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授業風景 二時限目数学  一般的な知識レベル――旧時代でいう義務教育やせいぜい高等学校くらいのレベルの教育において、数学や理科や歴史などの授業が速攻で役に立つことは少ない。語学くらいなら場合によっては役に立つが、できなくても死にはしない。  だが、それらが役に立たないのはそれが本当に基礎的な知識にすぎないからだ。重要なのはそれをどう応用し活用するか。例えば数学。プログラムや各種計算を行うためには情報数学の知識が必要だ。計算それ自体はコンピューターがしてくれるとしても、そこに計算させたい数値を入れるのは人間だ。人間が計算結果出てくるものの正体を把握していなければ、話にはならない。もっと身近なところでいうとならば、理科の実験。薬品を使用する量を計るのにも数学の知識は必要だ。設計や経済学にも数学は欠かせない。  そして、黄道暦を迎えた現在世界最高峰の教育機関の一つと称えられる我らがトランキ学園においては、数学も行きぬくために必ず必要になる必須項目の一つである。  画面の右上で刻々と残り時間を示す数字が減っていく。それを横目でにらんで内心の焦りを隠しながら、【クルアルティワーシプ(残酷礼賛)】不死原夏羽は着実に回答を打ちこんでいく。画面にはどこかの山の風景と山の標高が表示されている。山の実際の高さと現在目に見える大きさ、そして自分が立っている場所のおよその標高から山と自分の間の距離を算出しろという問題だ。問題自体はそう難しいものではない。目印になるものが少ない山間部やジャングルでの作戦において、周囲のものから自分のいる位置を瞬時に割り出すのは傭兵の大事なスキルの一つである。つわものになるとさらに目印の少ない海上でも、地図とかすかな周囲の変化から自分のいる位置を正確に割り出すことができるものもいる。とはいえ、焦るとできることもできないし、普段から練習しておく必要はある。  あるのだが、 「遅い。この程度の問題にこれくらいの時間がかかっているなど、死んだ方がいいのではないか? むしろよくも今まで生き残ってこれたものだな。そういう意味では、貴様らを尊敬してやろう。ほう、反発するか? この程度で集中力を乱されるのは雑魚の証だ」  教壇では教師がふんぞり返って容赦のない罵倒の言葉を浴びせてくる。さらに、BGMに鳴り響くのはスピーカーから流れる断続的な銃声。嫌がらせにしか思えず、実際嫌がらせ以外の何でもないこの状況は、できるだけ厳しい状況で冷静に数理計算を行うための訓練だ。だが、命の危険がないと分かっているだけにムカつく。  できるだけ罵倒の言葉を脳内から締め出し、問題を読み説く。  風力と地形から落下した物体のおよその落下位置を割り出す。  自分の可能移動速度と敵の進行速度から、交戦に入るであろう位置を割り出す。  写真に写っている物体同士の大きさを比較して、その写真の人物の予想身長と体重を割り出す。  どれもただの数学よりよほど頭を使う。算出方法が一通りではないから、なおのことだ。  おとなしく授業を受けるのは性に合わないが、仕方がない。教師を切り刻む様子を脳内でシュミレーションしつつ、夏羽は数学の計算をすすめる。あまり知られていないことだが、夏羽は勉強ができる。出来なければそもそもこの学園へ入学することなど望めないし、仮に入学できたとしても本科に上がることなどとてもできないが、それを差し引いても頭は悪くない。むしろ、100人に1人しか進学できない本科生の中でも、勉強ができる部類に入る。  ただし、賢いかどうかは別として。 「時間だ」  ブザー音が鳴り響いて、目の前の画面がブラックアウトする。ため息とも歓声ともつかない声が周囲の生徒から洩れた。 「回答結果は二分後に各自のモニタに表示される。では、解説をしながら答え合わせを始めよう。質問は随時受け付ける。他の者にも聞こえるようにマイクを使って質問するように」  いけすかない数学教師――氷室数理は、椅子から立ち上がってペン型のリモコンを手にした。モニタの黒板の上にペンを走らせると、その通りに線や文字が浮かび上がる。数理、という名前を聞く度に、夏羽は親の名づけセンスを疑う。あるいは自分で自分につけたものかもしれないが、どちらにしろ数学教師になるために生まれてきたとしか思えない名前だ。まあ、それを言うならば、自分の夏羽やコンビを組んでいる不死川陽狩の陽狩というのもそうとうセンスの悪い名前なのだが。 「山と君たちがいると仮定される位置を三次元で表現するとこうなる」  くるりと数理がペンを振ると教壇に3Dで山の様子が表示される。タッチペンに付随している機能の一つだ。世界最高の教育機関なだけあって、こういう設備に学園は金を惜しまない。 「赤い点が仮定の位置となる。