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illness

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kagomori

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illness

 盛大なくしゃみの音が聞こえた。買い物袋を両手に提げた、見る人が見れば己の目を疑いかねない姿の珠月は音が聞こえた町家を見上げる。そして小さく唸った。
「本当に風邪ひきさんだったのか。てっきり仮病だと思ってからかう意味でわざわざ見舞いの品を持ってきたのに……本当に役立ちそうだ:」
 誰かに言い訳するように珠月はぶつぶつと呟いた。その後ろで紳士的に燕尾服を纏った『骸骨』が同意するように頷く。
 東区の魔女、“人類最強”の愛娘――【イノセントカルバニア】篭森珠月。そのエイリアスの由来は異能で操る成人の白骨。それが本物かそれとも精巧な作りものなのかは誰も知らない。物体操作という珍しくもない能力の持ち主である彼女のエイリアスが能力に沿ったものになったのは、ひとえにこの普段から操る対象の異様さによるだろう。これがただの人形や戦闘時に使う銃弾や鋼糸の操作だけならここまで能力で有名にはなっていないに違いない。
 そんな世界の有名人で、社交界に顔を出せばその派手な言動で注目を集めるセレブは食料と雑貨の入った買い物袋を自分も従者たる白骨も持ちきれないほどかかえた状態で、東区の住宅街にいた。
 両手がふさがっていたので、足元の小石を蹴飛ばす。それはうまく飛んでインターフォンにぶち当たった。ベルの音が響く。見ている人がいたらまず軽く目を見開いてそのコントロールに感心した後、行儀の悪さに顔をしかめるような行為だが、幸か不幸か見物人はいない。
「緋月。私、ちょっと開けてくれない?」
 横柄な態度に答えるように扉が空く。中から出てきた青年は表情一つ動かさずにぺこりと頭を下げた。
「わざわざ申し訳ありません。珠月様。僕は」「ストップ。また敬語に成りかけてる。私、一人称が僕の敬語嫌い。前に言ったはず」
 かすかに珠月は顔をしかめた。主にあたる人物の不機嫌を察して、青年はすぐに口調を切り替える。
「すまない。俺は珠月様の機嫌を損ねる気はない」
「あったら困るよ――――別に一人称までは買えなくてよろしい」
「間違う可能性は少ない方がいい。重ねて、あなたの機嫌を損ねる気はない」
「それはまあ、言い心掛けかな」
 くすりと笑って珠月は踏み出した。緋月――戦原緋月は一歩奥に下がる。彼の姿もまた見る人が見ればそっこうで眼科に駆け込みたくなるようなものだった。適当なシャツに暗い色のジーンズ、そこまではいい。だが、彼はそこに赤いエプロンをしていた。ご丁寧に頭にも同じ色のバンダナを巻いている。料理に髪が入らないようにするスタイルだ。
「間違っても、血の道を作ると言われる傭兵の格好じゃないね」
 珠月は笑って荷物を差し出した。緋月はにこりともせずに頭を下げて受け取る。
「珠月様も。セレブがする行為じゃない」
「あらあら。篭森家はそんな昔からの名家でも旧家でも何でもないのよ? ただお父様がたまたますごかっただけ。家も組織も背景も歴史もないの。だから、私にはこっちが断然自然だよ。パーティの同伴してれば分かるでしょ? 私は有名人だけど、高貴じゃないの。地位はあっても身分はないんだよ。まあ、そちらのほうが都合がいいことも多いけど」
 悪戯っ子のような顔で珠月は笑った。しかし、言っていることとやっていることはかすかにほの暗い。それには触れず、緋月は荷物の中身を見る。
「これは?」
「食糧とお薬と雑誌とか。病欠っていうのは半信半疑だったんだけど、本当だったとはね。馬鹿は風邪をひかないっていうのが俗説なんだけど」
