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スティルカ

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匿名ユーザー

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スティルカがこのあたりに越してきたのは、つい1ヶ月前のことだ。
ドラゴンのDNAが入った人間がやってくるとのことで、僕の町はものすごい騒ぎになった。
正確には、人間に無い特徴を関連付けようとする試みで、
最終的な目標となっている、すべての生物の遺伝子を持ち、端麗な姿を維持した生体の創造。
歴史の生き証人を作り出すこと、そのプロジェクトの名前が「ドラゴン」らしい。

スティルカはその元で、水棲生物のいくつかのDNAを調合された者である。
スティルカは、プロジェクトの進歩した証なのだ。
本来なら、進行途中に出来上がる生物は奇怪な容貌でもかまわないのだが、
それでもスティルカ達のような途中過程の生物が、
プロジェクトの名前等しい容貌を持っているのは、
研究員の純粋な遊び心と美的センスの産物だった。
美しい、たくましい、それぞれの特異な外観を持った生物。
そんな生物たちを、ただ出来上がったら実験生物は破棄するという過程に疑問の声が上がった。
きっと、見るに絶えない姿をしていたなら、「人道的に」破棄されていただろう。
スティルカは、そんな身勝手な条件下で、晴れて自由の身を手に入れたものの一人なのだ。
数少ない生き残りの進歩した証が元気に暮らすことは、研究員の士気を上げる結果にも繋がった。

しかし、一般の人々にそんな背景が伝わっているわけでもなく、
純粋にドラゴンとは何なのか、つまり、
人食いじゃないだろうかとか、夜行性じゃないのかとか、
この街の肉を食いきってしまうのではないかとか、
要らぬ心配をした大人たちが、おとぎのドラゴンの姿について、夜な夜な会議を開く有様だった。


いざスティルカが越してくると、村の者達は別な意味で驚かされた。
村人の中には、
鱗だらけで、大きくて、凶暴で、悪のイメージという西洋龍を思い浮かべていたものもいれば、
神々しくて細長い東洋龍を思い浮かべていたものもいるだろう。
しかし、スティルカはそのどちらとも違った。
鱗も無ければ、強暴しさも無い。
もともと、ドラゴンがどんな姿をしているか等、曖昧なのだ。
水色に近い艶やかな肌、丸みを帯びた口吻がほんのり飛び出た口元。
あご下のラインから、腹にかけては純白の肌が服の隙間から見える。
口先が小さく尖っているせいか、口元がいつでも微笑んで見える。
どんな生物よりも大きい瞳、宇宙が中に入っていると行っても過言ではないだろう。
水棲の哺乳類のように艶やかな頭は毛は生えていない。
後ろには、角の物体が、ピンと4本飛び出している、
しかし、角と違って柔らかそうに動きにあわせて揺れている。
人と会話するたびに、それが小刻みに動く。どうやら耳に近い感覚器らしい。
そんな村人のイメージのドラゴンとは程遠い青年が、
開襟シャツと尻尾用に穴を開けた迷彩のカーゴパンツを着込んで、村にやってきたのだ。

肩に担いでいたリュックを下ろして、一礼すると、
「こんにちは、皆さん。」
そう、透き通るような声で話した。
彼が、「彼」であると事前に言われてなければ、誰もが女性であると勘違いしただろう。
「ドラゴン反対」
そんな看板を掲げようと意気込んでいた村人たちは、あっけらかんとした顔をして、
看板を上げ損なってしまった。
結局、ドラゴン反対の村人たちは悪戯を失敗した子供たちのように、バツが悪そうに帰って行った。

一礼をして顔を上げた瞬間に、帰り始めた町人。
スティルカは、何か悪いことでもしてしまったのかと、眉をしかめた。
「まぁ、まぁ、かわいらしいこと!」
「よろしくね。」
「ええと、お名前は?」
村の好奇心の塊のおばさんたちが寄ってたかった。
「スティルカです。」
スティルカは、顔を赤らめてそう言った。
おばさんたちは、その無邪気な笑顔に好意を持ったらしく、引っ切り無しの質問攻めで出迎えた。


