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「第一話 「灼熱の日に龍は吼える」」(2010/06/15 (火) 23:16:57) の最新版変更点
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序文
二〇××年現在、南極大陸を横断する長大な山脈の頂点に位置する台地の直上に、ごく小さいが決して現代人が忘れることのない黒い一点が存在している。
その半径五百メートルほどの〈奈落〉という名で呼び習わされる穴こそが、アバドン生物群の侵略用の経路である。
〈奈落〉が観測されたのは五十年前のこと。始めはオゾンホールと誤認されていたそれはサイズの小規模のために見逃されていた。それがゆっくりと、しかし確実に拡大していることが判明し、
現在のサイズにまで至ったのは二十五年前。派遣された観測隊は、その大半を〈奈落〉から出現した怪生物により殺戮された。
それが始まりだった。三月もしないうちに怪生物――アバドンは地球を覆い尽くした。
時を同じくして全世界に遺跡群が「出現」した。最古の物で十億年前にまで遡ることの出来る異形の遺跡群は、確かに知性体の創造したものであり、
五十にも上る「新遺跡群」の内部には例外なく古代の超技術で創られた遺物が眠っていた。
「ならば、これでアバドンに対抗しよう」
常人には全く狂気の沙汰としか言いようがないその案は、予想以上の戦果を挙げた。
中でも強力だったのは〈ソルディアン〉と呼ばれる人型の古代遺物である。いわば巨大人型兵器であるソルディアンは動力炉であるブラック・サンを以って
山をも動かし海をも断ち割るその力でアバドンを駆逐していった。
しかし発掘されたソルディアンは僅か十機。もはや中国大陸を実質支配するほどに増えたアバドンとの数の差は覆しがたく、戦況は膠着。
更に遺跡発掘を国連より委任されていたアブラクサス財団は七機のオリジナル・ソルディアンを奪って叛旗を翻した。――国連頼むに足らず、ならば世界の盟主たらん、と。
アバドンは「肌の色が違うだけの人間」ではない。人間ですらなく、地球人類の敵である。だが突きつけられた刃を前にしても、
人類は愚かにも同族同士の争いをやめられないままでいる。
一部ではこんな声も囁かれているという――「この愚かさ故に人類はアバドンに滅ぼされても仕方がないのではないのか」、「アバドンこそ神の使わした裁きの天使ではないのか」……
正直を言えば、万能者でも預言者でもない私には分からない。しかし、大部分のアバドンは醜悪だ。その上生きたものでも異臭が酷い。
そんなものを私は天使だとは思いたくもないし、そんなものに人類を滅ぼして欲しくもない。易々と滅亡に甘んじるほど人類は弱くもないはずだ。
人は独りでは非力である。時に巨人と呼ばれる私とて例外ではない。だから、諸君らの力を貸して欲しい。真に温かい時代を求めて、諸君らの知恵を拝借したい。
我々は共に闘う者たちの傍らに在ろう。
希望があるとは到底言いがたい。失われた命も少なくない。それでも人間はまだ負けていない。一人でも生きている限り決して敗北はないのだ。
人間の意地と尊厳にかけて、闘い抜こうではないか。
ウォルター・ラザルス「ゲニウス発足宣言」より抜粋
地獄と化した東京の中心に、俺はいた。
全長二十五メートルの機械仕掛けの巨神として――龍頭人身の機械の神として。
眼下に広がるのは瓦礫の都市と踊り狂う炎。動くものは既に無く、逃げ出すか埋もれるか骸になったかのいずれかだろう。舞い上がる煙と炎の照り返しにより、空が不穏に赤黒い。
異形の怪物が空を舞う。巨神より二回り大きく、その三本の尻尾の長さは二百メートルにも及ぼう。黒金の鱗に覆われた馬鈴薯状の体躯に手足はなく、
そこにあるべき箇所からは四つの蜥蜴じみた頭部が生え出ている。血管の浮き出た蝙蝠の六枚の翼も含めれば、これも巨龍と呼ぶことが出来るはずだ。
そして、均一に配置された翼の中央で見開かれた巨大な眼球に似た器官は――巨龍が〈アバドン〉と呼ばれる怪生物である証明である。
アバドン・ヘッド〈ヴァシュタル〉。
昂、と巨龍の四つ首が鳴いた。まだ崩壊にも巻き込まれずに残っていたビルの窓ガラスは、それだけで全て割れ砕けた。
東京中に散らばっていたアバドン〈ブフレーム〉が、水母状の肉体と触腕を震わせながら集ってきた。
空を埋め尽くすほどに結集する怪物の群れは、殆ど〈ヴァシュタル〉をも覆い隠していた。まさしく恐怖と災厄の象徴である。
しかし俺の戦意を萎えさせるには到底物足りない。流された血と涙を贖わせるには、奴らの命を以ってするしかない。それが決して等価になり得ないとしても、だ。
だから、闘うのだ。
〈貴様らはッ! 邪魔だッ!!〉
俺の叫びに応じて巨神が吼える。同時に巨神の口腔にまばゆい光が灯った。
〈ヴォル・ファイア!!〉
口腔から放射状に空間が煮え滾った。炎すら色褪せる白の焔が瞬く間に数百ものブフレームを蒸発させた。
だが空間から熱が失われる一瞬のうちに、ブフレームが生じた間隙を塞いでゆく。一方でブフレームどもの一部は俺を包囲するように押し迫ってくる。
〈ゼオ・ソード!! テイル・ハーケン!!〉
思念が腕部装甲の形状を剣に変え、後頭部の「尾」を伸ばす。ブフレームの肉体を左右二本の剣が斬り裂き、無数の金属節からなる尾とその尖端の三爪鉤が挽肉に変えてゆく。
前に、前に。俺は未知の力を以って推進し、遅々と、しかし確実に〈ヴァシュタル〉へ向かっている。だが、その姿は一向にして見えない。
数十匹ものブフレームが下半身を拘束した。ブフレームの触腕は微細動し、接触する物質をじわじわと破壊する。推進力が削がれたところに、次々にブフレームがたかってゆく。
巻き添えを食ったブフレームの頭蓋が千切れ、肉塊となって地上に落ちてゆく様子を俺は見たが、これを意に介するような敵ではないことは分かり切っている。
伸ばした〈テイル・ハーケン〉で一斉に薙ぎ払いながら前進する。装甲は十枚ほど抜かれたが、軽微と言って問題ないだろう。集中攻撃されれば別だが――支障はない。そう巨神が告げている。
一体何万匹ブフレームを殺したのか分からない。どのくらいの時間が経ったのかも分からない。
〈ゼオ・ソード〉と〈テイル・ハーケン〉を揮ってブフレームの陣形を突き崩しながら進む巨神たる俺の眼が、やっとその姿を捉えた。
黒金の鱗、四つの蜥蜴の首。何万と殺戮されながら一向に数を減じる様子も見せず密集陣形を敷くブフレームが俺を阻む。
だがそれが何だ? 手の届く範囲に奴がいる。それだけで十分――!