 緋月の同居人で珠月の部下、現在風邪で有給中の星谷遠をさして珠月は笑った。緋月はかすかに困った顔になる。
「ああ、本当に病気だ。熱が40度もあるのに騒ぐから、おとといは粥に」「一服盛ったのか。あの野生生物がよく気づかなかったね」
 呆れた顔で珠月は言った。遠はサイキッカーではないが、常人離れして勘がいい。五感および第六感が発達しているのだ。それをくぐるのは至難の業である。
「病気で判断力が鈍っている。それにもともと毒殺は俺の得意技だ」
「威張るな。そういえばより自然な毒殺のために料理技術を身につけたんだったね。私も先手うたなかったら、毒殺されてたのかな」
 軽い口調でいって、「でもあれだけ美味しいなら毒入りでも食べる価値はあるかも」と珠月は笑った。緋月は俯く。
「その節は申し訳」「あ、責めてないよ。ごめんね、嫌なこと思い出させて」
 ころころと珠月は笑う。わざとなのか天然なのかはその口調からは読みとれない。
「…………仕事、俺まで休みとってすまなかった」
「ん? 平気だよ。私なんていつもいないし、桜夜楽もアルシアも手伝ってくれるし、だいたい内部調査員は他にもいるんだから。でも休んじゃうなんて過保護だな。今時、妻や子が病気で倒れても早退しない社員が多いのに」
 珠月は肩をすくめた。緋月はますます頭を下げる。
「すまない。でも、遠は見ていないと心配で」
「まあ、気持ちはわからないでもないよ。仕方ないね」
 恐る恐る様子をうかがって本当に悪意があるわけではないらしいことを確認して、緋月は息を吐きだした。しかし、悪意がなくても釘をさしていることには変わりない。いわく、仕事と私事のバランスを取れと言ったところか。
「ちなみに、その一服はちゃんと効いたの?」
 緋月は明後日の方向を向いた。それがなによりも答えを示していて、やっぱりと珠月は呟く。
「動物だからなぁ……アレは」
「普通なら多少体調が悪くなる可能性がある量を念のため盛ったんだが……所定時間の三分の一以下で効果が…………」
「熊に通常の銃弾が効かないようなものかしら」
 二人は顔を見合わせて考え込んだ。嫌な沈黙が訪れる。
「…………それはともかくとして本題に戻るけど、馬鹿のくせに風邪引いた馬鹿はどこ? そもそも何であれが風邪引くの? 体調管理ができない時点でプロ失格だし、それを隠そうともせずどうどうと病欠する時点でもう最悪なんだけど。病欠の知らせに私がどれだけ頭を抱えたと思うの?」
「珠月様もよく『病欠』していると思うが」
「私はいいの。仮病だし、みんなも仮病と知っていて黙認してるんだから」
 すこしも良くない。緋月はもの言いたげな視線を向ける。
「あのね。プロのプレイヤーにとっての大敵は病気や怪我の情報が出回ることなの。分かるでしょ? 敵が多いほど弱った瞬間、一気に来るんだから」
「そういえば、以前なぜか出先で珠月様が何者かに襲撃されて入院したとき、病院に所属バラバラの刺客が一ダースほど送り込まれてきましたね。情報封鎖が間に合わなくて」
 思い出したように緋月は呟いた。珠月は頷く。
「そう。だから私なんて何でもないときにわざと『病気』を宣言しておいて、本当に体調不良の時はパーティでもしてるふりして側近と一緒に家に引きこもってるよ。そうすれば、病気って情報が漏れても敵は『ひょっとしたら仮病かも』って警戒するもの。なのに、遠は情報駄々流しどころか、普通に会社にも『風邪で休みます』とか連絡してくるし! どんだけ危機管理できてないの!?」
「平気だ」
「平気じゃないかもしれないから、あなたがわざわざ付き添って休んでるんでしょうが!」
「休んでいるのは純粋なる看病のためだ。平気だ。珠月様」
 確信をこめて緋月は頷いた。
「遠は馬鹿正直な猪突猛進馬鹿だから、まず一般的な恨みをかわない。みんな脱力するからだ。買ったとしても戦闘狂の同じような馬鹿の恨みだけだ。そういう馬鹿は病気の時襲うような知恵はない」
「…………」
