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裏窓

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rogan064

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俺の部屋の窓の正面には、ボロアパートと廃墟になったオフィスビルが建っている。
俺はその隙間から見える雲が好きだった。
それはアパートのベランダの格子の隙間を縫うように現れて、向かいのオフィスビルまでゆるく蛇行しながら橋をかけている。
俺は毎日、昼夜問わずその雲を眺めて過ごした。
俺が俺のアパートの俺の部屋に入ったときから、雲の形は変わっていない。
変わる訳が無い。
俺は、本物の雲を見たことが無い。
俺が気に入っている雲は、この町を覆う壁に描かれた絵なのだ。
俺の住んでいる町には、空が無かった。
どこまでも続く壁。
それは、擬似的な地平線からまっすぐ上に伸び、恐ろしく緩やかな曲線を描いて反対側の似非(エセ)地平線へと消えていく。
壁には地面に近いところから徐々に深みを増し、人工光源周辺ではその光源により白さを得て、頸を痛くして反対側に向かうごとに地面に近い色になる見事なグラデーションが再現されていた。
「再現」というと語弊があるかもしれない。
俺は本物の空を見たことが無い。
この町にいる限り、永遠に見ることは無い。
かといって、壁の向こうに出てみる気なんて毛頭無かった。
外は、人外の世界だ。
それがこの町の、この世界に残された唯一の人類の集落の常識だった。
人類の居場所は、この壁の内側にしか無い。
そう思っていた。

だがどうだ。
俺は今、壁の向こう側にいる。
気の遠くなるような時間、一度も掃除されなかったかのような錆と水垢と煤だらけの壁を眺めている。
壁の端から飛び出した煙突から体に悪そうな色の煙がもうもうと立ち昇り、灰色の空の柱となってゆく。
完全に朽ち果てた木造の住居。
弾痕が刻まれたままのショーウィンドウ。
つぶれた放置車両。
絵に描いたような廃墟の町並み。
その隙間を歩く。
俺。
人間。
異端者。
・・・・・・餌。
炭化した大腿骨。
鉄筋に貫かれるようにディスプレイされた、両手と首の無い上半身だけの白骨死体。
・・・事故でああなったことを祈ろう。
地面に散らばる薬莢。
おそらく、9mm。
小石ではないという感覚が、足の裏から這い上がってくる。
そこら辺の「小石」は、十中八九人骨だろう。
不快な情報から脳を完全にシャットアウトし、ただひたすら、壁に向かって黙々と歩く。
商店街からオフィス街に入ると、行き止りになっている道路が目立ち始める。
事故車の量が格段に増え始めるのだ。
普段着で乗り越えるのはあまりに危険な箇所が多いため、道なりにすら進めない。
「・・・・・・ちくしょ。」
ただの左折路になっている交差点を曲がった直後、90度右に曲がったところで横転したトレーラーのバリケードに遭遇した。
幸い、ボンネット式の鼻先の隙間から反対側に抜けられそうだ。
服が汚れるのを気にしながら、タイヤに足をかけてトレーラーの運転席のドアの上によじ登る。
・・・運転席の中はあえて見ない。
ドアの隙間からなんか覗いてるけど気にしない。
うっわ・・・、踏んじまった。
腐敗しかけた皮下脂肪がズルンと剥け落ち、バナナの皮と同じ役目を果たす、トラックの運ちゃんの右手の皮膚。
「おうっ!?」
落ちた、と、思った。
しかも腰から。
空中にいる間に、無意識のうちに叫び声を上げる準備を整える。
だが、地面は思いの外近くて、叫び声を上げるほど硬くも無かった。
そして、俺が叫び声をあげる必要も無くなった。
叫んだのは、地面だった。

