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コウノトリシンドローム 後編2

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kagomori

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 緋月は走っていた。
 工事中のビルの足場や非常階段の手すり、付き出た看板を足場に道なき道を進む。学園には地図通りの道をいくのを面倒くさがって、こういう三次元ショートカットを試みる人間が多いため、大概の足場になるような場所は丈夫に作られている。もちろん、そこを通る人が怪我をしないような配慮――などではない。勝手にそこを道にする人間に、自分の不動産の一部が壊されないようにするための措置だ。
 時々携帯電話で学園公式ページにアクセスする。学園掲示板の片隅に、リアルタイムで不審者の追跡情報が上がってきている。投稿してくるのは興味本位で追跡している武闘派生徒や、純粋に通りすがりにそれを見かけた生徒たちだ。そして、訓練を受けている生徒たちが実力を惜しみなく発揮したそれは、かなり正確だ。
それほど苦労することなく、目的の人物を追跡する生徒の発見までは至った。声をかけると、展開を予想していたのがごにょごにょといいわけのようなことを言いつつ、追跡者たちは離脱した。
 面白いことは大好きだが、分はわきまえる。
 それが長生きの秘訣だ。
 最後の目撃情報から、次に同じく距離をおきつつ追跡しているはずのファミリアを探すが、どういうわけか電話に出ない。確信をともなう嫌な予感を胸に抱きつつ、緋月は古びたビルの屋上に着地した。それほど背の高くないオフィスビルが連なるこの付近ではごくごく普通のビルだ。ただし、旧式のエアコンの屋外機や給水タンクが邪魔をして視界は悪い。
「…………」
 風にかすかに混ざる戦闘の痕跡。薄い血と硝煙の臭い。慎重に歩みを進めると、見覚えのある人物が昏倒していた。抱き起こして外傷がないのを確認する。軽い脳しんとうだ。それを皮切りに転々と人が倒れている。追跡していたはずのファミリアだ。戦闘に特化した人間ではないが、その辺の兵士や工作員がどうこうできるレベルの相手でもない。それがたいした怪我もなく、頭を殴られたか軽く首を絞められて昏倒している。それだけで相手の実力が分かる。
 そして、襲撃現場を見た生徒の情報が正しければ、襲撃者たちはそこまでのレベルではない。ただひとりを除いては。
 自然と早足になる。緋月の鼻にやや濃い血の臭いが届いた。
 追跡していたファミリアは全員が昏倒して倒れているのを発見した。おなじく追跡していた一般生徒はすでに離脱している。そうなると、おのずと血を流す可能性のある人間は絞られてくる。
 とぎれとぎれに流れてくる血の臭いと長年の勘を頼りに、ビルの隙間を駆け抜ける。相手がプロだからこそ、ある程度取るであろうルートも予測できる。そして、それは現れた。
 薄暗いビルの中に、ありきたりなスーツ姿の男たちが倒れている。
戦闘に向く服装ではないが、市街戦に置いて戦闘後速やかに人ごみに紛れるには適した扮装だ。近くにはいくつかの箱が転がっていて物騒なものがいろいろと覗いていた。撤退後、ここで着替えて都市から逃げ出す手はずだったのだろう。緋月は鼻で笑う。それが出来るとこの死体たちは思っていたのか。だとすれば、あまりにも軽率で、あまりにも学園の生徒たちの実力を理解していない。彼らを追跡して殲滅することなど、本科生なら誰でもできるだろう。

『奴』がいなければ。

 ぐるりと死体を確認する。それらはすべて一撃で切り殺されていた。傷口はズタズタで、血肉が散らばっている。赤ん坊の死体は、ない。
「――――なにを企んでいる」
 呟いたひとりごとに、当然返事は返って来ない。
 ビルは取り壊し前なのか人の気配はない。そう言えば、この辺りに残っている学園建設以前の建物群が東区の区開発の邪魔だと、珠月がぼやいていたことを思い出す。おそらくはこれもそういうものなのだろう。下のほうは浮浪者がすみついている気配があるが、死体のある階までくると、面白半分で入り込んでくるものもほとんどいないらしい。
 ならばと上に足を向ける。妙な確信があった。奴はきっと待っていると。
 足音を殺すこともせず、非常階段を上る。高い建物が少ないこの地域は、空が広い。だが、普通なら感動するような景観をみても、真っ先に狙撃の危険性を考えてしまうあたりは職業病だ。
 空は良くない。聖人だって高いところでずっと瞑想なんかしてるから悟っちゃうんだ。そう言ったのは知人の狙撃手だ。同意はしかねるが、言いたいことは分かる。
 矮小な身には、広すぎる空間など恐怖の対象でしかない。
 つらつらと愚にもつかないことを考えつつ足を動かす。不意打ちの危険性は考えない。それはありえないと奇妙な確信が胸の内にあるからだ。そして、登りきって足を止めた先、彼は当たり前のように佇んでいた。