 珠月の手から残った荷物が落ちた。床に落ちる寸前で緋月はそれを受け止める。
「…………情けない。あれが直属部下なんて」
「大丈夫だ。珠月様の価値は部下でゆらぐものじゃない」
「その慰めがムカつく。何故だろう。私には公式非公式合わせて相当な数、お願いをきいてくれるひとがいるはずなのに何故あれを表の側近に選出したんだろう。いや、遠としても絶対に不本意なはず……そもそも遠は私のいうことなんて聞かないし……うん、マジでなんであれを選んじゃったかな。もっと従順で見目がいいのがいるはずなのに」
 ぶつぶつと珠月は後悔を呟いた。それにしてもさっきからまったく会話が先に進んでいない。
「で、その馬鹿の風邪の原因は?」
 ややあって気を取り直したように珠月は尋ねた。緋月は頷く。
「みぞれ交じりの初雪に大喜びして外を駈けまわり、その後髪も吹かずにこたつで寝ていたらしい。俺の出張中に」
 珠月は頭痛をこらえるように額に手を当てた。あまりにも想像できる姿に、笑いを通り越して疲れとあきらめが湧いてくる。
「あー……時期的に私が緋月連れだした時か。悪かったね。同業者の懇親パーティの同伴なんてさせて。あのイベント、隙見せると殺し合いになるからプロのエスコートや非公式部下を同伴させるわけにいかないんだ」
 珠月は申し訳なさそうな顔をした。トランキライザーで今年の初雪が降った日、珠月と緋月は大陸のほうで百戦錬磨のつわもの達と舌戦を繰り広げていたのだった。
「いや、雪ではしゃいで風邪を引く方が悪い。人として」
「意外と厳しいのね。もっと甘甘だと思ってたよ。それで食糧買ってきたけど、何か作ろうか?」
「いや。先ほど卵と白ネギの粥を作って持っていったところだ。卵酒もあるし。薬だけはいただいておこうか。どこのだ?」
「メリーに処方してもらった。あの子は薬剤師の資格も持ってるしね。ゆき子ちゃんの料理は病気には効果が薄いし、何より異能に頼り過ぎると免疫を損なう」
 緋月はかすかに顔をしかめた。それに気づいて珠月は取り繕うように微笑む。
「平気だよ。毒のプロは薬のプロ。メリーの処方は効くよ? 公式に出回ることはまずないけど」
「そこが不安なんですよ」
「平気だよ。彼女には私を敵に回す理由もなければ、意志もない。現に私は何度か飲んでるけど効果抜群だよ?」
 きっぱりと珠月は言いきった。しぶしぶと緋月は頷いて買い物袋の中から紙の袋を取り出す。
「他は……卵、牛乳、米、ヨーグルト、梅干し、蜜柑、葱、生姜、プリン、プリン、プリン――――ちょっと待て」
 袋の中から出てきた大量のプリンに、緋月は小さく唸った。珠月は何がそんなにおかしいのかと言わんばかりの顔で、ことんと首を傾ける。
「だってプリン与えておけば、遠は少し静かになるよ? 真空パックだし日持ちする奴だから平気」
 そういう問題ではない。しかも工場生産品とはいえブルーローズの印がついているのを見て、緋月は頭を抱えた。
「…………ありがたく受け取っておきます」
 そして一つだけプリンを取り出す。
「他は粥の材料か? 変わったものもあるが」
「おかゆとあと、ビタミン取れるもの。私が作るんだったらホワイトソースのリゾットとか出すけど、緋月は作らないものね」
「作れます」
 微妙にニュアンスの違う返事に、珠月は肩をすくめてみせた。作ると作れるは違う。
「私が作るほうが美味しいよ。きっと。緋月はそんなものより、しっかり出しを取ったシンプルなおかゆを作ったほうがいい。ああ、でも肉がないから遠は不満そう」
 くすくすと珠月は笑った。緋月は余計な食料を急いで冷蔵庫と食品棚に放り込む。そして、残った薬とプリン、雑誌類をまとめて抱える。
「遠は上で寝ている」
「上がらせてもらっていいかな?」
「多分、構わない」
 適当なことを言って緋月は靴を脱いだ。町家は土間が長々と続いているが座敷に上がる時は靴を脱ぐ。珠月も靴を脱いで急な階段を上がる。ここにはよく来るが、二階はプライベートな空間なのであまり上がらない。上がるとごぼごほと咳き込む声が聞こえてくる。
