「ties 1」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

ties 1」(2009/07/11 (土) 21:53:35) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

Ties 「愛が何かなんてことを理解しているのは、至天におわす神々か人々を言葉で惑わす恋愛小説家かか、あるいは愛や恋で頭がおかしくなった若者くらいです」  なぜそんな話になったのかは覚えていないが、そんな会話をしたことがあった。彼があまりにもあの人のことを愛しているのだというから、『愛してるってよく分からない』と言ってみた。そしたら、返ってきたのがこの台詞だ。 「だから、僕は彼女を愛しているのだと自信をもっていえるのです」 「それは自分の頭がおかしいと言っているのかしら?」 「ええ」 あっさりと、認めてはいけないことをあっさりと彼は認めた。 「愛というのは麻薬中毒のようなものです。気分がよくて愛さずにいられない。その人のことを考えると、魂が空の高みへ飛び上るような気持ちがする。見るだけで毬のように心が弾み、話をすれば振り子のように心が揺れ、その人が青い空のどこかにいるだけで幸せな気持ちになる。僕は彼女を愛しているんです。硝子のように美しくて、強くてすべてを切り裂くのに、脆くて砕ける。そんなあの人がどれほど高みに登るのか、考えるだけでどきどきします。あるいはすべてをなくして諦めて、僕のところに堕ちてくるのでもいい」 「愛してるのね…………けど、なにか……」  気持ちが悪い、少し気味が悪いという言葉を飲み込む。だが、彼には伝わってしまったようだ。にこりと彼は笑う。 「貴女だって、この人のためならなんでもしたいと思うことはあるでしょう?」 「思ってもやらないわ。そういうの、日本では『ヤンデレ』っていうらしいけど」 「スラングには詳しくないので」  そういう彼は訂正しようもないくらい完璧に上品な英語をしゃべる。 「日本語の『病む』に、相手を愛していて素直にそれを表現している様子を示す『デレ』って表現を合わせたらしいわよ。愛している人やその周囲に対して、愛情故に病んだ危険な行動に出る人間のことを言うの」 「病み……」  ジェイルは笑った。 「愛するということは病むことですよ。知っていますか? フィリアもアガペーもエロスも日本語ではすべて『愛』と翻訳されますが――――もとを正せば『愛』というのは、仏教用語で悟りを邪魔する執着の一つのことなんですよ」    **  東南アジアの交通都市シェイングレン  空気が濁っているような気がしたとすれば、それはきっと自分の中のどこかに残っている潔癖を愛する子ども心のせいだろう。そうでないなら、最新の空気清浄機が吐き出される紫煙もどこからともなく漂ってくる鉄さびの臭いもたちまち浄化してしまうようなこの空間で、空気に濁りを感じるわけがない。精密機械の工場のようにはいかずとも、ここの空気は浄化されているはずだ。煙草の煙もうっとうしい香水も、呼吸を邪魔しない。 「そのはずなんですが、息苦しいのはなぜでしょうね」 「趣味が合わないんでしょう」  二人の青少年がいた。一人はひどく整った外見を持つ青年、ジェイル・クロムウェル。【ワンダフルポエマー(凍れる詩人)】のエイリアスを持ち、その甘く華やかな外見と中身のえげつなさ、そして読めない性格で一部では非情に恐れられている。  もう一人は、【マルウェス・べーロ(夢幻の星影)】黒雫。世界中から天才鬼才異才が集うトランキ学園でも比較的珍しい4重人格で、かつ人格ごとに異なる異能を持つという、まるで昔の漫画の主人公のような人間である。正確にいうと、4つのまったくことなる人格とそれらを統括して人格同士のぶつかり合いを防ぐための空の人格がいるらしいが、外部からみる分にはよく分からない。 「帰りたい……」 「僕もそろそろ帰りたいですね。僕がこうして遠い空の下にいる間、あの最果ての地にある都市で僕の愛しい月の姫君が何をしているかを考えると――僕の胸は愛しさで張り裂けそうになるのです」 「先輩はもう胸張り裂け死んだほうが喜ばれ……なんでもないです」  雫は漏れかけた本音を途中でぶった切った。  ジェイル・クロムウェルには、愛しているのだと公言して止まない相手が一人いる。