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推理小説にお砂糖一杯 2

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tranquilizer

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 この文章には流血とやや残酷な表現、あるいはそれを連想させる表現が含まれます。苦手なひとはご注意ください。



 お茶会の翌日、矯邑は冷泉と空多川を連れて、イーストヤードの外れにある依頼主の家を訪ねていた。小振りながらも日本風に整えられた家屋は、屋敷と言うには小さいが、同じくイーストヤードにある矯邑の家よりは十分大きい。藺草の匂いも新しい客間へ案内され、冷泉は思わずぼやいた。
「いいなあ、広い家。最近品物が多すぎて店が手狭になってきたから、羨ましい」
 普段からアジア風の服を身に纏うことの多い冷泉は、今日も古代紫の色をしたチャイナ風ロングスカートを翻している。落ち着いた緑の畳と白の障子に、東洋の服はよく映えた。
「でもここ私の家と同じ借家だよ。こっちは〈神風〉から貸し出されてるやつだけど」
 矯邑は小声でさらりと言ってのけると、主人を呼ぶために下がっていった使用人の少女を思い起こす。地味な着物姿をしていた彼女もまた、〈神風〉から派遣されている人員だ。細々とした雑用をこなすために雇われているのだろう。
 湯気の立つ緑茶を眺めながら、矯邑は篭森の欠席を残念に思った。〈ダイナソアオーガン〉は、矯邑に依頼メールを奪われたことになっている。篭森は、知らんぷりを決め込むためにも、この件に対しては関わることが出来ない。代わりに何か思惑があるのか、朝からどこかに出かけていた。同様に村崎も、誕生日会に使う食材の調達へと出かけている。
 用心棒としてなら空多川が居るが、玉九朗の不在はやはり辛いものがある。精神的に、だ。慣れない肩の軽さに、矯邑は少しばかり憂鬱になった。
「来る」
 空多川は一言だけ口にすると、つうっと顔を上げた。廊下を進む足音が、だんだん大きくなる。つられて二人がそちらの方を向くと同時に、閉じられていた襖がおもむろに開いた。
「やあやあ、お待たせしてしまって申し訳ない」
 入ってきたのは、二十代前半の軽薄そうな男だった。染めているのか、陽に透けると痛んでいる様がはっきりと解る茶髪に、真っ白な狩衣を着ている。空多川は一瞬、神職なのかと思ったが、すぐにその考えを打ち消した。彼女達の前に、どっかとあぐらをかいて座り込んだ青年は、どこまでも俗物めいていた。人払いはしておきましたから、と告げつつ投げかけられた、値踏みするような視線すら好色に感じ、空多川は嫌悪感を丸出しにして眉を顰め、威嚇体制に入る。
「わざわざ〈ダイナソアオーガン〉の、それもこんな綺麗どころの方に三人も来ていただけるなんて、有り難いことです。私は―――」
 にやついた男が名乗るよりも早く、矯邑は彼の言葉を遮って言い放つ。
「あ、私達〈ダイナソアオーガン〉の人間じゃないですから」
「え?」
 青年は驚いたように目を見開いた。でも、メールが、と混乱する彼を尻目に、矯邑は端的に事情を説明し、用件を告げる。
「貴方が〈ダイナソアオーガン〉に送ったメールを、私が個人的に拝借しました。あちらはそんなメールがあったことも知らないでしょうね。貴方に届いた返信も、私が〈ダイナソアオーガン〉の名前を借りて送ったものです。さ、そんなことより本題に入りましょう」