「遠、珠月様が来た」
「うぇえ」
 緋月が声をかけると嫌そうな声が帰ってきた。
「何だ、その返事は。私が来ると不都合でも?」
 中から返事が来るより先に、珠月はふすまを勢いよく開けた。寝ていた遠が起きあがる。これでもかと厚着をして寝込んでいるかと思ったら、意外と普通にパジャマだった。ただし、額に冷却シートを張っていて首にはタオルを巻いている。よく見るとタオルと一緒に撒かれているのは葱だ。
「今時その民間療法!?」
「第一声がそれかよ!?」
 そこで失言に気づいたのか、珠月は咳払いした。今更遅い。
「体調悪そうね。お見舞いにきたよ?」
「誤魔化されるか、この野郎」
 布団の中から遠は珠月をにらんだ。よく見ると布団の横に食べ終わった土鍋と水差しが置いてある。
「あら。薬もう飲んだの?」
 一度薬を飲んだら、数時間時間をおかなくてはいけない。珠月は尋ねた。
「……勿論」
 遠は頷いた。珠月と緋月は顔を見合わせる。心が通じ合った。
「緋月、押さえろ」「多分、枕の下だ」「了解」
「ちょっ、お前ら病人に何を!?」
 問答無用で緋月は遠をはがいじめにした。その間に珠月は枕をずらす。その下に、紙の包みに入った薬があった。
「…………薬はもう飲んだ? 誰が?」
 棒読みで呟いて珠月は振り返った。遠は目をそらす。緋月は大きくため息をついた。
「遠…………」
「だ、だって薬って苦いんだぜ!? 錠剤でものんだあと何か嫌なにおいが胃の中から湧いてくるし! 俺、鼻が良いから辛くて……」
 遠を開放すると、緋月は空いた手で珠月が持ってきた薬を取りだした。白っぽい粉の入ったカプセル状の薬だ。
「遠、飲め」
「嫌だ、まずい!」
 緋月と遠は無言で見つめ合った。ややあって緋月は心の底からため息をつく。
「今時…………大型犬だってもっと素直だ」
「緋月、その薬も食物に混入したほうがよかったんじゃないの?」
「犬扱いするな! あと、『も』って何だ!?」
 珠月の呟きに、すばやく遠は食い付いた。余計なところには気づくんだから、と珠月はぼやく。
「まあいいや。飲みなさい、遠」
「なんでお前に命令されるんだよ!? お前は医者か!?」
「お前の上司だよ」
「上司に薬を飲むよう強要されるなんて聞いたことねえよ!」
「私だって言いたくないよ!」
 本当に嫌そうに珠月は呟いた。
「分かった。選択肢は与えよう。一、自主的に飲む。二、押さえつけられて無理やり飲まされる。三、口移しで無理やり飲まされる。四、気絶させて点滴。五、注射。さあ、どうする?」
「薬摂取させる気しかねえじゃねえか!」
「当たり前だ。病人は病人らしく薬飲んで寝ろ」
 遠と珠月は互いに相手の襟元を掴んで怒鳴った。緋月は目をつぶってなげくように頭を振る。
「珠月様、相手は病人だ。おとなげない」
「まさかここで遠の味方に出るとは思わなかったよ…………そんなに遠が好きか」
「誤解を招く言い方はやめてくれ」
 言葉だけを拾うなら困り切っているようにも聞こえる。だが、そうではないことを珠月は知っている。その証拠に声は淡々としていて少しも困っていない。緋月はそういう人間なのだ。命じられないと何を演じればいいのか分からない。分からないから、自分が何をしたいのか自分が何が好きなのか、そういう自己の価値観すら分からない。質問されないと考えもしない。合理的に行動はできるが、感情的には行動できない。それはひどく工作員向けの能力なんだろうけど――――
「…………緋月、私のこと好き?」
 半眼で珠月は緋月をにらんだ。ターゲットが自分から緋月に移ったことを察して、遠がそっと薬を遠くに追いやろうとしたので、振り向きもせずに手刀を振り下ろす。ぎゃんと犬のような悲鳴が聞こえた。
「好きも嫌いもない。珠月様は、珠月様だ。上司であり、主人。恩人であり、恩師。所有権の持ち主」
