氷炎の恋物語

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FlameDragon-side
IceDragon-side

世に人間という種が姿を現すよりも遥か太古の昔、世界は今よりもずっと厳格な秩序の下に統治されていた。
その地上に台頭していたのは大陸の南方にある活火山に棲み轟々たる火と大地を司ったという炎竜の一族と、北方の海に浮かぶ凍てつく氷山の奥地に集落を構え、荒らぶる風と水を操ったとされる冷たい氷竜の一族。
彼らは特に種族的な対立をしていたわけではなかったものの、決して相容れぬ存在としてお互いに異種族の竜達と関わりを持つことを固く禁じていた。
だがある時、これまで1度も破られることのなかったその絶対の掟に敢然と立ち向かう雌雄の竜が現れる。
この物語はそんな許されざる恋に身を投じた、1匹の雄炎竜が歩んだ生涯の一節である。


見渡す限り一面が暗い赤と黒に覆われた、灼熱のマグマ噴き上げる広大な火山地帯。
その不毛な丘陵の一角に、私の住み処となっている深い洞窟があった。
数日に1回程度という極めて頻繁な火山活動が、絶えずゴゴゴゴゴっという地響きとともに大地を揺らしている。
その心地よい振動に身を預けながら、私はポツリと小声で呟いた。
「さて・・・今日もまた、退屈な日が始まるのだろうな・・・」
この世に生まれ落ちて早50余年・・・もうすっかり慣れたことだとはいえ、私はこうして住み処で惰眠を貪っている生活にもそろそろ飽き始めていた。
唯一そんな退屈を紛らわせられるのは、狩りのために涼しげな森林地帯へと足を運ぶ時くらいのものだろう。
あそこには広い湖もあるし、ここでは決して見ることの出来ぬ美しい鳥や不思議な植物も目にすることができる。
そんな数時間後には実際に自分の目で見ているだろう光景を想像しながら、私は地面に横たえた体をゆっくりと丸めていた。
紅い鱗に覆われたその燃えるように熱い体からは陽炎のようにユラユラとした熱気が昇り立ち、背の上に折り畳まれた大きな翼がギシギシと軋みを上げながら乾いた空気を微かに煽る。
周囲に立ち込めたムッとするような硫黄の匂いも、今日は何故か気分を落ち着かせてくれるような気がするのだ。
もう一眠りしたら、遅めの昼食を探しに出掛けるとしよう。
そしてそう胸の内に決め込むと、私は寝床の上で静かに目を閉じていた。

岩山と炎しか見えぬ殺風景な火山地帯を飛び立つ気になったのは、それから2時間程後のことだった。
大きな翼を広げて大地を蹴ったその瞬間、私の体からチリチリとした火の粉がまるで蛍のように降り注ぐ。
こんな灼熱の体で迂闊に森の中にでも入ろうものなら、山火事の1つや2つすぐに引き起こしてしまうことだろう。
となれば結局、我々炎竜にとっての餌場は木々に飛び火する心配のない、広い水辺や湖畔くらいのものだった。
とは言っても、昼過ぎになって日も高くなれば森から湖の水を飲みにやってくる獣達は後を絶たない。
私はのんびりとその青い湖面の上空を飛びながら、憐れな獲物が姿を現すのをじっと待つだけでよいのだ。

バサッ・・・バサッ・・・
やがて春先の涼しげな風を熱しながら1時間程飛び続けると、ようやく眼下に青々と茂る森林地帯が見え始めた。
1年を通しても比較的温暖なこの辺りは、広大な常緑樹の絨毯ですっぽりと覆い尽くされてしまっている。
その所々に見える大小様々な河川が、厚い深緑の園に十分な水分を行き渡らせているらしい。
陳腐な言葉などでは到底言い表せぬ程に雄大で美しい光景。
その昔世界は火と土から始まり、風と水がそれを育んできた。
だが今やその摂理の象徴も、南北に分かれて独自の生活を営んでいる。
かつては我々も北方に暮らす氷竜達と同じ土地に住みながら竜という1つの種族として繁栄していたらしいが、一体何時からお互いを避けて暮らすようになったのかは一族の最長老達しか知らないのだという。