それから1ヶ月、スティルカの住み着いたハーバーは、
スティルカ見たさで立ち寄る町人でごった返していた。
スティルカは、研究員らしい。
海の水を試験管で汲んでいるところを見た。
スティルカは、漁をするらしい。
船に乗って、魚を獲っているところを見た。
スティルカは、やはり肉を食べるらしい。
肉屋のおばさんのところに来た。
スティルカは…。
彼のプライバシーは無いに等しかった。
いつでもどこかで、町の誰かが遠巻きにスティルカを見ている。
中には、町の外から来たものまでいる。
珍しくて仕方ないのだ。
スティルカは、そんな町人と目が合うたびに、ニコリと笑って返すのだ。
彼らは、その度にセキをしたり、空を見上げたり、よそよそしく振舞った。

ある日、スティルカは風邪を引いた。
辛そうに、コホコホをセキをしながら町を歩いていた。
そして数日後、スティルカの歩いた通りの8割の町人が風邪を引いた。
医者がただの流行性感冒だと言っても、誰も信用しなかった。
「スティルカに病気を移されたらひどくなる。」
うわさはあっという間に広がった。
その日から、スティルカのすむハーバーへ行く人はいなくなった。


長い年月が経ち、
スティルカの話題もすっかり下火になって、町が元通りの落ち着きを取り戻した頃。
この町に、1人の少年が越してきた。
町に奇妙な容姿をしたスティルカという存在がいることを聞いて、
少年は、その存在に期待を膨らませていた。





こちらに越してきてから3日間、ずっと雨が降っている。
何故か分からないけど、僕は水に触れるのが苦手だ。
親に聞いたことだが、幼い頃に溺れたことがあるらしい。
僕自身には、溺れたという記憶は全く残っていない。

水道から出る水、コップにある水、自分が主導権を持った小さな存在は何とか扱うことが出来る。
しかし、水が嫌いなことは変わらない事実。
だから、引っ越してきてからずっと雨が降っているというのは、僕にとっては最悪のことだった。
どうしても外に出れない。
それどころか、水で溢れている雨の町の中を見ることさえ出来ない。
僕は、カーテンの閉め切られた部屋の中で雨が立てる不気味なノイズを、
いつもより大きめに上げたテレビの音量でかき消す。

昼時の面白くも無いテレビを延々点けていたため、僕は無意識にテレビを消してしまった。
テレビで消されていたはずの不気味なノイズがどっと聞こえてきた。
僕は、思いっきり顔をしかめて、無意識で消されるほどつまらないテレビの番組を呪った。
そのせいで、僕はまたノイズを聞く羽目になったのだ。
再びテレビの電気をつけようとしたとき、ノイズにまぎれて不思議な音色が聞こえてくることに気付いた。
透き通るような女の子の声は、心の底から楽しそうな音色を奏でている。
いつの間にかノイズは聞こえなくなり、頭に響くような女の子の声を求めて、
僕は知らずに窓辺まで歩み寄っていた。
締め切られたカーテンを開け、僕は心底嫌な気分になってしまった。
水が空から降ってくる光景、それは僕にとっての地獄だ。

しかし、その地獄の中に蒼い皮膚の生物がたたずんでいた。
僕とおんなじくらいの背であるそれは、人間とは全く異なる容貌を持っている。
「あっ…。」
…スティルカだ、そうスティルカに違いない。
町に、ドラゴンのDNAを持った人間がいる話は聞いていたけど、本当にいたとは…。
ひどい雨とは言わないが、この鬱陶しい天気の中を、まるで楽しそうな笑みを浮かべて歩いている。
手に抱えた紙袋に布をかけているが、自分自身は傘さえ差していない。
濡れても構わないのだろう、黒いウエットスーツを切り取って作ったような、
ノースリーブの上着を羽織っている。
下半身は、それと対照的な白いウエットスーツを着込んでいた。
スティルカは、空を見上げて眼を閉じ、雨を仰いでいる。
まるで、夢を見ているような光景だった。
スティルカは、ふと思い出したように顔に受けた水を振り払って、眼を開けた。
首を振った拍子に視界の端に僕が映ったのだろう、スティルカは僕に気付いた。
首をかしげて、僕に微笑みかけた。
僕は、どうしていいか分からず、情けない造り笑みを浮かべながら手を振った。
それを見たスティルカは、笑みをいっそう強くしてこちらに手を振った。
こちらに歩み寄ってきそうなそぶりを見せたが、通りの向こうの何かに気付くと、
小走りで走り去ってしまった。
しばらく経って、エンジンの調子が悪そうな1台の車が通り過ぎていった。
窓の外は再び僕の嫌いな空間に変わってしまった。
僕は、通り過ぎた車を憎たらしく思った。