 青年の目前に、ずいっと一枚の写真が押しつけられる。依頼メールに添付してあった着物の画像を印刷したものだ。
「この着物、私達に譲っていただけません?」
 にっこりという効果音が聞こえそうなほどに良い笑顔を浮かべ、矯邑は迫る。青年は言われた意味が解らなかったのか、暫く写真と矯邑の顔をぼけっと交互に見ていたが、やがて彼女が自分の宝を奪おうとしていることを悟り、一転して憤怒の表情を浮かべ叫びかけた。しかし、その声は発されない。いつの間にか彼の懐に飛び込んでいた空多川が、深紅のマニキュアで染まった右手人差し指を彼の喉元に突きつけていた。
「……さあ答えろ。降伏か死か! なんてね。あ、おねえちゃん割と本気だから」
 たかが人差し指、と青年は身を捩ろうとするが、彼の肉体は微動だにしなかった。空多川の放つ殺気は、声どころか身体の主導権も奪っている。助け船を出すかのように、冷泉がやんわりと空多川を咎めた。
「契ちゃん、殺しちゃったら着物の場所が解らなくなるよ」
 口調は柔らかだが、言っていることはさりげなく酷い。空多川は冷泉の意見に納得し、それもそうかと身を引いた。喉元に刀を突きつけられたかのような圧迫感が失せたことで、男はへにゃへにゃとその場に崩れ落ちそうになるが、すんでの所で気を持ち直す。安堵したとたんに怒りが湧いてきたのか、彼は矯邑に罵声を浴びせかけた。
「な、何を勝手なことを!! この着物が、花京院様から賜ったものと知ってのことか! 貴様ら〈神風〉を敵に回してただで済むと―――」
「だから、取引しないかって言ってるんです。あなたがその〈神風〉に処分されないようにね」
 青年の発言を再び強制的に断ち切って、矯邑はビジネスマンが使うような黒の鞄から、いくつかの束になった書類を取り出して広げ、男の目の前に突き出して見せた。書類は、送信日時順に並べられた携帯メールの文面で、びっしりと埋め尽くされている。冷泉と空多川は何も知らされていなかったのか、きょとんとした顔で矯邑の背と横顔を眺めていた。男だけが、さあっと顔を青ざめさせて、書類に向かって飛びかかる。が、距離を詰めてきた空多川が容赦なく後頭部を掴んで垂直に叩き付けたため、顔面を畳に擦り付る土下座のような体勢となっただけだった。
「か、返せっ!! それをどこで手に入れた!?」
 真っ赤になった鼻を押さえ、空多川に頭を捕まれたまま男は吠える。動じることなく、矯邑は広げた書類を纏め、丁寧に揃えながら空とぼけた。
「さあ? どうだっていいでしょう。それより、私は貴方が着物を譲って下さらないのなら、これを〈神風〉に匿名で送りつけるつもりです。あ、貴方の名前はもちろん出しますけどね。こんな下らない偽名じゃなくて、〈神風〉に登録されている本名の方でですよ」
 矯邑の言葉に、青年はぐうっと臍をかんだ。怒りのためか身体は小刻みに震えている。書類には、とある純日系ではない少女に対して、彼が執拗なまでに送り続けたメールが詳細に記されていた。〈神風〉であることを隠すために偽名まで使用し送られているメールの数は、常軌を逸している。件数は、朝昼晩併せて一日最低でも二十通は超えていた。
「〈神風〉の構成員が、純日系以外の女性につきまとい多量のメールを送りつけているなんて、恥以外の何物でもない。〈神風〉の流儀は、〈神風〉の貴方が一番よくご存じだと思いますけれど?」
 純日系を尊びそれ以外を悉く見下す〈神風〉は、身内が純日系以外と接することを何よりも嫌っている。軽い会話程度ならまだしも、矯邑の言うようなストーカーレベルの行為があったとすれば、良くて制裁普通も制裁、悪ければ抹殺ということもある。
