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雨が降る

 冷たい雨が降っている。
 比較的安定して四季が巡る、世界的にもまれな気候に恵まれたこの列島の中でも、トランキライザーのある旧日本国関東地域は穏やかな気候の地域である。
 雨が降っている。
 雨降りは服がぬれるし髪が湿気でまとまらなくなるので嫌いだ。けれど、この雨が様々な面倒事を洗い流してくれることを考えると、それほど嫌なものでもない気がする。
 篭森珠月は書斎の窓から空を見上げた。屋敷内は静まり返っている。唯一の同居人であるミヒャエルが海外出張中のため、屋敷内に生きた人間の気配は一切ない。落ち着ける空間ではあるが、一人で閉じこもっていると昔のことを思い出して少しだけ気が滅入る。子どもの頃は滅多に帰らない両親の帰宅を待ちながら、貪るように書を読み、次々と教師を呼び付けて勉強をしたものだ。
 手の中で電子ブックがかすかな駆動音を響かせる。ずらりと並んでいるのは、学園の中でも特に影響力が強い生徒の今週の動向だ。丹念に珠月はそれを読みこんでいく。どこにいるのか、誰といるのか、何をしているのか、奇妙な動きはないか。学園内の動きに関する情報を頭の中で更新していく。
「――――いつも通りか」
 しいて言うならば、今週は留守のトップランカーが多い。冬の新商品のお披露目が先週くらいから世界各地で行われているせいだろう。特に商人系の生徒は留守がちだ。友人である冷泉神無やメリー・シェリーも今週はいない。それに付随するように、便利屋や請負人たちも雇い主に付き添って学園を留守にしている。さらにいうと、この時期の人間の移動を狙って暗殺業や調査会社も大きく動いているのだが、いつものことなので特に気にしないことにする。
「ピーターも緋葬架も留守なんてつまらないな。まあ、今日明日にはだいたい戻ってくるだろうけど」
 一人呟いて、珠月は肘掛椅子に深く体重を預けた。ぎしりとアンティークの椅子が音を立てる。直後、珠月は気配に気づいた。考えるよりも先に身体が動く。袖の内側に隠したナイフを投擲すると同時に、椅子から飛び上がるように立ち上がり、バックステップを踏んで本棚の影に隠れる。隠れながら太もものフォルダーに手をかけて、護身用の拳銃を抜き、相手に突きつけた。そこでやっと、相手が誰かというところまで思考が行く。さらにコンマ01秒ほど前を見て、珠月は顔をしかめた。
「他人の家に案内もなく入るのは紳士的とは言えない。それ以前に、貴様にはわが家への出入りを禁じているはずだ」
「宝石のような月明かりが心弱い芸術家たちをひきつけ惑わせるように、貴女に会いたいという衝動がつい私に禁忌を破らせてしまいました。どうぞ、お許しください。我が愛しの月の姫」
 瞬時に鳥肌が立った。頭の芯が冷たくなる。次の瞬間、躊躇うことなく珠月は発砲していた。だが、すでにそこには相手の姿はない。一瞬で間合いを詰められる。手には初めに珠月が投げたナイフ。
「っ、このっ!!」
 怒りにまかせて攻撃しそうになるのを、かろうじて残った理性が押しとどめる。色々な意味で厄介な相手なのだ。攻撃するのは得策ではない。それは知っている。だが、理性が止めても感情が拒絶する。一瞬だけ珠月は迷った。そして、相手はその迷いを見逃してくれるほど優しくない。
「烈火のような怒りに燃える貴方も、神の剣たるウリエルやミカエルのようにお美しい。ですが、今は花のように笑ってくださいませんか? それが無理ならば」
 銃撃を避け、相手は珠月の手を掴んだ。思いきり引かれて体勢が崩れる。そのまま珠月は背後からはがいじめにするように抱きしめられた。制御しきれない悲鳴がこぼれる。
「せめて、少しだけ」
「触ら……ないでよ……ジェイル・クロムウェル」