次の日、雨を降らすのに疲れた雲が、ようやく太陽に居場所を明け渡した。
しかし、雨に降られた町は雲が退いたと言うのに、どんよりとしたムードから抜けてない。
すべてが湿気渡った町は、どこと無く黒ずんで見えた。

スティルカがどこに住んでいるか交番で尋ねたが、
居場所を教えられる代わりに、
「行かないほうがいい」とだけ、ぶっきらぼうに釘を刺された。
僕が延々食い下がると、保安官はようやく場所を教えてくれた。
「ハーバーだよ、ハーバー!
ほら、この通りをまっすぐ行ったらあるだろ?」
投げやりな道案内だったが、ハーバーは意外と簡単に見つかった。
ただ、確かに通りをまっすぐに行くとあるのは正解だったが、
まさか歩いて2時間もかかるとは思わなかった。
スティルカは、昨日も歩いて町まで来ていたのだろうか。

ハーバーは、シャッターの閉まった倉庫と、つやを失った古いボートがいくつかあるだけで、
誰の目に見ても、閑散とした状態だった。
その中に、ひとつだけ手入れの行き届いた大型の水色のボートが見えた。
中に乗り込む方式のようで、運転席は外から見えず、全体が流線型のボディに納まっている。
クレーンで持ち上げられているそれは、空に溶け込んでいるようにも見えた。
どのボートよりもスマートで、速そうな形をしている。
僕は、胸の高鳴りを押さえながらそのボートに歩み寄った。
ボートのすぐ隣で、僕は一目でこのボートがスティルカのものだろうと直感した。
そう、こんなボート、スティルカ以外にふさわしいものなどいない。

「ねぇ、君!」
ぼんやりとボートを見ていると、後ろから突然声をかけられた。
透き通ったような女の子の声だ。
「うわぁ!」
驚きの声を上げながら振り返ると、そこにはスティルカがいた。
昨日と同じ服装で、ぐるぐるに丸めた網を担いでいる。
「ス、スティルカ…?」
意味も無く名前を尋ねた。
間近で見ると、その大きな瞳にどうしても目が行ってしまう。
輝くように光る星達が、スティルカの瞳には住んでいる。
「あれ、僕の名前知っているの?
君は、昨日窓辺で手を振っていた子だよね。
この町には越してきたんでしょ?」
自分のことを、僕と呼ぶスティルカは、なんだか格好よく感じた。
「う、うん。」
スティルカは、網をその辺にどさっといた。
「はっは~、だと思った。
あそこ、僕が来たときから空き家だったのに、この間来たら電気がついているんだもの。
でも、良くここまで来る気になったね。」
「いや、まさかこんなに遠いとは思わなかったから、勢いで…。」

「ふふっ。勢いか。そりゃ、よっぽどの勢いだね。
町の人には止められなかったの?」
僕は、保安官に止められたことを話した。
「ああ、僕が言っても説得力無いけど、
みんな、僕から病気が移るって勘違いしちゃったみたいなんだ。
僕は、こんな姿だけど、中はれっきとした人間なんだよ。」
僕は、う~ん、とうなりながらスティルカの姿を見た。
「まぁ、こんな姿じゃ誰も信じないけどね。
僕だって、人間だって言われても信用できないくらいだよ。
でも、臓器の作りその他は、ほとんど同じなんだ。」
「ふーん…。」
そんなこと言われても、僕は、当たり障り無い返事しかできなかった。
突然、僕は人間ですといわれても、スティルカを見て誰が人間を連想するだろうか。
スティルカの体をまじまじと見ながら、視線を上に上げていく。
スティルカが、顔に優しい笑みを称えて僕を見ている。
なんだか恥ずかしくなってしまって、僕はその場から走り去ってしまった。
「あ、もう行っちゃうの!?
じゃーねー!」
スティルカがこちらに振った手に向かって、僕には後ろ手で返事をする余裕しか無かった。