「やあ」

 久しぶりに友人にでもあったかのような顔で、不死川陽狩は片手を上げた。その片方の手が抱えているのは、白い布の塊だ。そこからのぞいた手がかすかに動いたことに、緋月はほっとする。
「陽狩」
「思ったより遅かったですね」
 くるりと彼は振り替えた。悪びれた様子もない態度に、次第に怒りがわいてくる。
「何の用だ? 陽狩。俺に用事があるなら直接言えばいい」
「いや、別に明確な目的があるわけではないんですが」
 虫をいたぶる子猫のような無邪気な顔で、陽狩は微笑んだ。本能的にいやなものを感じて、緋月は身構える。
「誘拐計画の話がたまたま耳に入りまして」
「…………」
「放っておこうかとも思ったんですが、ちょっと興味がありまして」
 陽狩は赤ん坊を覗き込んだ。まるで珍しい動物でも観察するかのような態度で、その頬をつつく。

ふに

 赤ん坊の頬にかるく指がめり込んで、離すとまたもとに戻る。ぎりぎり傷をつけず痛みも与えない力加減だ。
 ことんと陽狩は首を傾げた。
「普通に赤ん坊ですねぇ。別に可愛くもなければ、賢そうでもありませんし」
「喧嘩を売っているのか?」
「別に。ただの感想です」
 唐突に、陽狩は片手で抱えた赤ん坊を放り投げた。慌てて緋月は前に飛び出す。うまい具合に投げられた赤ん坊は、そのまま重力に従って緋月の手の中におちてきた。怪我もなく元気そうなのをみて、緋月はほっとする。それを見て、陽狩は小首を傾げた。
「やはり、よく分かりませんね」
「何がだ?」
 怒りを込めた視線を向けると、観察するような視線が返ってくる。
「やっぱり、可愛いとは思えません。ただの人間の幼児です。血のつながりも利益の繋がりもない子どもなんて、そんなものですよね。どうして貴方は、それにそんなに興味をもつんですか?」
 心底不思議そうな顔で陽狩は尋ねた。
「私には子どもの愛らしさというものがそもそも理解できません。無邪気とは無知ということでしょう? 体格の小さい頭の悪いだけの人間が可愛いんでしょうか? たしかに伸びしろがあるという意味では、弱く無能なおとなよりは価値があるかもしれませんが」
 視線が赤ん坊に向く。
「赤ん坊なんて、理性もないし正直人間とすら思えませんよ。いたぶり殺す価値すらない。七歳以下には食指がわかないと夏羽も言っていましたし」
「…………お前らはなにかの妖怪なのか」
 かつての日本では幼児の死亡率が高かったことから、『七歳までは神のうち』として七歳以下の子供は人間とみなさない風習があった。殺『人』鬼としては、ある意味とても正しい行動である。
「殺人鬼を人間とみなすか否かでは、世間様の意見は分かれるところだと思いますよ?」
 にたにたと陽狩は笑った。
 一向に見えてこない相手の意図に、緋月は顔をしかめた。本当ならば、この相手との問答は一分一秒も早く打ち切りたい。しかし、赤ん坊の身が文字通り足手まといで普段と同じ動きはできない。
下手な手は打てない。
 じれる心を押さえて、戯言とも挑発とも付かない台詞の続きを聞く。
「自立できる才能もしくはやる気のある人間ならともかく、そうでない人間をひとり抱え込むのにどれほどの経済的、精神的負担がかかると思っているんですか? 可哀想だからと拾っていてはとても限がない。あの人間を拾うのが趣味のような南王や渡り鳥すら、拾う相手は選ぶというのに」
 陽狩は本題に切り込んでこない。叩きつぶすための最良のタイミングを見計らうかのように、中身のない問答を続ける。
「道に落ちているなら無視もできる。玄関先に置いてあったんだ。しかたないだろう」
 緋月の返事に陽狩は小さく笑った。切り込んでくる。そう確信した瞬間、