 呻くように珠月は幼なじみの名前を呼んだ。珠月の天敵。学園最高峰の便利屋。誰も過去を知らない謎の男。年季の入ったストーカー。凍れる詩人。奇妙な言動の男。そして――――すべての人の記憶からすぐに消えてしまう、あるいは存在に気づいてすらもらえない奇妙な能力を持った男。
「何もしませんよ。今は」
 攻撃方法はいくらでもある。けれど、できない。青ざめた顔で珠月は動きを止めた。身体が拘束されていなくても心が拘束される。何十年にもわたる束縛はそれだけ強い。触れられるとよほどのことがない限り、怖くて逃げられない。
 怖い。何が怖いのかは珠月自身にもよく分からない。けれど、ジェイルと会うといつも自分の中の不安そのものと向き合う気分になる。意味がなく怖くて呼吸ができなくて死にたくなる。きっとそれは、彼が自分の弱さも醜悪さも知っていて、その上自分では絶対に倒すことができない相手で、しかもあらゆる意味で何をするか分からないからだ。
 怖くて仕方がない。けれど、抵抗するともっと怖いことが待っている。本能にそれが刷り込まれている。
「貴女は僕にとって闇夜の月です」
 彼には珍しいひどく弱気な口調で彼は囁いた。何度も聞いた言葉だ。珠月はゆっくりと瞬きをした。
「……また…………誰かに忘れられたのね。悲しいからってこっちに来ないで。迷惑だよ」
 震えそうになる身体を必死に抑えて、珠月は務めて冷静に言った。返事はない。それが返事だ。ジェイルの能力は、すべての人の認識と記憶から彼の存在を消し去ってしまう。どんなに親しい存在でも血縁者でも例外なく。今のところの例外は、幼なじみで彼の能力に耐性がある珠月だけだ。
 珠月は心の中で嘆息する。彼はひどく飄々としているが、その実ひどい寂しがり屋だ。さもありなん。他者の認識や記憶から外れる能力ということは、誰にも気づかれずに好き勝手できる反面、使用者を絶対の孤独に突き落とす。覚えてもらえないということは、いないと同じことだからだ。
「貴女に会うと、見知らぬ森の奥で灯火を見つけたようにほっとします。貴女は僕に怯えますが、それでも空に太陽があるように貴女はいつだって僕を見つけてくれる。気づいてくれる。何年離れていても忘却の砂の中に僕をうずめない」
 憎たらしいくらい綺麗な指先がそっと頬をなぞる。まるで肉食獣に嬲られているような心地がして、珠月は身体をこわばらせた。事実、珠月は知っている。珠月は強い。だが、ジェイルはいつだって珠月を殺せるくらいに強い。彼の気が変われば、自分はきっといつだって殺されてしまう。
「何もしませんよ」
 心を読んだようにジェイルは言った。ひどく力ない声だった。
「大丈夫。もう貴女に怖いことはしません。貴女が欲するなら何でもして差し上げます。貴女を害するもの、貴女を貶めるものはすべて僕が」「いらない」
 珠月ははっきりと拒絶した。
「嫌い。大嫌いだから、何もするな。私の前に出てこないで」
「僕は貴女を傷つけるつもりはないんです。ただ、太陽よりも月よりもこの星よりも貴女が愛おしい」
「そう言って貴方はかつて、私の通っていた私塾の学友をすべて惨殺した。あの子たちが私なんか篭森に相応しくないと陰口をたたいただけで。かつて私が一度だけ弱音を吐いたとき、貴方は私を殺そうとした。貴方は私と閉じ込めた。嫌い。大嫌い。私のためだと言って怖いことをする。私を愛しているといって私の中身をえぐり出してさらけ出す。私を好きだと言いながら私の中に土足で踏み込んできて私を縛ろうとする。嫌い。貴方は結局、私がいなくなることで自分の存在証明ができなくなるのが怖いんじゃないか」
「誤解です」
 振り返ると、ジェイルは柔らかく笑った。
「貴女のお友達は塾の旅行で事故に遭っただけでしょう? 過去に貴女を傷つけたことは謝りますが、それはすべて貴女を守るため。死にたいというから殺してあげようと思った。泣いているからコワイモノが来ないところに隠してあげた。貴女のすべてを愛しているから、もっともっと中身がみたい。いけませんか?」