「ぎゃっ!!」
俺を受け止めた地面は、俺が上げる予定だった、俺の台本通りの叫び声を上げる。
が、俺がワンバウンドして地面に落ちる前にはもうすでに体勢を立て直していたようだ。
事実、俺が地面に落ちるのと、「地面」が俺の肩を地面に叩き付けながら俺の上に馬乗りになるのはほぼ同時だった。
赤色の目が、俺の顔を捉える。
多分、これって最悪の事態。
状況を整理しながら、頭の中でこの一文がひたすら渦巻く。
それはだんだん速度を増し、サイケデリックな渦巻きとなって俺の脳味噌を完全に飽和状態にする。
幼いときから本能的に埋め込まれた恐怖感が、いざ本物を前にして一気に覚醒する。
俺を押さえつけたのは、体長2.5メートル程の、ダークブラウンの体の、竜だった。
悲鳴を上げそうになる俺の口を、四本指の前足で塞ぐ。
そのまま粋を感じるほどに顔を近づける。
うわちょっと待って怖い怖い怖い。
これヤバイって絶対ヤバイって。
 *される*される*される。
「アンタ、あいつらに嗾(けしか)けられたか何か?」
その竜が口を開く。
どうやらメスのようだ。
だからどうした。
口を塞がれているので、「質問の意図が全くわからないので詳しく説明していただけませんか女王様」なんて意思表示は行えない。
許されている範囲で、首を横に振る。
もう泣きそう。
・・・泣いてるかも。
現在、竜の片手は俺の口に、もう片方は俺の胸の上に置かれ、俺の体を股の下に挟んで地面にしっかりと固定している。
両手は動く。
だからどうした。
俺の力ではこの竜の小指を引っぺがすことだってできないさ。
四本指なのに小指って何処だよなんて野暮な突っ込みはなし。
フィーリングフィーリング。
「じゃ、わざわざ一人で外に出てきたわけ?」
否定。
「ふーん・・・、じゃ、気付いたらココに居たってワケ。」
肯定。
うー、と声も出す。
「ご愁傷様、アンタ、オンだされたんだ。」
・・・・・・・・・・・・・・・へ?
「んー!?」
塞がれた口から、言葉にならない声が漏れる。
いや、確かにそんな都市伝説は聞いた記憶がある。
無作為に選ばれた住人を、一定の期間ごとに外に放り出す組織がある。
それに選ばれると、寝ている間に壁の外まで機械で運ばれ、二度と戻ってこれない。
少し前に流行ったと思ったが、その直後、お偉いさん方が異例の会見を開いてそれを全面的に否定した。
ああ、あれってやっぱり本当だったんだ・・・。
「ま、いいや。とりあえず手ェ外すけど、静かにしてなさいよ。」
「うー。」
少しの間の後、むにむにした手が俺の口から離れる。
とりあえず、意味もなく深呼吸。
・・・・・・・・・。
「アンタ、これからどうする?」
竜が沈黙を破った。
そんなこと聞かれても困るけど。
「・・・分からない・・・です。」
変な敬語で答える俺。
「兎に角、ココであんまり長居するのは危険だから、ちょっと移動するよ。」
「あ・・・、はい・・・。」
釈然としないまま、促されて立ち上がる。

がん。

鉄の板がへこむような音が響く。
トレーラーの荷台部分に、何かがぶち当たったようだ。
と、竜に手首を捕まれ、抱きかかえられて、飛ばれた。
なかなかの跳躍力だな、と思う。
4メートル近くは行くんじゃないかとか、暢気なこと考えてたら、トレーラーが
爆発した。

そのまま逃げに入る。
近くのビルに「よじ登り」、壁伝いに距離をとると、俺が最初に居た商店街のアーケードの天井に登り、その中の一つの建物の天窓から中に入る。
止まったままのエレベーターの屋根からシャフトに出て、俺を抱えたままでそこを一気に飛び降りる――。

ぼす。

シャフトの底は完全に取り払われており、その下には随分と使い込まれた着地用マットがあった。
「大丈夫?」
腕に抱えた俺の顔を覗き込みながら、赤い瞳の雌竜が言葉を発する。
俺はというと、トレーラーの爆発からこっち、完全に放心しており、着地してやっと呼吸できるようになったという、物凄い有様だったわけだが・・・。
されるがままに抱きかかえられていたはずの竜の右腕を、両手で力いっぱい抱きしめながら必死になってぶら下がり、叫ぶこともままならない状態でガタガタ震えていた俺は、その問いかけにかろうじて反応する。
否。
返答しようとしたのだが、口が震えてうまく言葉が繋がらない。
あわあわわわああわあわっわああ・・・とか何とかわけの分からない音をひたすら発する俺を、ちょっと微笑みながら見下ろす竜。
「全く・・・、あいつら、加減てものを知らないんだから・・・。」
ため息混じりに言う横顔。
鬣(たてがみ)がやや長めに生えており、細い、端正な顔だと思った。
竜に人間の顔の尺度は通用しないのかもしれないが・・・。
それでも、綺麗な顔。
汚れた顔をぬぐいながら、ほっと息をつく。
「じゃ、行こうか。」
竜がクッションを降りる動作に入るまでに、俺の体内時計で約3分の時間を要した。
俺が落ち着くまでの3分間、竜は俺の体を膝に抱えて気長に待っていてくれたわけだが・・・。
・・・・・・面目無い、と思った。