 躊躇いなく緋月は言い切った。遠が不審そうな叫び声をあげるが、二人は無視した。
「予想通りの返事で嬉しいよ。その上で聞く。私と遠、どっちの味方?」
「おい、社長。会話の半分くらいしか理解できねえし、緋月がなんで社長に絶対服従なのかも知らねえけど、その質問は卑怯だと思う。っていうか、なんで俺の薬の話がどっちの味方って話になってるんだ?」
 背後から遠が珠月の肩をつかんだ。珠月は笑みを浮かべたまま振り返らない。
「何となくムカついたから」
「相変わらず理屈もくそもねえな。俺、お前のそういう中身くそガキなところが苦手っがあ」
 再び手刀を喰らって遠はよろめいた。「珠月様」と緋月が批難の声をあげる。今度はまぎれもなく非難の声だ。
「で、返事は?」
 珠月はそんな声など聞こえないかのような顔で、小首をかしげて見せた。上目遣いに見つめてくる姿は中身さえ知らなければ愛らしいといえなくもない。だが、緋月はそんなことはいっさい視界に入れず、答えた。
「命令を聞くべきなのは珠月様。世話をしないといけないと思うのは遠」
「なるほど。それで自身が下したその結論をどう思う? 緋月」
「どう、とは?」
 ことんと緋月は首を傾げた。珠月はため息をつく。そして、両手でもちのように緋月の頬を掴んで伸ばした。緋月は顔色を変えず、遠は慌てる。
「ちょ、社長! 分かった。飲む。何だかよく分からねえけど、飲めばいいんだろ? だから止めろよ」
 珠月は手を離した。緋月の頬が伸ばされた部分が赤くなっている。しかし、緋月は特に気にした様子もなく頬を軽くさすった。珠月は目を細める。
「命令は外から下される外的動機。何かを判断しそれに基づく行動――思いは自己の願望からなる内的動機。どちらが本心かなんて、普通なら分かるはずなのに」
 小さく、ほとんど唇を動かすだけの仕草で珠月は呟いた。だが、背中しか見えない遠にもおろおろと視線を漂わせる緋月にもそれは届かない。
 珠月は唇の端を釣り上げた。一瞬で無邪気な暴君の笑みになる。
「……遠、飲まないの?」
 慌てて遠は薬を掴むと飲み込んだ。一瞬、泣きそうな顔になるが、無理やり嚥下する。そして水を飲もうとして気管に流しこんだ。盛大にむせると同時に身体が傾く。騒いで具合が悪くなって来たらしい。慌てて緋月が駆け寄り背中をさするが、遠はげほげほと激しく咳き込む。
「大丈夫か? ちゃんと飲んだのは偉い。珠月様がプリンをもってきてくれた。食べていいぞ」
「マジで!? 社長、ありがと!!」
「…………」
 珠月はにっこりと笑った。知る人が見ればそうと分かるある種の笑みに、緋月の顔から血の気が引く。遠も何かを感じとったのか警戒態勢に入った。
「社長? なんで機嫌悪いんだ?」
「珠月様……申し訳ありません。逆らったことは本当に申し訳ありませんでした。確かにぼ――俺の立場としては珠月様の意向を最優先させるべ」「緋月」
 珠月は笑顔のまま緋月の言葉を遮った。白い指が伸びてそっと緋月の髪をかきあげる。緋月はまるで銃口でも突きつけられたかのように緊張した。遠も息を殺してなりゆきを見守っている。そして、
 珠月は思いきり緋月の頭を横に振った。抵抗しない緋月は思いきり頭を振りまわされて、遠にぶつかる。ごつんといい音がした。
「~~~~~~」
 声にならない悲鳴が上がる。ふんと鼻を鳴らして珠月は立ち上がった。
「大昔に言った言葉覚えてるかな? 緋月」
 緋月は首を傾げた。珠月は大仰に腕を組んでそれを見下ろす。
「それくらい自分で考えろ。私の手を煩わせるな。言ったよ。確かに言った。だからね、別に悪いことじゃないんだよ。あんたに友達できたのも、友達思いなのも、そいつとルームシェアするのも、私の家から離れた場所に住むのも、人間として成長したなと思ってた。けど、ムカつく」
「珠月様?」「社長?」
 子どものような言い草に、二人は顔を見合わせた。珠月はますます不機嫌になる。