 宥めるようにジェイルは珠月の頭を撫でた。だが、珠月はその手を掴んで爪を立てる。
「貴方が好きなのは私じゃない。自分を見てくれる誰かだ。ジェイル、貴方は私の事なんて微塵も思ってない。貴方はただ――――自分が好きなんだ」
 軽快にジェイルは笑った。まるで珠月が面白い冗談を言ったとでもいうかのように、裏のない顔で笑う。
「いいえ。僕は貴女が好きです。叶わないと分かっていても足掻く貴女は僕の希望。僕を見つめてくる貴女は僕の願望」
 両腕でジェイルは珠月を抱きしめた。
「それにもし、貴女の意志を無碍にするつもりなら貴女は今ここにいないでしょう?」
「でも貴方はここにいるじゃない」
「会いに来るなというお願いだけはきけません」
 珠月の髪をひと房すくい取って、ジェイルは口付けた。珠月はこいつが帰ったら美容師を叩き起こしてでも髪を念入りに洗うことを決めた。それに気づいているのか、くすりとジェイルは笑った。そして両手で珠月の目を塞ぐ。
「かつてある狂王がしたというように、貴女の目を隠して、耳を縫いつけてしまいたい。目を塞いで耳を塞いでしまえば、人はきっと物語の結末のようにずっと幸福に生きていけると思いませんか?」
「そんなものは死んでいるのと同じだ」
「認識の違いですね。心臓が動いて、呼吸していて、意識さえあれば生きていると僕は思いますよ」
 くすりとジェイルは笑った。
「相変わらずですねぇ。コワイモノを怖いということが罪であると、貴女は思っている。当たり前のことなのに。貴方が一言頷いてくれれば、二度と不安な目に遭わないようにして差し上げられるのに」
「そして貴方は私と一緒にいることで心の安定を得る。素敵なハッピーエンドだね。素敵過ぎて私には相応しくない」
 ジェイルは答えなかった。ただ、残念そうに珠月の髪を手櫛ですいた。
「魔王が姫君を浚いたくなる気持ちも分かりますよ。浮世は息苦しい。けれど、人はそこで足掻こうとする。見ていられない」
「私だって水に沈むように緩やかに死にたい気持ちになることくらいある。生き苦しい時も生き急ぎたい時も」
 ぼそりと珠月は呟いた。彼女の両親以外はまず聞くことができない弱音に、ジェイルは心底嬉しそうに顔を綻ばせた。そして失言に気づく珠月を強く抱きよせて頬擦りする。
「気持ち悪い。嫌い。離せ」
「すみません。あまりにも可愛らしいので。ああ、貴方の美しさは夜空のすべての星を足しても足りず、その華やかさは世界のすべての花を花束にしても足りない。なんて罪な御方でしょうか」
「とりあえず、あんたは痴漢という罪になると思う」
「御冗談を」
 ジェイルは頬を緩めた。間近で見るとさらに憎たらしいくらいに美しい。超が付く美形の両親のもとに生まれた割に平凡な容姿をもっている自覚がある珠月は、心の中で殺意を募らせた。
「嫌い。私がほしいものをみんな持ってるくせにそれを無駄にして、しかも私を覗き込んですべてを諦めさせようとするからジェイルは嫌い。貴方といると自分が無価値だと思いだすから嫌い。嫌い、嫌い!!」
 気づくと批難の声は絶叫に変わっていた。普段なら絶対口にしない不安と本音が溢れだす。
「どうせ私は何にも慣れない。ただの最高峰の一角として終わっていく存在。近づこうとするほどに自分の無力に絶望する。私はもう始める前から終わっている。諦めている。けれど、諦めきれない。貴方に会うとそれを思い出す。貴方は私が忘れようとしている不安を引き出す。引き出した上でそれを称賛する。私が泣いても苦しんでも心のどこかでは喜んでいるんじゃない!」
 血色の瞳から涙がこぼれ落ちた。ジェイルは袖でそれを拭う。それでも解放する気配はない。
「すみません。でもそれでも僕は貴方が好きですよ」