竜はフィアと名乗った。
本名かどうかは知らない。
というか、ここに「本名」なんて概念があるのかどうかもよく分からないが・・・。
クッションから起き上がったままその縁に腰掛ける。
天井に開いた穴は、思ったよりも大きい。
4畳半分程あるだろうか。
クッションがおいてある空間は、少し開けた部屋のような場所だった。
車を停めようとすると、6~7台で一杯になってしまいそうだが、それでもどうやら地下駐車場らしい。
俺のすぐ脇の壁に、もう二度と開かないであろうシャッターが見える。
外側から何かが激突したかのように変形したそれは、はがれかけたペンキの上から厚い埃を被り、さらにその埃の上に砂が付着しているような気がする。
クッションから飛び散ったものだろう。
それ以外の壁には何も無い。
すすげた飾り気の無いコンクリートが露出しているだけだ。
そのまましばらく無言になる。
どちらとも無くため息を漏らし始め、疲れたような笑い声が駐車場の壁に反響した。
「じゃ、そろそろ行こうか。」
フィアが言う。
「あ・・・、はい・・・。」
なぜか敬語になる、俺。
フィアはそんな俺の態度にまんざらでもないような顔をして、俺の肩を押しながら部屋の扉から駐車場を後にした。

そこは、何の変哲も無い地下街だった。
唯一つ、そこには人が居ないことを除けば。
ところどころに2~3体でたむろしている竜達。
奥の階段周辺では、その集団のうちの何人かの口から煙が上がっていた。
たぶん煙草。
この上火まで吹かれたら堪らない。
その場でしばらく呆然としていた俺の肩をフィアが押す。
それに気付き、歩を進める、俺。
何とも言えない居心地の悪さが俺を包む。
正直、俺はここに居てはいけないと思う。
本来なら、上でわけの分からん連中に襲われて、そこら辺の小石の仲間入りになるはずだったのだ。
運がいい。
本当に、洒落にならないぐらい運がいい。
でも、やっぱり居心地が悪い。
学校の休み時間に、入る教室を間違えたような気分。
既に周りの竜の仲の何人かが俺に気付いたらしく、嫌ーな視線を送ってくる。
「あのー・・・、これって俺、ここに居ちゃいけないっぽくないですかねぇ?」
「ん?何で?」
「・・・・・・・・・。」
姉さん、本気ですか・・・。
いや、違う、これはきっと俺に変な気遣いをさせないための彼女なりの気遣いなのだ。
きっとそうだ。
うん。
「ここー。」
フィアが小さいシャッターの前で立ち止まる。
見たところ、二階建てのカフェのような店舗のようだ。
店の前から狭い階段を使って直接二階に上がれるような設計になっている。
その階段の扉代わりのシャッターのようだ。
フィアがそのシャッターを開ける。
先に中に入って、尻尾を振りながら俺を見下ろす。
ああ、これはやっぱりアレをやらないといけないのか・・・。
うん、知らない振りをしよう。
「・・・あの・・・、お邪魔します・・・。」
「・・・人間クン、ここはあなたの家なのよ。」
・・・やっぱりきた。
つばを飲み込む。
嚥下にあわせて、顔のほてりが少し下に落ちた気がした。
これって、実際にやられるとものすごく恥ずかしい。
「・・・た・・・、ただいま。」
「お帰りなさい♪」
後ろで無常な音を立ててシャッターが閉まった。
うん、逆に考えるんだ。
これで竜連中の寒い視線からは解放されるんだ。
そう考えr・・・
「おいしょと。」
「・・・・???・?・???!!!??!?!?!?!?」
体が浮き上がる。
シャッターのほうを向いていたはずなのに、いつの間にか目の前には階段。
わきの下には、俺の体をしっかりと支える竜の前足。
「ちょっ・・・・・・・・・、何を・・・!」
「あれー?抱っこされるの嫌いー?」
・・・姉さん、あなたはそんなことを言ってもいい人(?)じゃないような気がするんですが・・・。
後ろで階段狭しと暴れる彼女の尾が見える。
背筋までつながる、筋肉質な尾。
背中に当たってる胸。
もう離さないといった雰囲気で俺の胸囲をしっかりと支える腕。
耳の脇をひたすらなでる人間のそれよりもかなり長い首筋。
そして、その筋骨隆々の体の先端についた口から漏れる、ご機嫌を知らせる鼻歌・・・。
フィアは俺を片手で抱えたまま、部屋のドアを開いた。