そんな取りとめのない物思いに耽りながらも紅い翼だけは精力的に動かし続けていると、ようやく目的地である大きな湖が地平線の先に顔を覗かせていた。
遠過ぎてここからではよく見えないが、どうやら白っぽい姿をした獣が1匹、湖の畔に蹲っているようだ。
だが早速見つけることのできた獲物に嬉々として翼を羽ばたいたその時、私はようやくその獣の正体に思い当たっていた。
いや、獣ではない。
青白い皮膚を纏いながら私の火の粉とは違う透き通った煌きを撒き散らすそれは、どうやら雌の氷竜らしかった。

「あれは・・・どうしてこんな所に・・・?」
確かに氷竜達も、我々と同じように青みがかった白い翼を持っている。
故に北海に浮かぶ氷山からこの地方にまで飛んでくるのは、決して難しいことではないだろう。
だがあの氷竜達は、確か海の魚を主食にしているはず・・・
だとすれば獲物を獲るためにわざわざこんな所までやってくる必要はないはずだし、現に私もこの辺りで氷竜の姿を見かけたことはこれまで1度もなかった。
それに彼女は水中を泳ぐ魚を狙っているというよりも、どうやらただ湖の畔で翼を休めているだけらしい。
あれでは森の獣達も湖へは寄りつかぬことだろう・・・全く・・・迷惑な話だ。
私は怒りというよりは些か呆れた顔を浮かべながら湖の畔へ降り立つと、呆けた顔でこちらを振り向いた氷竜に向かってゆっくりと歩み寄った。
氷竜と関わり合ってはならないという一族の掟を知ってはいたものの、自分の狩り場を荒らされては流石に黙っているわけにはいかないだろう。

「そなたは・・・一体ここで何をしているのだ?」
試しにそう訊ねてみると、彼女はいかにも不機嫌そうな態度を隠そうともせずに私を睨み付けた。
「私はただ、ここで疲れた翼を休めているだけだ・・・お前には何の関係もないことだろう?」
そしてそう言いながら、彼女がもう話し掛けるなといった風情で私から視線を外す。
「そうはいかぬ。この湖は我らが一族の貴重な狩り場・・・そなたのせいでここに獣が寄り付かぬのでは困る」
「私にどうしろというのだ?」
「すぐにここから出て行ってくれ。本当ならば、私はそなたと言葉を交わすことさえ禁じられているのだからな」

私がそう言うと、氷竜の顔に突然悲しげな表情が浮かび上がっていた。
確かに私も厳しい口調ではあったものの、彼女にとってはそんなに酷い言葉に聞こえてしまったのだろうか?
「どうかしたのか・・・?」
「な、何でもない!」
だが彼女はそんな私の声を振り切るようにしてこちらに背を向けると、大きな白翼を広げて地面を蹴っていた。
そして涙を堪えているかのようにきつく目を閉じたまま、彼女が北の空へ向かって真っ直ぐに飛び去っていく。
一体どうしたというのだろうか・・・?
何だか彼女にとても気の毒なことをしてしまったような気がして、妙な罪悪感が私の胸を締め付けてくる。
踏み締めた草や土が燃え尽きた灰となって燻ぶり続ける私の足元とは対照的に、彼女の蹲っていた辺りの地面には白く冷たい霜がいくつも降りていた。

「・・・仕方ない・・・今日はもう諦めるか・・・」
流石に水を飲みに来たところを脅かしてしまったら、しばらくの間は獣達もここへは近づかぬことだろう。
私は潔く食事を諦めると、再びあの不毛な火山地帯へと帰るべく大空へと翼を広げていた。
何も言わずに北方へと飛び去ってしまったあの氷竜のことが胸に引っ掛かってはいたものの、かと言って今の私にできることは何もない。
せめて彼女が何を悩んでいたのかわかれば或いはあんな冷たい態度を取らなくても済んだのかも知れないが、彼女ももうここへやってくることはないに違いない。
私がそうであるように、彼女もまた我々炎竜と関わりを持つことは一族の掟で固く禁じられているはずなのだ。
そしてそんなどこか釈然としない気分のまま静まり返った湖を後にすると、私は夕焼けのかかり始めた空を眺めながら住み処に向かってひたすらに飛び続けていた。