ここからもっとも誤差を少なくして距離を測定する方法は――」  誤差を最小に抑えた計算方法と多少の誤差はあるがもっともはやく計算が終わる方法が解説させる。頬杖をついてそれを眺めていた夏羽の耳に不快な声が届く。 「ふふ、『くそ面白くもねえ』って顔していますよ。面白くないと思っているなら、来なければいいのに。本科の授業は基本的に自主参加ですよ?」 「なら手前は休めばいいだろうが」  普通の相手なら怯える殺意を込めた表情で振り向くと、相手は楽しそうに笑って見せた。24時間365日いつでもムカつく存在だ。夏羽は眉間にしわを寄せる。 「机上と実戦。どちらを欠いても、自身を磨くことはできませんからね」  澄ました顔で、夏羽の一応は仕事の相棒である不死川陽狩は答えた。生まれも育ちも性格もまったく違うのによく似た名字とよく似た嗜好を持つ彼らの仲は――悪い。にも拘わらず、諸事情から高確率で二人は同じ空間にいる。迷惑なのはその喧嘩に巻き込まれる恐れがある他の生徒たちだ。喧嘩の予感を察知して、比較的近い位置に座っている生徒たちが身構える。迎撃のためではなく、逃げるための構えだ。いくら戦闘者のクラスの本科生とはいえ、この二人に対抗できるほどの技術を持つ生徒は少ない。何か起きた場合は逃げるが勝ちだ。 「おや、回答間違っていますよ、夏羽。そんなんで卒業できるんですか?」 「練習問題の一問二問で卒業できなくなるなら、誰もこの学校を卒業できねえよ」  夏羽は答えた。実際に周囲からは自分の不出来を嘆くため息のような呟きが聞こえてくる。正解率は低くはないが、けして高くもない。 「お前こそ、卒業前に退学になるなよ」 「私がそんなミスをするわけがないでしょう? 何のために学生に時間を費やしていると思っているのですか」  くすりと陽狩は笑った。  彼をはじめ、この学園にはどう考えても学生の身分でいるのはおかしいほどの実力者、あるいは性格的におとなしく学生などやっているとは思えない生徒が多数在籍している。前者のおもな在籍理由は世界最高峰の学園を卒業して経歴に箔をつける、あるいは身内や所属組織の命令で次代のエリートをコネクションを作るためや教育システムを学ぶために学園にもぐりこむ必要があったからなど様々だ。  後者のおもな理由は、この学園に入学し在籍している間は、どんな生まれのどんな人物でもトランキ学園の生徒という身分証が手に入るからだ。乗りあがらんと企むものにとって、企業と力が支配するこの世界は都合がいい。だが、何の肩書も身分証明もない状態で世界に乗り込むのは難しい。そういう人物にとってトランキ学園の本科生というのは、自分の実力を証明しつつ身分を確保するのにうってつけなのだ。なんといっても入学した時の自己申告だけでIDを発行してくれるのだから、過去を清算したい人間にはうってつけだ。  陽狩は間違いなく後者に入る人間だ。 「そうかそうか。じゃあ、さっさとくたばれ。一番の時間節約方法だ」 「それは素敵ですね。素敵すぎて僕には勿体ない」 「素敵なら、さっさと死ね」 「嫌です。素敵という言葉は、素手で敵を倒せるようなすごいものと書くでしょう? 私は素敵な人間だという自信がありますが、だから自分以外の素敵な何かに倒されるのは嫌です」 「何を意味不明なこと言ってやがる。いいから、さっさと死ね。今すぐに死ね」 「なるほど、これがヤンデレというものですね。モテる男はつらいですが、あえていいます。ごめんなさい」 「マジで死ね!」  怒りで震えながら、夏羽は陽狩を睨みつけた。最後の理性がここは教室だと自分に言い聞かせるが、それも限界に近い。そもそも夏羽の脳はあまり我慢をするようにはできていない。  怒りの臨界点突破へのカウントダウンが始まったのに気づいて、そっと同じ横列にいた生徒たちが批難を始める。その時、 「先生v また不死コンビが教室でいちゃいちゃしてます! きゃー!!」  すごく嬉しそうな声が教室中にマイクを通して響き渡った。それは自分のところのマイクとヘッドフォンをオフにしていた夏羽と陽狩にも、肉声で届く。教室内の全員の視線が声の主を探してさまよった。 「………………」  数理も解説の手を止めて視線を上げる。機嫌の悪そうな切れ目が一人の生徒を睨みつけた。 「…………学園教室内においては、いかなる生徒も学ぶ権利を阻害されない。故に、いかなる存在も学ぼうとする生徒の邪魔をしてはならない。が、邪魔にならない程度なら生徒の不真面目な行動を黙認するのもまた、不文律だ」  感情のこもらない機械的な声で、数理は答えた。そして教壇から順に徐々に高くなっていく生徒席を睨みつける。正確にはそこに座った一人の女生徒を。 「その法則でいくと――――なぜ貴様が本科4年グラップラーのクラスにいる? 本科5年インダストリアリスト弓納持有華」  数理が口にした名前に、ざわりと教室がどよめいた。弓納持有華は、成績上位300内のトップランカーと呼ばれる人間―――ではない。だが、その奇行故に学園内では下手なランカーよりも有名人だ。