「……分かりました。次回からは必ず珠月様を優先させます。何よりも」
 珠月は手を伸ばした。再び緋月の頭をつかみ、そして遠の頭も掴む。そしてその二つを力強くぶつけた。小気味のいい音がする。
「そういうことじゃないんだよ。この馬鹿どもが。その問題の焦点に気づいてない辺りが大馬鹿なんだっていってるんだ、この馬鹿ども!」
「に、二回も言った。馬鹿って言った。俺は馬鹿だけど、緋月は馬鹿じゃねえよ」
 頭をさすりながら遠が反論する。普段ならここまであっさりと頭を掴まれたりしないが、本調子でない今は抵抗もできない。緋月はそもそも抵抗しない。おとなしく座っている。
「珠月様、馬鹿は風邪を引かないというからきっと遠は馬鹿じゃない」
「かもね。馬鹿はお前かな。緋月」
「珠月様がそういうならそうです」
 緋月は頷いた。不本意なはずの評価を受け入れた。珠月はますます機嫌が悪くなる。
「そこが馬鹿なんだよ。くそ馬鹿が。もういい。遠はもう寝ろ。私は帰る。緋月、見送れ」
 尊大に珠月は言った。思い出したように廊下につっ立っていた骨が歩いてくる。
「社長。緋月を怒らないでくれ。よく分からないけど、多分俺が悪いんだ」
「お前も悪い。だけど、それはそれ。さっさと寝ろ」
 命令されて渋々と遠は横になった。珠月は踵を返す。それを追って緋月も立ち上がった。
「遠」
 帰りがけに一言、珠月は言った。
「緋月がなにも言わないからって、その上に胡坐かくようなら私は怒っちゃうよ? 緋月は緋月のものだけど、マスターは私なんだから」
「あ、そっか」
 遠は何かに納得したように笑った。
「なんだ、社長は仲間はずれにされて寂しかったのか。急に怒り出すから何かと思った。緋月を取られて怒るなんて意外とお子様」
 台詞は途中で途切れた。目の前にいる。部屋を出かけていたはずの珠月が目の前にいた。その指先は遠の額の少し前で止まっている。
「駄犬が」
「珠月様!」
 悲鳴に似た声が上がる。普段の遠ならここまで珠月の接近を許すことはない。だが、熱のある今の状態ではそうではない。遠は唾を飲み込んだ。
「…………ごめんなさい」「珠月様、申し訳ありません。遠は体調が悪いせいで」
「うん、そうかもね」
 うっすらと珠月は笑った。そして部屋を出た。


**


 暖房は入っている。この家は見た目こそ古い民家だが、中身は最新式だ。なのに空気は冷えている。
「珠月様?」
 【玄関】と呼ばれる座敷の一つで珠月と緋月は向き合っていた。珠月の顔によく浮かべている笑みはない。緋月は元よりあまり表情がない。二人は無表情で向き合う。
「緋月。私は怒っている。同じくらい心配している」
「珠月様が心配なさることはありません」
「心配しているんだよ。緋月。貴方は自覚がないだろうけれど、遠の地位は貴方の中で私より高いんだよ。貴方は遠を大事な友達だと思っているんだよ。けれど、あなたの中の合理的な価値観では、遠の地位はとても低いんだよ。だって貴方にとって人間は自分の使用者以外、ただの風景なんだから」
 ひどく淡々とした声に珠月は言った。言い聞かせるように。呪いをかけるように。
「暗殺者としてはそれでいい。貴方はそれでよかった。暗殺者も工作員も道具だ。道具は使い手の意志を反映させるものでなくてはいけない。けれどね。貴方はもう暗殺者じゃない。感情はすでにそちら側にない。そうなるように私は出るだけの場を提供した。そうなるように環境はできていた。遠が、友達の存在がそうした。そうなるように私は貴方を使わなかった。なのに、判断力だけは貴方は道具のままだ。それはとても危ないことなんだよ? 知ってる? 分かってる? 理解してる?」
「平均的な感覚とずれがあることは知っている」
 緋月は答えた。なにも感じてないような表情に、珠月は顔をしかめる。
「分かっていないよ。貴方は今回、仕事より遠を優先させた」
「大切な仕事の予定は入っていないし、珠月様も快諾してくれた」