もう大分春も近いとはいえ、やがて白煙の上がる住み処の火山に辿り着いた頃には既に身を潜めてしまった太陽の代わりに金色に輝く大きな満月が紺色の空に美しい姿を現していた。
上空から赤く燃える山々を見下ろせば、その所々でキラキラとしたオレンジ色の火の粉を振り撒きながら思い思いに過ごしている大勢の炎竜達の様子がよく見える。
その中には空に浮かぶ私の姿を見つけて、親しげに笑いながらこちらへ近づいてくる者もいた。
そしてゆっくりと翼をはためかせながら私のもとまでやってきたその少し年上の仲間が、無意識のうちに物憂げな表情を浮かべていた私に向かって気さくに話し掛けてくる。
「今日はどうしたんだ?随分と帰りが遅かったじゃないか」
「ああ、いや・・・出掛けた時間が少し遅かっただけだろう」
「そうか?その割には、何だか浮かない顔をしているようだが・・・」
どれほど必死に心の動揺を隠そうとしてみても、まずいことにどうやら彼には全て筒抜けらしい。
流石に長年共に暮らしている親しい間柄なだけはあるというべきだろうか。

「それは・・・」
彼に、今日あったことを話してもよいだろうか・・・?
尤も大勢の仲間達にとっては氷竜の姿を目にする機会すら滅多にないことだけに、今更古臭い掟についてとやかく目くじらを立てるような連中などそう多くはないに違いない。
だが一族を取り纏めている長老達のように高齢の者になればなるほど、頑ななまでに氷竜達との関わりを断とうと我々のような若者に目を光らせていた。
そして私が思うに、きっと氷竜の一族にも我々と全く同じような傾向が表れているのだろう。
そうでなければ、あの湖で出会った雌の氷竜も私の言葉には返事などしてくれなかったはずだ。
「たまたま獲物が1匹も見つからなかったのだ。お陰で随分と無駄な時間を過ごしてしまったよ」
「何・・・?そうか・・・それは気の毒だったな」
これでいい・・・少なくとも私は彼に嘘をついたつもりはないし、我々の縄張りで氷竜に会ったことを仲間達に伝えるのはまだ時期尚早というものだ。
そうして数分後にようやく彼と別れられると、私は住み処の洞窟に向かってそっと夜空の下を滑空していった。

「ん・・・うむ・・・」
自分で漏らしたのであろう寝惚けた声が頭の中に響き渡り、地面の上で蹲って眠っていた私の腹下にゴツゴツとした地面の感触が戻ってくる。
まだ瞼の重くなるような眠気は十分に残っていたものの、どうやら昨日獲物にありつくことのできなかった不機嫌な腹の虫が無理矢理に私を心地よい眠りの世界から引きずり出してきたらしい。
仕方なく目を開けてみると、曲がりくねった洞窟の中に薄っすらと明るい光が差し込んでいる。
だがのそりと首を伸ばして洞内から外の様子を覗いてみると、空一面が濁った灰色の雲に覆い尽されていた。
こうしている間にも雲の色がどんどんと暗い灰色に染まっていくのを見る限り、恐らく夕方頃になれば一雨やってくるに違いない。
狩りに出掛けるとしたら今の内だろう。

私は地面の上に横たえていた体をそっと持ち上げると、睡魔を振り払うように1度だけブルンと体を震わせた。
そしてノロノロとした足取りで洞窟を抜け出し、眩い陽光を覆い隠す厚い雨雲を仰ぎ見る。
昨日の騒ぎで湖の周りに獣達が近寄らなくなってしまってはいないか心配だが、兎にも角にもこの空腹だけは早く紛らわせてしまいたい。
やがて辺りを見回して近くに誰も仲間がいないことを確かめると、私はフワリと細かな火の粉を巻き上げながら静かに大地を離れていた。
冷静になって考えればほとんどあり得ないことだとは思うのだが、もしまた彼女があの湖にいたらと思うとしばらくの間は仲間を連れていくべきではないだろう。
だがそんないらぬ心配も、裏を返せばまた彼女に会いたいという私の願望の表れなのかも知れない。
気丈そうな彼女が私から顔を向ける直前に見せた傷ついた表情に、何か奇妙な魅力があったのだ。