そんな彼女は『本能に殉ずる腐女子』『ある意味勇者』『腐り姫』などあまりありがたくない都市エイリアスが最近はできはじめている。  ちなみに都市エイリアスとは、一般的にいうエイリアス――世界的に有名な二つ名とは異なり、限られた都市やエリアの中でのみ通用するあだ名のようなものである。この学園の生徒ならかなりの数が保有しているか、あくまで地域限定なので生徒IDに記載されることはない。いうなら、クラス内限定のあだ名のようなものだ。 「ふぁー、よく私の顔と名前を把握してますね。流石は先生」  こっそり授業に紛れ込んで聴講していた弓納持有華は、目を丸くした。こうして見ると元気で明るい女の子だ。だが、彼女には唯一にして最大、むしろ人格そのものに関わる欠点がある。  彼女は腐女子といい、男同士の、時には生物や無視物同士の恋愛妄想に浸る人種なのだ。その妄想力は留まるところを知らず、学園の有名人はだいたいネタにされているとさえ言われている。しかも思うだけならいいのだが、彼女はそれをマンガにして売り出す趣味がある。故に、学園の男にとってある意味天敵なのだ。 「把握しているか? ふん、勿論把握などしていない。だが、貴様は別だ。弓納持有華」 「照れます」 「照れるな。貴様が、数字×私と朧寺守希生×私で本を出していたこと、あの屈辱を私は忘れたことがない」  ここにも被害者がいた。 「屈辱…………ああ、そういうのもありですね!」 「そういうのがどういうものを想定しているかは知らないが、懲りないようなら教師権力を乱用して貴様を駆逐する」  乱用って言い切ったよ、この人!!  そういう生徒たちの心の叫びが教室内を吹き抜けた。しかし、有華はまったくもって怯まない。懲りる気配もない。 「権力を乱用して駆逐――――鬼畜受けとかもありなのかしら」 「ありか無かで言うなら、貴様の存在は『なし』だ」  教室の空気が凍りつく。続いて生徒の視線が怒るタイミングを逃して、引きつった顔のまま動きを止めている夏羽と陽狩に向く。その目には同情があった。 「くっ…………手前、わざわざこんな場所まで出てくるとはいい度胸じゃねえか」  ぎりぎりと夏羽は奥歯をかみしめた。夏羽にとってこの女は排除すべき雑魚だ。しかし、雑魚のくせに異様に逃げ足がはやく中々追いつけない。夏羽と同じく殺人鬼として有名な法華堂戒も捕まえられないというから、おそらく『逃げる』ことに特化した何らかの訓練でも受けているのだろう。いつもどこかで見失ってしまう。そんな彼女を捕まえられるのは、『相手の方向感覚を狂わせる』サイキック能力の持ち主である古屋敷迷くらいのものなのだが、夏羽は迷を以前殺しかけたことがあるので協力を仰ぐのは不可能だ。それ以前にしたくもない。 「ここが教室じゃなかったら、切り刻んでやるところだ」 「その通りですね」  珍しく陽狩が同意する。が、 「この前の新刊、読みましたよ。あれはいただけません」  聞き捨てならない台詞が聞こえた。周囲の生徒の表情も強張る。 「って、初耳だぞ、おい。何を購入してるんだ!?」 「買ってません。持っている人間を見かけたので没収しただけです」  その持っていたという人間の末路を想像して、見守る生徒たちは思わず手を合わせた。おそらくそいつはすでにこの世にはいないだろう。 「あれ、新しい方向に挑戦してみたんだけど」「死ねばいいと思いますよ」  にっこりと陽狩は微笑んだ。いい笑みだった。うっかり直視してしまった生徒たちは青ざめた表情をして慌てて顔をそむける。一般人なら腰をぬかしてもおかしくない迫力だ。だが、一番肝心の人物には効果がない。 「はあ……相変わらず、なんて素敵なツンデレ鬼畜……」 「奇妙な称号をつけないでください」 「授業中にいつまで如何わしい話をしている」  冷たい声が冷戦状態の会話の間に割り込んできた。教卓では腕を組んだ数理が三人をにらんでいる。 「非情に残念だが、今は授業中だ。そこの愚か者の行動も現段階では聴講として黙認すべきものだ。だから、残念で仕方がないが落ち着け」  言葉の端々に本音がにじみ出ている。意味なくタッチペンを持ち直すと、数理は黒板型のパネルを指しながら説明を再会した。いつもにもまして機械的に計算式が表示されていく。だが、それで空気が劇的に変わるわけではない。  一触即発という言葉がぴったりの空気が漂う。泣きだす生徒こそいないが、何かが起こったらすぐに逃げ出そうという空気はある。この状態で数式など頭にはいるわけがない。 「――――というわけだ。質問は?」  誰も返事をしない。  教室での冷戦状態や乱闘騒ぎなどべつに珍しくもないが、トップランカーやそれに準じる位置の人間となるとまた話が違う。何と言っても学園640万人のトップ300だ。本気で暴れれば、単騎で小規模の都市一つを壊滅させることができる。そういう強さがトランキ学園成績上位者なのだ。  