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0、時計の針の終着点はどこか

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kagomori

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0、 時計の針の終着点はどこか


 チクタクチクタクチクタクチクタク
 どこかで時計の針が時を刻んでいる。人間が時間という感覚を失わない限り回り続けるであろうそれは、自分のしっぽを追いかけて回る犬に似ている。どこかでも回るだけで、どこにも行きつけない。
 時計は時を刻む。刻み続ける。しかし、精密に作られた時計もやがては年を取り、時を刻めなくなる。そうなった時、時計は死ぬ。人が死ぬように。花が枯れるように。石が風化するように。

 チクタクチクタクチクタクチクタク

 魂が擦り減っていく音がする。心がこぼれおちていく音がする。
「―――――」
 薄暗い部屋の中、少女は小さく息を吐いた。
 わずかな呼吸さえなければ、死人と見間違えたかもしれない。それくらい少女には生気がなかった。とはいえ、弱っているわけではない。そういう病人や瀕死人の気配はない。それにもかかわらず、少女はどこか死体に似ていた。
 日の光など浴びたことがないとでもいうような白磁の肌と、一切の色を失った故の白髪。生気と一緒に色までそぎ落とされたかのように、少女は白い。身につけた服すら白に近い灰色。まるで煉獄の炎が燃え盛った後に残された灰のような未来を感じさせない色は、彼女に幽鬼のような印象を与えている。
 だが、彼女―――オズ・クローチェは生きている。
「――――――ん」
 小さくうめいて少女が目を開ける。写るのは見慣れた部屋。狭くはないが広くもなく、部屋の奥に置かれた妙に大きな寝台以外、最低限の家具しかない。本棚には数冊の本や電子ブックが置かれているが、それらは最近手に取られた形跡がない。代わりにその下の段に突っ込まれたファイルや紙束は、頻繁に触れた後があった。中身をのぞくことができたなら、その内容がすべて世界情勢に関わるものだと分かっただろう。
 本棚の反対側には書類が積まれたままの机がある。その上に見えるように置かれた二枚の写真だけが、部屋に妙な生活感を与えていた。鳩血色の鮮やかな髪の青年と沈んだ黒髪と血色の目が印象的な少女がそれぞれ写真のフレームにおさまっている。青年はともかく、少女はあきらかに隠し撮りと分かる角度だ。少女の写真だけは細い投擲用のナイフがすみに突き刺さっていた。
 そして、その先――――部屋へ入る唯一の入り口の手前には、頑丈な鉄格子が並んでいる。鉄格子の間に一か所だけ扉になっている場所があり、その外の空間の先にもう一つ分厚い鉄の扉がある。
 格子とその向こうの鉄の扉。その二つが、豪華ではないが決して質素でもないこの空間を異質なものにしている。
 ここは世界を支配する十二の大企業――――黄道十二協会の一つ“天秤座”ユグドラシルユニット配下の重罪人を投獄する特別房の一つ。オズはその最深部に投獄されている。
 【カテナシルエット(鎖影)】オズ・クローチェ
 世界の調停者を自称する巨大組織ユグドラシルユニットの囚人にして、ユグドラシルユニットの裏に存在する組織の最高意思決定機関《Thirteen Nights(十三夜騎士会)》の番外位、Imperial Outsider盟主守護役の任につく、最高幹部の一人である。
 非公式な情報では、人類最狂を歌われる篭森壬無月の養女であり、神話の時代から生きている不老不死の魔女だという。他にも彼女を知ることができる立場にあるごく少数の人間の間では、いかにも嘘くさい噂がいくつもささやかれている。驚くことに、その大部分は事実だと本人が認めている。
「―――――」
 ごろりとオズは寝がえりをうった。
 囚人の部屋には豪華すぎるが、世界の支配者の一角としてはあまりにもささやかな部屋。そもそもなぜ組織の最高幹部の一人が囚人なのかという問題に関しては、色々と事情がある。正確には、『囚人が幹部』なのではなく『幹部が任を解かれないまま囚人になった』というのが正しい。ユグドラシルユニットは、幹部であっても律に反するものを許さない。
「退屈」
 妙に艶のある唇から、乾いた声がこぼれた。しばらく声を出していなかったのか、喉がかすれた。数回咳き込んでやっと普通に声が出るようになる。