部屋の中は、割合片付いているように思った。
と、言うよりも、必要なものが少ない上に、必要なものしかおいていないからだと思う。
今まで自分がどれほどものにあふれた生活をしていたかを思い知った。
フィアは少しおくに引っ込むと、物置のようになっている一角から椅子を一つ引っ張り出してきた。
「人間って、これで良いよね?」
そう言うと、自分は床に腰を下ろす。
確かに、こいつらは椅子に座れる体系に見えない。
口の中でもごもご礼を言いながら椅子に座る俺を、緩んだ頬で観察するフィア。
・・・こいつらの頬って何処だ?
まあ、フィーリングだ、フィーリング。
お互い、何もしゃべることが無くなる。
俺は、椅子に座ったまま体の向きを変えて、部屋の窓からカフェの前の通りの様子を眺めていた。
埃がたまった通路の上で、談笑したり喫煙したりする、人外達。
風も無いのに舞い上がる、通路の隅の土埃。
崩れ落ちた階段の隙間から外に逃げていく煙草の煙。
外界と遮断された、あの異様な空気から解放された安堵感と、心地よい閉塞感に、思わず溜息を漏らす。
カウンターの向こうの一角には古ぼけたガラスケースがあり、その中には澄んだ液体の入った瓶が大量に並んでいた。
その脇には、ほとんど元の形を保っていないジュークボックス。
ここは喫茶店ではなかったようだ。
そんなことはあまり重要じゃないけど。
「ここ、もともと飲み屋だったみたいね。」
フィアが言う。
「・・・良い雰囲気だよね。」
俺が返す。
何と言ったらいいのかよく分からないので、とりあえず無難に誉めてみる。
「まあ、外の廃墟を漆喰で塗り固めたようなモノだけどね。」
返す言葉がなくなった。
壁際の冷蔵庫に視線を移す。
「ここって、電気通ってるんだね。」
「僅かだけどね。使える分は冷蔵庫くらい。あ、なんか飲む?」
「何がある?」
「色々。」
冷蔵庫まで這っていき、扉を開けながらフィアが言った。
竜一匹が体をめいっぱい伸ばして移動できるわけだから、その殺風景さが際立つ。
俺も冷蔵庫まで歩いていき、中を覗く。
「氷?」
「あと、レモンと水とソーダ。」
下の段を開けながら続けるフィア。
ああ、そうか。
色々あるな、確かに。
「で、何にする?」
「・・・とりあえず軽いの。」
「あぁ、酒駄目?」
「いや駄目ではない。が、慣れてないから。」
「あ、そう。」
そう言いながら、フィアはカウンターの中のガラスケースを開け、中から瓶を2本取り出す。
俺は所在無さげに床に座る。
自分だけ暇になるってのは、あまり居心地のいいものじゃない。
瓶の下の段からグラスを2つ取り出し、器用に片手で持ったまま流しに向かい、半分程まで水を注ぐ。
それを冷蔵庫まで持ってきて、氷を適当に分配して入れた後、水を捨て、そこに再度冷蔵庫から出した液体を注いだ。
炭酸特有の、水面が弾ける音。
片方は半分程、もう片方は4分の1ほど注いだ後、半分の方には赤い液体を、4分の1の方には透明な液体をと流し込む。
水面の位置が、綺麗にグラスの縁から数センチで揃った。
透明な方にレモン汁を絞り、両手でグラスを持ち上げて、今度はしっかりとこちらに歩いてきた。
「カシスなら平気でしょ。」
「あ・・・、はい。」
透明なピンクの液体を口に含む。
フィアは舌で器用に啜る。
グラスの口が広い理由が分かった。
「平気?キツ過ぎない?」
「平気。」
フィアが安心したように視線を窓の外に投げる。
「ねえ。」
「ん~?」
俺が彼女に声をかけると、思った以上に鼻にかかった声を出してきた。
「え・・・・・・えと・・・、それ、ちょっと飲んでみていい?」
「・・・ああ、慣れてないんだっけ?いいよー。」
「ありがと。」
口に含んだ若干強めのジン。
それは炭酸の刺激とともに、冷たい熱気となって、胃袋に流れ込む。
口の中に微妙な辛さが残り、それが消化される前にもう一口。
嚥下の様子を興味深く見つめるフィアの視線に気付き、慌てて口からグラスを離した。