ついでにいうと、戦う際に周囲への被害や明確な味方以外の人間の安否を気にしてくれるような人格者は、300人の中で半分もない。戦闘能力が欠如している人員を含めても3分の1いれば良いほうだ。 「質問がないようなら、次の問題だ」  質問がないわけはないのに、誰も発言しない。些細な動きさえ乱闘のきっかけになることを知っているからだ。  まるで戦時のように静まり返った教室を見渡して、数理は顔をしかめた。 「不死川、不死原。殺気をしまえ」 「無理です」  笑顔で陽狩が答えた。数理はため息をつく。学園の教師だけあって、殺気を向けられても怯むことはない。 「教室内での交戦は許可しない」  つまり、表へ出てやれということだ。有華が引きつった笑みを浮かべる。 「教師のくせに生徒に無関心すぎますよぉ、氷室先生」 「その『先生』にした仕打ちをよく考えてから言え」 「ああ、あの作品は34ページの横顔のカットが微妙に失敗でした。すみません」  問題はそこではない。無表情のままの数理の顔にうっすらと青筋が浮かび上がる。 「お前は……もう一度人生やり直した方がいい。生まれ変わって」  つまり死ねということだ。有華は笑顔で答えた。 「生まれ変わっても魂は浄化されないと思います、先生」  そうかもしれない。  教室にいた全員が思った。数理もそう思ったのか、頬を引きつらせる。それでも数式の続きを書こうとしているあたり、プロだ。まるで数字に恨みでもあるかのように乱暴に数式を書いていく。生徒たちも必死でそれを書き写す。  だが、どれほど緊迫していようと変わらないものもある。 「数式×氷室先生っていうのもいいかも」  何かが空を飛んだ。その何かは一直線に有華に向かい、慌てて机の下に隠れた有華の上、丁度有華の心臓があった部分を通過して有華の後ろの席に突き刺さる。幸いその席は無人だったが、その席のさらに後ろの席にいた生徒は飛びのいた。  突き刺さったもの。それは金属製の三角定規だ。 「…………私語は慎むように」  私語の発音が『死後』のように聞こえたのは、気のせいではない。教室の空気が数度下がる。  世界的に有名な数学者【アイスマシーン(冷徹機械)】氷室数理。まさしく今の彼はそれだった。 「先生、教室は非戦闘区域です」 「私語を注意しただけだ。さて、最後の問題の解答の算出方法は大きく分けて4通りあるが――――」  平然と嘯いて数理は説明を続ける。教室の空気はますます緊迫していき、すでに息をするのも苦しいほどだ。予科生なら気絶や過呼吸を起こすものが出てもおかしくない。そして、空気が臨界点に達しかけた時、  チャイムの音が鳴り響いた。  その最後の音が消えた瞬間、予備動作なしで有華が飛びあがる。ほぼ同時に同じく机の上に飛び乗った夏羽と陽狩が疾走する。短い悲鳴があがって半分の生徒は自分の得物を構え、もう半分は机の下へ退避する。だが、3人の視線はそのどちらも見ていない。  鋭い金属音が響いた。夏羽が投擲したナイフが有華のわきをすり抜けて、前方の机の金属部分に当たった音だ。外れたのは偶然でも狙いが甘かったからでもない。有華が直前で横に飛んだからだ。うさぎが外敵から逃れるような見事な動きだった。そのまま身体を大きくひねって、有華は教室の出口を目指す。だが、それより先に扉に何かが突き刺さった。金属製の定規だ。 「ちっ」  舌打ちが聞こえる。確認するまでもなく教卓の前で投擲の構えを見せているのは、数学教師氷室数理だ。  授業中でない教室は非戦闘区域とは限らない。それは教師にとっても同じことだ。  絶体絶命と思われたが、有華の決断は早かった。すばやく銃を抜くと窓に向かって発砲する。強化硝子がひび割れてまっ白に曇った。そこに有華がとび蹴りを喰らわせる。  破壊音が響く。  きらきらと硝子を飛び散らせて、強化硝子は砕け散った。それらは銃弾を防ぐようにはできているが、いざという時の脱出のために内からならばある程度ぶち破れるように出来ている。そのまま有華は顔を腕でかばって外に飛び出す。 「後で請求がいくぞ。弓納持有華」  冷たい数理の声をしり目に有華は飛び出していった。だが、それであきらめる夏羽と陽狩ではない。一瞬のためらいもなく、それに続いて外に飛び出す。たちまちその姿は教室から消えた。それを確認して、一般生徒たちはあるひとは机の下から這い出てきて、あるものは武器から手を離す。 「…………行ったか」 「俺、死んだと思ったよ」  口ぐちに文句を言いながら、文房具などを鞄につめる。目の前で殺し合いが起こったというのに平然としているのは、トランキ学園の生徒らしいというべきか。ナイフや定規が突き刺さった壁をから意図的に視線をそらしながら、生徒たちは退出していく。学園生徒がもれなく保有するスキル『スロー力』である。都合の悪いことは全力でスローする。 「次の授業何?」 「俺、びと先生だ」 「次休みだから、お昼御飯~」  ちなみに結局有華は逃げ切ったらしい。 二時限目終わり