やがて首尾よく誰にも見咎められずに住み処を飛び立ってから1時間後、再び澄んだ水と無数の緑が織り成す潤った世界が眼前に広がっていた。
そして徐々に近づいてきた大きな湖に一抹の不安と期待を込めた視線を向けてみると・・・
湖の一部が、岸辺から不自然な半円型に凍り付いていた。
その真っ白な氷の上で、青白い肢体を弛ませた1匹の氷竜がじっと水中を睨み付けている。
そして手の指先をそっと水面に近付けたかと思うと、彼女が素早く水中へとその指を突き入れていた。

ビシッビキビキビキッ!
その途端にけたたましい氷結音が私のいる上空にまで聞こえ、水面から引き抜かれた彼女の指先に釣られるように太い氷の柱が姿を現す。
氷竜の発する凄まじい冷気によって水中で強引に凍結させられた氷柱は、さながら無数の穂先が付いた無骨な槍のようにも見えた。
しかし何よりもまず驚くべきは、その氷柱の先端に数匹の魚が捕らわれていたことだ。
氷竜達は、皆こうして海を泳ぐ魚達を獲っているのだろうか?
生まれて初めて見る珍しい氷竜の狩りの様子に、私はしばし地上に降りるのも忘れて彼女の姿を眺めていた。
不思議なことに、彼女が獲った魚をまじまじと見つめながら何やら葛藤に暮れている。
一体何を迷っているのだ?
確かに海で獲れる魚達とは多少の趣は違うだろうが、それでも決して食べられぬ獲物ではないだろう。
むしろ天敵のいない平和な湖底でまるまると肥え太った魚達は、これまで魚など1度も食べたことのないこの私にすら美味そうに見えるというのに。

だが次の瞬間、彼女は何を思ったのか折角獲った獲物を手にした氷柱ごと背後に投げ捨てていた。
ガシャンという乾いた音とともに氷が砕け、その中にいた魚達が叩き出されて苦しそうに跳ね回る。
何か気に入らぬことでもあったのだろうか・・・?
私は再び湖面に集中し始めた彼女を邪魔しないように、努めて静かに地面の上に降り立った。
そして彼女から少し距離を取った所にそっと蹲ると、何だか寂しそうにも見えるその白い後姿に視線を注ぐ。
ビキビキッビシシッ!
背後にいるせいで彼女の仕草は全く見えないものの、またしても聞こえてきた大きな氷結音で状況を把握する。
やがて水中から引き抜かれた太い氷柱の先端には、先程と同じように2匹の魚が絡め取られていた。

今度は満足のいく獲物が獲れたのだろうか?
だが背後からじっと彼女の動向を窺っていると、不意に彼女がその氷柱を私の方に向けて無造作に放り投げる。
あまりに突然の出来事に思わず声を上げそうになったのは何とか堪えることができたものの、私は飛んできた氷柱をつい反射的に空中で受け止めてしまっていた。
しまった・・・!
やがて氷の落下音が聞こえなかったことに疑問を感じたのか、彼女がゆっくりとこちらに首を振り向ける。
そして美しい氷竜と真っ直ぐに目が合ったその瞬間、彼女の顔に何とも言えぬ焦りと狼狽の色が溢れ出していた。

「なっ・・・あっ・・・こ、これはその、つまりだな・・・も、もう好きにしろ!」
酷く慌てた様子で何かを捲くし立てながら、最後には逃げ場を失ったのか彼女がその場で身を伏せてしまう。
昨日の今日だ、ここにいれば私がまたやってくる可能性は十分に考えられただろうに、どうして彼女は私を見てあんなに取り乱しているのだろうか?
それに魚を獲るだけならば、わざわざ遠い海を越えてこんな所までやってくる必要はないはずだ。
そこまで考えた時、私は自然とある1つの結論に辿り着いていた。
彼女はもしかしたら・・・用があってここで私を待っていたのではないだろうか?
だがあまりに予想と違う突然の邂逅に、彼女自身何をどうしてよいかわからなくなってしまったのだろう。