だが、その相手である篭森珠月という少女は、この世で一番嫌いな人間はジェイルだと言ってはばからない。その言葉を裏付けるかのように、ジェイルの元には毎年何人もの暗殺者が送り込まれてくる。犯人が誰かは言うまでもない。直接会ったとしても、激しい拒絶反応が返ってくるだけだ。しかし、それでもジェイルは嫌われている自覚が一切見られず、にこにこ笑いながら愛の台詞を囁いては殴られている。噂によると10年以上もその関係が続いているということだ。つまりは年季の入ったストーカーである。 「ええ。僕の胸を切り裂いて息の根を止めようとするこの愛を月の姫が受け入れてくれれば、それはこの美しい空と大地と海の支配するすべての場所からあらゆるパンドラの喪失物が消え失せることにまさる喜びでしょう。しかしあの月の姫は、不敵な笑みを浮かべるばかりで私に水面に映る残像すら掴ませてはくれないのです」 「……いつか掴めるといいですね」  色々言いたいことはあったがあきらめて、雫は適当な返事を返した。 つい先ほどまで部屋にいた取引相手はすでに退場しており、部屋には仲間だけが残っている。本当ならさっさと帰りたいのだが、後ろめたいところがある仕事を請け負った時、取引相手との繋がりを表ざたにしないために集合と解散の時間をずらすのはマナーだ。よって、しばらくは時間を潰さなくてはならない。 「時の女神の訪れが随分と遅い気がします」 「仕方がないですよ……楽しみ方を知らない僕たちが悪いんです。多分」  だが、こういう金だけをかけた会員制クラブというものは飲食や嗜好品に興味が薄い人間にとっては、とてつもなく退屈な空間である。 「お客様に言いたくはありませんが、あのお方に人間を人間たらしめる根本たる品性が足りないのは、選んだ店を見れば分かります。人という生き物の歩みの成果たる知性が足りないのは発言を聞いていれば分かります。つまり、僕たちがこの店を楽しめないのは、残念なことですが彼に非があると考えざるをえません。なぜなら、彼には人間という愚かしくも崇高なる生き物にとって欠かすことのできない要素が、満ち欠けを繰り返す月もおぎなえないほど完全に欠けているからです」 「……先輩、いくら盗聴が完璧だと言ってもあまりこういう場所で変な話はしないほうがいいですよ」  会話終了。  そもそも二人ともそれほど無駄話をするタイプではないため、部屋の中に妙な沈黙が満ちる。どこからともなく聞こえてくる音楽とかすかな声だけがBGMだ。普通こういう部屋は完全防音にするものだが、この建物はそういうふうにはしていないようだ。理由は分かる。外で何が命にかかわる騒ぎが起こって、かつ店内放送で連絡できない事態が発生した時、音で異常を感知できなければ逃げおくれてしまう。  そういう作り。だからこそ、気づけた。 「――――今、なにか」  悲鳴が聞こえた。そう気付いた瞬間、黒雫は動いていた。自然と武器に手が伸びる。本能にすり込まれた癖だ。少しだけ扉を開けて外をうかがうと、同じように扉が開いて何人もの人間が廊下をうかがっているのが見えた。大部分はしっかりと背広を着込んだ、使用人風の人間だ。その視線の先、転がるように一人の少女が走っている。 「何? トラブル?」 「脱走?」  不思議そうな呟きがあちこちから聞こえてくる。  この場には不似合いな少女だった。学園でよく見かけるローランカーの生徒の中に紛れればすぐに分からなくなるような、平凡な外見。普段着に近い服装。あまりにもこの高級感あふれる空間に不似合いだ。 「……日系の女の子?」  少しだけ興味をひかれて黒雫はもう少し扉を開けた。その時、走る少女と目があった。同じ年くらいの雫の姿に、少女も驚いたような顔をする。  嫌な予感がした。 「助けて! 殺される!」  少女は方向転換すると、雫に向かって突っ込んできた。避けることも迎撃することも可能だが、それをすると怪我をさせるかもしれないという躊躇いが反応を遅れさせる。その隙に少女は雫の胸めがけて飛び込んできた。むしろ微妙な身長差のせいで腹を狙われる形になる。咄嗟に内蔵だけはかばったため、雫は少女と一緒に部屋に転がり込む羽目になった。ジェイルは目を丸くする。 「…………これが日本語で言う『フラグが立つ』というものですか?」 「どこでそんなスラング覚えちゃったんですか、ジェイル先輩。日本語だろうと英語だろうとくそ丁寧な言葉を喋るくせに」  叫んで雫は飛び起きる。少女は勝手に転んだらしく床に座り込んだままだ。 