授業風景 二時限目数学  一般的な知識レベル――旧時代でいう義務教育やせいぜい高等学校くらいのレベルの教育において、数学や理科や歴史などの授業が速攻で役に立つことは少ない。語学くらいなら場合によっては役に立つが、できなくても死にはしない。  だが、それらが役に立たないのはそれが本当に基礎的な知識にすぎないからだ。重要なのはそれをどう応用し活用するか。例えば数学。プログラムや各種計算を行うためには情報数学の知識が必要だ。計算それ自体はコンピューターがしてくれるとしても、そこに計算させたい数値を入れるのは人間だ。人間が計算結果出てくるものの正体を把握していなければ、話にはならない。もっと身近なところでいうとならば、理科の実験。薬品を使用する量を計るのにも数学の知識は必要だ。設計や経済学にも数学は欠かせない。  そして、黄道暦を迎えた現在世界最高峰の教育機関の一つと称えられる我らがトランキ学園においては、数学も生きぬくために必ず必要になる必須項目の一つである。  画面の右上で刻々と残り時間を示す数字が減っていく。それを横目でにらんで内心の焦りを隠しながら【クルアルティワーシプ(残酷礼賛)】不死原夏羽(しなずはら かばね)は、着実に回答を打ちこんでいく。画面にはどこかの山の風景と山の標高が表示されている。山の実際の高さと現在目に見える大きさ、そして自分が立っている場所のおよその標高から山と自分の間の距離を算出しろという問題だ。問題自体はそう難しいものではない。目印になるものが少ない山間部やジャングルでの作戦において、周囲のものから自分のいる位置を瞬時に割り出すのは傭兵の大事なスキルの一つである。つわものになるとさらに目印の少ない海上でも、地図とかすかな周囲の変化から自分のいる位置を正確に割り出すことができるものもいる。とはいえ、焦るとできることもできないし、普段から練習しておく必要はある。  あるのだが、 「遅い。この程度の問題にこれくらいの時間がかかっているなど、死んだ方がいいのではないか? むしろよくも今まで生き残ってこれたものだな。そういう意味では、貴様らを尊敬してやろう。ほう、反発するか? この程度で集中力を乱されるのは雑魚の証だ」  教壇では教師がふんぞり返って容赦のない罵倒の言葉を浴びせてくる。さらに、BGMに鳴り響くのはスピーカーから流れる断続的な銃声。嫌がらせにしか思えず、実際嫌がらせ以外の何でもないこの状況は、できるだけ厳しい状況で冷静に数理計算を行うための訓練だ。だが、命の危険がないと分かっているだけにムカつく。  できるだけ罵倒の言葉を脳内から締め出し、問題を読み説く。  風力と地形から落下した物体のおよその落下位置を割り出す。  自分の可能移動速度と敵の進行速度から、交戦に入るであろう位置を割り出す。  写真に写っている物体同士の大きさを比較して、その写真の人物の予想身長と体重を割り出す。  どれもただの数学よりよほど頭を使う。算出方法が一通りではないから、なおのことだ。  おとなしく授業を受けるのは性に合わないが、仕方がない。教師を切り刻む様子を脳内でシュミレーションしつつ、夏羽は数学の計算をすすめる。あまり知られていないことだが、夏羽は勉強ができる。出来なければそもそもこの学園へ入学することなど望めないし、仮に入学できたとしても本科に上がることなどとてもできないが、それを差し引いても頭は悪くない。むしろ、100人に1人しか進学できない本科生の中でも、勉強ができる部類に入る。  ただし、賢いかどうかは別として。 「時間だ」  ブザー音が鳴り響いて、目の前の画面がブラックアウトする。ため息とも歓声ともつかない声が周囲の生徒から洩れた。 「回答結果は二分後に各自のモニタに表示される。では、解説をしながら答え合わせを始めよう。質問は随時受け付ける。他の者にも聞こえるようにマイクを使って質問するように」  いけすかない数学教師――氷室数理(ひむろ すうり)は、椅子から立ち上がってペン型のリモコンを手にした。モニタの黒板の上にペンを走らせると、その通りに線や文字が浮かび上がる。数理、という名前を聞く度に、夏羽は親の名づけセンスを疑う。あるいは自分で自分につけたものかもしれないが、どちらにしろ数学教師になるために生まれてきたとしか思えない名前だ。まあ、それを言うならば、自分の夏羽やコンビを組んでいる不死川陽狩の陽狩というのもそうとうセンスの悪い名前なのだが。 「山と君たちがいると仮定される位置を三次元で表現するとこうなる」  くるりと数理がペンを振ると教壇に3Dで山の様子が表示される。タッチペンに付随している機能の一つだ。世界最高の教育機関なだけあって、こういう設備に学園は金を惜しまない。 「赤い点が仮定の位置となる。ここからもっとも誤差を少なくして距離を測定する方法は――」  誤差を最小に抑えた計算方法と多少の誤差はあるがもっともはやく計算が終わる方法が解説させる。