やがて気まずい沈黙の流れる中で会話の取っ掛かりを探していたその時、私はずっと抱えたままにしていた氷柱が私の熱ですっかりと溶け落ちてしまっていたことに気が付いた。
そんな私の足元で、氷の牢獄から解放された2匹の魚達がビクンビクンと身を震わせている。
「もしやこの魚達は・・・私のために獲ってくれたのか?」
「な、何・・・?」
余程きつい言葉を投げ掛けられることでも覚悟していたのか、私の声に彼女が些か拍子抜けともいえるような困惑した顔を上げていた。
「そ、そうだ、お前のために獲ったのだ。こ、これで昨日の無礼な振る舞いの借りは返したからな!」
照れ隠しなのか、それとも思わず口をついて出てしまった言葉なのか、そう言い放った彼女の顔に後悔の滲んだ苦い表情が浮かび上がる。

だが表面上はどうあれ彼女が私のために獲物を獲ってくれたというのが嬉しくて、私は足下に転がっていた2匹の魚をそっと拾い上げていた。
そして熱く燃える私の手の中でジュッと魚が焼き上がると、それを躊躇いもなく口の中へと頬張ってみる。
モグ・・・モグムグ・・・
生まれて初めて食べた魚の味は、程良く火が通っていたこともあってこの上もなく美味に感じられた。
「ふむ・・・初めて食べてみたが、魚もなかなかに美味いものなのだな」
その美味そうな食事の光景を目の当たりにして、彼女が不意に腹から低い唸りを響かせる。
ゴロゴロ・・・ゴロロ・・・
「あ・・・」
やがてしまったとばかりに俯いた彼女の仄白い両頬が、微かに赤く上気していた。

それ程の空腹を抱えていながら、何故彼女は私のために魚を獲っていたのだろうか?
最初に湖水の中からあの氷柱を引き抜いた時にも、彼女は確かに獲物に手を付けたい衝動を必死で堪えていた。
だがその理由を聞く前に、まずは彼女の空腹を和らげてやることの方が先決だろう。
あんなに激しく取り乱してしまっていては、これ以上ここで魚を獲ることは難しいに違いない。
そう思って辺りを見回すと、彼女が1番最初に獲った3匹の魚達が私のすぐ傍の地面に転がっている。
私はおもむろにその魚を地面の上から拾い上げると、過度に焼き過ぎてしまわないように手の中で少しずつ転がしながら彼女にそっと近づいていった。
「何故そうまでして強がる必要があるのだ。そなたの獲物なら、空腹など我慢せずに食べたらいいではないか」
その言葉に顔を上げた彼女の美しい眼に、心の弱り切った者が見せる空虚な潤みが顔を覗かせている。
だがまた何かを言おうとして開き掛けたその口が途中でピタリと止まると、彼女は私から受け取った焼き魚を勢いよく口の中へと放り込んでいた。

ムシャッハグ・・・ムグ・・・ング・・・
ついさっきまで何とか取り繕っていたはずの雌らしさをかなぐり捨てて一心不乱に温かい魚を頬張っている彼女の様子には、何だか密かに不憫な感情さえ湧き上がってきてしまう。
そしてものの1分も経たぬ内に魚達をペロリと平らげると、彼女の顔がようやく凛々しい表情を取り戻していた。
そんな彼女の口から、今にも消え入りそうなか細い声がぽつりと漏れる。
「私を・・・怒らぬのか・・・?」
「どうして?」
「わ、私は、またお前の縄張りを荒らしたのだぞ?ここはお前にとって、貴重な狩り場なのだろう?」
確かに、それはそうかも知れない。
だが陸の獣は捕らえられなかったにせよ、彼女が湖から釣り上げた魚で十分飢えを凌ぐことはできたではないか。
それに私自身、昨日彼女に酷い言葉を投げ掛けてしまったことを心の何処かで後悔していたのだ。
そして不意に彼女から向けられた疑問を呈する眼差しに、私はついに胸の内を残らず吐き出してしまっていた。