「確か、正月聖が言ってました」 「どういう会話をしていたのかがすごく気になります」 「南王の噂話です」 「ああ、納得しました」 「見つけたぞ!」  突如聞こえた怒声が二人の会話を打ち切った。直後、騒がしい足音とともに一目で『そっち』系と分かるいかつい男たちが何人も廊下を走ってきた。トラブルを避けるように他の客は自分の部屋にひっこんで扉を閉ざす。なぜか店の用心棒も現れない。 「何ですか……? 何の騒ぎです?」 「その娘、こちらに渡してもらおう」  相手がせいぜい十代から二十代の青年と見て、高圧的な態度で男たちは言った。雫の顔がかすかに陰る。クールなふりをしているが、雫は案外と正義感が強く直情径行だ。ジェイルは肩をすくめて立ち上がる。 「落ち着きなさい」 ジェイルを見て、先頭の男は驚いたように数歩下がった。男たちや少女の目には一瞬でジェイルがその場に出現したようにみえたことだろう。高圧的だった男たちの態度が警戒に変わる。 「……私たちはその娘の保護者に頼まれた者だ。連れて帰らなくてはならない。こちらに来るよう言ってもらえないだろうか」 「嘘……嘘よ。お願い助けて。殺される」  震える声で少女が言った。ゆっくりと両者の顔を見て、ジェイルは深く頷いて見せる。 「連れて行きたいなら連れていけばよろしい。ただし、果てなき大地のここではないどこか、悠久の時の今ではないいつかに」 「難癖つけて渡さないつもりか?」 「まさか。いいですか、ここは公共の空間でこの部屋は私たちが借りている部屋です。そこへトラブルを持って侵入することを許さないのは、ごく当たり前のことでしょう?」  筋は通っている。男は奥歯をかみしめた。ただでさえ人あたりが良いとは言えない顔が、本格的に引きつる。止めとばかりにジェイルは続ける。 「貴方には僕たちの時の砂をかすめ取る権利も、僕たちの領域を侵す権利もありません。去れ」 「ふざけるな!!」  男の手が動く。丁度周囲からは見えず、かつジェイルたちには見えるように拳銃を向ける。だがそれより先に、 「入るな、と言っています」  先頭の男の喉元に、雫の長剣の切っ先が突きつけられていた。予備動作など一切ない動きに、男たちの反応が完全に遅れる。 「去れ。わずらわしい」 「すみません。僕の後輩は、気が短いんです」  にこにこ笑いながら、ジェイルは言った。それでも男たちは食い下がる。 「その娘を」「そのお話は終わったはずです」  まだ話そうとする男の眉間に銃を押し付けて、ジェイルは微笑んだ。典雅な笑みだというのに、背筋が冷える。 「よそでやってください」  扉は閉ざされた。相手が見えなくなった瞬間、二人の表情が変わる。  すばやく窓に駆け寄ると、雫はブラインドを下ろした。同時に電気を落す。外部からの狙撃に備える措置だ。ジェイルのほうは携帯電話を取り出して、どこかに電話をかけ始める。初めは英語で何かを喋ったかと思うとすぐに切り、また別の場所にかけては言語を変えて話始める。 「あ、あの……」 「少しだけソファの後ろにでも隠れていてください」  所在なさそうに立ちすくむ少女など目もくれない。ブラインドを下ろした黒雫は、続いてたなやソファを引きずって窓を塞ぐ。 「先輩、まだですか」 「大丈夫ですよ」  やたらと早口に何かを喋っていたジェイルは、英語で答えると電話を切った。懐から取り出した懐中時計で時間を見ながら、答える。 「知り合いに頼んで脱出ルートは確保しました。飛行機は諦めて、一端船で沖に出てから小型民間機に乗り換えます。学園へ直行すると危険なので、帰るなら関係ない地域を経由したほうがいいでしょう」  まだ少女が転がり込んでから2分もたっていない。何を確認するよりも先に逃走ルートを確保し、最悪の事態に備える。それは様々な局面を乗り切ってきた人間の癖のようなものだ。 「……助けてくださってありがとう御座います」  蚊の鳴くような声で少女は言った。怯えているのか、視線を合わせようとはしない。 「別に助けた訳ではありませんよ。手の中に可憐な小鳥が飛び込んできたら、誰だって姫を守る騎士のようにその小鳥を守るものでしょう。そうでないと人でなし扱いされてしまいます」  気負った様子もなくジェイルは答えた。言葉はロマンチックだが、中身は『成り行き上、助けないと情がないみたいで嫌だから助けた』と言っているに等しい。それに気づかず、少女は頭を下げた。雫はため息をつく。 