 黙りこくって、噛み締めた歯の間から息を漏らすだけになった男を、軽蔑したように小突きながら空多川は呟く。
「虫の分際で女の子に粉かけてんじゃねえよ、死ねこのチャバネゴキブリ」
「駄目だよ契ちゃん、もっと柔らかく言ってあげないと」
 空多川の低い声を聞き取った冷泉が、わざとピントを外したフォローをした。彼女もまた、唐突に判明した青年の行為に静かに怒っているのだろう。冷泉の言葉を聞き入れて、空多川は男を逃がさないよう、彼の背に腰を下ろしながら言い直す。
「草葉の陰に隠れてろこのヤマトゴキブリ」
「純日系だからって日本風に言えばいいってもんじゃないだろ!」
 言い方を変えただけで内容は変わっていないと、矯邑は思わず敬語をやめて突っ込んだ。楽しくなってきたのか、冷泉はふむふむと考えこむ姿勢に入る。
「うーん、もう少し丁寧で婉曲な言い方にしてみたら?」
「紫雲に乗った仏様に迎えに来て貰いませんかサツマゴキブリ」
「仏教とは限りません! 神道だったらどうするんだ!!」
「もっと間接的に言ってみようよ」
「ここに塩素系洗剤と酸性洗剤、密閉された狭い部屋がありますワモンゴキブリ」
「混ぜるな危険!!」
 放っておくといつまでも続きそうな二人の会話を、矯邑は突っ込みで終了させ、男の様子を伺う。このやりとりで気勢を削がれたのか、彼はすっかり大人しくなっていた。
「で、どうするの?」
 男は矯邑と目線を合わせないようにしながら、ぐちぐちと言い訳を始める。
「……でも、そのメールが垂れ込まれずに済んだとしても、何の理由も無しに花京院様の着物が無くなれば、怪しまれることに変わりはないじゃないか……」
「ウジ虫ちゃん、おねえちゃんが良いこと教えてあげる」
 どうにかして付け入る隙を見つけ出そうと、口先だけでも足掻く男の顔を、空多川は前髪を引っ張って持ち上げ覗き込む。底の知れない暗い笑みに、青年は顔を引きつらせた。
「ウジ虫ちゃんはねえ、アンダーヤードで無理矢理非合法賭博に参加させられたあげく、負けが込んで所持金じゃとても払えない額の借金を背負うことになっちゃったの。イカサマだって叫んでも、誰も助けてくれない。そのうち借金の取り立てに〈デスインランド〉の人間がやってきて、現金の代わりにと、ウジ虫ちゃんの大事な大事な着物を奪っていった。ほら、辻褄が合ったねえ。これならまだリンクから追い出されるだけで、お仕置きはされないんじゃない? 良かったねえ」
 異様に甘ったるい声で囁かれた〈神風〉への弁解に、男は逃げ道がないことを察し、背筋に氷を突っ込まれたような冷たさを感じた。綺麗に仕組まれた罠だった。血が出るほどに唇を噛み締めながら、彼は取引に応じる。他に道はなかった。
「……解った、着物を取ってくる」
 男の敗北宣言を聞いて、空多川はその背から腰を上げ、代わりにと彼の片腕を捻りあげる。逃亡防止のために同行するつもりのようだ。いってきまーすと間延びした声を上げ、男に先導させる空多川に、いってらっしゃいと矯邑も手を振り返して応える。二人の姿が襖の向こうに消えたのを見て、冷泉と矯邑は、ぺちりと手を合わせ作戦の成功を祝った。
 
 すっかり冷め切った緑茶を流し込み、矯邑は人心地つく。普段から他人の生活を、悪言い方をすれば監視している彼女だが、それはあくまで仕事と割り切った行為だ。今回のように、自己のために利用することは少ない。上に虚偽の報告をすれば、自分のポイントが下がる。解っていて危ない橋を渡る馬鹿は居ない、と矯邑は心の中でだけ呟いた。自分が約束したのは〈神風〉へ情報を流さないということだけだ。学校へ通達するか否かは、こちらが決める。