 耳元でジェイルは囁いた。謝るということは認めるということだ。珠月の顔が怒りで歪む。
「そこは否定するところなのに」
「嘘を言っても貴方は真実の女神よりも正確にそれを見抜いてしまう。なら、言わないほうがましでしょう。大丈夫ですよ。醜く弱い貴女だからこそ、ついてくる人もいます」
「嫌い。死ねばいいのに……」
「僕は好きです。僕を見てくれる稀有な人。僕と正反対で醜く足掻く、貴方が好きです。可哀想で無様な貴女は美しい」
「世の中はそれを変質者という。嫌い。離せ」
 ぶつぶつと呟きながら完全に鬱モードに突入した珠月を見て、ジェイルは苦笑をうかべた。そっと珠月の頬に手を這わす。
「はあ、強引に迫る方法はいくらでもありますが、それでは意味がありませんからね」
 そこでふとジェイルは眉を寄せた。
「はあ。月の姫は人気があるから独占するのは大変です。誰かきてしまいましたね」
「安心していいよ。貴方にだけは独占されないから」
「それは他の相手ならいいということでしょうか…………誰ですか? 狼を従えし龍王かそれとも朧の君かあるいはわが友か」
 少しだけ寂しげにジェイルは微笑んだ。
「いえ、貴方にとっての特別は貴方の父上。鳩の血と紅玉の色の髪を持つ、美しい狂人だけでしたね。昔も今もきっとこれからも」
「他人を強烈なファザコン認定するのやめてくれない?」
「まあ、僕としてはそちらのほうが嬉しいですが。父親とは結婚できませんからね」
「本当に殺すよ?」
「本望です」
 ジェイルの台詞が終わると同時に扉が大きく開け放たれ、人影が飛び込んできた。
「おねえさま? 屋敷内が妙に静かですが、いかがなさいまし」
 言葉が途切れる。室内に力なく立ちつくす珠月とそれを背後から抱き締めているジェイルを確認して、飛び込んできた朧寺緋葬架の顔色が変わった。珠月の『妹分』を自称する緋葬架は常人なら見ることもできないスピードでオート拳銃を引き抜く。
「ジェイル」
 飛び込んできた緋葬架に優しいまなざしを向けながら、珠月はジェイルの腕を掴む。
「私の妹分に傷一つでもつけたら、私は悲しくて死ぬかもしれない」
「はいはい。姫君の仰せの通りに」
 ダイレクトな脅しにジェイルは苦笑をすると、軽く背をおして珠月を離した。そして、窓を開けて外に飛び出す。
「では御機嫌よう、麗しき真珠の月の姫」「逃がすか!!」
「緋葬架」
 追って飛び出そうとした緋葬架を珠月は後ろから腕をまわして引きとめる。緋葬架とジェイルでは残念ながら勝負にならない。珠月とジェイルですら勝負が成り立ちにくいほどなのだから。
「ありがとう。私は平気」「でもおねえさまがっ!」「あれは」
 珠月は手を伸ばして緋葬架の頭を撫でた。
「あれは私の敵。私だけの敵」
「おねえさまの敵は私の敵ですわ」
 不満そうに言いながらも撫でられるのが嬉しいのが、緋葬架は身を任せる。
「いいのよ。緋葬架はいるだけでいいの」
 ぎゅっと珠月は緋葬架を抱きしめた。不安の籠った抱擁には気づかず、緋葬架は嬉しそうな笑みを浮かべる。
「私のおねえさまがいるだけで嬉しいですわ」
 裏の一切ない好意を向けられて、珠月はこわばっていた表情を崩す。
 あなたが大切。あなたにここにいてほしい。
 ただそれだけの言葉の、なんと意味の深いことだろう。人はそれだけで生きていける。だけど、それがないひともそれを与えてあげてはいけない人もいる。
「大好きですわ、おねえさま」
「私も貴女のことが好きよ」
 不安になる。かき乱される。そういうのは嫌い。嫌いだからなかったことにする。
 珠月は意識して心に蓋をした。いつかは向き合わないといけないかもしれない。でも逃げられるうちは逃げてもいいと思う。だから、だから――――――
 雨が降っている。
 大嫌いなあの男はどうやって帰ったんだろうと珠月は少しだけ考えた。


おわり