頬杖をついてそれを眺めていた夏羽の耳に不快な声が届く。 「ふふ、『くそ面白くもねえ』って顔していますよ。面白くないと思っているなら、来なければいいのに。本科の授業は基本的に自主参加ですよ?」 「なら手前は休めばいいだろうが」  普通の相手なら怯える殺意を込めた表情で振り向くと、相手は楽しそうに笑って見せた。24時間365日いつでもムカつく存在だ。夏羽は眉間にしわを寄せる。 「机上と実戦。どちらを欠いても、自身を磨くことはできませんからね」  澄ました顔で、夏羽の一応は仕事の相棒である不死川陽狩は答えた。生まれも育ちも性格もまったく違うのによく似た名字とよく似た嗜好を持つ彼らの仲は――悪い。にも拘わらず、諸事情から高確率で二人は同じ空間にいる。迷惑なのはその喧嘩に巻き込まれる恐れがある他の生徒たちだ。喧嘩の予感を察知して、比較的近い位置に座っている生徒たちが身構える。迎撃のためではなく、逃げるための構えだ。いくら戦闘者のクラスの本科生とはいえ、この二人に対抗できるほどの技術を持つ生徒は少ない。何か起きた場合は逃げるが勝ちだ。 「おや、回答間違っていますよ、夏羽。そんなんで卒業できるんですか?」 「練習問題の一問二問で卒業できなくなるなら、誰もこの学校を卒業できねえよ」  夏羽は答えた。実際に周囲からは自分の不出来を嘆くため息のような呟きが聞こえてくる。正解率は低くはないが、けして高くもない。 「お前こそ、卒業前に退学になるなよ」 「私がそんなミスをするわけがないでしょう? 何のために学生に時間を費やしていると思っているのですか」  くすりと陽狩は笑った。  彼をはじめ、この学園にはどう考えても学生の身分でいるのはおかしいほどの実力者、あるいは性格的におとなしく学生などやっているとは思えない生徒が多数在籍している。前者のおもな在籍理由は世界最高峰の学園を卒業して経歴に箔をつける、あるいは身内や所属組織の命令で次代のエリートをコネクションを作るためや教育システムを学ぶために学園にもぐりこむ必要があったからなど様々だ。  後者のおもな理由は、この学園に入学し在籍している間は、どんな生まれのどんな人物でもトランキ学園の生徒という身分証が手に入るからだ。乗りあがらんと企むものにとって、企業と力が支配するこの世界は都合がいい。だが、何の肩書も身分証明もない状態で世界に乗り込むのは難しい。そういう人物にとってトランキ学園の本科生というのは、自分の実力を証明しつつ身分を確保するのにうってつけなのだ。なんといっても入学した時の自己申告だけでIDを発行してくれるのだから、過去を清算したい人間にはうってつけだ。  陽狩は間違いなく後者に入る人間だ。 「そうかそうか。じゃあ、さっさとくたばれ。一番の時間節約方法だ」 「それは素敵ですね。素敵すぎて僕には勿体ない」 「素敵なら、さっさと死ね」 「嫌です。素敵という言葉は、素手で敵を倒せるようなすごいものと書くでしょう? 私は素敵な人間だという自信がありますが、だから自分以外の素敵な何かに倒されるのは嫌です」 「何を意味不明なこと言ってやがる。いいから、さっさと死ね。今すぐに死ね」 「なるほど、これがヤンデレというものですね。モテる男はつらいですが、あえていいます。ごめんなさい」 「マジで死ね!」  怒りで震えながら、夏羽は陽狩を睨みつけた。最後の理性がここは教室だと自分に言い聞かせるが、それも限界に近い。そもそも夏羽の脳はあまり我慢をするようにはできていない。  怒りの臨界点突破へのカウントダウンが始まったのに気づいて、そっと同じ横列にいた生徒たちが批難を始める。その時、 「先生v また不死コンビが教室でいちゃいちゃしてます! きゃー!!」  すごく嬉しそうな声が教室中にマイクを通して響き渡った。それは自分のところのマイクとヘッドフォンをオフにしていた夏羽と陽狩にも、肉声で届く。教室内の全員の視線が声の主を探してさまよった。 「………………」  数理も解説の手を止めて視線を上げる。機嫌の悪そうな切れ目が一人の生徒を睨みつけた。 「…………学園教室内においては、いかなる生徒も学ぶ権利を阻害されない。故に、いかなる存在も学ぼうとする生徒の邪魔をしてはならない。が、邪魔にならない程度なら生徒の不真面目な行動を黙認するのもまた、不文律だ」  感情のこもらない機械的な声で、数理は答えた。そして教壇から順に徐々に高くなっていく生徒席を睨みつける。正確にはそこに座った一人の女生徒を。 「その法則でいくと――――なぜ貴様が本科4年グラップラーのクラスにいる? 本科5年インダストリアリスト弓納持有華」  数理が口にした名前に、ざわりと教室がどよめいた。弓納持有華は、成績上位300内のトップランカーと呼ばれる人間―――ではない。だが、その奇行故に学園内では下手なランカーよりも有名人だ。そんな彼女は『本能に殉ずる腐女子』『ある意味勇者』『腐り姫』などあまりありがたくない都市エイリアスが最近はできはじめている。  