〈殺ァァァァァァァァァッ!!〉
狂ったように叫びを上げながら俺は〈ゼオ・ソード〉の剣尖を奴に向け――
黒煙の渦巻く空で、攻撃ヘリコプターが巨神と巨龍の闘いを観ていた。
「〈ヴォルカドゥス〉、〈ヴァシュタル〉と交戦開始しました」
「貸してくれ」
メル・ファン・ヒューレンが覗いていた双眼鏡をジャック・フェルトンは引っ手繰るようにして受け取った。
彼は双眼鏡越しの光景に眉根を寄せた。濛々たる煙とブフレームの敷く陣形が、双眼鏡の望遠能力を上回り、視界を閉ざしているのだった。
「黒が七分に赤が三分、と言ったところですね」
赤い空を埋め尽くす黒い敵群をメルはそうなぞらえる。ジャックは双眼鏡を降ろし、ヘリのパイロットのラウラ・オルツィに命じた。
「もう少し近付くんだ」
「無理です。ブフレームががただでさえ哨戒するみたいに泳ぎ回っているんですから」
だとしても――ラウラの抗議にそう言い掛けて、ジャックはやめた。
双眼鏡から眼を離し、黒煙のヴェールを透かし見ようと試みたがどだい無理な話だった。異形の戦場となっているだろう地点を睨み付け、ジャックは呟いた。
「……分かっているさ」
ジャックは息苦しさから逃れようと、襟元のネクタイを緩めた。ジャックとて人生の半分以上を軍という組織に捧げた男である。
AH-64〈アパッチ〉如きであの修羅場へ飛び込むのは自殺行為であり、後々のために情報収集に徹するべきであるということは理解しているのだ。
しかし、眼下に瓦礫が溢れ、無辜の民が血を流している惨状を眼にして、どうして拱手傍観など出来るだろう?
――なかんずく、戦渦の中心で息子が闘っているのを知っている父親などは――
プラズマ火球が中空を走る。紫電を曳きながら炸裂した火球の直撃を受け、膨大な質量の金属が圧し折れる音が轟いた。
「東京タワーが!」
ラウラの叫びに、思わずジャックの視線も向けられた。
全高三百三十三メートルの巨大な電波塔は昭和三十三年の完成より長らく東京の象徴として屹立していた。
それは〈ヴァシュタル〉の攻撃の余波と足下に満ちる炎によって自重に耐え切れず飴細工のように捩れていたのだが、今や火球の直撃を受け崩落していた。
鉄骨が雪崩のように轟音を上げて落ちてゆく。
この都市を好きだと思ったことなど一度も無い。だのに、無残な東京タワーの姿に心が波立つのを、ジャックは感じた。
この東京で過ごした時間こそが、自分が最も人間らしくいられた時間だったのだと自覚せざるを得なかった。
東京タワーの崩落は、まさに大都市の終焉を告げる声だった。
秘神幻装ソルディアン 第一話 「灼熱の日に龍は吼える」
その日は東京の七月でも珍しい猛暑だった。降るような蝉時雨に項垂れつつ、柊隆一郎は陽射しから逃れるように大学病院に入った。
汗を拭きながらエレベーターを待つ隆一郎がぎょっとしたのは、やや硬いが流暢な日本語で金髪碧眼のアメリカ男性が声を掛けてきたからだ。
「久しぶりだな」
一年半ぶりに顔を合わせたジャック・フェルトンは実に颯爽としていた。一八三センチの隆一郎と殆ど変わらない上背に、生まれる前からこの髪型だったと思わざるを得ないほどしっくりしているクルーカット。
アイボリーホワイトのサマースーツに合わせたブルーのシャツにボウタイ。右手に提げているのはピンクガーベラの花籠。
軍人らしい真っ直ぐな視線と立ち姿は男の中の男といった風情で、汗一つかいた様子もない。
血の繋がった父親と知らなければ、惚れ惚れしたとしても仕方ないところだろう。
「……何でこんなところに?」
隆一郎は尋ねた。隆一郎の記憶が正しければ、夏の間は父が家にいないのが柊家の常だった。よって隆一郎は子供の頃の夏休みにいい思い出が余りない。
尤も元アメリカ海兵隊で、母雪菜と結婚してからは国連の平和維持活動のために世界中を回っているという父が東京に腰を落ち着けることが出来るのはクリスマス休暇くらいのものだ。
それすらご破算になることもあったから、多分父と息子が一緒に過ごせた期間は数年程度という計算になる。
「先生のお見舞いに決まっている」
先生というのが母方の祖母柊玉枝に対するジャックの呼び方だった。玉枝が幼い頃に母を亡くした隆一郎にとっての母代わりならば、
ジャックにとってはまさしく恩師と呼ぶべき存在だということは本人の口から嫌というほど聞かされている。
チャイムがエレベーターの到着を知らせた。ドアが開き、足を伸ばしたタイミングがかち合ったため隆一郎は足を引いてしまった。一方のジャックはお構いなしにエレベーターに乗り込んだ。
「乗らないのか?」
「……乗るよ」
隆一郎はエレベーターに乗らない理由を探したが結局見つからず、こうして親子は一つのエレベーターに乗ることになった。
祖母の病室に先に足を踏み入れたのは隆一郎の方だった。
病室は個室で、清潔に保たれているが、辛うじて装飾と呼べるのが花瓶に生けられたまま萎れた花だけで、如何にもわびしい感じがあった。
傾斜のあるベッドに横たわったままの祖母の玉枝は笑顔を見せた。彼女が倒れたのは一年前のことだ。浪人中の隆一郎が奮起したのはその直後のことである。