「我ながらあくどいなあ」
 矯邑の独り言を聞きつけたのか、同じく茶で口を潤していた冷泉が首を動かし、視線がかち合った。微妙な間が開くことを危惧したのか、冷泉は思いついたように尋ねる。
「ねえ、そう言えば。さっきの紙の束、メールだっけ? あれいつの間に手に入れたの」
 ある程度予想はしていた質問だったが、痛いところを突かれることには変わりなく、矯邑は困ったように言葉を濁した。
「別件でね、まさかこんな事に使うとは思ってもみなかったよ」
 触れられたくない話題なのだと察した冷泉は、深くは問い詰めず、別の話題を出す。
「ところで、あの着物手に入ったら、どうしようか。流石にそのままだと〈神風〉に目をつけられそうだから、どうにか仕立て直さないと。何がいい?」
「何って…何が良いんだろうね……。玉九朗さんだろ?」
 考えあぐねかける二人だったが、沈黙はすぐに破られた。どたどたと乱暴な足音が伝わり、襖が勢いよく開けられる。遅れて外から、突き飛ばされる形で男が畳に倒れ込んだ。
「只今。持ってきたよー」
「あ。おかえり」
 はやかったねと声を掛けられた空多川は、微笑みながら小脇に抱えた畳紙の包みを、男に対する扱いとは雲泥の差と言ってもいいほど丁寧に、矯邑達に差し出した。早速中身の確認をと、冷泉が畳紙の紐を解いていく。男は何とか起き上がりながらも、ふてくされ余所に視線をやっていた。
「これでいいだろ……さっさとさっきの書類を置いて、帰ってくれ!」
 白い和紙の中に紺色の布地が見えたことで、矯邑は納得し鞄に手を掛ける。だが、彼女の動きを制するように、やんわりとした声が上がった。
「それで、本物はどこですか?」
 発したのは冷泉だった。青年は一瞬目を大きく見開くと、努めて冷静に聞き返す。
「本物……って、何の話だ? それを持って早く帰れと―――」
「これ合成繊維ですよね、恐らく制作されたのは最近。この種類の糸は西暦には無かった。花京院さんほどの人に渡されるはずだったものが、正絹じゃないなんてのもあり得ない」
 取り出した着物を広げながら、冷泉はつらつらと続ける。紺の布地には、メールに添付されていた画像と一見同じ模様が描かれている。しかし彼女の瞳には、双方は全くの別物として映っていた。否、冷泉の経験と知識が、目の前の着物が西暦に作られた『西陣織』とは異なる代物だと告げていたのだ。
「『西陣』の基本は先染め、でもこれはどう見ても後染めの着物ね。密度が違うわ。しぼも無いし色も紺色。写真のはもう少し明るい藍色だったでしょう。他にも色々あるけど、何より『西陣』の本しぼ織は、手作業を含めた職人芸。どう見ても機械で織ったこれとは違うのよ」
 フェイクはいらないわと敬語を捨て去った冷泉は、それでも手に持った着物を、丁寧に敬意を払い仕舞い直した。
「さ、本物のお召しはどこにあるの?」
 冷泉に小賢しい企みを看破されたことで、青年は落ち着きをなくす。指摘された通り、彼女達に差し出された着物は偽物である。空多川に連れられて部屋を出た後、万が一を考えて用意してあったこれの存在を思い出し、彼は勝利を確信した、はずだった。相手はどうせ純日系ではないのだ、着物の価値や違いなど解るまい。二束三文のフェイクだろうが、嬉々として持ち帰るはず。
 そんな甘い予想はあっさりと外れた。冷泉の持つ鑑定眼は、世界に通用するほどにハイレベルである。これが安物のフェイクでなく、本物と寸分違わぬほどに価値のある偽物だったとしても、容易に見抜いたであろうことは想像に難くない。青年にとって不運だったのは、彼女が目立たないよう表に出ることの少ないトップランカーだったことだ。その名やエイリアスと顔が一致さえしていれば、彼は下手な賭けに出ることもせず、今以上の苦痛を被ることもなかっただろう。