「実は昨日そなたが去った後、私は一体何がそなたをそんなに傷付けてしまったのかずっと悩んでいたのだ」
そう言いながら彼女からそっと視線を外すと、それを照れ隠しのように何もない地面の上へと振り向ける。
「氷竜達と関わり合うことを掟で禁じられている以上、あのように言うしか他に方法がなかったのでな・・・」
「お前と会うことを禁じられているのはこの私とて同じこと・・・それに・・・昨日の私はどうかしていたのだ」
私はそれを聞くと、努めて穏やかな表情を保った彼女の傍へ座り込んでいた。
やがて不運にも私の身に触れた幾本かの雑草が、小さな炎に包まれて消えていく。
彼女は私と同じく湖の方を向いて隣に身を伏せると、少しずつ割れては儚く消えていく湖の氷を見つめながら先を続けていた。
「私は見ての通り、気が強いばかりで何の取り柄もない。そのお陰で、仲間達からも干されてしまってな・・・」
「それで自棄を起こした挙句に、こんな遠くまで飛び出してきてしまったというのか?」
「ああ、そうだ・・・その上更に異種族の雄竜にまで冷たくあしらわれて、正直昨日は泣き出したい気分だった」

まるで私の表情を確かめるかのように、そう言った彼女が不意にこちらへと顔を振り向ける。
そして思わず彼女と意味ありげな視線を絡ませ合うと、再び話し始めた彼女の声に微かな力強さが宿っていた。
「だが後になってから、お前が掟を破ってまで私に声を掛けてくれたことが妙に嬉しく思えるようになったのだ」
「いくら気性の荒い炎竜の一族だとはいえ、問答無用で雌の仲間を叩き出せる程私は残酷にはなれぬよ」
「そんなお前の気遣いを振り切って逃げ出してしまったことを、一言お前に謝りたくてな・・・」


成る程・・・彼女はきっと、自分でも気が付いていないのだ。
会うことすら掟で禁じられているはずの炎竜に一言謝るためだけに遠い海を越えてやってきたり、私の縄張りを荒らしたお詫びに空腹を堪えてひたすら獲物を取ることに没頭する一途な性格。
その気丈さを装った臆病な自分と真摯に向き合おうとする性格こそが、彼女の1番の魅力であるということに。

「謝る必要などない。私の方こそ、そなたの気持ちも考えずに冷たく当たってしまって悪かった」
「お前は・・・優しいのだな・・・」
やがて小さな声でそう呟いた彼女の顔には、恍惚とも呼べるようなうっとりとした表情が貼り付いていた。
後頭部に備わった、幾本もの尖った氷柱のような角。
私を真っ直ぐに見つめる、まるで宝石のように青く輝く瞳。
そして全身を覆った、全てを凍て付かせるような冷たい冷気を放つ青白い被膜。
そのどれもこれもが、私の雄としての好奇心を蟲惑的に撫で上げていく。
だがその瞬間、突然天から降り注いだ雨粒が燃え上がりかけた恋の炎に水を差す。
熱く灼ける紅鱗に触れた水滴が次々と蒸発して白い湯気を上げる中、私は静かに彼女と顔を見合わせていた。

「全くこれからという時に・・・憎たらしい夕立ちだ・・・」
「フフフ・・・そうだな・・・だが掟で禁じられた我らの逢瀬も、今日はここらが頃合ということなのだろう」
それを別れの合図とでも受け取ってしまったのか、彼女の顔が一瞬曇ってしまう。
「また・・・お前に会いに来てもよいか?」
「もちろんだ。私も仲間に知れてはならぬ故そう頻繁には来られぬが、それでもよいならここで待っていてくれ」
彼女はそれを聞くと、パッと明るく顔を輝かせながら全身に付いた雨粒の氷を振り払っていた。
そして互いに別れを惜しむ切ない視線を絡ませ合うと、彼女がフワリと薄暗い空へと舞い上がる。
「楽しみにしているぞ!」
冷たい雨とともに頭上から降り注いだその嬉しげな声に、私は颯爽と北の空へ飛び去っていく彼女の後姿をずっと見つめ続けていた。

その日を境に、私は他の仲間から持ち掛けられる狩りの誘いの乗った時を除いて、可能な限り彼女と会うためにあの湖へ翼を向けるようにした。
春が近づくにつれて雨や強風といった荒れ模様の天気が幾日か続いたこともあるのだが、驚いたことに彼女は私が行けば必ずと言ってもいい程あの湖で待ってくれているのだ。
氷竜達の住む北方の氷山からここまでは半日近い時間を掛けて飛んでこなければならないはずなのだが、凍った湖の一角で魚を食べながら寛いでいる様子を見るとどうやら彼女もここを毎日の狩り場にしているらしい。
彼女はそれ程までに、炎竜であるこの私に対して強い好意を寄せてくれているのだろう。
密かに彼女と過ごす短い時間も、日頃の単調な生活に飽きてしまっていた私にはとても楽しく感じられる。
だがそれもきっと・・・そう長くは続かないのかもしれない。
彼女に会うために何度か仲間の誘いを断っていたのが災いしてか、いつも一緒に狩りに出掛ける数匹の仲間達が私の行動を怪しみ始めていた。