「よう祖母ちゃん。来れなくって悪かったね」
「いいのよ。大学生ともなると忙しいんだから……おや、珍しい並びね」
扉口で佇むジャックに気付いたように玉枝が言う。ジャックは頭を軽く下げて一礼した。
「お久しぶりです、先生」
頭を上げ、ジャックは玉枝に視線を送る。ある種の職能を持った者同士だけが使えるアイコンタクト。
玉枝が言った。
「リュウ、悪いけど、お茶でも買ってきてくれる?」
隆一郎がきょとんとしているところにジャックが千円札を握らせた。
「釣り銭は取っておいていいぞ」
「じゃあ、ありがたくもらっておくよ」
隆一郎が退室し、リノリウムの床に反響する足音が遠ざかる。
ジャックは花瓶を片付けてピンクガーベラの籠を置いた。
「リュウも気の利かない男だ」
「あたしが断ってるのよ。客人からいちいち御見舞い品を貰っていちゃあ、大変なことになるからね。それに、今のあたしは立ち上がるのも困難なおばあちゃんだし」
柊玉枝は自衛隊諜報部の元エースである。現役から退いてもその影響力は生半なものではなく、今なお幕僚長などのかつての教え子たちが何某かのヒントを求めて面会にやってくる。
ジャックが柊雪菜に近付いたのも元はと言えば玉枝に近付くためのことだった。
「で、何かあったの?」
ジャックの多忙さは玉枝も当然知っている。現に彼が今まで「長老の卓見」を聞きにきたことなどなかったのだ。
ジャックは椅子に座って玉枝に正対し、告げた。
「硫黄島より通信が入りました。『蝗が逃げ出した』と。恐らく今日中に東京に辿り着きます」
玉枝の表情に翳りが差した。
「目標はやはり〈フォー・ヘッド〉? ……幕僚長に釘を刺しておくべきだったわね」
「撃破出来なかった我らの責任でもあります。そちらの方にも手は回してありますが――」
やや言い淀んだが、決心したように言う。
「最悪の場合、〈ラスタバン〉を覚醒させます」
溜息を吐く玉枝。
「あたしの孫を……あなたの息子を修羅地獄に堕とすつもり?」
「我々も最大限バックアップはします」
悔悟を含んだ口調でジャックは言い足した。
「――出来ればもっと早くに信頼関係を築きたかったのですが」
「それはあなたの責任でしょう。大体、信頼関係なんて一朝一夕で築けるものでもないでしょうに」
玉枝は遠い目をする。
「あたしも歳だからもうこの世に大した未練はないけれど、あなたはまだ若いんだから命を無駄にしちゃ駄目よ」
「はい」
「隆一郎をお願いします、ジャック」
「分かりました、先生」
ちょうど隆一郎が戻ってきた。何も知らないジャックの息子にして玉枝の孫。
ジャックは少し逡巡したかのように見えたが、立ち上がり、隆一郎の方に向き直って言った。
「リュウ、手を」
返事を待たず、息子の右手に父は金属の塊を乗せた。受け取った本人は絶句し、状態回復にはきっかり三秒を必要とした。
「……何これ?」
「シグ・ザウエルP226。いい銃だ。水や泥に浸けても問題なく作動する」
「いやそうじゃねえ! 息子に銃を渡す父親がどこにいる!?」
しらっと答えた父親に握らされたオートマティックのハンドガンを投げ捨てることも出来ないままわめく隆一郎に、ジャックはやはりしらっと言った。
「父親の銃を息子が受け継ぐ伝統は、アメリカでは良くある話だ」
「銃刀法がある国と銃による死亡件数が交通事故による死亡件数より多い国とを一緒にするな!」
「問題ない、弾は抜いてある」
「……だから、銃刀法ってのは弾のあるなしじゃないんだよ……」
父子のやりとりに、祖母が堪えきれず噴き出した。ジャックもにやりと笑う。
どうやら一杯食わされたらしい、と隆一郎はようやく気付いた。脱力。
「からかうのはこの辺にして――隆一郎、それは一種のお守りだ」
ジャックの顔が真顔に戻る。父がリュウではなく隆一郎と呼ぶのは、昔から本当に重要な話をする時だけだった。
「弾は渡さないが、本当に必要になれば使い道が分かるだろう。バッグの底に隠しておけば見つからんはずだ。それでも何かあったら私の携帯に連絡しろ」
携帯を取り出して父と子はデータを交換する。その最中、隆一郎はジャックの顔を見た。何か嫌な予感がしたからだ。それを感じ取って、ジャックは言い足した。
「別に死にに行く訳じゃないからな。ついでに言うと、形見分けでもない」
「……分かったよ」
データの交換が終わって、隆一郎は手の中の銃を見つめた。その重みに耐え切れず、隆一郎はバッグの底に銃を突っ込んだ。
ジャックは踵を合わせて玉枝に敬礼した。
「では、私はこれで失礼します」
「行ってらっしゃい、ジャック」
踵を返し退室する父の背を、隆一郎は何も言わず見送った。
その後祖母ととりとめのない世間話をして隆一郎も帰ろうとした。
「リュウ」
「ン?」
「いつまでも元気でね」
「大丈夫だって、じゃあな、祖母ちゃん」
孫が病室から去ると、玉枝は声もなく涙を流した。
病院から出たジャックの前に一台のヴァンが止まった。確認するまでもなく後部座席に乗った彼に、運転手のメル・ファン・ヒューレンが尋ねた。
ショートにした髪の襟足が撥ね、十代の少女に見える線の細い顔を更に幼く見せている。