ちなみに都市エイリアスとは、一般的にいうエイリアス――世界的に有名な二つ名とは異なり、限られた都市やエリアの中でのみ通用するあだ名のようなものである。この学園の生徒ならかなりの数が保有しているか、あくまで地域限定なので生徒IDに記載されることはない。いうなら、クラス内限定のあだ名のようなものだ。 「ふぁー、よく私の顔と名前を把握してますね。流石は先生」  こっそり授業に紛れ込んで聴講していた弓納持有華は、目を丸くした。こうして見ると元気で明るい女の子だ。だが、彼女には唯一にして最大、むしろ人格そのものに関わる欠点がある。  彼女は腐女子といい、男同士の、時には生物や無視物同士の恋愛妄想に浸る人種なのだ。その妄想力は留まるところを知らず、学園の有名人はだいたいネタにされているとさえ言われている。しかも思うだけならいいのだが、彼女はそれをマンガにして売り出す趣味がある。故に、学園の男にとってある意味天敵なのだ。 「把握しているか? ふん、勿論把握などしていない。だが、貴様は別だ。弓納持有華」 「照れます」 「照れるな。貴様が、数字×私と朧寺守希生×私で本を出していたこと、あの屈辱を私は忘れたことがない」  ここにも被害者がいた。 「屈辱…………ああ、そういうのもありですね!」 「そういうのがどういうものを想定しているかは知らないが、懲りないようなら教師権力を乱用して貴様を駆逐する」  乱用って言い切ったよ、この人!!  そういう生徒たちの心の叫びが教室内を吹き抜けた。しかし、有華はまったくもって怯まない。懲りる気配もない。 「権力を乱用して駆逐――――鬼畜受けとかもありなのかしら」 「ありか無かで言うなら、貴様の存在は『なし』だ」  教室の空気が凍りつく。続いて生徒の視線が怒るタイミングを逃して、引きつった顔のまま動きを止めている夏羽と陽狩に向く。その目には同情があった。 「くっ…………手前、わざわざこんな場所まで出てくるとはいい度胸じゃねえか」  ぎりぎりと夏羽は奥歯をかみしめた。夏羽にとってこの女は排除すべき雑魚だ。しかし、雑魚のくせに異様に逃げ足がはやく中々追いつけない。夏羽と同じく殺人鬼として有名な法華堂戒も捕まえられないというから、おそらく『逃げる』ことに特化した何らかの訓練でも受けているのだろう。いつもどこかで見失ってしまう。そんな彼女を捕まえられるのは、『相手の方向感覚を狂わせる』サイキック能力の持ち主である古屋敷迷くらいのものなのだが、夏羽は迷を以前殺しかけたことがあるので協力を仰ぐのは不可能だ。それ以前にしたくもない。 「ここが教室じゃなかったら、切り刻んでやるところだ」 「その通りですね」  珍しく陽狩が同意する。が、 「この前の新刊、読みましたよ。あれはいただけません」  聞き捨てならない台詞が聞こえた。周囲の生徒の表情も強張る。 「って、初耳だぞ、おい。何を購入してるんだ!?」 「買ってません。持っている人間を見かけたので没収しただけです」  その持っていたという人間の末路を想像して、見守る生徒たちは思わず手を合わせた。おそらくそいつはすでにこの世にはいないだろう。 「あれ、新しい方向に挑戦してみたんだけど」「死ねばいいと思いますよ」  にっこりと陽狩は微笑んだ。いい笑みだった。うっかり直視してしまった生徒たちは青ざめた表情をして慌てて顔をそむける。一般人なら腰をぬかしてもおかしくない迫力だ。だが、一番肝心の人物には効果がない。 「はあ……相変わらず、なんて素敵なツンデレ鬼畜……」 「奇妙な称号をつけないでください」 「授業中にいつまで如何わしい話をしている」  冷たい声が冷戦状態の会話の間に割り込んできた。教卓では腕を組んだ数理が三人をにらんでいる。 「非情に残念だが、今は授業中だ。そこの愚か者の行動も現段階では聴講として黙認すべきものだ。だから、残念で仕方がないが落ち着け」  言葉の端々に本音がにじみ出ている。意味なくタッチペンを持ち直すと、数理は黒板型のパネルを指しながら説明を再会した。いつもにもまして機械的に計算式が表示されていく。だが、それで空気が劇的に変わるわけではない。  一触即発という言葉がぴったりの空気が漂う。泣きだす生徒こそいないが、何かが起こったらすぐに逃げ出そうという空気はある。この状態で数式など頭にはいるわけがない。 「――――というわけだ。質問は?」  誰も返事をしない。  教室での冷戦状態や乱闘騒ぎなどべつに珍しくもないが、トップランカーやそれに準じる位置の人間となるとまた話が違う。何と言っても学園640万人のトップ300だ。本気で暴れれば、単騎で小規模の都市一つを壊滅させることができる。そういう強さがトランキ学園成績上位者なのだ。  ついでにいうと、戦う際に周囲への被害や明確な味方以外の人間の安否を気にしてくれるような人格者は、300人の中で半分もない。