心地よい春の季節も半ばに差し掛かった、ある晴れたの日の朝。
私はいつもと同じ遅い目覚めに体を震わせると、住み処の深い洞窟からのそのそと抜け出していった。
そして雲1つない空に浮かぶ眩い太陽がもうすぐ天頂に届こうとしているのを見届けて、3日振りに彼女へ会いに行こうと燃える翼を大きく広げながら天を仰ぐ。
だがいざ快晴の空に舞い上がろうとしたその刹那、不意に背後から聞き慣れた仲間の声が聞こえてきた。
「お前も相変わらず朝の遅い奴だな。どうだ、今日は天気もいいし、もう少し遠くの餌場を探しに行かぬか?」
「いや・・・今日は遠慮しておくよ。私もたまには、独りでのんびりと過ごしたいのでな」
「そうか・・・だが、お前はいつも独りで一体何処へ狩りに行っておるのだ?」
特に他意や悪意はないであろうその質問に、私は思わずドキリと胸を打ち鳴らしていた。

我々炎竜は皆、自分独りだけの狩り場を持っている。
住み処の火山地帯からさほど離れていない所にある大きな川辺の他にも、砂漠地帯に点在する泉や湿地帯等も獣達の水飲み場として狩り場の1つに挙げることができるだろう。
そうして様々な狩り場を自分で見つけては、そこに他の仲間が無断で近付かぬよう狩り場の場所を仲間達に周知するのが一族の風習になっているのだ。
だが私は、あの湖の場所を仲間の誰にも教えてはいなかった。
自分の狩り場で他の誰かが獲物を獲っていたとしても、そんなことをあまり気にする性分ではなかったからだ。
それにあの湖も、今となっては彼女との禁じられた逢瀬の場。
なれば尚更誰かにその場所を教えることなどできようはずもない。

「何故そんなことを聞くのだ?」
「特に深い意味はないが・・・我らの狩りの誘いを断ってまで行くからには大層な穴場なのかと思ったまでよ」
「別にそういうわけでは・・・とにかく、今日は私には構わないでくれ」
そう言って半ば強引に彼との話を打ち切ると、私は逃げるようにして晴れ渡った空へと飛び上がっていた。
そしてしばらく湖とは違った方角へと飛びながら、誰も後を尾けてくるような気配がないことを確かめる。
これからは、こういう慎重さも必要になることだろう。
今まで掟を破った者など誰もいなかっただけに、もし私が氷竜と付き合っていることが堅物の最長老達の耳に入ったとしたら一体どんな罰を与えられるかわかったものではない。
やがて遠く離れた仲間達の姿が誰も目に入らなくなると、私は静かに向きを変えて彼女の待つ湖へと力一杯翼を羽ばたいていた。

湖までの1時間程の道のりが一瞬で過ぎ去り、程なく湖畔に青白い彼女の姿が見えてくる。
翼の音に気付いて不意にこちらを見上げた嬉しげな彼女に顔に、何だか申し訳ない気分になってしまう。
やがて静かに地上へと舞い降りると、私はいつものように彼女と熱い視線を交わし合った。
そして自然の成り行きに任せるかのようにお互いにその場に蹲ると、ようやく第一声を絞り出す。
「久し振りだな・・・そなたは毎日のように待ってくれているというのに、寂しい思いをさせてしまっただろう」
「別に構わぬ・・・待ち焦がれる時間が長ければ長いほど、お前に会えた時の喜びが増すというものだ」
私はいつもなら彼女と会ってもただじっと湖の方を見つめながら共に過ごす時間を楽しむだけなのだが、今日は彼女に伝えなければならないことがある。
彼女の方も普段より饒舌な私の様子に違和感を覚えたのか、じっと私の眼を覗き込んだまま黙っていた。
「そなたと会うのは・・・もうこれで何度目になるのだろうな?」
「今日で37回目だ・・・お前と交わした言葉も、共に食べた魚の味も・・・私は、全部覚えているぞ」
「そうか・・・もうそんなになるのだな」
この2ヶ月間、彼女は私と会った日のことを全て覚えていてくれたというのか。
過去にあった様々な出来事を思い出すように、私は雲1つない青い空を見上げていた。