「ふうん。けれど、やっぱり馬鹿だと思いますね。そんな過去の亡霊を自ら引き入れるような真似は」

 緋月は目を見開いた。それを見て、陽狩はにやりと笑う。
あきらかに緋月自身がついさっき知ったばかりのことも含めて、陽狩は知っている。視線だけで疑問を投げかけると、陽狩は鼻で笑った。
「カルバニアなら分かると思いますが、情報封鎖というものは意外と難しい。誰か知っている人がいる限り情報なんて漏れるものです。伝達を遅らせることならできますがね。今回の一件でばたばたしてる人間がやたらといるから、そっちから伝っていったら思ったより簡単に情報封鎖の壁を迂回できた、ってところです」
 陽狩は赤ん坊を見下ろした。
つまりは、一連の騒ぎで好奇心から赤ん坊の素性を調べたファミリアを逆にたどり、彼らが調べている内容から緋月の過去を洗いだすことに成功したということだ。古い古い同僚の、置き去りにしてきた過去から生まれた子ども。それが巡り巡ってこんなところに現れるとは、人生は分からないものだ。
「『できれば世の中の多くの人が幸せであってほしい』『自分に害がない範囲なら困ってる人を助けてあげていい気分に浸りたい』そういうのが世間一般の認識だってことは理解できます。けれど、それは貴方に損害を与えるものでしょう? それのせいで貴方は、貴方の大事なスカイブルーに過去を知られるかもしれない。嫌われてしまうかもしれない。なのに、その子を助ける。その心理がとても不可思議です」
 眼球だけを動かして、ちらりと陽狩は赤ん坊に視線を向けた。
「その赤ん坊は、不利益を凌駕するほどの愛らしさはありませんし、あの嗅覚のするどいカルバニアが『緋月が拾ってきた子供』以上の関心をもっていない時点で、現時点での将来性もありません。なのになぜ、貴方はそれが大事なんですか?」
「うるさい」
 自分でも驚くほど冷淡な声が出た。緋月の声に、陽狩の声が喜色を帯びる。つくづく性格が悪い。陽狩は他人の気分を損ねることを好むのだ。
「代償行為というものがありまして」「だから」「自分が出来なかったことを代わりに他人にさせたり、自分がしてほしかったことを他人にしたりという」「うるさい」
 にいと陽狩は笑った。

「クリムゾン、貴方はいまだにひとりで怯える子どものままなんでしょうか?」

 銃声が響いた。
 緋月は赤ん坊を片手に抱えて立っている。陽狩は先ほどまでいた場所にはいない。数メートル離れたタンクの影にいる。そして、陽狩が元いた場所には銃弾でアスファルトに傷がついている。
「その子どもは、かつての見捨てられた貴方自身の姿でしょうか?」
「……――――黙れと言っている」
 緋月は銃を握ったままの手で髪をかき上げた。あからさまの隙だが、陽狩は攻撃してこない。面白がるように緋月の動揺を眺めている。
 緋月は手の中の赤ん坊に視線を向けた。落ち着けと自分に言い聞かす。緋月の武器であるコルチジャンや暗器の類は赤ん坊を抱えた状態で十全に使えるほど簡単な武器ではない。まして、陽狩と緋月の実力はほぼ互角だ。お荷物を抱えた状態での戦闘はなんとしてでも避けなくてはならない。
 落ちつけ。
動揺するようなことなどなにもない。
 繰り返し自分に言い聞かす。しかし、手の震えは止まらない。
「本当は不安で、そして罪悪感を持っている。幸せが怖い。どうして人を殺して死ぬはずだった自分は今こうしてここにいるのか。何気ない日常を過ごしていて本当にいいんだろうか。本当のことを黙って友達といるのがつらい。殺そうとした相手に助けてもらったのが申し訳ない。だから、せめて自分と同じ立場の子どもを」「陽狩っ!!」
 飛びかかりそうになる衝動を必死でこらえ、代わりに無意識のうちに一歩後ろに下がる。対峙してはいけない。まともに相手をしてはいけない。分かっていても相手の言葉のひとつひとつが胸の奥をえぐる。
「所詮貴方は、篭森珠月を殺害するためだけに送り込まれ、そして切り捨てられた人形で、それ以外の何モノにもなれない。だから必要としてくれる他人に、自分がいてあげないといけない誰かに依存するんです。赤ん坊でも、スカイブルーでも」
 芝居がかった仕草で、緋月はかたる。