「わ、わからない!! 俺が受け取ったときからそうだったは、ず……」
 三者三様の鋭い眼光に睨まれて、男は語尾を小さくしていく。これ以上どんなに取り繕うとも、自分の発言はもう相手にはされない。頭の中が真っ白になり、やけくその怒りだけが満ちていく。
「ちくしょうッ!!」
 男の手が矯邑の鞄に伸びた。チャックは半開きのままで、資料の束が見えている。慌てて矯邑は取っ手をわし掴むが、一足遅く綱引きのような取り合い状態になり、ばっとチャックが全開になる。空多川が冷静に男を引き剥がしたが、勢いは止まらず鞄は大きく跳ね、部屋一面に白い紙が舞い散った。
「返せッ!!! 返せ返せ返せ!!!!! 俺の、俺のだッ!!!!!!」
 醜い抵抗を続ける青年の咽を締め上げながら、空多川はひらひらと落ちてきた資料を受け止める。冷泉も、床に散らばった紙を集めてまとめていた。面倒な手間を増やしやがってと毒を吐きながらも、手に持った一枚を矯邑に返そうとして、空多川は動きを止める。見覚えのある名前。まじまじと資料のメール文面を読み始めた空多川を見て、矯邑はたらりと嫌な汗を流した。危険だ。本能がそう告げていた。
「………………………………………繍のおねえちゃん。なんでここに村崎ちゃんの名前があるの?」
 空多川の指摘に、冷泉も驚き資料に目を通して青ざめる。なってほしくなかった状況に陥っちゃったなあと、矯邑は額に手を当てて眉の間を揉んだ。
 男につきまとわれていたのは、他の誰でもない彼女達の後輩、村崎だった。
 村崎はその愛らしく清楚な容姿もさることながら、誰にでも優しい気立ての良さや料理の上手さ、さりげない天然ぶりから、非常にモテる女生徒の一人である。現に毎年校内男子生徒の間で密やかに行われている『嫁にしたいランカーランキング』では、癖のある上位ランカー陣を押しのけての常連組だ。だが、そこにはもちろんこの青年のような弊害も生まれてくる。押しが弱く他人の考えに敏感な彼女は、強く迫られるとNOと言えない。男もまた強引にアタックした一人で、村崎のボディガード二匹をかいくぐり、メールアドレスを交換するまでに至った。その結果がこれである。
 矯邑は以前、村崎から彼についての相談を受けていた。相談と言うよりは、話題のついでにと彼女がぽろりと漏らした「熱心な方で一日に二十通以上のメール」に反応し、明らかに異常だと指摘したというのが正しい。以来、届いたメールは矯邑に転送するようにと言い含めていたのだが、まさか相手が今回のはっちゃけ男と同一人物だったとは、予想もしていなかった。
 依頼メールに記載されていた生徒名と顔写真入り学内名簿を照らし合わせている最中に、村崎が「あ、この依頼されてる方、私にメール下さっている人ですね」と、何でもないことのように言わなければ、気付くことすらなかっただろう。慌てて権限を利用して調べてみれば確かに、男の携帯から村崎の携帯に、幾度となくメールが送られていた。ずらりと並ぶ通信履歴と、偽名だったんですねえと変なところに感心する村崎に、矯邑は気が遠くなりそうだった。
 矯邑はこの事実を脅迫材料にはしても、他の友人に話すつもりはなかった。ただでさえ可愛い後輩である、不用意に話を広めて気を遣わせるのも良くない。何より、ストーカー被害などという話をすれば、確実に切れる者が一人居る。だからこそ、資料は加害者の男のみが読めるよう配慮したのだが、こうなっては全てが水の泡だ。ご愁傷様、と矯邑は心の中で手を合わせる。