「・・・・・・あんた、そういえばあんまり動じなかったよね。」
「何が?」
とりあえず先ほどのグラスを空にした後、フィアが俺に話を振った。
「いや・・・、暇出された話。」
「ああ、その話・・・。」
彼女は頷き、しかし何も言わず、黙ったまま話の続きを促す。
慣れない酒の所為なのか、彼女に・・・、出会ったばかりの・・・忌むべき人外にもう心を許したのだろうか、思案する気にもならず、口をついて出てきた言葉を並べる。
「もともと・・・、貧困層だったし・・・、中では身元も居なかったしね。」
「ご両親とかは?」
「知らない。もともと一人。」
「ふーん。」
そう、俺には身元が殆どない。
俺が住んでいたボロアパートの住人は大体そうだ。
いかにも「ワケあり」な住人達――指が四本しかなかったり、さらにその指にも常に手袋をはめて、夏でも丈の長いコートを手放さず、帽子を深く被るような人たちの集まり――の中で生活し、時々彼らのゴミ出しを手伝ったり、手伝われたりしながらの生活。
眺める景色は作り物の狭い空だけ。
アパートの部屋と、近くの雑貨屋と、ゴミ置き場で完結する生活。
死んだらゴミ置き場に遺棄されるか、外に投げられるんだろうなと思っているうちに、例のコートの変人は居なくなり(ちなみにその変人は隣の部屋に住んでいた)、向かいのピアスだらけの中国人もいつの間にか行方不明になって・・・。
「だからさ、基本的にいつ終わってもいいように覚悟してた生活だもん。殺されないと分かったら、何かそれだけで安心できた。」
「まだ殺さないとは言ってないけどね。」
「殺さないでしょ?」
「うん。」
「ならいいや。」
ははは・・・、と渇いた笑い声が口から漏れる。
フィアは笑わなかった。
「よし、もいっちょ!」
やはり沈黙に耐え切れず、今度はフィアのと同じにしてくれと言いながらグラスを満たしてくれるように注文をつける。
フィアは、大丈夫~?とか言いながらちゃんと持ってきてくれた。
「だ~いじょヴだって!何か湿っぽくしちゃったし、もう今日は身の上話は無し無し。このまま呑みながら寝ちまおう、ね?」
「それもいいかもね。・・・私も、こんなことするの久しぶりだし。」
結局、ボトルにほぼ一杯あったジンが、この夜だけで半分以下にまで減ることになった。

「おぶうぇぇぇぇぇぇっ!」
「だから言ったのに・・・。」
残った最後の胃液を吐き出す俺背中をさすりながら、フィアが冷めた声で言う。
昨日の酒は全く残っていないようだ。
俺はといえば、慣れない物を一気にあれだけ大量に体に入れた所為で、酷い頭痛と不快感に苛まれながら目を覚まし、そのままトイレに直行したのだ。
「大丈夫?」
フィアが俺の顔を覗き込みながら言った。
吐くだけ吐いた所為か、ある程度楽になった。
フィアが持ってきた水をちびちび飲みなから床に座り込み、彼女の持ってきた頭痛薬を飲む。
多分、人間が飲んでも平気。
ため息をつくフィアを見上げる俺。
だいぶ楽になってきた。
胃の中の物がちゃんとした方向に流れていく気がする。。
と、視界の端に細長い革ケースが目に入った。
「何あれ?」
そのケースを指さして言う。
幾分使い込まれてはいるが、誇りが溜まっている様子もなく、手入れが行き届いているようだ。
「あぁ、撃ってみる?」
「は?」
「銃。APS-2って言うんだけどね。」
腰を上げ、彼女がそのケースを持ってくる。
細長い。
長さが1mはある。
重さもかなりあるらしく、ケースが床に降りたときにはごとん、と音がした。
フィアが慣れた手つきで留め金を外す。
中から出てきたのは、スナイパーライフルだった。
その周りには衝撃吸収様のスポンジが積められ、ケースに一緒に入っている弾倉には、もうすでに弾が入っているようだ。
「撃ちたい?」
料理を覗き込む幼い子供に対する口調だった。