「ジャック、息子さんとはどうでしたか?」
運転手の問いに返事をするように、彼はサマースーツの上着を脱いだ。Yシャツの腋と背の部分が眼に見えて濡れている。メルは苦笑を漏らした。
「あら、直射日光を浴びた時間は三分にも満たないはずなのに」
「銃を持っていたからな」
メルは敢えて何も言わず、口元に笑みを浮かべたまま運転した。
ジャックの携帯電話が無味乾燥な着信音を鳴らした。
「私だ」
『ラウラ・オルツィ』
「ラウラ、進捗状況を」
『やはり内閣が愚図ばっかりです。戦闘のVTRを見せて納得させていますが――』
「犠牲が出てからでは遅い。災害は食い止められんが、被害の拡大は防ぐことが出来る。何とかして呑ませろ」
自衛隊の事前の出動要請――それがアバドンを硫黄島以北にまで到達させた彼らの責務である。
アバドンによる東京の被災を最小限に食い止めるためにやらなければならないことだ。彼らは自衛隊の戦力に過度な期待はしていない。
在日米軍にも要請しているが、それもまた同じことが言えた。通常兵器は奴らには通用しない。
実際戦力が不足している今、餅は餅屋――アバドン退治はアブラクサス財団に任せるべきだ、というのが彼らが所属する組織の総意である。
もしアブラクサスでも何とか出来なければ――それが〈ラスタバン〉の出番だ。
そしてそれは隆一郎の出番でもある。
事態が到来しなければ無論いい。だが、最悪の想像は昨日から今なお脳裏に染みついて離れなかった。
丸一日、仮眠すら出来ていない。ジャックは四十七歳である。今はまだいいが、二日三日と続くと体力が保つか自信がない。そんな年齢になったことを自覚した。
同時に、隆一郎も今年で二十になることを思い出す。歳月の早さに辟易としながら、ジャックはこれからやらなければならないことを考えた。
それは病院から出て、家路に急ぐ隆一郎に降りかかった出来事だった。
「やっほ、リュウ!」
「うわわわわわわッ!?」
背後から声を掛けられ、隆一郎は素頓狂というのがそのまま当てはまるような声を上げた。
「な、何だ驚かすなよペトラ」
「それはこっちの台詞だよぅ」
ペトラはにっこりと笑った。胸を押さえて脈打つ心臓をなだめつつ、隆一郎はバッグの底の金属の塊を意識した。大丈夫、問題ない。
ペトラ・ナトリーは金髪に緑の眼、褐色の肌の美人である。
隆一郎の大学の留学生であり、機械工学や電子工学の泰斗ナッシュ・ナトリー博士の娘。彼女自身天才と呼ばれ、父親と同じ分野においても将来有望な逸材らしい。
来日した時から驚くほどネイティヴな発音の日本語を話していた(日本語が習得困難な言語であることは説明するまでもないだろう)。
普通なら自他共に凡俗を以って自認する隆一郎が近付ける相手ではなかったが、ひょんなことから友達づきあいが始まったのだった。
彼女は隆一郎に近付き、鼻を蠢かせて匂いをかいだ。この娘にはこういう癖がある。しかも異様に鼻が良い。――まさかとは思うが、銃の臭いまで嗅ぎつけられやしないだろうな?
「病院に行ってた?」
隆一郎は安堵して言った。
「ああ。そっちはバイトか?」
「うん」
「まだやってるのか? アブラクサスと関わるのはやめとけって」
「だいじょぶだいじょぶ! ヤヴァい人はとりあえずいなさそうだし、給料払いだってコンビニ店員なんかよりずっといいんだから。多分、二十代サラリーマンよりは上じゃないかな?」
「……そんなにもらえるのか?」
さすがアブラクサス、信者と書いて儲けるというのは伊達ではないな、と隆一郎は考えた。
アブラクサス財団が国連と敵対関係にあるのは事実だが、その所有する知的財産はもはや現代人には必須である。
取り分けアブラクサスの関連会社のパーツを少しでも使っていない携帯電話はない、というのは隆一郎にとっては常識に近い。
反面、キリスト教系の宗教結社という発祥からどうにも偏見は拭いきれない印象がある。末端の過激派の暴走はネット上でも知られるところになり、正直言って関わりたくない相手だった。
しかし大学に通っていれば思わせぶりな女子学生がアブラクサス財団の勧誘だった、などという話はざらにあることで、更に言えばもう少しで入会させられるところだった。
隆一郎好みの美人だったしあちらもまんざらではないようだったが、カルト宗教に身を投じた孫を持った祖母に合わせる顔がないと思い直し、断腸の思いで断ったのだった。
以来、大学で話し掛けてくる女子と言えばペトラくらいである。多分何か黒い噂でも流されたのだろう。別にどうでもいいけど。
二人は歩きながら会話する。
「ペトラなら他の稼ぎ方があるんじゃないのか?」
「それが今やってるヤツだよ。守秘義務で何も言えないけど、歩合制で割合がいいんだよ? 勧誘とかもないし」
「資格とかはいるのか?」
「特に要らないけど……リュウはとある生物の四塩基配列位置をビット変換で特定出来る? 普通のウィンドウズで」
「無理!」
即答する。ペトラの言っていることの意味すら理解出来ないレベルである。というかそれって専用にカスタマイズしたコンピュータでやることじゃないのか?