家に帰っても、スティルカの顔が浮かんでくる。
あの優しい笑み。
あの横顔。
考えただけで胸が高鳴ってくる。
僕は、どうしてしまったのだろうか。
…しばらくして、この感覚は俗に言う恋ではないかという考えに至ったとき、
僕は締め付けられるような焦りを覚えた。
僕は、スティルカを好きになってしまったのだろうか。
僕は、延々と自分に問いかけていた。


次の日、僕はやっぱりどうしてもスティルカに会いたくなって、
朝早いというのに、再びハーバーに向かった。
昨日と違って、今日は自転車だ。
変速機の付いた自転車は、30分もしないうちに僕をハーバーへと連れて行ってくれた。

僕の自転車のブレーキの音で気付いたのか、
倉庫の影からスティルカが顔を出した。
「あ、昨日の!」
スティルカが手を振っている。
僕は、恥ずかしげに手を振り返した。
「ねぇ、これからボート出すんだけど、乗らない?」
言われて見れば、昨日は吊り下げられていたはずのボートがその場に無い。
僕が視線を向けられない、絶えずノイズを発し続ける先に浮いているのだろう。
「どこ行くの?」
「ここから100kmくらい沖合いかな…。
この前浮かべたブイを取りに行くんだ。」
「ブイって?」
「ああ、海にぽっかり浮く“浮き”のことだよ。」
「そんなの浮かべてなんになるのさ?」
「とにかく乗りなよ。
話しながら行けばいいよ。」
スティルカは、ボートに向かって走っていった。
ボートに乗り込むには、細い桟橋を渡って、そこから飛び乗らなくてはいけない。
スティルカと一緒にいたい。
その一心で、僕は細い桟橋へ1歩だけ足を乗せた。
桟橋の両側でさざ波打ってきらめく海を見ていたら、僕はなんだかくらくらしてきた。
「ね、ねぇ、ちょっと大丈夫…?」
スティルカが心配する声が聞こえてきたが、もう遅かった。
僕は、冷や汗が垂れて、力の抜けた体は言うことが聞かない。
う、海に落ちる!


眼を開けると、部屋の中だった。
簡素な壁に所狭しと、海の絵が貼ってある。
きれいな浜辺、小さな島、大きな波。
写真なら、我慢できる、動かないから。
…そう、我慢できるはずだ。
スティルカの大きな瞳が僕を心配そうに見つめている。
「あ、良かった!気がついた?」
「え、ええと…、ここは?」
スティルカが、頭に乗っていたタオルを絞って、乗せ換えてくれた。
「倉庫中の僕の部屋だよ。
元は、倉庫の管理、兼警備室らしいんだけどね。
ほら、倉庫の中が一望できるでしょ?」
起き上がって部屋にある窓から外を見ると、薄暗い倉庫の中が確かに一望できた。
どうやら倉庫の隅にある、宙釣りの部屋の中らしい。
「びっくりしたよ、いきなり倒れて海の中に落っこちちゃうんだから…。
気絶していたから、水を飲まなかったんだね。」
言われて気付いたが、僕は服を着ていない。
慌てて辺りを見回すと、壁から壁に吊り下げられた紐に、洗濯バサミで僕の服が干してあった。
ただ幸いなことに、トランクスはきちんと僕の下半身に納まっていた。
「ごめん、迷惑かけちゃって…。
水を見ないようにはしたんだけど…。」
「水を見ないようにって…。」
「…、その、僕、水が駄目なんだ。
水を見ると気分が悪くなって…。」
スティルカは、驚いた顔をした。
「うわ、ごめんよ!君が水が嫌いだったなんて知らなかったんだ!」
両手を合わせてそういった。
僕は、首を横に振って、スティルカの手を下げさせた。
初めてスティルカに触れた。
それは、滑らかでヒヤッとした感触だった。
「ううん、僕が勝手に倒れたんだもの。
それより、迷惑かけた僕のほうこそ謝らなくちゃ…。ごめん。」
「そんなこと、全然ないよ。
…それより、気分は大丈夫?
何か飲む?
あ、でも、水が嫌いだったら何も飲めないんじゃ?」
スティルカは、手にコップを持ちながら動きあぐねていた。
「水道とか、コップの水は大丈夫だよ。
空から降ってきたり、海とか川とか、たくさんの水が駄目なんだ。
そうじゃないと僕、スティルカのところに来る前にとっくに干からびているよ。」
「ははっ!そりゃ、そうだね!」
僕とスティルカは笑った。