「結局、貴方は何一つ確かなものを持っていないんですよ。可哀想に」

 下がった一歩。
 普段なら絶対にしないミス。
 後ろは非常階段だった。
「っ!!」
 身体が傾く。咄嗟に受け身を取ろうとして、緋月は腕に抱いていたものを思いだした。反射的に致命傷を避けようとする身体を無視して、赤ん坊を意識的に抱きこむ。小さなこどもだ。少しの打撲でもうちどころが悪ければ死んでしまう。
 視界の端で陽狩が意外そうな顔をしたのが見えた。ああ、狙っていたのか畜生と頭の中で悪態をついたところで完全に身体が空中に投げだされる。
 だが、予想していた衝撃はこなかった。
 投げ出された身体は、どこからか伸びてきた手に支えられ、不格好に階段の途中でしりもちをつく。

「――――緋月?」

 今は一番聞きたくない声に、緋月は身体を硬直させた。視線を上げると、悠然と階段の一番上で陽狩が微笑んでいる。そして、ゆっくりと振り向くと目を大きく見開いた遠が緋月を支えていた。
「…………遠」
 なんでここにいるんだ。
どこから聞いていたんだ。
疑問が次々と湧きだすが、どれも言葉にならない。緋月は遠を突き飛ばすようにして立ち上がった。遠からも陽狩から距離をとる位置に逃げる。
「緋月、今の…………」
 一番触れてほしくない話題に緋月の顔が歪む。だが、触れないわけにはいかないことも緋月はよく理解している。
 遠は緋月のパートナーで大親友だ。だが同時に、珠月の部下でもある。あきらかに不穏なことを聞いてしまっては、職務上無視することは許されない。
 様々な思いが胸をよぎった後、緋月は覚悟を決めて遠に向き直った。ゆっくりと遠の口が開く。

「すっごいな、緋月」

 聞き間違いかと思った。
 視界のすみで、陽狩の余裕の笑みが凍りついたのが見える。
「………………は?」
 意味が分からない。
 とうとうこいつは人間語すら忘れたのかと、かなりひどい考えが頭のすみを駆け巡るが、緋月は意識してその考えを打ち消した。その間も遠は喋る。
「社長を殺そうとしたとか、すごいな。俺なんか、一生豪遊できる金積まれても社長にさからうとか無理むり。社長、超怖いもん。なのにお前は社長超怖いって分かってるのに殺そうとするなんて、すごい勇気あるよな。流石緋月!」
「…………遠」