カチンと小気味よい音と共に、弾倉が銃に突っ込まれる。
「はい。」
弾倉がセットされた銃を、フィアが俺に手渡した。
ずしりとした鉄の塊。
見よう見まね、映画や本で見た光景を思い返しながらグリップを握る。
「左手添えて、銃身が地面と水平になるようにするの。」
言われた通りにすると、右わきの下あたりにグリップ部分の先端が当たり、そこから左手までが一本の線で繋がった。
俺達は今、フィアの住処の3階部分にいる。
俺は屋根に突き当たったところで建物が終わっていると思っていたのだが、あの喫茶店は地上にも伸びていたらしい。
シャッターは完全に閉まっていて薄暗いものの、手元で銃器を扱う分には支障はなかった。
構え方を教わったところで、シャッターの隙間から銃口を外に向けて見ろと言われた。
隙間の位置が低いので、左膝を立てて長座し、その膝に左腕を載せる形で姿勢を安定させる。
「右目、使えるよね?」
「うん。」
頷かずに答える。
「じゃあ、スコープ覗いてみ?」
言われた通りにした。
「おぉ・・・。」
この建物は、元々は片側3車線の道路に面していたらしい。
その道路を、車線に対して斜めに見る事になり、視界はかなり広い。
200m程向こうに見える建物が、8倍望遠のスコープを通してじっくり観察できた。
「どれか一つ、窓狙って、引き金引いてみて。」
言われた通り、その建物の窓で、まだガラスが残っている物一つの窓枠の中にサイトを収め、引き金を引いた。
がしゃん
俺がねらった窓は、微動だにしない。
「いま・・・引き金引いた?」
「引いた。」
「弾は出てないわ。」
俺はスコープを覗きながら、ビルの壁をなめ回す。
「あ。」
人影。
いや、人ではないようだ。
「竜・・・人・・・?」
「あぁ、スライド引いてないでしょ?」
フィアはそう言って、俺と並ぶように隣に腰を下ろし、グリップの上にある金属の突起を指で示す。
俺はスコープを覗いたまま、(フィアに手を添えてもらいながら)スライドを引く。
仰々しい金属音が、小さなコンクリートと金属の空間に響く。
フィアは完全に俺の後ろに回り、左手を添えてライフルの上、俺と顔をくっつける様な位置から、銃口の先を覗き込む。
「下から・・・、25階ね。」
「細かいことはわかんないけど、近くに英会話教室の看板がある。」
「じゃ、そこね。」
灰色の埃と砂に覆われた、死んだような廃墟の中で唯一の生きた存在。
ダークグリーンの体で、青いコートを着て、先ほど割ったのであろう窓から、俺たちと同じ様なライフルを覗かせている。
彼の視界には、俺たち以外の誰かの姿が映っているのだろう。
「狙える?」
「はい!?」
「威嚇でもいいから、取りあえず頭ねらって一発撃ちなさい。外しても相手は一旦は顔引っ込めるから。」
「じ、じゃあ、取りあえず・・・。」
「頭よ。」
「ん。」
スコープと左腕に全神経を集中させる。
つーかフィア、この距離で裸眼で見えてるのか?
凄い視力・・・。
「あー、糞、ブレる。」
「焦らないで、力を入れすぎない。だんだんブレ幅小さくなっていくから。」
その言葉通り、だんだん的に中に居る時間が長くなっていく。
最初は0.5秒以下だったものが、1秒、2秒、3秒――。
「いい感じ・・・。」
フィアに見られていても、不思議と緊張はしなかった。
それどころか、添えられた左手が実に頼もしい。
目標内で5秒以上の時間キープできるようになったとき、フィアのGOサインが出た。
まあ、「うん。」と言っただけなのだが。
ちなみにその間、目標はライフルの調整に精を出しているようだ。
GOサインが出たときには、もうトリガーに指を掛け、発射する寸前だったようだが。
俺はサインの時点では引き金を引かず、そこから一度目標からそれるのを待ち、さらにもう一度狙いが定まるまで待った。
発砲は、若干相手の方が早かった。
と、思う。
向こうが引き金を引いたのと、こちらの建物に轟音が響き、俺に衝撃がもろに押し寄せたのは完全に同時だった。
が、相手の銃から弾が出る前に、俺の放った鉛球が相手の脳幹をぶち抜いたようだ。
相手の銃から弾が出てくる瞬間、銃口が大きく逸れたのが確認できた。
と、まあ、ここまで偉そうに言葉を並べたわけだが、実際問題、俺にはそんなことをした実感は全くなかったし、そんなこと確認してる余裕もなかった。
今までほとんどゲーム感覚だったものが、突然、命を奪う行為に変化した。
それだけで、俺の思考を停止させるには充分だったのだ。
「・・・・・・・・・当たった?」
声が掠れた。
「お見事。」
軽い口調でフィアが言う。
「どんな気分?」
これもフィア。
「・・・何か・・・、何て言うか・・・。」
「銃って、意外と重いでしょ?」
俺は、長い時間を掛けて頷いた。

「じゃ、あっち行くよ。」
俺の心が落ち着く前に、フィアがそう言い、言いながら下の店のフロアに降りていった。
と、思うとすぐに戻ってきて、俺からライフルを受け取るとまた引っ込む。
下から呼ぶ声がしたので俺も下の階へ向かった。
前にもちらりと書いたかもしれないが、この建物の構造は少々特殊である。
部屋の中に階段が無い。
建物の中には存在するが、そこは屋内と言うよりもマンションなどの廊下やベランダと言った雰囲気だ。
(無論、地下なので外に面しているわけでもないし、雑居ビルなので天井もちゃんと付いている。)
故に、階段を通る際は部屋から出る必要があり、外から入ってくるときも階段が先だ。
つまり、来客があったときに俺のような者が階上から降りてくると、家主よりも先にその来客と鉢合わせることになる。
まあ、そういうことが起こったわけだ。
「お前・・・、何?」
目の前に居たのは、雄の眼鏡の竜だった。
見たところフィアよりも体が大きいように見えるが、今は俺の方が階段の上に居るので目線は俺の方が若干高い。
だからどうしたなわけだが。
「え・・・、えっと・・・、い・・・、居候・・・・・・?」
「ほう・・・。」
普段からあまり開けない癖なのか、そんな顔なのか分からないが、目が細い。
細長いが、中国人のような印象は受けない。
切れ長に見えるので逆に好印象だ。
体色はちょっと暗めの赤。
暗闇だからよく分からないが、若干紫がかっているのかもしれない。
あえて呼ぶなら『ダークバイオレット』とでも言うべきだろうか。
金色の鬣(たてがみ)を伸ばし、普段は縛って・・・るのかこいつ。
今日は寝癖が残ったような状態で殺人的に乱れている。
微妙に曲がっている眼鏡は指紋やら何やらで非常に汚い。
本人もそれに気付いているらしく、眼鏡をはずして指の腹でぬぐったが、白っぽい部分がまんべんなく広がっただけだった。
「お、きー君来てたのー?」
フィアがドアを開けて登場し、俺とその紅い竜の間に割り込む。
ちょっとありがたい。
「ああ、この子のこと?ちょっと長くなるから、中入ってー。」
「あ・・・、ああ。」
きー君と呼ばれた竜が先に中に入り、後を追うように俺も店の中に入った。