「相変わらずですね、先輩。あまり周囲のことにも自分の事も興味がないみたいで」 「おや、貴方だって同じような理由では御座いませんか? 黒雫殿たち」  ジェイルの奇妙な呼び方に少女は小首を傾げた。だが、説明する気はない。雫は答える。 「昔の小説家がいいました」  話す間も準備は怠らない。動きやすいように自分の髪を束ね、武器をチェックする。 「目の前に争う卵と岩があったとしたら、人は迷わず卵を助けるべきだと。助けてから、どちらが正しいか判定すべきだ。なぜなら、どちらが正しいか考えてどちらにも味方しなければ、卵は潰されてしまう。潰された後で卵の正しさが証明されたとしたら、それこそどうしようもない。人は、常に弱いものを先に助けるべきだ。手の中に落ちてきた卵一つ、助けても罰は当たらないでしょう。お礼を言うことではありません」 「あなたは……良い人なんですね」 「……貴方はおめでたい人だ」  雫は顔をしかめた。そして少女から視線をそらすと、脱出準備に意識をうつす。代わりにジェイルが話しかけた。 「では、何故貴女のような可憐なお嬢さんが、地獄の使徒のごとき物々しい輩に追われているのかだけでも、教えてくださいませんか。場合によっては、僕のような愚かな詩人でも役に立つことができるかもしれません」 「――父が死んだの。事故で。それで……父の財産と会社の財産が分割しにくくて、それで相続人は私しかいないから……」 「殺されかけましたか」 「違うわ。権利書とかは全部金庫に入ってて、それは私の音声、網膜、静脈の照合が必要なのよ。だから、逃げたんだけど追いかけられて追手に捕まって――ここで引き渡される予定だったのを、また逃げたの」 「素晴らしい逃げ足です」  珍しい話ではない。学園の生徒の中にも後継者争いで追い出されたとか、社内闘争から逃げてきたとか、逆に後継ぎと認められるために修行に来ているとかいう人間が少なくない。学園で力をつけて逆襲に成功した奴もいれば、現在進行形で身内と殺し合いをしている奴すらいる。内部の争いは外部の争いより多いくらいだ。 「…………貴女のお名前とその会社の名前は?」 「先輩」  黙っていた雫が口をはさんだ。やんわりと咎める声をあげる。 「立ち入るとトラブルに巻き込まれますよ」 「乗りかかった船に乗るのが日本人ではありませんか? たいして手間がかかることでもありませんし、いいでしょう?」 「先輩がいいならいいですけど」 「すみません。巻き込んで」  にこりとジェイルは笑って見せた。だが、みせただけだ。雫は諦めたようにため息をつく。 「僕は先輩に付き合います」 「それでこそ、黒雫殿たち」 「…………ありがとう御座います」  少女は顔を上げた。初めてその顔がはっきりと分かる。 「神立織子(かんだち おりこ)。企業名は、ニムロッド」 「日系の民間軍事会社ですね。一流には程遠いが、二流とも言い難い」  ジェイルは肩をすくめ、黒雫は苦笑して見せる。 「ですが、それはそれで好都合です。運命の女神も勝利の女神も麗しき戦乙女たちもまとめて僕たちの味方でしょう」 「味方じゃなかったとしても、ジェイル先輩は味方にしてしまいそうですけどね」 「当たり前です。女性の美しさと気高さを湛え、彼女たちにこちらを振り返っていただけるよう自分を磨くのは紳士の務めです」  飄々とした態度で答えて、ジェイルも銃を構える。 「では、正々堂々、真正面から強行突破といきましょう」 「あの」  初めて少女が自ら口を開いた。ジェイルと雫は視線を向ける。 「貴方たちは、誰?」 「これは申し遅れました」  優雅に跪いて、ジェイルは笑みを浮かべた。 「僕はジェイル・クロムウェルと申します。組織には所属していませんが、学園都市トランキライザー本科5年目に籍を置いています」 「同じく、本科3年目黒雫。トランキライザー公式リンク・ミスティックキャッスル所属」 「トランキライザー…………」  少女の目がゆっくりと見開かれる。 「善悪性別信条所属出身問わず、世界からあらゆる才あるものを集めた次世代育成のための巨大都市。黄道十二企業の一つ、双子座のライザ―インダストリーが力を注ぐ学園都市。エリートの中のエリートの集団――――」 「そこまですごいものではありませんよ。ただの卵のばかりの変わった都市です。640万の才能の卵です」  ぼんやりとした目で少女は瞬きした。 「私……すごい人巻き込んじゃったのかしら?」 「それはこれから考えることでしょう」  ふっとジェイルは笑った。 「ではお手を。お嬢様」