「あーーーーーー、うん。ごめん。こいつが粘着してたの、ゆき子ちゃん、なんだよね」
 矯邑は恐る恐る告白し、おびえるように背を丸くした。背後を伺うと、冷泉も男への怒りより友人から放たれる圧迫感による恐怖が優先したらしく、顔を背け資料を鞄に詰めている。
 肌に針が刺さり続けているような、痛い空気に耐えきれなかったのか、男はそれこそ茶色い害虫のように地面を這いつくばって逃げだそうとした。だが、あともう少し手を伸ばせば襖に届くという所で、つんのめるかのように動きが止まる。立ち上がろうと膝に力を入れたところで、彼は服の裾が何かによって畳に縫い付けられていることに気がついた。なにが、と混乱する間もなく、ひゅうっと二筋目の白銀が足首を掠める。男は理解できなかったが、それは空多川が投げた細身の彫刻刀だった。必死に身体を捻って体勢を立て直そうとする青年を、今までとは比べものにならない汚泥のように濁った瞳で見下し、彼女はどこからか金属製のビットギャグを取り出す。
「ゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫がゴミ虫が」
 唇が裂け歯が折れるのも構わず、空多川は男の口にギャグを押し込み締め上げた。ぶしゃあと、鼻水が噴き出す。暴れるのがうざったかったのか、一撃顔面に食らわせて鼻骨をへし折ると、流れる鼻血も気にせず着実に関節を外していった。両肩両肘両股関節両膝と、順序よく外して動けなくさせると、空多川は一仕事終えたと言わんばかりに息を吐いて、笑顔で振り返る。矯邑と冷泉は、鼻血とはいえ赤錆に塗れた空多川の拳を見て、びくりと身構えた。
「悪いけど、本物探しに行ってくれる?」
 流血沙汰に慣れていない二人への配慮を込めた欲求に、矯邑は一にも二にも無く頷いた。冷泉もまた、こくこくと首を縦に振っている。空多川は笑顔のまま襖に向かって倒れていた男を蹴り倒し、引き抜いた彫刻刀をちらつかせながら反対方向の壁へと追い詰め、二人が通れる道を作った。
「あは、レッドカーペット出来てる」
 上機嫌で発された笑えない冗談に、矯邑はだから知られたくなかったんだと独りごちた。後悔してももう遅いが、空多川に友人を慮るだけの冷静さが残っていたことだけが救いだ。矯邑も冷泉も、流石に生でスナッフビデオ撮影現場に居合わせるだけの神経は持ち合わせていない。
「……じゃあ、見つかったら戻ってくるから」
「うん、私はそれまでこの乱歩ごっこ中の芋虫と遊んでるから、頑張ってね」
 襖をきつく閉め、矯邑は冷泉と目を合わる。冷泉も青ざめた顔で矯邑を見た。二人の意志が重なる。
「行くか」
「行こう」
 彼女達は、嫌な音が聞こえてくる前にと全力で廊下を駆けていった。
 




 矯邑と冷泉の気配が完全に去ったのを確認して、空多川はくるくると指の間で回していた彫刻刀を投げ捨てる。子供が飽きた玩具を放るような無造作な仕草だったというのに、刃は寸分の違いなく、仰向けに横たわる男の眦を掠めていた。あと少し狙いがずれていたら、間違いなく血の涙が流れている。
「むきゅー。それにしても、怒ったのがおねえちゃんで良かったねえ」
 青年と視線を合わせるためにしゃがみ込み、微笑みかける彼女の口調は、いつの間にか柔和なものに戻っている。
「ここにいないおねえちゃんの友達が相手だったら、今頃ウジ虫ちゃんは死にはしなくても人間としての形が無くなってたよ。ハンバーグ用の挽肉レベルだね」
 空多川が言う友達とは、篭森珠月のことだ。怒り心頭に発した篭森が行う拷問は、見ている者が恐怖で心臓を止めてもおかしくはないほどに過酷で残酷、それでいて決して標的の正気は失わせることなく命も奪わない、玄人の技である。空多川はその域までは達していないし、達するつもりもない。