 お前の忠誠心の構成成分は、恐怖と本能的な力関係なのか。

 冷たい空気がその場に満ちた。
遠は気づかない。
「……………………今の話を聞いてそれ以外に感想はないのか?」
「というか、私の言葉が嘘だとは微塵も思わないんですね」
 思惑が外れたのか忌々しそうな顔で、陽狩は遠をにらんだ。遠は首を傾げる。
「え? 嘘だったら、普通分かるだろう」
「この野生動物がっ」
 遠の本能的な第六感は、すでに軽い予知能力レベルである。
「崩せると思ったのに台無しです」
「なにを崩すんだ?」
「――――っ」
 苛立ちがおさまらない陽狩に、緋月は小さく噴き出した。陽狩はにらみつけるが、緋月は気にした様子もなく笑いだす。
「緋月? なにがおかしいんだ?」
「いや……はは、お前は単純でいいな」
 眩しいものでも見るように、緋月は遠を見た。遠は訳が分からないと言う顔で、視線を彷徨わせる。
「それに比べて、俺たちはアホだ。考えすぎて思考がから回っている」
「貴方と私を一緒にしないでください」
 あからさまに舌打ちして、陽狩は遠をにらんだ。それでも襲いかかってこないのは、コンビを組んだ緋月と遠の手ごわさを知っているからだろう。加えて篭森珠月、ひいては篭森家が背後にいる以上、どれだけ憎たらしくともそう易々と二人を直接的に殺すことはできない。戦場でぶつかるか、あるいは相手が手を出してくるか、そうでないなら誤魔化しきる自信がある状況でなければ。
「…………遠」
「なんだ、緋月」
 緋月はちらりと遠を見た。いつも通りだ。馬鹿馬鹿しくなるくらい、遠の態度は変わらない。
「俺は馬鹿だと思うか?」
「なんで? 緋月がバカなら、この世の半分以上は馬鹿になるじゃねえか」
「そうじゃなくて俺は」「んー、俺馬鹿だから難しいことよくわかんねえけど」
 遠は首を傾げた。
「緋月は緋月が思ってるよりずっと頭いいんだから、緋月は緋月のやりたいことやっても問題ないと思うぜ。自信もてよ」
「…………そうか」
 緋月はかすかに微笑んだ。代わりに陽狩の眉間のしわは深くなる。
「まさか、ここでこんな『いい話』で終わる気じゃないでしょうね?」
「いい話かどうかは、大いに謎だが……」
 緋月は沈黙を保っている赤ん坊を見下ろした。
この状況下で眠り続けているというのはあきらかにおかしい。軽度の睡眠薬が使われているのだろう。幼い子供にとっては、わすかな薬も油断がならない。一刻もはやく医師の診断をうけるべきだろう。
「悪いが、退かせてもらう」
「貴方の過去、いくらくらいで売れると思います?」
 挑発的な物言いに、緋月は陽狩をにらみつけた。どこ吹く風と陽狩は笑う。だが、緋月はすぐに視線をそらした。
「――――――勝手にしろ」
「正気ですか?」
 かすかに本気の驚愕が混ざった表情で、陽狩は緋月を見下ろした。視線を合わせないまま、緋月は答える。
「どうせ隠してもいつかどこからかは、漏れるものだ」
「確実な証拠がない以上、殺人容疑で逮捕まではいかないでしょうが、確実にポイントは下がりますし、職を失う可能性も高いんですよ? 馬鹿じゃないですか?」
 ダイナソアオーガンは、学園でも本当に数少ない殺人免許を取得しているリンクである。緋月もまた殺人免許を持っている。しかしそれは、免許取得以前の殺人行為までは正当化してくれない。そして、こんな時代でもまだ平時の殺人および傷害は違法行為だ。表ざたになれば確実に社会的地位を失う。
「それとも、大好きなカルバニアが庇ってくれると思っているんですか?」
「珠月様にそこまでさせるわけにはいかない」
 緋月は首を横にふった。
「そうなった場合は、それまでだ。してきたことの責任は、取る」
「つまらない男ですねぇ。先ほどまでの気がいはどうしたんです?」
 陽狩は鼻をならした。緋月は薄く笑う。
「肩の重荷が下りた。よく考えれば、俺が何だろうと子どもがいようとなにをしたがっていようと、遠も珠月様もさして気にするような人じゃなかった」
「…………」
「この子は珠月様の知人に託すしかないが、よく考えれば後見ならできる」
「…………」
「陽狩」
 視線が交わる。
 陽狩は不快そうに眼を細めた。
「俺は帰る」
 そこに含まれた複数の意味を読みとって、陽狩は苦い顔をした。不快、不満、不愉快――そういう感情がにじみ出ている。
「本当に、不愉快です」
 吐き捨てるように言うと、陽狩は手すりを乗り越えた。そのまま、倒れ込むようにビルから飛び降りる。しかし、人体が地面に叩きつけられる衝撃音は、いつまでたっても聞こえなかった。
「緋月、帰ろうぜ」
「ああ」
 緋月は深く頷いた。
「帰る、か」