スティルカが冷蔵庫から取り出したのは、レモネードだった。
甘くて、ほんの少しだけ酸味があって、まるでそれは、
スティルカと一緒にいるときの僕の心の中のような味だった。
一口飲んで、眼を閉じて味わっている僕を見て、
スティルカは僕がこの飲み物が好きであることを喜んでいたようだった。
スティルカは、時計を見るとこう言った。
「ごめん、ちょっとブイを見てくるね。
君はここで休んでいて。
僕が後で絶対送るから。
倉庫から外に出ないほうがいいかも…。
それとも、今帰らないといけない?」
「ううん、そんなこと無いけど…。けど…。」
「けど?」
スティルカと一緒にいたい。
「僕も、ボートまで連れて行ってくれないかな。」
「ええ、でも、水、駄目なんじゃ?」
「見なきゃ大丈夫、音は我慢できる…はず。」

そうして、僕はスティルカのボートに乗り込んだ。
どうやってかというと、布で目隠しをした状態で、スティルカに運んでもらったのだ。
スティルカは、無理をしなくていいと散々に心配してくれたが、
僕の根に負けて僕をボートまで手で誘導してくれた。
桟橋の感触が足に伝わる。
響き渡る海の音。
…怖くない。
スティルカの手の感触が伝わっているだけで、すべてがうまく行くような気がしていた。
「…ちょっと飛ぶよ?いい?」
スティルカがボートに飛び乗った。
僕はわけが分からないまま飛んで、ボートの中に転げ落ちた。
どうやら、僕はスティルカの上にのしかかってしまったらしい。
柔らかな感触で、目隠しをとるまでも無い。
慌てて飛び起きると、意外に低い天井に頭を強かと打ちつけた。
「ねぇ、水が見えなきゃ、揺れや音は大丈夫なの?」
頭を押さえてうずくまっている僕を起こしながら、スティルカは言った。
「う、まぁ、大丈夫だったみたい。」
「みたいって…。」
「こんなことしたことなかったから。」
「君の得意な、“勢い”だね。」
「…そだね。」
「じゃあ、勢いで目隠しを取ってごらんよ。
君が頭を打ったわけも分かるからさ。」
「…、たくさんの水、見えない?」
「うん、保障する。」
僕は、目隠しをとってみた。

一瞬真っ暗な世界。
次に目が慣れると、たくさんの計器類が所狭しと並んだ、機械の中だった。
僕は、宇宙船の中にでも入り込んでしまったのだろうか。
壁からたくさんの色が浮かんで、スティルカと僕の姿をぼんやりと映し出している。
「うわぁ…。」
「ボートの中だよ。
揺れさえ気にしなければ、音も水も見えない。
ただ、僕が操舵するときは、僕のほうを見ないほうがいいかも。
海の光景がディスプレイに映るからね。」

スティルカがボートを操舵しているらしい。
エンジンの唸り声が小さく聞こえ、空間が揺れる。
横以外にも、かなり縦に揺れる電車みたいな揺れだ。
調子に乗って、僕はスティルカのほうを見た。
スティルカの目の前に、大きなスクリーンいっぱいに海が映っていた。
この海に僕はいるんだなと認識したとき、
僕の背中は一瞬で冷や汗で満たされた。
ああ、やはり見るんじゃなかった。
1滴の水も僕に降りかからないのは、このボートに護られているおかげだ。
それでも僕は、スティルカに気付かれないよう、落ち着きを取り戻すのに苦労した。

「さて、ブイのある場所まで付いたと…。」
光と、警告音の暗闇の世界。
しばらくそれが続いた後、スティルカがそう言った。
椅子の向きを変えて、別な計器をいじっている。
エンジンとは別なモーターの音がいくらか短い時間だけ聞こえていた。
「はい、取り込み完了。」
「え?もう?」
「マニピュレータさえあれば、荒れ狂う海の中でも1滴の水も被らずに仕事が出来るんだよ。
本当は、外に出て自分で取りこんでもいいんだけどね。
君、水が駄目だから、ハッチを開けるのもどうかと思って…。
というわけで、晴れてマニピュレータが役に立ったわけ。
便利でしょ、この船?」
「便利って言うか、何かすごいね。
外に出なくても何でも出来ちゃいそう。」
「水が嫌いな君には、この船はぴったりかもね。」
「うん、そうかも…。」
たくさんの水をディスプレイ越しにでも直視出来るようになったら、本当にぴったりかもしれない。
…でも、わざわざ僕が水に近い仕事に就くとは思わないが…。