「で、そー言うこと。」
実際「長くなる」とは言っても、おおよそ5分ほどで俺の話は終了した。
まあ、立ち話するには長いな。
因みに、今は朝の4時だ。
「で、こいつは桐生。ここのお向かいさん。」
きー君の本名は桐生だったようだ。
一応、料理屋をやってるらしい。
人(?)は見かけによらない。
と、同時に銃器の収集家であり、メンテナンスもできるらしい。
フィアのところにあったライフルを手入れしていたのはこいつのようだ。
「で、何でここに居たの?」
フィアが桐生に聞いた。
彼はここにはそれなりに出入りしてはいるが定期的なことで、前回来てからそれほど時間は経っておらず、それが不思議だったらしい。
そうでなければこの上なく失礼な質問だったかもしれないが、お互いそんなことは気にしていないようだ。
「いや、さっきライフル撃ったろ?サプレッサー無しで。」
桐生が答える。
眠そうな声。
と、言うよりも寝起きの声だ。
「あ、起こしちゃった?なら、ごめんね?」
フィアが悪びれずに言う。
桐生も慣れているのか、それ以上の言及はしない。
「じゃあ、何で撃った?」
「この子。」
フィアが不意に俺を指差した。
「この子にちょっと撃たせてあげようかと思ってね。」
俺はあははと笑いながら頭を掻いた。
桐生はため息をつきながら頭を掻いた。
「お前さあ、せめて.36あたりにしとけよ・・・。よりによってあんなに扱いにくいモン・・・」
「あら、でも彼当てたわよ?」
「・・・・・・・・・何に?」
「見に行く?」
「・・・・・・・・・ちょっと待ってろ。」
桐生はそう言い残して部屋から出て行った。
フィアはと言うと当たり前のように首からベルトのようなホルダーを下げ、そこに銀色の結構大きいハンドガンを突っ込んでぶら下げていく。
あれが多分、さっき言ってた36口径だろう。
フィアが俺の方にやってきて、俺の腰にベルトを当て、金具をはずし、ベルトを切断して金具を付け直し、俺の腰にはめて絞めた。
彼女の鼻息が、俺の顔にかかった。
ベルトにホルスターに入った拳銃をぶら下げる。
昨日俺が着ていた上着を渡しながら、一度銃を抜いてみるように言った。
銃を抜く。
「これ、M92Fミリタリーモデル。弾は本来は9mmパラベラムが主流だけど、今は同じ9mmのヒドラショックってのが入ってるから。」
「ひ・・・ひどら?」
「ソフトポイント。弾頭部分が銅合金とかで完全に覆われてるフルメタルジャケットに対して、その弾頭に一部穴を開けて、真ん中の鉛を露出させてあるの。」
「はあ・・・一応、9パラは知ってるけど・・・。」
「それの強化版ね。ソフトポイントってのは、着弾と同時に弾頭が潰れて体組織を押しつぶすから、貫通力重視のフルメタルジャケットよりも殺傷能力が高いのよ。」
「へ・・・、へえ・・・。」
「まあ、発射の衝撃で潰れないよう・・・9mmの場合はまず無いけどね・・・、若干火薬の量は少なめになってるらしいけど・・・。」
一応聞いたことはある。
『非人道的』とかいう理由で、戦争には使っちゃいけないらしいが・・・。
「で、撃ち方は分かる?」
「えーと・・・、スライド引いて引き金引く?」
「そ。一応、フルオートにもできるけど、20発も入らないからすぐ空になっちゃうのよ。だから撃つときはセミオートにして、一回ずつスライド引かないと弾出ないようにしときなさい。」
「ん。」
一応、その理屈は分かる。
一瞬で弾を撃ちつくしてしまわないように、一回引き金を引くと弾が3発連射される3点バーストなんて機能が開発されたくらいだ。
ちなみに、その機能はこの後継のM93Rに実装されている。
「で、仕舞っとくときは必ずセーフティかけとくこと。いい?」
「こう?」
引き金の脇にあるつまみを操作する。
「そうそう、分かってるじゃない。触ったことあった?」
「近所に住んでた例の4本指のにーさん。」
「ああ、なるほど。じゃあ、撃ったことは?」
「無い。」
流石にいくら治安が悪いとはいえ、中庭(外では俺たち人間が住んでいる隔離地域のことをそう呼ぶらしい)でだって銃刀法くらいはある。