「で、結局赤ん坊は当初の予定通り、珠月さまのお友達行きになった、と」
「悪徳礼賛も暴露はしなったようだし、無事に終わってよかったな」
「よくないよ」
 昼下がりのサンルーム。
 『ファミリア』――珠月が出資する職人や企業家、私兵からなる取り巻き集団にして、私的な部下――をはべらせながら、珠月はため息をついた。
「最悪の事態は避けられたとはいえ、最近の陽狩は目に余る」
「まあ、もともとうちの陣営というわけでも御座いませんし」
 おっとりとファミリアのひとりが返事をする。
 さらに盛られた白と黒のチェス駒の形をしたチョコレートが一つ、紅茶の中に沈んだ。
「お前、なにその飲み方!?」
「おお……茶葉台無し」
「あいつの甘党は病気の域だよなぁ」
「そろそろ本当に病気になると思う」
 ぎょっとしたような声が周囲から上がるが、この程度の奇行はファミリアの中では奇行に数えられないため、そのまま流される。
「とはいえ、餌付けしておいても損はない程度の狂犬だとは思っていたんですが、当てが外れましたね」
「面白いからそれなりにお気に入りだったんだけど、距離を取る必要があるね」
 やれやれと珠月は肩をすくめた。紅茶の水面に憂いを帯びた顔がうつる。
「対外的にも、それなりの落とし前はつけてもらわないといけないからね。これから、陽狩とは話し合い」
 その時、扉が開いてファミリアのひとりの先導で陽狩が室内に入ってきた。
 むっつりと押し黙っていて、いかにも機嫌が悪そうだ。
「やあ、陽狩」
「どうも、カルバニア」
 警戒するファミリアを一瞥して、陽狩は皮肉げな笑みをうかべた。
「今日は随分と取り巻きが多いようですね。人を集めなくては、権力を誇示できないのは小物ですよ」
「人を集めることすらできない小物に言われたくないなぁ」
 いつもなら聞き流す言葉に皮肉で返す。
 不機嫌そうな瞳同士が見つめ合った。
「…………曲がりなりにも私に損失を与えたんだ。ペナルティは受けてもらうよ。陽狩」
「おとなしく受けるとでも?」
「別にどちらでもいいよ」
 珠月は深く椅子に掛け直した。
「けれど、身内を傷つけられて完全に黙認ともいかない私の立場も、分かってくれるよね?」
「知りませんね」
 ぴりぴりした空気がサンルームを満たす。
 柔らかな太陽の光すら、二人の放つ気配に冷えていきそうだ。だらだらと部屋のあちこちで寛いでいたファミリアたちは、姿勢だけは変えないまま、自然は二人の一挙一動をつぶさに観察している。
「なるほど。返事は分かったよ」
 小さく珠月は息を吐きだした。
「残念だ」
 菓子と茶器が中を舞った。
 扉のすぐ前に立っていた陽狩が、奥の珠月に向かって走り出すとともに腰から下げた愛剣を引きぬく。ワンテンポ遅れて、ファミリアが一斉に武器を構えた。拳銃が、ナイフが、暗器が、陽狩の方向をむく。しかし、わずかに及ばない。その間に陽狩は珠月とファミリアたちの攻撃圏内に飛び込む。そのまま大きく剣をふるが、それは珠月が蹴りあげたテーブルとその上の菓子や茶器に阻まれて誰にも届かない。
 ミスティック能力【アンパラレルドアドベンチャー(無類の冒険)】
 物体や知能の低い生物に自分の意識を移し、操作する珠月の異能力。対外的には、物体操作の異能として知られる。この異能は、ものが沢山ある場所ほど有利に戦闘を進めることができる。なぜなら、本人以外にはどれが操られている物体で、どれがそうでないのか分からないからだ。
 ばらばらと落ちてくる菓子や陶器を陽狩はほとんど避けずに突っ込んだ。感心するような声が上がる。
 物体操作は確かに脅威だ。
 しかしせまい室内ではものを高速で動かすには限度があり、そして菓子程度ならたとえそれが操作されていたとしても致命的なダメージを与えることは難しい。
 頭で考えるなら単純な理屈だが、相手が物体操作を得意とすると分かっていて躊躇なく実行するのは心理的に難しい。だからこそ、称賛する声が上がる。
 しかし、それでは足りない。
 鋭い音を立てて振り下ろされた剣は、珠月に届く前に真っ白な腕に阻まれる。
 白い。本当に白い。
 なぜならそれの腕には肉も血も神経もなく、ただ白い骨があるだけなのだから。
「カルバニア――――」
 珠月のエイリアスの由来にもなった白い人体骨格。それがふざけたことに食器のナイフとホークを持って陽狩の剣を防いでいる。そのむこうで、珠月が冷めた表情をしていた。
「とりあえず貴方には」
 銃声が響いた。
 振り返りもせずに陽狩はそれを刃で弾く。
二撃、三撃。四方からくる攻撃を見事に陽狩はさばいていく。しかし、
「多勢に無勢って言葉を贈っておくよ」
 無機物故に人外の動きで攻撃してくる白骨。同士うちを避けて、慎重に包囲網を展開するファミリア。直接的な戦闘能力は他のランカーに若干劣るとはいえ、二桁の序列を持つ珠月。戦闘特化のトップランカーとはいえ、さばき切れるものではない。
 投げナイフが頭の横をかすめて、派手に血が噴き出した。陽狩は片膝をつく。ゆっくりと立ち上がった珠月の手に、ファミリアの一人がよく砥がれた長剣を渡した。その時、
「そちらは今、取り込み中です」
「知るかよ。ちょっと退けよっ!!」
 にわかに廊下が騒がしくなる。
 聞こえてきた声に、部屋にいた全員がうんざりした表情を浮かべた。それと同時に、押し破られるように扉が開く。
「…………夏羽、ドアを壊すな」
「壊してねえよ! それより、何してるんだ!?」
 外で待機していたファミリアの制止を振り切って入ってきたと思しき夏羽が、顔をしかめて部屋に入ってくる。その視線が血まみれの陽狩で止まった。
「……それ、何かやったのか?」