再び目隠しをしてもらって、ボートから降りた。
桟橋からだいぶ歩いたところで、スティルカは言った。
「はい、君が自転車で来れたところ。」
目隠しをはずすと、スティルカと会うために自転車で乗りつけた場所だった。
「目隠しされていて分からなかった事があるんだけど…。」
「何が?」
「君の部屋って、どの倉庫にあるの?」
「ああ…。
君が怖がると思って言わなかったけれど。
…あそこ。」
スティルカが指差したのは、ハーバーの角に位置した、
波しぶきが当たりそうなほど海が近い倉庫だった。
「君を運び上げたのはいいけど、…まさか水嫌いだったなんて。
でも、良かった、こうして目隠してれば倉庫の外にも出られたんだね。」

それから、僕はちょくちょくスティルカに会いに行った。
スティルカが暇なときは、スティルカの部屋に、
忙しいときも、スティルカは快く僕をボートへと同乗させてくれた。
どちらの場所に行くときも、僕は目隠しをしてスティルカに手を引かれている。
海の音が耳から入ってきてもそんなに怖くない、
スティルカの手につかまっていれば、きっと大丈夫なのだ。
スティルカの部屋、スティルカのボート、どちらにいくにしても、
僕はこうしてスティルカと手をつないでいるこの瞬間が好きだった。

雨の日は、さすがにスティルカの元へはいけなかったけど、
代わりに、スティルカの方が町に現れるのだ。
何故か自分は雨が好きなのだという。
「水が嫌いな君にそういうのも嫌なことかもしれないけど、
雨に打たれていると気分がいいんだ。
特に、雨の日の夜なんか最高だよ。
町の街灯が水に濡れた路面や壁で反射して、町全体の明かりがいつもより何倍も多く見えるんだ。
それなのに、街はいつもより暗い。
雨に打たれて、ひんやりとした感覚の中でたたずんでいると、
宇宙の中に僕が浮かんでいるような気になるんだ。」
「そんなことをして風邪を引かないの?」
僕は風邪より何より、雨の日に外に出るなんてことが考えられないが、
スティルカが言うとおり、雨に濡れた町はきっときれいなのだろう。
あいにくなことに、僕は実物を見れそうにない。
「いや、雨に濡れたときは逆に調子がいいくらいなんだ。
シャワーでもいいけど、やっぱり自然に振って来た水は違うんだよね。」
僕は、お風呂には我慢して入っている。
独特の音を聞くと雨を思い出してしまうため、シャワーは苦手だ。
「何が違うって、…酸性雨とか?」
スティルカは肩をすくめた。
「うーん、このあたりはそんな雨は降らないみたい。
都会の雨は、べたべたするって聞くよね。
さすがに、べたべたしたら僕も雨を嫌いになっちゃうかな。」
濡れた体をひとしきり拭いた後、スティルカは僕の家に上がりこむ。
町に来たときは、僕の家によってねと、念を押しておいたのだ。
僕の部屋に入ったスティルカは、僕の部屋にあるものを興味津々で眺めていた。
「すごい。何これ?」
スティルカが、キラキラした目で僕の持ち物を尋ねてくれる。
僕がそれが何であるかを答えるたびに、
スティルカはまるで宝物を見つけたような感嘆の声を上げるので、
僕は得意な気分になった。
しばらくスティルカとゲームをして遊んだ後、僕たちは別れた。
そして別れた後思うのだ。
スティルカと海の上にいるときの方が、今までのどんなときよりも楽しかったと…。


長期休業の間にこの町に引っ越してきて以来、僕はずっとスティルカと時間を過ごしていた。
休みが明けて学校が始まっても、僕はスティルカのことで頭がいっぱいだった。
学校の同級生たちとあったことが無いのは、
この学校がある程度の管轄を持った大きな学校だからだろう。
転向してきて初めての自己紹介が終わると、
恒例の聞きたがりの質問攻めと、教えたがりの情報攻めが待っていた。
「知っているか?
この町の向こうのハーバーに、スティルカって言う変な奴がいるらしいぜ?」
「ああ、知っているよ。いい奴だよね。」