Ties 「愛が何かなんてことを理解しているのは、至天におわす神々か人々を言葉で惑わす恋愛小説家か、あるいは愛や恋で頭がおかしくなった若者くらいです」  なぜそんな話になったのかは覚えていないが、そんな会話をしたことがあった。彼があまりにもあの人のことを愛しているのだというから、『愛してるってよく分からない』と言ってみた。そしたら、返ってきたのがこの台詞だ。 「だから、僕は彼女を愛しているのだと自信をもっていえるのです」 「それは自分の頭がおかしいと言っているのかしら?」 「ええ」 あっさりと、認めてはいけないことをあっさりと彼は認めた。 「愛というのは麻薬中毒のようなものです。気分がよくて愛さずにいられない。その人のことを考えると、魂が空の高みへ飛び上るような気持ちがする。見るだけで毬のように心が弾み、話をすれば振り子のように心が揺れ、その人が青い空のどこかにいるだけで幸せな気持ちになる。僕は彼女を愛しているんです。硝子のように美しくて、強くてすべてを切り裂くのに、脆くて砕ける。そんなあの人がどれほど高みに登るのか、考えるだけでどきどきします。あるいはすべてをなくして諦めて、僕のところに堕ちてくるのでもいい」 「愛してるのね…………けど、なにか……」  気持ちが悪い、少し気味が悪いという言葉を飲み込む。だが、彼には伝わってしまったようだ。にこりと彼は笑う。 「貴女だって、この人のためならなんでもしたいと思うことはあるでしょう?」 「思ってもやらないわ。そういうの、日本では『ヤンデレ』っていうらしいけど」 「スラングには詳しくないので」  そういう彼は訂正しようもないくらい完璧に上品な英語をしゃべる。 「日本語の『病む』に、相手を愛していて素直にそれを表現している様子を示す『デレ』って表現を合わせたらしいわよ。愛している人やその周囲に対して、愛情故に病んだ危険な行動に出る人間のことを言うの」 「病み……」  ジェイルは笑った。 「愛するということは病むことですよ。知っていますか? フィリアもアガペーもエロスも日本語ではすべて『愛』と翻訳されますが――――もとを正せば『愛』というのは、仏教用語で悟りを邪魔する執着の一つのことなんですよ」    **  東南アジアの交通都市シェイングレン  空気が濁っているような気がしたとすれば、それはきっと自分の中のどこかに残っている潔癖を愛する子ども心のせいだろう。そうでないなら、最新の空気清浄機が吐き出される紫煙もどこからともなく漂ってくる鉄さびの臭いもたちまち浄化してしまうようなこの空間で、空気に濁りを感じるわけがない。精密機械の工場のようにはいかずとも、ここの空気は浄化されているはずだ。煙草の煙もうっとうしい香水も、呼吸を邪魔しない。 「そのはずなんですが、息苦しいのはなぜでしょうね」 「趣味が合わないんでしょう」  二人の青少年がいた。一人はひどく整った外見を持つ青年、ジェイル・クロムウェル。【ワンダフルポエマー(凍れる詩人)】のエイリアスを持ち、その甘く華やかな外見と中身のえげつなさ、そして読めない性格で一部では非情に恐れられている。  もう一人は、【マルウェス・べーロ(夢幻の星影)】黒雫。世界中から天才鬼才異才が集うトランキ学園でも比較的珍しい4重人格で、かつ人格ごとに異なる異能を持つという、まるで昔の漫画の主人公のような人間である。正確にいうと、4つのまったくことなる人格とそれらを統括して人格同士のぶつかり合いを防ぐための空の人格がいるらしいが、外部からみる分にはよく分からない。 「帰りたい……」 「僕もそろそろ帰りたいですね。僕がこうして遠い空の下にいる間、あの最果ての地にある都市で僕の愛しい月の姫君が何をしているかを考えると――僕の胸は愛しさで張り裂けそうになるのです」 「先輩はもう胸張り裂け死んだほうが喜ばれ……なんでもないです」  雫は漏れかけた本音を途中でぶった切った。  ジェイル・クロムウェルには、愛しているのだと公言して止まない相手が一人いる。だが、その相手である篭森珠月という少女は、この世で一番嫌いな人間はジェイルだと言ってはばからない。その言葉を裏付けるかのように、ジェイルの元には毎年何人もの暗殺者が送り込まれてくる。犯人が誰かは言うまでもない。直接会ったとしても、激しい拒絶反応が返ってくるだけだ。