「私は、そなたが好きだ。気が強くて不器用で、それでいてとても繊細・・・だが一途に私を想ってくれている」
やっと言えた。
今まで心の何処かで躊躇われていたその言葉。
だがその先に、これまで私を悩ませ続けてきた根深い問題が新芽のように顔を出す。
「だが毎日こんなにもそなたのことばかり考えているというのに、私はそなたに触れることさえできぬ」
流石に聡明な彼女のこと、それを聞いただけで、彼女は私の言わんとしていることの深刻さを悟ったらしい。
その証拠に、彼女の口から漏れて来た声には微かな震えが表れていた。

「何が・・・言いたいのだ・・・?」
「もうそろそろ、決断を下す頃合だと思うのだ」
「それはつまりこの私に・・・お前のことを忘れろというのか!?」
それも、1つの選択かも知れない。
互いの身に触れることも出来ぬのでは、我々の恋心は永久に交わらぬ平行線を辿ることになるに違いない。
「そうでなければ、何処かここから遠く離れた地で互いの一族から隠れて暮らすかのどちらかだろう」
これが、今の私からできる最大の提案だ。
「何故突然そんなことを・・・」
「仲間達が・・・そなたと会うためにひっそりと住み処を抜け出していく私のことを怪しみ始めているのだ」
その私の言葉を聞いて、彼女の顔に悲愴ともいえる暗い表情が浮かび上がる。
きっと、いつかこんな時が来ることを覚悟していたのだろう。
「私は・・・」

だがそこまで言い掛けて、彼女が唐突に口を噤んだ。
その視線の先は私にではなく、遥か後方の空へと向いている。
「どうかしたのか?」
そう問い質してみても、彼女の視線は遠い虚空を見つめたまま動かなかった。
頻りに何か思考を巡らせているようだが、その顔には些か呆けたような絶望の予兆が漂っている。
彼女の中で、何か大事なものが壊れかけていた。
その心ここに在らずといった様子から察するに、何か重大なものを見てしまったのだろうか?
まさか・・・仲間が私の後を尾けていたとでも・・・?
「そなた・・・私の仲間の姿が見えたのか?」

それを聞いて、彼女が不意に我を取り戻していた。
やがてフラフラと頼りなく揺れていた視線が、ようやく私の顔へと向けられる。
「わ、私は一体どうすればよいのだ?このことが仲間に知られればお前は・・・」
慌てふためく彼女を落ち着かせようとして、私はひたすらに彼女の眼をじっと覗き込んでいた。
こんな時、彼女に手も触れてやれぬこの身が堪らなく恨めしい。
「そなたが心配する必要はない。だが仲間に知られてしまった以上、私はもうここには来られぬかもしれぬ」
「・・・戻るつもりなのか?」
「そうだ・・・長年固く守られていた掟を破ったからには、私も咎めを逃れることはできぬだろう」
それでも、彼女だけは守ってやらなくてはならない。
もう彼女には会えぬかも知れないと考えただけで、途端に体が金縛りにあったように凍り付いてしまう。
だが彼女を連れて何処かへ逃げてみたところで、互いに帰る場所を失ってしまう結果になるのは目に見えていた。
そして身を切られるような苦しみに耐えながら彼女に別れの背中を振り向けると、最後に瞼に焼き付いた彼女の顔をじっと脳裏に思い浮かべる。
その凛として美しいはずの彼女の顔は、今にも泣き出しそうな程の深い悲哀に満ちていた。
「最後になるかも知れぬ別れ際で、そんなに悲しそうな顔をしないでくれ・・・何時か何処かで、また会おう」
やがて自分に言い聞かせるようにそう呟いて、決して背後を振り向かぬままにまだ明るい空へと飛び上がる。
彼女が何かを叫んだような気がしたが、その愛しい声は無情にも轟々と唸る風の音に掻き消されてしまっていた。

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