 チクタクチクタクチクタクチクタク

 時計の音だけが時間が流れていくのを教えてくれる。
 暗い部屋の中、オズはほとんどの時間をまどろみの中を過ごす。牢獄には退屈を紛らわすようなものはないからだ。あるいは、彼女ほどの立場ならば罪人とはいえ、望めばある程度のものは手に入るのかもしれない。けれど、書物も、テレビも、ゲームも、インターネットも、すでに彼女の関心を失って久しい。無限に近いときを慰めるには、それらはあまりにも単純すぎる。
 まどろむ世界の中、彼女は夢を見る。任務が与えられた時以外、彼女が太陽や月や星の下を歩くことはできない。これから何千年も彼女には自由がない。それでも夢だけは彼女に優しい。
「…………お義父様」
 まどろみの中、オズは呟いた。
 自分を不老不死にした人物。敬愛してやまない義父。その人を思い浮かべるだけで悠久も孤独も永久の命も苦痛ではなくなる。
「アブドゥル・アルハザード…………今は、篭森壬無月……」
 鳩血色の髪と瞳が目に浮かぶ。人知れず、オズは微笑んだ。神話の時代からともに生きた最愛の父親にして、師匠。先達であり、同士であり、家族であり、恋人であり、兄弟であり、すべてである。彼の存在があると思うだけで、永久も暗闇も孤独も苦痛ではない。
「篭森……カゴモリ……か」
 かつて自分が捨てた名前を、今は彼が名乗っている。今でも彼が自分を愛している証拠だ。けれど、けれど胸が騒ぐ。
「壬無月……篭森壬月……」
 十数年前、オズからすればほんの少し前、彼は使っていた名前を壬月かた壬無月へと変えた。それはその理由は――――
「ミヅキ…………珠月……」
 子どもが生まれたからだ。自分のような養い子ではない、本物の血のつながった子が。その子に父と同じ音の名前をつけるために、彼は使っていた名前を変えた。
 胸がざわめく。
 変わったのはファーストネームだ。かつての自分の名前は、名字の音になっている。彼がオズを忘れたわけでも、まして心変わりしたわけでもない。けれど、『義妹』の名前が胸をよぎるたび心はざわつく。
 彼のために生きてきた。彼と離れたくなかった。彼を孤独にしたくなかった。そのためなら、永遠の命という毒を飲み干すのに躊躇いなどなかった。けれど――――正真正銘の血を分けた娘がいるのなら、もう自分はいらないのではないか。
 ここ最近、安らかなまどろみを妨害し続ける自問を今日もして、オズはため息をつく。
「珠月……私の―――――可愛い、妹」
 まだ見ぬ妹。けれど、情報だけは入ってきている。非凡な父の平凡な娘として。努力をしてもそれ以上にはなれない秀才だと。そして、彼女はそれを苦痛に思っている。篭森壬無月の娘でいることが苦痛なのだと。
「…………ずるい」
 まどろみの中、オズは呟く。
 可愛いかわいい妹。愛しいあの人の血を分けた子。自分が持ち得ない彼の実子という武器を持つ子。過去の自分に生き写しだという鏡に映った自分。大好きなあの人の大切な人。
 愛しくて憎らしい、もう一人の自分。
「珠月ちゃん」
 義父を呼ぶのとはまったく違う声色で、オズは『妹』を呼ぶ。まだ文章と写真と噂でしか会ったことのない妹。自分とまったく同じ顔をしていて、そして自分とはまったく違う人間だという。
「外に出たいな……」
 すぐに端までたどり着く狭い部屋。ここに投獄されてどれくらい経っただろう。出たいとは思う。けれど、出てもどうしようもない。もう、自分の場所はない。自分がこんな場所に閉じ込められている間に、居たかった場所には本物の娘が居座っている。
「過去は戻らない。けれど……けれど」
 意識が沈んでいく。ゆっくりと過去が再生される。オズはいつも通り、思い出の中に意識を飛ばした。自分がここに閉じ込められた原因の思い出へ沈む。
 時計の音が聞こえる。
 心が蝕まれ、魂が朽ちていく音がする。


《1へ続く》
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