しかし、それでもジェイルは嫌われている自覚が一切見られず、にこにこ笑いながら愛の台詞を囁いては殴られている。噂によると10年以上もその関係が続いているということだ。つまりは年季の入ったストーカーである。 「ええ。僕の胸を切り裂いて息の根を止めようとするこの愛を月の姫が受け入れてくれれば、それはこの美しい空と大地と海の支配するすべての場所からあらゆるパンドラの喪失物が消え失せることにまさる喜びでしょう。しかしあの月の姫は、不敵な笑みを浮かべるばかりで私に水面に映る残像すら掴ませてはくれないのです」 「……いつか掴めるといいですね」  色々言いたいことはあったがあきらめて、雫は適当な返事を返した。 つい先ほどまで部屋にいた取引相手はすでに退場しており、部屋には仲間だけが残っている。本当ならさっさと帰りたいのだが、後ろめたいところがある仕事を請け負った時、取引相手との繋がりを表ざたにしないために集合と解散の時間をずらすのはマナーだ。よって、しばらくは時間を潰さなくてはならない。 「時の女神の訪れが随分と遅い気がします」 「仕方がないですよ……楽しみ方を知らない僕たちが悪いんです。多分」  だが、こういう金だけをかけた会員制クラブというものは飲食や嗜好品に興味が薄い人間にとっては、とてつもなく退屈な空間である。 「お客様に言いたくはありませんが、あのお方に人間を人間たらしめる根本たる品性が足りないのは、選んだ店を見れば分かります。人という生き物の歩みの成果たる知性が足りないのは発言を聞いていれば分かります。つまり、僕たちがこの店を楽しめないのは、残念なことですが彼に非があると考えざるをえません。なぜなら、彼には人間という愚かしくも崇高なる生き物にとって欠かすことのできない要素が、満ち欠けを繰り返す月もおぎなえないほど完全に欠けているからです」 「……先輩、いくら盗聴が完璧だと言ってもあまりこういう場所で変な話はしないほうがいいですよ」  会話終了。  そもそも二人ともそれほど無駄話をするタイプではないため、部屋の中に妙な沈黙が満ちる。どこからともなく聞こえてくる音楽とかすかな声だけがBGMだ。普通こういう部屋は完全防音にするものだが、この建物はそういうふうにはしていないようだ。理由は分かる。外で何が命にかかわる騒ぎが起こって、かつ店内放送で連絡できない事態が発生した時、音で異常を感知できなければ逃げおくれてしまう。  そういう作り。だからこそ、気づけた。 「――――今、なにか」  悲鳴が聞こえた。そう気付いた瞬間、黒雫は動いていた。自然と武器に手が伸びる。本能にすり込まれた癖だ。少しだけ扉を開けて外をうかがうと、同じように扉が開いて何人もの人間が廊下をうかがっているのが見えた。大部分はしっかりと背広を着込んだ、使用人風の人間だ。その視線の先、転がるように一人の少女が走っている。 「何? トラブル?」 「脱走?」  不思議そうな呟きがあちこちから聞こえてくる。  この場には不似合いな少女だった。学園でよく見かけるローランカーの生徒の中に紛れればすぐに分からなくなるような、平凡な外見。普段着に近い服装。あまりにもこの高級感あふれる空間に不似合いだ。 「……日系の女の子?」  少しだけ興味をひかれて黒雫はもう少し扉を開けた。その時、走る少女と目があった。同じ年くらいの雫の姿に、少女も驚いたような顔をする。  嫌な予感がした。 「助けて! 殺される!」  少女は方向転換すると、雫に向かって突っ込んできた。避けることも迎撃することも可能だが、それをすると怪我をさせるかもしれないという躊躇いが反応を遅れさせる。その隙に少女は雫の胸めがけて飛び込んできた。むしろ微妙な身長差のせいで腹を狙われる形になる。咄嗟に内蔵だけはかばったため、雫は少女と一緒に部屋に転がり込む羽目になった。ジェイルは目を丸くする。 「…………これが日本語で言う『フラグが立つ』というものですか?」 「どこでそんなスラング覚えちゃったんですか、ジェイル先輩。日本語だろうと英語だろうとくそ丁寧な言葉を喋るくせに」  叫んで雫は飛び起きる。少女は勝手に転んだらしく床に座り込んだままだ。 「確か、正月聖が言ってました」 「どういう会話をしていたのかがすごく気になります」 「南王の噂話です」 「ああ、納得しました」 「見つけたぞ!」  突如聞こえた怒声が二人の会話を打ち切った。