「それでも昔からすると考えられない。義務より感情を優先させた。それ自体はいいよ。むしろ歓迎する。私は貴方を道具として使うために引きとったわけじゃないしね。駒にはするかもしれないけど」
 さらりと怖いことをいって珠月は続ける。
「貴方はそれくらい遠に好意を持っている。でも遠の価値を自覚していない。どういうことか分かる?」「分かりません」
 間入れずに緋月は答えた。珠月は表情を消す。
「私が遠を殺せと命じたなら貴方は殺してしまう。絶対に完膚なきまでにそう確信できる。貴方は使用者の命令を聞いてしまう。反論も抵抗も選択できない。だって貴方の行動手札の中にそんなものないんだもの。だけど、感情の軋みはきっとそれに耐えられない」
「…………」
「貴方は歪なんだよ。緋月。私が言えたことじゃないけれど」
「…………」
「貴方の精神力はたいしたものなんだろうと思う。けれど、それを支える意志がない。魂がない。貴方は貴方を理解していない。私とは正反対だね。だからこそ、幼い感情はきっと今まで使ってきた経験と価値観を越えられない。だから貴方は使用者である私の意志をきっと反映する。でも、その後に来るものには耐えられない。貴方はきっともがき苦しんで死んでしまう。自分で息をするのをやめて死んでしまう」
「……珠月様が言うならそうかもしれない」
 緋月はじつにあっさりと肯定した。それが事実としてもなんでもないと言わんばかりの態度に珠月はうめく。
「逆も言える。あんまりとすんなり関係が出来ているから、遠は緋月がいること、緋月がなんでもしてくれることが当たり前になっている。病気である自分の姿をあっさりと晒してしまうほどに。情報封鎖なんてすっかり忘れてしまうほどに。貴方達はよりかかり過ぎなんだよ。まあ、それはいい。それくらいならバカップルで許せるよ。でもね、緋月。貴方は遠があきらかに悪い場合にも遠をかばった。それは良くないことだよ」
「反省している」
「どうだか。また同じことをしそうだけどね」
 両手を伸ばして珠月は緋月の頭をはさんだ。口づけるように顔を覗き込み、囁く。
「いい加減に目を開きなさい。貴方はもう一度死んでいるんだよ? 貴方は私の従僕でダイナソアオーガンの構成員でトランキライザーの生徒でトップランカーで世界的にも定評のある護衛者で遠の友達だ。何が大事か、何をすべきか、何をしないべきか、いい加減自分の価値観で、自分の責任で、自分の意志で判断しなさい。そうでないなら貴方はかならず道を失う」
「そうかもしれない」
 淡々とどうでもよさそうに緋月は言う。
「なら、俺はどうすればいい? 俺は生き残ることを考えればいいのか?」
「何がダメってその思考回路が駄目だ」
 珠月は言い切った。
「遠はいつまでも貴方と一緒にはいてくれないし、それは遠のためにもならない。相手を受け入れるというのはすべてを無関心に許容することじゃない。理解しようとあがくことだ」
「貴方の言葉はいつも正しい。珠月様」
 かすかに緋月は目を伏せた。表情らしい表情が浮かぶ。
「でも残酷で自分勝手だと思います。それが出来るのが当たり前だと思ってでもいるようだ」
「うん。私はエゴイストだよ? だって私には自分が一番だもの。自分がいないと何もできないもの。自分の価値観が一番だもの。私はずっとそうやってきたもの。だって私には意志しかないもの。だから、仕方ないよ。私は誰にも優しくない。諦めておとなしく言うことを聞くんだね。貴方は私のなんだから」
 勢いよくふすまが空いた。気配は感じていたものの予想よりも力強く開け放たれたふすまに珠月は少なからず驚いた。だが顔には出さずに目だけを動かしてそちらを見る。案の定、顔色の悪い遠がいた。
「とお」「緋月は俺のだあああああ!! どこかに連れて行っちゃだめだ!!」
 空気が凍った。
「どこからこんな話に……」
 珠月の呟きは聞こえていない。遠はばたばたと近づいてくる。珠月は本能的に緋月から距離を取った。その間に遠が割り込んでくる。