遠い目をした隆一郎の耳に、遠くサイレンの唸り声が聞こえた。思わず二人は立ち止まる。
地響きがそれに続く。市民は悲鳴を上げて逃げ惑うか、唖然としてそれを見上げた。
全長二十メートルの人狼――〈ティンダロス〉という名の鋼鉄の人狼がそこにいた。足元の民衆には目もくれず、ただ目の前だけを見据えるそれは、まさしく地上最強の兵器と呼ぶに相応しい。
「……ソルディアン?」
呟く隆一郎の脳裏に、一瞬だけ記憶が呼び覚まされた。
子供の頃に見た鋼鉄の巨人。蹲る、灰色の巨人を見上げるまだ幼い柊隆一郎。
いつ、どこで見た光景だ? 隆一郎は記憶の底を探ったが、手がかりさえ見つけられない。思い出そうとすればするほど、却って遠ざかってゆく気さえする。
ペトラがシャツの袖を引っ張っていることに気付いた。
「ソルディアンの隊列。只事じゃないよ」
重火器を手にした鉄の人狼の群れ――それは隆一郎に不穏という概念が具象化したような印象を与えた。
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序文
二〇××年現在、南極大陸を横断する長大な山脈の頂点に位置する台地の直上に、ごく小さいが決して現代人が忘れることのない黒い一点が存在している。その半径五百メートルほどの〈奈落〉という名で呼び習わされる穴こそが、アバドン生物群の侵略用の経路である。
〈奈落〉が観測されたのは五十年前のこと。始めはオゾンホールと誤認されていたそれはサイズの小規模のために見逃されていた。それがゆっくりと、しかし確実に拡大していることが判明し、現在のサイズにまで至ったのは二十五年前。派遣された観測隊は、その大半を〈奈落〉から出現した怪生物により殺戮された。
それが始まりだった。三月もしないうちに怪生物――アバドンは地球を覆い尽くした。
時を同じくして全世界に遺跡群が「出現」した。最古の物で十億年前にまで遡ることの出来る異形の遺跡群は、確かに知性体の創造したものであり、五十にも上る「新遺跡群」の内部には例外なく古代の超技術で創られた遺物が眠っていた。
「ならば、これでアバドンに対抗しよう」
常人には全く狂気の沙汰としか言いようがないその案は、予想以上の戦果を挙げた。
中でも強力だったのは〈ソルディアン〉と呼ばれる人型の古代遺物である。いわば巨大人型兵器であるソルディアンは、動力炉であるブラック・サンを以って山をも動かし海をも断ち割るその力でアバドンを駆逐していった。
しかし発掘されたソルディアンは僅か十機。もはや中国大陸を実質支配するほどに増えたアバドンとの数の差は覆しがたく、戦況は膠着。更に遺跡発掘を国連より委任されていたアブラクサス財団は七機のオリジナル・ソルディアンを奪って叛旗を翻した。――国連頼むに足らず、ならば世界の盟主たらん、と。
アバドンは「肌の色が違うだけの人間」ではない。人間ですらなく、生物という概念が当てはまるかさえ分からない、地球人類の敵である。だが突きつけられた刃を前にしても、人類は愚かにも同族同士の争いをやめられないままでいる。
一部ではこんな声も囁かれているという――「この愚かさ故に人類はアバドンに滅ぼされても仕方がないのではないのか」、「アバドンこそ神の使わした裁きの天使ではないのか」……
正直を言えば、万能者でも預言者でもない私には分からない。しかし、大部分のアバドンは醜悪だ。その上生きたものでも異臭が酷い。そんなものを私は天使だとは思いたくもないし、そんなものに人類を滅ぼして欲しくもない。易々と滅亡に甘んじるほど人類は弱くもないはずだ。
人は独りでは非力である。時に巨人と呼ばれる私とて例外ではない。だから、諸君らの力を貸して欲しい。真に温かい時代を求めて、諸君らの知恵を拝借したい。我々は共に闘う者たちの傍らに在ろう。
希望があるとは到底言いがたい。失われた命も少なくない。それでも人間はまだ負けていない。一人でも生きている限り決して敗北はないのだ。
人間の意地と尊厳にかけて、闘い抜こうではないか。
ウォルター・ラザルス「ゲニウス発足宣言」より抜粋
地獄と化した東京の中心に、俺はいた。
全長二十五メートルの機械仕掛けの巨神として――龍頭人身の機械の神として。
眼下に広がるのは瓦礫の都市と踊り狂う炎。動くものは既に無く、逃げ出すか埋もれるか骸になったかのいずれかだろう。舞い上がる煙と炎の照り返しにより、空が不穏に赤黒い。
異形の怪物が空を舞う。巨神より二回り大きく、その三本の尻尾の長さは二百メートルにも及ぼう。黒金の鱗に覆われた馬鈴薯状の体躯に手足はなく、そこにあるべき箇所からは四つの蜥蜴じみた頭部が生え出ている。血管の浮き出た蝙蝠の六枚の翼も含めれば、これも巨龍と呼ぶことが出来るはずだ。
そして、均一に配置された翼の中央で見開かれた巨大な眼球に似た器官は――巨龍が〈アバドン〉と呼ばれる怪生物である証明である。
『知識野(ライブラリ)』が俺にその名を教える――アバドン・ヘッド〈ヴァシュタル〉の名を。
昂、と巨龍の四つ首が鳴いた。まだ崩壊にも巻き込まれずに残っていたビルの窓ガラスは、それだけで全て割れ砕けた。
東京中に散らばっていたアバドン〈ブフレーム〉が、水母状の肉体と触腕を震わせながら集ってきた。
空を埋め尽くすほどに結集する怪物の群れは、殆ど〈ヴァシュタル〉をも覆い隠していた。まさしく恐怖と災厄の象徴である。
しかし俺の戦意を萎えさせるには到底物足りない。流された血と涙を贖わせるには、奴らの命を以ってするしかない。それが決して等価になり得ないとしても、だ。
だから、闘うのだ。
〈貴様らはッ! 邪魔だッ!!〉
俺の叫びに応じて巨神が吼える。同時に巨神の口腔にまばゆい光が灯った。
〈ヴォル・ファイア!!〉
口腔から放射状に空間が煮え滾った。炎すら色褪せる白の焔が瞬く間に数百ものブフレームを蒸発させた。
だが空間から熱が失われる一瞬のうちに、ブフレームが生じた間隙を塞いでゆく。一方でブフレームどもの一部は俺を包囲するように押し迫ってくる。
〈ゼオ・ソード!! テイル・ハーケン!!〉
思念が腕部装甲の形状を剣に変え、後頭部の「尾」を伸ばす。ブフレームの肉体を左右二本の剣が斬り裂き、無数の金属節からなる尾とその尖端の三爪鉤が挽肉に変えてゆく。
前に、前に。俺は未知の力を以って推進し、遅々と、しかし確実に〈ヴァシュタル〉へ向かっている。だが、その姿は一向にして見えない。
数十匹ものブフレームが下半身を拘束した。ブフレームの触腕は微細動し、接触する物質をじわじわと破壊する。推進力が削がれたところに、次々にブフレームがたかってゆく。巻き添えを食ったブフレームの頭蓋が千切れ、肉塊となって地上に落ちてゆく様子を俺は見たが、これを意に介するような敵ではないことは分かり切っている。伸ばした〈テイル・ハーケン〉で一斉に薙ぎ払いながら前進する。装甲は十枚ほど抜かれたが、軽微と言って問題ないだろう。集中攻撃されれば別だが――支障はない。そう巨神が告げている。
一体何万匹ブフレームを殺したのか分からない。どのくらいの時間が経ったのかも分からない。
〈ゼオ・ソード〉と〈テイル・ハーケン〉を揮ってブフレームの陣形を突き崩しながら進む巨神たる俺の眼が、やっとその姿を捉えた。黒金の鱗、四つの蜥蜴の首。何万と殺戮されながら一向に数を減じる様子も見せず密集陣形を敷くブフレームが俺を阻む。だがそれが何だ? 手の届く範囲に奴がいる。それだけで十分――!