「色々と。流石に勘弁できなくてね」
 ぶんと珠月は長剣をふった。細身で、重さで切り落とすことよりも切れ味自体を重視した西洋剣にしては珍しい品だ。それでも、玄人ならヒトの首を落とすくらいできる。
「取り込み中だから、用件なら後にしてくれない?」
「あー……用件ならそっちにあったんだが」
 気まずそうに夏羽は陽狩に視線を向けた。珠月は首を傾げる。
「…………そいつ、何したんだ?」
「私に損害を与えた」
 珠月は即答した。
 損害を与えたものは罰しなくてはならない。それは条理だ。なぜなら、そこで許してしまえば他の相手にも『こいつはここまでしても大丈夫』と判断されてしまうからだ。
 罪には罰を。攻撃には報復を。
 それは必要なことだ。
「…………」
 苦虫をかみつぶした顔で、夏羽は珠月を見た。そして、陽狩を見る。
「…………篭森」
「なに?」
「どうせそいつがまたろくでもないことを企んだんだと思うけど」
「まあ、ほぼその通りだね。多分、こいつは他人に嫌がらせをしないと死ぬ不治の病なんだと思うよ」
「それに関しては激しく同意するが」
 陽狩と過去にそれなりの面識があるファミリアの全員が激しく頷いた。
「そいつは俺が殺す予定だから、返してくれねぇ?」
「夏羽には関係ないことだよ」
「そうですよ」
 膝をついてうつむいたまま、陽狩が答えた。
「貴方には関係ありません。馬鹿じゃないですか? いいえ、馬鹿でしたね」
「馬鹿じゃねえよ」
 むっとした顔で夏羽は言い返す。陽狩は鼻で笑った。
「馬鹿ですよ」
「ああっ!?」
「痴話喧嘩なら帰ってくれない?」
「誰がだっ!!」
 お前たちだよ。その場にいたほぼ全員が、心の中で呟いた。
「ともかく、こいつを殺されると困る。持って帰る」
「……ひょっとして、わざわざ助けに来たわけ?」
 呆れたように珠月は小首を傾げた。夏羽は首を横にふる。
「そういうわけじゃない」
「そういうわけでしょうが」
 珠月はため息をついた。沈黙が訪れる。
「――――じゃあ、代わりに賠償背負う?」
 ひどく明るい声が響いた。悪戯を思いついた子どものような声に、何人かのファミリアがびくりと震える。
「……こいつのせいで借金とか嫌なんだけど」
「あなたのはした金に期待することなんてないよ。私のお仕事を手伝ってほしいの。最長、二週間。ただ働きだけどね」
 どう?と珠月は小首を傾げた。
「ただ働きかよ」
「必要ありませんよ」
 顔をあげた陽狩に珠月は長剣を振り下ろした。派手に血が飛び散る。蹴飛ばされた陽狩の身体がカーペットの上に転がった。
「…………まて。分かった。分かった。いつも通り、手前に付き合えばいいんだろ」
「この馬鹿っ」
 起きあがった陽狩を再度、珠月は切りつける。二度三度と血が飛び散っては周囲を汚した。
「おい、やめろよ! 篭森!!」
「あと一回」
 最後にひときわ派手に血が飛び散る。珠月は剣を手放した。ごろりと鉄の塊が床に転がる。
「おいっ!!」
「その辺に捨ててきて」
「はっ」
 一礼したファミリアが近付く前に、夏羽が珠月に掴みかかった。
「手前っ!!」
「おちつきなさい、夏羽。よく見て。派手に血は飛び散ってるけど、ほぼ薄皮一枚。清潔で切れ味のいい剣を使ったから、すぐによくなるって」
 言われた言葉の意味が分からないという顔で、夏羽は固まった。やがって錆ついたブリキ人形のようなぎこちない動きで、陽狩をふりかえる。意識はあるらしい陽狩は、痛みに顔をしかめながら夏羽をにらんだ。
「だから、馬鹿だと言っているんです」
「……どういうことだ。篭森」
「これは『仕置き』ですよ」
「まさかと思ったけど、やっぱり知らなかったか夏羽」
 珠月と陽狩は同時にため息をついた。被害者と加害者の両方の視線をうけ、夏羽はたじろぐ。
「初めから……殺す予定なかったってことか?」
 ゆっくりと事態を飲みこんで、夏羽は複雑な顔をした。
「流石に無罪放免できるほど、今回やらかしたことは軽くないからね。派手に血がとびっていたのはそう見せるため。易々と返したと思われたらたまらない。このまま、郊外に捨ててきて、帰ってきたらそれ以上の仕置きはしない。組織に軽い損害を意図的に与えた身内への慣習みたいなものだよ。よくあることだ」
 珠月は肩をすくめてみせた。
「本当は殺しておきたいんだけど、保証人関係がうるさいからね。とはいえ、普通はかるく一晩はいたぶるものなんだけど……そこは夏羽が背負う分でサービス」
 てきぱきと血の跡が片付けられていく。
 陽狩は荷物のように血まみれのカーペットごと簀巻きにされた。ひどく不服そうだ。
「あら、不満そうね」
「まあ、これで手討ちなら可愛いものですよ。一応、リスクは覚悟の上でしたし。馬鹿が余計なことさえなければ」
「…………珠月様、こいつ、海とかに捨ててきていいですか?」
 簀巻きにしていたファミリアが嫌そうに口を開く。
「傷口に塩をすりこみたい気持ちは分かるけど、流石にまずそうだから汚染されてない川とかにしておき――だめだ、治安上問題あるって宿彌に怒られちゃう。どっかのゴミ捨て場とかに捨ててきて」
「粗大ごみシールでも貼っておきますか」
「まあ、ある意味社会の粗大ゴミだけど」
「……いいたい放題言ってくれるじゃありませんか」
「違うという自信があるなら、反論どうぞ」
 呆然とする夏羽の目の前で、出血で若干青ざめた陽狩が簀巻きのまま引きずられていく。
「…………篭森」
「ん?」
「俺、お前にはめられた? 俺、労働する意味あんまりなかったんじゃねえか?」
「常識を知らないほうが悪い。ちゃんと働いてね。しばらく緋月を休ませたいから、頑丈な荒事専門が一人いるとすごく助かるの」
「最悪だ」