「なんかよく聞こえなかったけど、社長、緋月をどっかに連れてくのか!?」
「…………だったら何?」
  なげやりに珠月は答えた。頭が痛い。そんな話は一切していなかったはずだが、何かをどこかで勘違いしたらしい。面白いので放置する。
「駄目だ! 俺、緋月いないと困る!! 社長ならいくらでも愛人いるだろ!? そいつらでいいじゃん!」
「外聞の悪い上に適当なデマを大声で叫ぶな。私にいつ愛人がいた?」
「パーティ会場とかいろんな男と現れるじゃねえか!」
「あれは非公式な部下や友人や雇ってるエスコートだよ。だいたい、仮に愛人だったしてもそれは遠には関係ないし、緋月にも関係ないじゃん」
「駄目だ! 緋月は滅茶苦茶いい奴んだぞ!? 優しいしすげえし格好いいし強いんだぞ! だから、社長のものになんてなっちゃだめだ!!」
 珠月は心の底からため息をついた。だいたいの経過は分かった。緋月の顔を覗き込んでいる珠月をみてあらぬ誤解をしたことも。
 こいつら、もう放っておいて勝手に愛をはぐくんでもらったらいいんじゃないかと珠月は頭のすみで思う。思うと同時に苛々してきた。
「…………手遅れだもん。遠が出会ったときにはすでに緋月は私のだし。ねえ?」
 珠月は緋月に視線を送った。裏を読まずに緋月は頷く。
「ああ。俺は珠月様のものだ(所有権があるという意味で)」
「だよね? 緋月は私のだよ(身柄を買い取ったという意味で)。私だけのものだよ(所属が自分にあるという意味で)」
「その通りだな(所属的な意味で)」
 ざあと遠の顔から血の気が引く。悪い顔色がさらに悪くなった。
「遠、もう寝てろ。顔色悪いぞ」
「そうだよ。どのみち手遅れなんだから寝てたら?」
 珠月と緋月にとっては自明の会話でも遠にはそうではない。あっという間に誤解は深まっていく。分かっていて珠月は無視する。
「う、うわあああああ!! 緋月! なんで社長がいいんだ!? 社内なら……社内ならせめて翔副社長とか紅取締役とかそっちにしてくれよ!!」
「何が?」
 緋月は本気で首を傾げた。分かっていない。珠月はやや溜飲を下げた。
「じゃ、私帰るわ」
「お送りします」「ちょ、お前、この爆弾発言のあと帰るんじゃねえ!!」
 緋月のお辞儀と遠の叫びを珠月は無視した。さっさとコートを羽織って帰り支度を始める。
「うう、なんで緋月は社長に服従なんだよ。納得できねえよ」
「それは俺が珠月様のものだからだ(所有物的な意味で)」
「だから、何で!」
 見事に会話がすれ違っている。気づいているのはおそらく珠月だけだが、一々指摘するのも馬鹿らしい。こいつらは放っておこう。珠月は彼女にしては非常に珍しく、身内の世話を放棄した。
「もういい。さっさと風邪治して出社してこい。仕事溜まってるから」
 振り向きもせず、珠月は立ち上がった。


**


「え? 緋月まだ有給? 遠は出社してるじゃん」
「あれ? 私はてっきり社長の言いつけでどっかいってるんだと思ってたんですけど、違うんですか?」
 ことんと大豆生田桜夜楽は首を傾げた。また見たことのないリボンをしている。おそらくは彼女が恋する会長へのアピールなのだろうが、おそらく宿彌のほうは彼女のリボンが変わったこと自体に気づいていないに違いない。
 無駄なことをしている。珠月は思う。
「今回は多分なにも命令してないはず」
「風邪、うつったんじゃないですか?」
 珠月は手を止めた。パソコンのキーをおしてメールを送ると、顔をあげる。
「…………それなら遠も休むでしょ。きっと何か用事なんだよ」
「ですよね。緋月さんが寝込むとか想像できませんし」
 けらけらと桜夜楽は笑う。合わせて笑いながら、珠月は再びの見舞いと呑気に出社してきている遠をぶん殴ることを決意した。


おわり
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