〈殺ァァァァァァァァァッ!!〉
狂ったように叫びを上げながら俺は〈ゼオ・ソード〉の剣尖を奴に向け――
黒煙の渦巻く空で、攻撃ヘリコプターが巨神と巨龍の闘いを観ていた。
「〈ヴォルカドゥス〉、〈ヴァシュタル〉と交戦開始しました」
「貸してくれ」
メル・ファン・ヒューレンが覗いていた双眼鏡をジャック・フェルトンは引っ手繰るようにして受け取った。
彼は双眼鏡越しの光景に眉根を寄せた。濛々たる煙とブフレームの敷く陣形が、双眼鏡の望遠能力を上回り、視界を閉ざしているのだった。
「黒が七分に赤が三分、と言ったところですね」
赤い空を埋め尽くす黒い敵群をメルはそうなぞらえる。ジャックは双眼鏡を降ろし、ヘリのパイロットのラウラ・オルツィに命じた。
「もう少し近付くんだ」
「無理です。ブフレームががただでさえ哨戒するみたいに泳ぎ回っているんですから」
だとしても――ラウラの抗議にそう言い掛けて、ジャックはやめた。双眼鏡から眼を離し、黒煙のヴェールを透かし見ようと試みたがどだい無理な話だった。異形の戦場となっているだろう地点を睨み付け、ジャックは呟いた。
「……分かっているさ」
ジャックは息苦しさから逃れようと、襟元のネクタイを緩めた。ジャックとて人生の半分以上を軍という組織に捧げた男である。AH-64〈アパッチ〉如きであの修羅場へ飛び込むのは自殺行為であり、後々のために情報収集に徹するべきであるということは理解しているのだ。しかし、眼下に瓦礫が溢れ、無辜の民が血を流している惨状を眼にして、どうして拱手傍観など出来るだろう? ――なかんずく、戦渦の中心で息子が闘っているのを知っている父親などは――
プラズマ火球が中空を走る。紫電を曳きながら炸裂した火球の直撃を受け、膨大な質量の金属が圧し折れる音が轟いた。
「東京タワーが!」
ラウラの叫びに、思わずジャックの視線も向けられた。
全高三百三十三メートルの巨大な電波塔は昭和三十三年の完成より長らく東京の象徴として屹立していた。
それは〈ヴァシュタル〉の攻撃の余波と足下に満ちる炎によって自重に耐え切れず飴細工のように捩れていたのだが、今や火球の直撃を受け崩落していた。鉄骨が雪崩のように轟音を上げて落ちてゆく。
この都市を好きだと思ったことなど一度も無い。だのに、無残な東京タワーの姿に心が波立つのを、ジャックは感じた。
この東京で過ごした時間こそが、自分が最も人間らしくいられた時間だったのだと自覚せざるを得なかった。
東京タワーの崩落は、まさに大都市の終焉を告げる声だった。
秘神幻装ソルディアン 第一話 「灼熱の日に龍は吼える」
その日は東京の七月でも珍しい猛暑だった。降るような蝉時雨に項垂れつつ、柊隆一郎は陽射しから逃れるように大学病院に入った。
汗を拭きながらエレベーターを待つ隆一郎がぎょっとしたのは、やや硬いが流暢な日本語で金髪碧眼のアメリカ男性が声を掛けてきたからだ。
「久しぶりだな」
一年半ぶりに顔を合わせたジャック・フェルトンは実に颯爽としていた。一八三センチの隆一郎と殆ど変わらない上背に、生まれる前からこの髪型だったと思わざるを得ないほどしっくりしているクルーカット。アイボリーホワイトのサマースーツに合わせたブルーのシャツにボウタイ。右手に提げているのはピンクガーベラの花籠。軍人らしい真っ直ぐな視線と立ち姿は男の中の男といった風情で、汗一つかいた様子もない。血の繋がった父親と知らなければ、惚れ惚れしたとしても仕方ないところだろう。
一方の隆一郎はやや赤みがかった髪を除けばまるっきり日本人である。やや彫りの深い顔立ちはいわゆる「並みのハンサム」程度で、それが夏の熱気にバテている姿は情けないものだ。客観的に見て、隣のおっさんとはどう見ても親子に見えないだろう、と隆一郎は内心で自虐した。
「……何でこんなところに?」
隆一郎は尋ねた。隆一郎の記憶が正しければ、夏の間は父が家にいないのが柊家の常だった。尤も元アメリカ海兵隊で、母と結婚してからは国連の平和維持活動のために世界中を回っているという彼が東京に腰を落ち着けることが出来るのはクリスマス休暇くらいのものだ。それすらご破算になることもあったし、母雪菜も十年前に事故で行方不明になって以来はめっきり東京に帰ることも少なくなったため、多分父と息子が一緒に過ごせた期間は数年程度という計算になる。
隆一郎は子供の頃の惨めな夏休みに思いを馳せ、嫌な気持ちになった。
「先生のお見舞いに決まっている」
先生というのが母方の祖母柊玉枝に対するジャックの呼び方だった。玉枝が幼い頃に母を亡くした隆一郎にとっての母代わりならば、ジャックにとってはまさしく恩師と呼ぶべき存在だということは本人の口から耳にタコが出来そうなほど聞かされている。
チャイムがエレベーターの到着を知らせた。ドアが開き、足を伸ばしたタイミングがかち合ったため隆一郎は足を引いてしまった。一方のジャックはお構いなしにエレベーターに乗り込んだ。
「乗らないのか?」
「……乗るよ」
隆一郎はエレベーターに乗らない理由を探したが結局見つからず、こうして親子は一つのエレベーターに乗ることになった。
祖母の病室に先に足を踏み入れたのは隆一郎の方だった。病室は個室で、清潔に保たれているが、辛うじて装飾と呼べるのが花瓶に生けられたまま萎れた花だけで、如何にもわびしい感じがあった。
傾斜のあるベッドに横たわったままの祖母の玉枝は笑顔を見せた。彼女が倒れたのは一年前のことだ。浪人中の隆一郎が奮起したのはその直後のことである。
「よう祖母ちゃん。来れなくって悪かったね」
「いいのよ。大学生ともなると忙しいんだから……おや、珍しい並びね」