直後、騒がしい足音とともに一目で『そっち』系と分かるいかつい男たちが何人も廊下を走ってきた。トラブルを避けるように他の客は自分の部屋にひっこんで扉を閉ざす。なぜか店の用心棒も現れない。 「何ですか……? 何の騒ぎです?」 「その娘、こちらに渡してもらおう」  相手がせいぜい十代から二十代の青年と見て、高圧的な態度で男たちは言った。雫の顔がかすかに陰る。クールなふりをしているが、雫は案外と正義感が強く直情径行だ。ジェイルは肩をすくめて立ち上がる。 「落ち着きなさい」 ジェイルを見て、先頭の男は驚いたように数歩下がった。男たちや少女の目には一瞬でジェイルがその場に出現したようにみえたことだろう。高圧的だった男たちの態度が警戒に変わる。 「……私たちはその娘の保護者に頼まれた者だ。連れて帰らなくてはならない。こちらに来るよう言ってもらえないだろうか」 「嘘……嘘よ。お願い助けて。殺される」  震える声で少女が言った。ゆっくりと両者の顔を見て、ジェイルは深く頷いて見せる。 「連れて行きたいなら連れていけばよろしい。ただし、果てなき大地のここではないどこか、悠久の時の今ではないいつかに」 「難癖つけて渡さないつもりか?」 「まさか。いいですか、ここは公共の空間でこの部屋は私たちが借りている部屋です。そこへトラブルを持って侵入することを許さないのは、ごく当たり前のことでしょう?」  筋は通っている。男は奥歯をかみしめた。ただでさえ人あたりが良いとは言えない顔が、本格的に引きつる。止めとばかりにジェイルは続ける。 「貴方には僕たちの時の砂をかすめ取る権利も、僕たちの領域を侵す権利もありません。去れ」 「ふざけるな!!」  男の手が動く。丁度周囲からは見えず、かつジェイルたちには見えるように拳銃を向ける。だがそれより先に、 「入るな、と言っています」  先頭の男の喉元に、雫の長剣の切っ先が突きつけられていた。予備動作など一切ない動きに、男たちの反応が完全に遅れる。 「去れ。わずらわしい」 「すみません。僕の後輩は、気が短いんです」  にこにこ笑いながら、ジェイルは言った。それでも男たちは食い下がる。 「その娘を」「そのお話は終わったはずです」  まだ話そうとする男の眉間に銃を押し付けて、ジェイルは微笑んだ。典雅な笑みだというのに、背筋が冷える。 「よそでやってください」  扉は閉ざされた。相手が見えなくなった瞬間、二人の表情が変わる。  すばやく窓に駆け寄ると、雫はブラインドを下ろした。同時に電気を落す。外部からの狙撃に備える措置だ。ジェイルのほうは携帯電話を取り出して、どこかに電話をかけ始める。初めは英語で何かを喋ったかと思うとすぐに切り、また別の場所にかけては言語を変えて話始める。 「あ、あの……」 「少しだけソファの後ろにでも隠れていてください」  所在なさそうに立ちすくむ少女など目もくれない。ブラインドを下ろした黒雫は、続いてたなやソファを引きずって窓を塞ぐ。 「先輩、まだですか」 「大丈夫ですよ」  やたらと早口に何かを喋っていたジェイルは、英語で答えると電話を切った。懐から取り出した懐中時計で時間を見ながら、答える。 「知り合いに頼んで脱出ルートは確保しました。飛行機は諦めて、一端船で沖に出てから小型民間機に乗り換えます。学園へ直行すると危険なので、帰るなら関係ない地域を経由したほうがいいでしょう」  まだ少女が転がり込んでから2分もたっていない。何を確認するよりも先に逃走ルートを確保し、最悪の事態に備える。それは様々な局面を乗り切ってきた人間の癖のようなものだ。 「……助けてくださってありがとう御座います」  蚊の鳴くような声で少女は言った。怯えているのか、視線を合わせようとはしない。 「別に助けた訳ではありませんよ。手の中に可憐な小鳥が飛び込んできたら、誰だって姫を守る騎士のようにその小鳥を守るものでしょう。そうでないと人でなし扱いされてしまいます」  気負った様子もなくジェイルは答えた。言葉はロマンチックだが、中身は『成り行き上、助けないと情がないみたいで嫌だから助けた』と言っているに等しい。それに気づかず、少女は頭を下げた。雫はため息をつく。 「相変わらずですね、先輩。あまり周囲のことにも自分の事も興味がないみたいで」 「おや、貴方だって同じような理由では御座いませんか? 黒雫殿たち」  ジェイルの奇妙な呼び方に少女は小首を傾げた。だが、説明する気はない。