戦闘能力が欠如している人員を含めても3分の1いれば良いほうだ。 「質問がないようなら、次の問題だ」  質問がないわけはないのに、誰も発言しない。些細な動きさえ乱闘のきっかけになることを知っているからだ。  まるで戦時のように静まり返った教室を見渡して、数理は顔をしかめた。 「不死川、不死原。殺気をしまえ」 「無理です」  笑顔で陽狩が答えた。数理はため息をつく。学園の教師だけあって、殺気を向けられても怯むことはない。 「教室内での交戦は許可しない」  つまり、表へ出てやれということだ。有華が引きつった笑みを浮かべる。 「教師のくせに生徒に無関心すぎますよぉ、氷室先生」 「その『先生』にした仕打ちをよく考えてから言え」 「ああ、あの作品は34ページの横顔のカットが微妙に失敗でした。すみません」  問題はそこではない。無表情のままの数理の顔にうっすらと青筋が浮かび上がる。 「お前は……もう一度人生やり直した方がいい。生まれ変わって」  つまり死ねということだ。有華は笑顔で答えた。 「生まれ変わっても魂は浄化されないと思います、先生」  そうかもしれない。  教室にいた全員が思った。数理もそう思ったのか、頬を引きつらせる。それでも数式の続きを書こうとしているあたり、プロだ。まるで数字に恨みでもあるかのように乱暴に数式を書いていく。生徒たちも必死でそれを書き写す。  だが、どれほど緊迫していようと変わらないものもある。 「数式×氷室先生っていうのもいいかも」  何かが空を飛んだ。その何かは一直線に有華に向かい、慌てて机の下に隠れた有華の上、丁度有華の心臓があった部分を通過して有華の後ろの席に突き刺さる。幸いその席は無人だったが、その席のさらに後ろの席にいた生徒は飛びのいた。  突き刺さったもの。それは金属製の三角定規だ。 「…………私語は慎むように」  私語の発音が『死後』のように聞こえたのは、気のせいではない。教室の空気が数度下がる。  世界的に有名な数学者【アイスマシーン(冷徹計算機)】氷室数理。まさしく今の彼はそれだった。 「先生、教室は非戦闘区域です」 「私語を注意しただけだ。さて、最後の問題の解答の算出方法は大きく分けて4通りあるが――――」  平然と嘯いて数理は説明を続ける。教室の空気はますます緊迫していき、すでに息をするのも苦しいほどだ。予科生なら気絶や過呼吸を起こすものが出てもおかしくない。そして、空気が臨界点に達しかけた時、  チャイムの音が鳴り響いた。  その最後の音が消えた瞬間、予備動作なしで有華が飛びあがる。ほぼ同時に同じく机の上に飛び乗った夏羽と陽狩が疾走する。短い悲鳴があがって半分の生徒は自分の得物を構え、もう半分は机の下へ退避する。だが、3人の視線はそのどちらも見ていない。  鋭い金属音が響いた。夏羽が投擲したナイフが有華のわきをすり抜けて、前方の机の金属部分に当たった音だ。外れたのは偶然でも狙いが甘かったからでもない。有華が直前で横に飛んだからだ。うさぎが外敵から逃れるような見事な動きだった。そのまま身体を大きくひねって、有華は教室の出口を目指す。だが、それより先に扉に何かが突き刺さった。金属製の定規だ。 「ちっ」  舌打ちが聞こえる。確認するまでもなく教卓の前で投擲の構えを見せているのは、数学教師氷室数理だ。  授業中でない教室は非戦闘区域とは限らない。それは教師にとっても同じことだ。  絶体絶命と思われたが、有華の決断は早かった。すばやく銃を抜くと窓に向かって発砲する。強化硝子がひび割れてまっ白に曇った。そこに有華がとび蹴りを喰らわせる。  破壊音が響く。  きらきらと硝子を飛び散らせて、強化硝子は砕け散った。それらは銃弾を防ぐようにはできているが、いざという時の脱出のために内からならばある程度ぶち破れるように出来ている。そのまま有華は顔を腕でかばって外に飛び出す。 「後で請求がいくぞ。弓納持有華」  冷たい数理の声をしり目に有華は飛び出していった。だが、それであきらめる夏羽と陽狩ではない。一瞬のためらいもなく、それに続いて外に飛び出す。たちまちその姿は教室から消えた。それを確認して、一般生徒たちはあるひとは机の下から這い出てきて、あるものは武器から手を離す。 「…………行ったか」 「俺、死んだと思ったよ」  口ぐちに文句を言いながら、文房具などを鞄につめる。目の前で殺し合いが起こったというのに平然としているのは、トランキ学園の生徒らしいというべきか。ナイフや定規が突き刺さった壁をから意図的に視線をそらしながら、生徒たちは退出していく。学園生徒がもれなく保有するスキル『スロー力』である。都合の悪いことは全力でスローする。 「次の授業何?」 「俺、びと先生だ」 「次休みだから、お昼御飯~」  ちなみに結局有華は逃げ切ったらしい。 二時限目終わり

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