 青年は限界まで見開いた目をぎょろつかせながら、声にならない声を張り上げる。壊れたスプリンクラーのように、鼻血が飛び散った。
「ま、おねえちゃんはどう足掻いてもおねえちゃんみたいにはなれないから、自分らしく行きましょうか」
 景気づけのように、しゃがんだことでむっちりとふくらんでいる自らの太ももを叩いて、彼女はガーターに挟んでいた二本の試験管を取り出した。一本には真っ赤な液体が、もう一本には毛虫のように棘だらけの鉄色の棒が入っている。空多川は両者への対策として、これまたスカートの中から取りだした、指先を覆う形状の金属製指貫と半透明の手術用ゴム手袋を着けた。指貫は右手に、ゴム手袋は左手に。親指と人差し指・中指を守る指貫は、先端を獣の爪のように尖らせており、それだけでも十分な武器と言えた。
 空多川はゴム手袋を着けた左手で液体が詰まっている試験管を掴み、男の目の前で振ってみせる。
「さて、ウジ虫ちゃんはこれが何か解るかなー? 解らないよね解っても答えられないしね。うい、正解はホットソースなのですよ。普通のとはちょーっと違うけど。千六百万スコヴィルくらいには」
 試験管の中で揺れる血のように真っ赤な液体は、唐辛子を使った一般的なホットソースとは異なる禍々しさを秘めている。タバスコなど、殆どが料理に辛みを加えるための調味料として使われているホットソースだが、一部には凶器になり得るものもある。唐辛子の辛さを量る単位「スコヴィル」は、タバスコなら二千強、激辛で有名なハバネロでも三十万程度だ。西暦の頃に販売されていた七百十万スコヴィルのとあるソースは、皮膚に触れると皮が剥け火傷に似た状態を引き起こしたという。彼女が取り出したのは、それの倍以上、もはや純粋カプサイシンを詰め込んだだけの代物だ。
「……強化ガラス製っていっても、やっぱ持ち歩くのはちょっと怖いよね」
 劇薬を身に着けていたことに今更恐怖を感じ、空多川は眉根を寄せる。肌に付着しないよう細心の注意を払いながら、試験管を密封していた蝋を彫刻刀でこそげ落とすと、辺りに刺激臭が広がった。目に痛みが走ったのか、空多川は涙を滲ませながら顔を背ける。うあー、と嫌そうな声を上げながら、彼女はもう片方の試験管の口も指貫つきの片手で器用に開け、金属棒を摘み出した。シャープペンシルほどの長さと太さを持つ逆刺だらけの棒は、よく見ると加工した五寸釘だった。鬼の持つ金棒を小さくしたような釘の頭を器用に摘んで、片手で持っていた試験管ソースの中に漬け込む。釘全体に真っ赤な粘液が絡まるように掻き回すと、ぬっちゃにっちゃと水音が立った。
「ごっすんごっすん五寸釘~……おねえちゃんはどっちかというと知識と日陰の少女派ですが。んー…最初はね、これ、この金属製の爪に塗って使うつもりだったんだよねー。蠍座の形になるよう身体に刺していって、リアルスカーレットニードル! ってやりたかったんですよ。けど、ゴミ虫ちゃんみたいなアリンコには蠍の印なんて勿体ないよなーって思い直したから、こっちね」
 空多川は血の色に染まった釘を、男の視界に映るよう大げさに引き抜いては押し込む。絡まる液体がどのようなものか、先程の説明だけでは想像のつかなかった青年だが、漂う臭気に鼻と目をやられたことで、限りなく危険なものだと悟る。止まりかけていた鼻血が再び鼻水とともに流れ出し、涙もぼろぼろと溢れる。ぐちゅりぐちゅり、音は止まらない。