何の気なしに受け答えたこの質問で、クラス全員が凍りついた。
「え?何…?」
状況の飲み込めない僕が誰とも無くに聞き返す。
「お前、あいつに会ったことあるのか?」
「あ、あるけど…。」
「触ったのか?」
「ま、まぁ、ね…。」
僕が触ったことを肯定すると、クラスのみんなはいっせいに散った。
「うわ、こいつ触ったって!
大変だ、病気が移るぞ?!」
「え、病気って何なのさ?!」
僕が聞こうとしても、誰も答えてくれない。
それどころか、近くにさえ寄ってくれなくなった。

放課後、得体の知れない雰囲気になってしまったことを先生のところへ報告しに行った。
「あの、先生?」
「うん?なんだね?」
この先生とは、あまり気が合いそうに無い、そう感じる。
「スティルカを知っていますか?
何でスティルカは嫌われているんですか?」
「ああ、あのハーバーにいる子の事か?
何でも、あの子が病気を持っていたことがあってね、
あの子が病気にかかった後、町全体でその病気が流行したんだ。
どこから出たうわさか知れないが、あの子に触ると病気になるって言う話だ。」
「先生もそのうわさ、信じているんですか?」
「君子危うきに近寄らずって言葉を聞いたことがあるだろう。
私は、転任してきた身でね、あいにく会った事はないし、会いたいとも思わなかったんでね。」
先生はそう返したが、僕の質問の答えにはなっていなかった。
「どうした、そのスティルカに触れたって言うんじゃないだろうな?」
この先生に真実を言っても、きっとろくなことは無いだろう。
「あ、いえ、ただ聞いただけです。では…。」
先生は、僕が職員室から出て行くまで、ずっと訝しげな顔で見ていた。

次の日、昨日までの友好的な雰囲気はどこへやら、
僕の机は明らかに他の子たちより離されていたし、誰も僕に話しかけるどころか、近寄ろうとしない。
挙句の果てに僕が近寄れば、一定距離以上近づかないように逃げる始末だった。
教室にマスクをした先生が入ってきた。
先生が僕の名を呼んだ。
廊下に呼び出されると、先生は昨日の質問をもう一度してきた。
「君は、スティルカに触れたのか?」
僕は黙ることしか出来なかった。
「どうなんだ!?」
語調が強くなる。
「…はい。」
先生はその返事を聞くと、何も言わずに教室へと戻った。
僕を残したままドアを閉め、そのまま授業を始めた。

「学校、面白くない。」
僕は、休日で家にいる父親にポツリとそういった。
共働きで、家にほとんどいてくれない。
「早速、いじめられたのか?」
「うん…。先生にも…。」

父さんは、次の日会社を休んで、学校に抗議しに行ってくれた。
そして、僕と遊んでいるスティルカが「町の厄介者」であることを聞き、
その厄介者がどうやら病気をひどくして移すものらしいことを聞いてきた。
「そんなのうわさじゃないですか?
町の医者だって、あの子がなんでもない事を言っています。
あなたは医者より、うわさを信じると?」
父さんが抗議してから、先生の態度はずっと良くなったが、
同級生の態度は、ほとんど変わらなかった。
「分からず屋の大人がいるんだ。
お前の同級生なら、鵜呑みにするのも無理は無い。
なぁ、スティルカと縁を切って、同級生と仲良くする気は無いのか?」
ミイラ取りがミイラにでもなったのだろうか。
僕は、父さんにスティルカと遊ばないように止められた。
スティルカと縁を切る?
スティルカ以外に、誰が僕と遊んでくれるのだろう、誰が僕と話をしてくれるというのか。
誰が、こんなにも僕を楽しませてくれるだろう、幸せな気持ちにしてくれるだろう。
唯一の友達と遊ぶことを止める父さんは、僕を裏切ったとしか思えない。
そう、スティルカのせいだったとしても、それは「うわさの中のスティルカ」のせいなのだ。
本当のスティルカは病気なんか持っていない。

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