力に優れた弾丸の総称だ。しかし、現代で徹甲弾をメインに使う人間は珍しい。貫通力はあってもストッピングパワー、相手を停止させる力に劣るからだ。
 現代で主流とされる多くの弾丸は、人体に止まり多量の出血を招いて激痛による神経ショックで意識を奪う。あるいは中枢を確実に破壊する物が好まれる傾向にある。
 残酷な効果を発揮する弾丸が大多数を占めるが、逆に言えば狙った相手の体内で確実に止まり、周囲へ流れ弾などの被害が及ばないことを意味する。そうした点から、単に威力のみを求める者以外にも広く使用されているのだ。
 そんな中に在って、慧はあえて徹甲弾を好む。貫通力の高い弾丸は相手を押し止めないばかりか、周囲にも危険が及ぶため、使用には細心の注意が必要だが、藤堂慧は自分自身が殺し屋ではなく探偵だと断じていた。ならば殺しのために使われる弾丸は必要ない。
 困難な局面に在って防弾装甲を貫き、人体への影響を最小限に止める徹甲弾は、彼にとって理想的な弾丸と言えた。廃れ始めた弾丸を内ポケットに十二発ほど仕舞う。
 その後は手早く寝癖箇所を確認すると、洗面所に直行して水道の蛇口を捻り、手を水で湿らせてから寝癖を直した。寝癖直しや整髪料は使用したことがない。
 軽く撫で付ければ五分と掛からず準備は完了だ。なんとも気のないことである。
「さあ、準備ができましたよ」
 寝室に戻ると、ラピスも自分で着替えを完了させたところだった。百五十センチに満たない身長では、立ち上がっても頭髪が地面を擦りそうで怖かったが、それ以外は完璧だ。
 わずかにフリルの付いた白基調のチュニックを身に纏い、フェミニンな雰囲気を振りまいている。
 とはいえ、ラピスの服は彼女自身にとって着替え易い物が多く用意され、――チュニックやワンピースなど――無駄に可愛らしいデザインばかりである。更に選んでいるのもラピスではなく自称探偵助手だった。
 そういった背景から、ラピスの服飾に関しては選択肢が存在しない実情であり、今の服も特別に気に入って着替えたわけではないのだろう。
 それでも、似合ってますよ、と一声かけて頭を撫で、髪を乱したラピスに微笑んでから壁に掛けてあったネイビーブルーのインバネスコート――丈が長いコートにケープを合わせたデザインを持つ、シャーロック・ホームズのトレードマークとしても知られる外套――を着込む。慧の頭髪と同色であるため、首筋で色が立体化したように見えた。
「出かけましょうか?」
「あうっ」
 掛け声と共にラピスが慧の腕を取った。外は随分と酷い雨だったが、いつの間にか憂鬱な気分は去っている。
 出掛けに自称探偵助手へ書置きを残し、豪雨の中、一本の傘を差して寄り添うように歩いた。昔のように、変わらぬように――。
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