「発情レイパーには去勢が一番っと。うゆ? 虫でも去勢って言うのかな? まあいっか。ぶっすり差し込んだ後はきっちり釘の頭をライターで炙って止血してあげるのです。感謝してね」
 彼女がどこに釘をねじ込もうとしているのか、男は察してしまった。あんなものが刺されば想像を絶する痛みが訪れ、ショックで死んでしまう事は間違いない。万が一死なずに済んだとしても、それは幸運ではなく最悪の不運だ。篭森とは異なる、特定箇所の破壊を専門とした空多川の拷問。外側だけならば何処にも傷は残らないが、内側と精神は砕け散る。想像しただけで発狂しそうになりながら、男はギャグの奥で長い悲鳴を上げた。こぼれ落ちそうなほど見開かれた目が白く濁りつつあるのを見て、空多川は急にふっと慈愛に満ちた笑みを浮かべ、細い細い蜘蛛の糸を垂らす。おかしくなる前にこれだけ、と前置きをして、彼女は青年に問いかけた。
「純日系に一度聞いてみたかったことがあるんだよね。あのさ、日本語の表現に『蛇蝎のごとく嫌う』とか『蛇蝎視』って言葉、あるよね? 日本人ってみんな、蛇とか蠍が嫌いなの? この際蛇はどうでも良いよ、蛇遣いは天に還っててください。で、どうなの? 蠍、嫌いなの?」
 一縷の望みをかけて、男は必死に首を横に振る。蠍が意味するものが何かなどはさっぱり解らなかったが、彼女にとって大事なものだということは、直前の独り言からも推察できる。自分は蠍に好意的なのだと示すことができれば、拷問の手を緩めてくれるかもしれない。じゃあ好き? と尋ねられ、青年は首がもげるほど激しく縦に振り、好きですとくぐもった声で叫ぶ。そんな彼の様子を見て、空多川は幸せそうに喜色満面の笑みを浮かべた。救われた、男は安堵し知らず知らず身体から力を抜く。
「そうだよね蠍を嫌いになる人なんていないよねみんな蠍のこと大好きだよね蠍は可愛いから蠍は素敵だから蠍は愛しいからだから嫌われるはずなんてない蠍は愛されて当然なのそういうことでしょうでもねそれをどうして―――お前が言うの?」
 空多川は、初めこそ興奮した面持ちで矢継ぎ早に愛の言葉を告げていたが、やがて甘い囁きは病みを帯びたものへと変わる。男の選択は間違っていた。いや、そもそも彼女の質問には正解など無い、答えを欲してもいない。切れることが前提の、救いのない蜘蛛の糸。
「蠍は可愛いよでもねその可愛さを知っているのは私だけで良いの他の誰も蠍の可愛さには気付かなくて良い蠍は嫌われて当然なの嫌われて疎まれて誰からも愛されない蠍だから私が愛するの可愛い蠍私の蠍貴方は惨めに捨てられて恨まれて消え去っても誰も悲しまないほどに卑屈で後ろ指を指されるほど矮小なの血膿に溺れながらも立ち続ける盾を私が犯して侵して冒して突き崩す二度と立ち上がれないように私だけを憎み見つめ殺意を持って縋り付くように愛しい愛しいの殺して私を殺してそうして私の死体を眺めながら怨み憾み恨み憎み悪み全てを捧げた相手がこの世から消えたことに絶望するが良いこれで一生も来世も全てが私のもの私の蠍私の蠍何処へも逃がさない捕らえてみせるなんて素敵なのさあ契りを籠みましょう血と性と死と私の名において貴方の名においてうふふふふあはははははああああああ―――だから貴様みたいな屑が私の蠍を語るんじゃあないッ!」
 釘が勢いよく男の服を切り裂いた。白い布にソースがべったりと付着し、血飛沫のように跳ねる。空多川は、激しい上げ落としに精神がついて行けず痙攣するだけとなった青年の上に跨り、肩を震わせ哄笑する。どちらの瞳にも、最早正気はなかった。
 
 
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