「…………楽しいか? 遠」
「んー……うふぁい」
「食べ物を飲み込んでから返事をしろ」
 赤い提灯の群れが揺れている。
 ゆらゆらと揺れる影と遠くに聞こえる祭囃子の音色。多すぎる人の声は、ざわめきとして耳に入ってくる。
 夜祭りだ。
 観光や便乗キャンペーンによる集客目的でどこぞのリンクがはじめたものらしく、もはやなにの祭りだったのかはよく分からなくなっている。それでも、イベントがあればひとは集まる。
 ヒトの流れを避けたほそい道で、両手いっぱいに屋台の食べ物を持った遠と手持無沙汰で立ちすくむ緋月は、ぼんやりと月を見上げていた。
「意外と……急な休暇というものは暇のつぶし方に困るな」
「そうか? 俺は、いっぱい食べて、いっぱい遊んで、仕事なくて、すげえハッピーだぜ」
「…………そうか」
 楽しそうに焼きイカを口に押し込んだ遠に、緋月は小さく苦笑した。そしてまた、空を見上げる。ドームがないトランキライザーは、シティ内でも本物の月が見える。
「赤ん坊、無事についたといいな」
「ああ」
「でもよかったのか? 緋月が手元に置きたいなら、俺も協力したのに」
 遠はちいさく首を傾げた。緋月は首を横にふる。
「むこうの……その施設の写真を見た。悪いところではなさそうだった。経過報告も定期的にくれるらしい。珠月様も……いろいろと問題のある方だが、そういうところは情のある方。俺が育てるよりずっといいだろう……頭ではちゃんと初めから分かっていた」
「…………緋月」
 空を見上げる緋月の肩を遠が叩いた。緋月が視線を遠のほうに向けた瞬間、口の中にたこ焼きが押し込まれる。
「!?」
「元気出せよ。ほら、もっと食え」
「…………いらない」
「遠慮すんなって。ほら、これやる。これもやる」
 ぐいぐいと綿あめや焼きそばが押し付けられる。受け取って、緋月は途方にくれたような視線を遠に向けた。
「…………食べるのか。全部」
「うまいもの食えば、暗い気持ちも吹っ飛ぶって。あ、あそこ焼き鳥売ってる」
 止める間もなく、遠は屋台に突撃する。伸ばしかけた緋月の手だけが中を彷徨った。
 まもなく、両手の食べ物が増えた遠が戻ってくる。
「ん? 全然食ってねえじゃん。あ、ひょっとして体調悪いのか!?」
「遠。お前はすべての人間がお前と同じ量の食事をして、なおかつ体型が変わらないとは思わない方がいい。あと、焼きそばと綿菓子を一緒に食べる人間はおそらく少数派だ」
「えー、美味い物一緒に食ったら美味いだろ。美味い物だったらいっぱい食べたいだろ」
「お前だけだ」
 追加された焼きとりを眺めて、緋月は小さく息を吐きだした。遠は納得いかなさそうに両手の食べ物を見つめる。
「でも、ありがとう。遠」
「――――どういたしまて」
 機嫌が直ったのか、遠の足が軽くなる。腕を引かれて、緋月は両手に食べ物を抱えたまま、祭りの中を歩きだした。
おわり
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