扉口で佇むジャックに気付いたように玉枝が言う。ジャックは頭を軽く下げて一礼した。
「お久しぶりです、先生」
頭を上げ、ジャックは玉枝に視線を送る。ある種の職能を持った者同士だけが使えるアイコンタクトに、隆一郎が気づくはずもなかった。
玉枝が言った。
「リュウ、悪いけど、お茶でも買ってきてくれる?」
隆一郎がきょとんとしているところにジャックが千円札を握らせた。
「釣り銭は取っておいていいぞ」
「じゃあ、ありがたくもらっておくよ」
隆一郎が退室し、リノリウムの床に反響する足音が遠ざかる。
ジャックは花瓶を片付けてピンクガーベラの籠を置いた。
「リュウも気の利かない男だ」
「あたしが断ってるのよ。客人からいちいち御見舞い品を貰っていちゃあ、大変なことになるからね。それに、今のあたしは立ち上がるのも困難なおばあちゃんだし」
柊玉枝は自衛隊諜報部の元エースである。若い頃に夫を亡くして以来、単身で娘を、そして諜報部の半人前を育て上げた女傑である。現役から退いてもその影響力は生半なものではなく、今なお幕僚長などのかつての教え子たちが何某かのヒントを求めて面会にやってくる。ジャックが柊雪菜に近付いたのも元はと言えば玉枝に近付くためのことだった。
「で、何かあったの?」
ジャックの多忙さは玉枝も当然知っている。現に彼が今まで「長老の卓見」を聞きにきたことなどなかったのだ。
ジャックは椅子に座って玉枝に正対し、告げた。
「硫黄島より通信が入りました。『蝗が逃げ出した』と。恐らく今日中に東京に辿り着きます」
玉枝の表情に翳りが差した。
「目標はやはり〈フォー・ヘッド〉? ……幕僚長に釘を刺しておくべきだったわね」
「撃破出来なかった我らの責任でもあります。そちらの方にも手は回してありますが――」
やや言い淀んだが、決心したように言う。
「最悪の場合、〈ラスタバン〉を覚醒させます」
溜息を吐く玉枝。
「あたしの孫を……あなたの息子を修羅地獄に堕とすつもり?」
「我々も最大限バックアップはします」
悔悟を含んだ口調でジャックは言い足した。
「――出来ればもっと早くに信頼関係を築きたかったのですが」
「それはあなたの責任でしょう。大体、信頼関係なんて一朝一夕で築けるものでもないでしょうに」
玉枝は遠い目をする。
「あたしも歳だからもうこの世に大した未練はないけれど、あなたはまだ若いんだから命を無駄にしちゃ駄目よ」
「はい」
「隆一郎をお願いします、ジャック」
「分かりました、先生」
ちょうど隆一郎が戻ってきた。何も知らないジャックの息子にして玉枝の孫。ジャックは少し逡巡したかのように見えたが、立ち上がり、隆一郎の方に向き直って言った。
「リュウ、手を」
返事を待たず、息子の右手に父は金属の塊を乗せた。受け取った本人は絶句し、状態回復にはきっかり三秒を必要とした。
「……何これ?」
「シグ・ザウエルP226。いい銃だ。水や泥に浸けても問題なく作動する」
「いやそうじゃねえ! 息子に銃を渡す父親がどこにいる!?」
しらっと答えた父親に握らされたオートマティックのハンドガンを投げ捨てることも出来ないままわめく隆一郎に、ジャックはやはりしらっと言った。
「父親の銃を息子が受け継ぐ伝統は、アメリカでは良くある話だ」
「銃刀法がある国と銃による死亡件数が交通事故による死亡件数より多い国とを一緒にするな!」
「問題ない、弾は抜いてある」
「……だから、銃刀法ってのは弾のあるなしじゃないんだよ……」
父子のやりとりに、祖母が堪えきれず噴き出した。ジャックもにやりと笑う。
どうやら一杯食わされたらしい、と隆一郎はようやく気付いた。脱力。
「からかうのはこの辺にして――隆一郎、それは一種のお守りだ」
ジャックの顔が真顔に戻る。父がリュウではなく隆一郎と呼ぶのは、昔から本当に重要な話をする時だけだった。
「弾は渡さないが、本当に必要になれば使い道が分かるだろう。バッグの底に隠しておけば見つからんはずだ。それでも何かあったら私の携帯に連絡しろ」
携帯を取り出して父と子はデータを交換する。その最中、隆一郎はジャックの顔を見た。何か嫌な予感がしたからだ。それを感じ取って、ジャックは言い足した。
「別に死にに行く訳じゃないからな。ついでに言うと、形見分けでもない」
「……分かったよ」
データの交換が終わって、隆一郎は手の中の銃を見つめた。その重みに耐え切れず、隆一郎はバッグの底に銃を突っ込んだ。
ジャックは踵を合わせて玉枝に敬礼した。
「では、私はこれで失礼します」
「行ってらっしゃい、ジャック」
踵を返し退室する父の背を、隆一郎は何も言わず見送った。
その後祖母ととりとめのない世間話をして隆一郎も帰ろうとした。
「リュウ」
「ン?」
「いつまでも元気でね」
「大丈夫だって、じゃあな、祖母ちゃん」
孫が病室から去ると、玉枝は声もなく涙を流した。
病院から出たジャックの前に一台のヴァンが止まった。確認するまでもなく後部座席に乗った彼に、運転手のメル・ファン・ヒューレンが尋ねた。ショートにした髪の襟足が撥ね、十代の少女に見える線の細い顔を更に幼く見せている。
「ジャック、息子さんとはどうでしたか?」
運転手の問いに返事をするように、彼はサマースーツの上着を脱いだ。Yシャツの腋と背の部分が眼に見えて濡れている。メルは苦笑を漏らした。
「あら、直射日光を浴びた時間は三分にも満たないはずなのに」
「銃を持っていたからな」
メルは敢えて何も言わず、口元に笑みを浮かべたまま運転した。
ジャックの携帯電話が無味乾燥な着信音を鳴らした。
「私だ」
『ラウラ・オルツィ』
「ラウラ、進捗状況を」