じゃあ、あのにーさんは何で持ってたんだろう・・・。
まあ、危なそうな人だったし、それくらいでは驚かないが・・・。
「おまたせー。」
そこまで話したところで、桐生が戻ってきた。
背は高いが華奢な体の輪郭は、素肌に直接羽織った丈の長いコートで隠れているが、腰の辺りに銀色の輝きが見える。
銃だった、が、やたらデカイ。
彼らの大きい指が通常のハンドガンのように取り回すことができる程度の大きさだ。
改めて思い出してみると、さっき撃ったスナイパーライフルの引き金部分も通常のものよりも大きかったような気がする。
まあ、竜用のカスタムモデルだろうが・・・。
「あれ?新作?」
フィアが桐生の手の中を覗き込んで言った。
その中には俺の親指ほどの大きさの銃弾が数発納まっている。
ちなみに、彼は右手にだけ人差し指部分の無いグローブをはめていた。
「ああ、やっとこさ出来た。」
「何ですか、これ?」
俺もフィアの下から手の中を覗き込む。
「見たとこ44口径っぽいですけど・・・。」
「当たり。ソフトポイントだけどな。」
自慢げに言う、が、何がすごいのかよく分からない。
俺の知識はサバゲー用のモデルガン、すなわち銃本体のみで、弾丸は完全に専門外なのだ。
「ソフトって・・・、危なくないの?」
「火薬の量、ギリギリまで削ったんだよ。多分、通常の1/3くらいしか入ってない。」
桐生は相変わらず嬉しそうな顔を崩さない。
・・・なんとなく理解した。
さっきフィアが、ソフトポイントは発射の衝撃で潰れることがあると言う話をしたではないか。
マグナムは通常の弾に比べ、弾を飛ばすときのエネルギー源とする火薬の量がべらぼうに多い。
つまり、衝撃で潰れるようなタイプの弾を使うには一番向いていないのだ。
下手すると、引き金を引いた瞬間に拳銃内部で弾が破裂する。
「――ってことですか?」
「そう、なかなか鋭いな。」
「で?ただのソフトポイントなわけ?」
「違うな。」
桐生がものすごく楽しそうだ。
「俺の職業、何だった?」
「日本料理屋。」
そ・・・、そうなの?
目の前の竜が出刃包丁で小さい小さい魚を下ろしている所を想像した。
・・・・・・やっぱり、手先が器用なんだろう。
勝手にそう納得しておく。
日本料理といっていきなりサシミを連想した俺も安直と言えば安直だ、と思った。
「じゃあ、その食材の中で、絶対に客に食わせてはいけないのは?」
サシミ・・・と言えば生の魚。
俺にとっては「なにそれ?食えるの?」の世界だ。
「あれ・・・?分かると思ったがな・・・。」
桐生がまた頭を掻く。
どうやら、癖らしい。
「フグの肝臓だよ。」
桐生が大分もったいぶって答えを疲労する。
と、言われてもあまりピンとこない俺たち二人。
「テトロドトキシン、通称TTXだ。経口摂取の致死量は青酸カリの1/850、血管に入れれば数秒で呼吸困難を起こして死に至る。」
「ちょっと待って、ってことは。」
これは俺だ。
いつの間にか敬語が消えている。
「弾頭さえ相手に当たって、血管にそのテトロ何とかが入っちゃえば・・・。」
これはフィア。
「ああ、ほぼ間違いなく殺せるだろうな。」
「「・・・・・・・・・・・・・・・。」」
こいつは・・・、敵に回したくないな・・・。
つか・・・、話がものすごく逸れてる気がする。
さっきの死体の回収は?
「・・・あの・・・、さっきの死体は・・・?」
また敬語に戻り、さりげなく聞く。
「ああ、そういえばそのために来たんだったな・・・。」
桐生が気の無い声で言う。
「まあ、あいつ、弾も多少持ってきてるだろうし、それが儲かるだけでも良しとしないと。」
これはフィアだ。
「じゃ、行こうか?」
また上に上がり、さっきのシャッターの脇にあるステンレス製の安っぽい扉を開く。
普段は内側から鍵をかけているようだ。
そのままさっき俺が打ち落とした竜人の死体が転がっているビルへと向かうわけだが、・・・その間ずっとフィアに肩車されてて、おまけに抱きかかえられて飛んでビルの窓から入ったのは秘密。

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