雫は答える。 「昔の小説家がいいました」  話す間も準備は怠らない。動きやすいように自分の髪を束ね、武器をチェックする。 「目の前に争う卵と岩があったとしたら、人は迷わず卵を助けるべきだと。助けてから、どちらが正しいか判定すべきだ。なぜなら、どちらが正しいか考えてどちらにも味方しなければ、卵は潰されてしまう。潰された後で卵の正しさが証明されたとしたら、それこそどうしようもない。人は、常に弱いものを先に助けるべきだ。手の中に落ちてきた卵一つ、助けても罰は当たらないでしょう。お礼を言うことではありません」 「あなたは……良い人なんですね」 「……貴方はおめでたい人だ」  雫は顔をしかめた。そして少女から視線をそらすと、脱出準備に意識をうつす。代わりにジェイルが話しかけた。 「では、何故貴女のような可憐なお嬢さんが、地獄の使徒のごとき物々しい輩に追われているのかだけでも、教えてくださいませんか。場合によっては、僕のような愚かな詩人でも役に立つことができるかもしれません」 「――父が死んだの。事故で。それで……父の財産と会社の財産が分割しにくくて、それで相続人は私しかいないから……」 「殺されかけましたか」 「違うわ。権利書とかは全部金庫に入ってて、それは私の音声、網膜、静脈の照合が必要なのよ。だから、逃げたんだけど追いかけられて追手に捕まって――ここで引き渡される予定だったのを、また逃げたの」 「素晴らしい逃げ足です」  珍しい話ではない。学園の生徒の中にも後継者争いで追い出されたとか、社内闘争から逃げてきたとか、逆に後継ぎと認められるために修行に来ているとかいう人間が少なくない。学園で力をつけて逆襲に成功した奴もいれば、現在進行形で身内と殺し合いをしている奴すらいる。内部の争いは外部の争いより多いくらいだ。 「…………貴女のお名前とその会社の名前は?」 「先輩」  黙っていた雫が口をはさんだ。やんわりと咎める声をあげる。 「立ち入るとトラブルに巻き込まれますよ」 「乗りかかった船に乗るのが日本人ではありませんか? たいして手間がかかることでもありませんし、いいでしょう?」 「先輩がいいならいいですけど」 「すみません。巻き込んで」  にこりとジェイルは笑って見せた。だが、みせただけだ。雫は諦めたようにため息をつく。 「僕は先輩に付き合います」 「それでこそ、黒雫殿たち」 「…………ありがとう御座います」  少女は顔を上げた。初めてその顔がはっきりと分かる。 「神立織子(かんだち おりこ)。企業名は、ニムロッド」 「日系の民間軍事会社ですね。一流には程遠いが、二流とも言い難い」  ジェイルは肩をすくめ、黒雫は苦笑して見せる。 「ですが、それはそれで好都合です。運命の女神も勝利の女神も麗しき戦乙女たちもまとめて僕たちの味方でしょう」 「味方じゃなかったとしても、ジェイル先輩は味方にしてしまいそうですけどね」 「当たり前です。女性の美しさと気高さを湛え、彼女たちにこちらを振り返っていただけるよう自分を磨くのは紳士の務めです」  飄々とした態度で答えて、ジェイルも銃を構える。 「では、正々堂々、真正面から強行突破といきましょう」 「あの」  初めて少女が自ら口を開いた。ジェイルと雫は視線を向ける。 「貴方たちは、誰?」 「これは申し遅れました」  優雅に跪いて、ジェイルは笑みを浮かべた。 「僕はジェイル・クロムウェルと申します。組織には所属していませんが、学園都市トランキライザー本科5年目に籍を置いています」 「同じく、本科3年目黒雫。トランキライザー公式リンク・ミスティックキャッスル所属」 「トランキライザー…………」  少女の目がゆっくりと見開かれる。 「善悪性別信条所属出身問わず、世界からあらゆる才あるものを集めた次世代育成のための巨大都市。黄道十二企業の一つ、双子座のライザ―インダストリーが力を注ぐ学園都市。エリートの中のエリートの集団――――」 「そこまですごいものではありませんよ。ただの卵のばかりの変わった都市です。640万の才能の卵です」  ぼんやりとした目で少女は瞬きした。 「私……すごい人巻き込んじゃったのかしら?」 「それはこれから考えることでしょう」  ふっとジェイルは笑った。 「ではお手を。お嬢様」

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
目安箱バナー