『やはり内閣が愚図ばっかりです。戦闘のVTRを見せて納得させていますが――』
「犠牲が出てからでは遅い。災害は食い止められんが、被害の拡大は防ぐことが出来る。何とかして呑ませろ」
自衛隊の事前の出動要請――それがアバドンを硫黄島以北にまで到達させた彼らの責務である。アバドンによる東京の被災を最小限に食い止めるためにやらなければならないことだ。彼らは自衛隊の戦力に過度な期待はしていない。在日米軍にも要請しているが、それもまた同じことが言えた。通常兵器は奴らには通用しない。
実際戦力が不足している今、餅は餅屋――アバドン退治はアブラクサス財団に任せるべきだ、というのが彼らが所属する組織の総意である。
もしアブラクサスでも何とか出来なければ――それが〈ラスタバン〉の出番だ。
そしてそれは隆一郎の出番でもある。
事態が到来しなければ無論いい。だが、最悪の想像は昨日から今なお脳裏に染みついて離れなかった。丸一日、仮眠すら出来ていない。ジャックは四十七歳である。今はまだいいが、二日三日と続くと体力が保つか自信がない。そんな年齢になったことを自覚した。
同時に、隆一郎も今年で二十になることを思い出す。歳月の早さに辟易としながら、ジャックはこれからやらなければならないことを考えた。
それは病院から出て、家路に急ぐ隆一郎に降りかかった出来事だった。
「やっほ、リュウ!」
「うわわわわわわッ!?」
背後から声を掛けられ、隆一郎は素頓狂というのがそのまま当てはまるような声を上げた。
「な、何だ驚かすなよペトラ」
「それはこっちの台詞だよぅ」
ペトラはにっこりと笑った。胸を押さえて脈打つ心臓をなだめつつ、隆一郎はバッグの底の金属の塊を意識した。大丈夫、問題ない。
ペトラ・ナトリーは金髪に緑の眼、褐色の肌の美人である。隆一郎の大学の留学生であり、機械工学や電子工学の泰斗ナッシュ・ナトリー博士の娘。彼女自身天才と呼ばれ、父親と同じ分野においても将来有望な逸材らしい。来日した時から驚くほどネイティヴな発音の日本語を話していた(日本語が習得困難な言語であることは説明するまでもないだろう)。普通なら自他共に凡俗を以って自認する隆一郎が近付ける相手ではなかったが、ひょんなことから友達づきあいが始まったのだった。
彼女は隆一郎に近付き、鼻を蠢かせて匂いをかいだ。この娘にはこういう癖がある。しかも異様に鼻が良い。――まさかとは思うが、銃の臭いまで嗅ぎつけられやしないだろうな?
「病院に行ってた?」
隆一郎は安堵して言った。
「ああ。そっちはバイトか?」
「うん」
「まだやってるのか? アブラクサスと関わるのはやめとけって」
「だいじょぶだいじょぶ! ヤヴァい人はとりあえずいなさそうだし、給料払いだってコンビニ店員なんかよりずっといいんだから。多分、二十代サラリーマンよりは上じゃないかな?」
「……そんなにもらえるのか?」
さすがアブラクサス、信者と書いて儲けるというのは伊達ではないな、と隆一郎は考えた。
アブラクサス財団が国連と敵対関係にあるのは事実だが、その所有する知的財産はもはや現代人には必須である。取り分けアブラクサスの関連会社のパーツを少しでも使っていない携帯電話はない、というのは隆一郎にとっては常識に近い。
反面、キリスト教系の宗教結社という発祥からどうにも偏見は拭いきれない印象がある。末端の過激派の暴走はネット上でも知られるところになり、正直言って関わりたくない相手だった。しかし大学に通っていれば思わせぶりな女子学生がアブラクサス財団の勧誘だった、などという話はざらにあることで、更に言えば隆一郎自身もう少しで入会させられるところだったのだ。隆一郎好みの美人だったしあちらもまんざらではないようだったが、カルト宗教に身を投じた孫を持った祖母に合わせる顔がないと思い直し、断腸の思いで断ったのだった。
以来、大学で話し掛けてくる女子と言えばペトラくらいである。多分何か黒い噂でも流されたのだろう。別にどうでもいいけど。
二人は歩きながら会話する。
「ペトラなら他の稼ぎ方があるんじゃないのか?」
「それが今やってるヤツだよ。守秘義務で何も言えないけど、歩合制で割合がいいんだよ? 勧誘とかもないし」
「資格とかはいるのか?」
「特に要らないけど……リュウはとある生物の四塩基配列位置をビット変換で特定出来る? 普通のウィンドウズで」
「無理!」
即答する。ペトラの言っていることの意味すら理解出来ないレベルである。というかそれって専用にカスタマイズしたコンピュータでやることじゃないのか?
遠い目をした隆一郎の耳に、遠くサイレンの唸り声が聞こえた。思わず二人は立ち止まる。
地響きがそれに続く。市民は悲鳴を上げて逃げ惑うか、唖然としてそれを見上げた。
全長二十メートルの人狼――〈ティンダロス〉という名の鋼鉄の人狼がそこにいた。足元の民衆には目もくれず、ただ目の前だけを見据えるそれは、まさしく地上最強の兵器と呼ぶに相応しい。
「……ソルディアン?」
呟く隆一郎の脳裏に、一瞬だけ記憶が呼び覚まされた。
子供の頃に見た鋼鉄の巨人。蹲る、灰色の巨人を見上げるまだ幼い柊隆一郎。
いつ、どこで見た光景だ? 隆一郎は記憶の底を探ったが、手がかりさえ見つけられない。思い出そうとすればするほど、却って遠ざかってゆく気さえする。
ペトラがシャツの袖を引っ張っていることに気付いた。
「ソルディアンの隊列。只事じゃないよ」
重火器を手にした鉄の人狼の群れ――それは隆一郎に不穏という概念が具象化したような印象を与えた。
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