「そうか、マグナムハウンド隊が全滅したか……」
報告を聞き、目を細める人物。元よりあの男の相手を、そこらの連中ごときができるとは思っていなかった。
全滅も当たり前だろう。あの男を倒すには、絶対的な力が要る。そう、自分のような……。
「ケーン、独善と共に来るがいい。今度こそ、この俺がその息の根を止めてやる……」
火星圏に辿り着いたアーリーバード。しかし、その進路は絶望的であった。
無数ともいえるイオカステ本星艦隊。そして対するディオニュソスの艦隊。この両者を止めるには、どんな手段があるだろうか。
更にケーンたちを苦しませる、もうひとつの現実。イオカステ艦隊が持ち出した新兵器。
衛星砲『ゼウス』。大型の隕石の内部にジェネレーターと加速器を置き、隕石丸々一個を巨大な粒子砲に改造した戦略兵器。
その一撃は、ディオニュソス艦隊を殲滅するのに充分すぎるほどだ。イオカステの切り札なのだろう。
だが、逆に言えばゼウスを破壊することができれば、戦いを終わらせることができるかもしれない。
戦力的には、ディオニュソスの方が質が優れている。隕石砲を破壊し、両者の戦力差を無くせば、戦いは膠着状態に陥り、争いそのものが中断される可能性が高い。
全力での戦いとは、彼我の戦力差が大きい時を見計らって行われるものだ。そうでなければ、戦力をすり減らすだけの自殺行為だからだ。
イオカステがゼウスを持ち出してきたのも、圧倒的戦力差を確保するためだろう。
「よし、作戦は決まった。戦いが始まると同時に突入、衛星砲ゼウスを破壊、両者の戦力バランスを変えて、戦いを中止させる。それしか方法はない」
「ケーンの立てる作戦だからな。信頼してるよ」
「はい、私もそれに賛成です」
こうして、作戦の実施が決まった。コルトは格納庫に降り、機体の整備を始める。ケーンはセラと共に、ブリッジのウィンドウから星の海を眺める。
「今度の作戦は、危険だ。できればセラには……船を降りて欲しい」
唐突にそんな事を言い出すケーンに、セラは毅然とした態度で答える。
「私は降りません。最後までケーンと一緒にいるって、誓いましたから」
「どうして、そんなに俺の事を?」
その答えは、セラにもはっきりとは分からない。しかし、彼から離れるのだけは、どうしても嫌だという気持ちは本物だ。
何も答えないセラの頭に、ぽんと手を置くと、ケーンは格納庫へと向かった。
イオカステの艦隊指揮を行う、隕石砲ゼウス内部。ひとりの男が、じっと時を待っていた。
「……そうか、分かった」
不審な船を発見したという報告を受け、男は格納庫へ向かう。
すれ違う兵士たちが、敬礼で後を見送る。それなりに軍では立場のある人間らしい。
格納庫に辿り着くと、一機の大型の漆黒の機体を見上げる。『アイガイオン』というコードを与えられた機体。
新型のデフュージョンスクリーンを装備し、高出力のデュアルプラズマトーチ、ブーステッドライフル、ショルダーバスターカノンなども備える。
自動追尾兵器のマルチプル・ガイドライン・マインディスペンサー(MGMD)、
戦術兵器オーバーエクスプロージョンミサイル(OEM)などの付属兵装。
そしてケーンの持つカラドボルグと同型のビームブレード、ティルフィングを搭載する超重機動兵器である。
たった一機で、敵の集団と戦えるように設計された機体。そのコックピットに乗り込む男。
「行くぞ、ケーン。すべてを壊したお前が正しいというのならば、その力で証明してみせろ」
同時刻。ディオニュソスの艦隊でも、ひとりの少女がアーリーバード発見の報を聞いていた。
「あのときの相手か。今度こそ、逃がしはしないよ!」
サレナ=ミッドウィル。ヴァナディースのパイロット。
以前にコルトと戦った時以来、ずっと再戦のチャンスを待ち続けていたのだ。
前回は体の不調で撤退せざるを得なかったが、今度は違う。何としても、あの時の相手を落としてみせる。
ヴァナディースに乗り込むと、即座に発進するサレナ。アーリーバードに向かって。
こうして、二機の強敵が自分達の元へ向かっている事を、ケーンたちはまだ知らない。
「ケーン、いいだろこの大砲。あの余り物だった戦艦の主砲で作ったんだぜ」
コルトが格納庫で、自慢げに先の戦いで使用した自機の装備、機動戦艦主砲転用プラズマランチャー『グングニル』を示す。
ケーンは苦笑いでそれに答える。まったく、コルトにも子供っぽいところがある。グングニルという辺りが大げさだ。
きっとカラドボルグを持ち出したのを見て、自分も必殺兵器が欲しくなったのだろう。
「これでケーンにも負けないぜ……何だ?」
ブリッジからの緊急通信がハンガーに響く。
『ケーン、コルトさん、二機の高速移動物体が、こちらに近づいてきています。敵機動兵器だと……ただ』
「ただ、何だ?」
『発進方向が別々です。イオカステ、ディオニュソス、両方の艦隊から発進したものと思われます』
「分かった。迎撃する。コルト!」
「はいはい、いつでも出られますよっと」
『待ってください、ケーン。お願いですから、ヘルメットを被っていってください。何かの間違いがあって、ケーンが酷い目にあったら……』
「ん……分かった、そうするよ」
コックピットに滑り込むコルト。それを確認すると、ケーンも自分の機体に流れる。
たった二機の敵……しかし、何故だか嫌な予感がする。そして予感は、外れてはいなかったのだ。
二機のセイバーハウンドが発進する。その前方に、ふたつの光点が迫る。
「……あれか?」
カメラをズームさせるケーン。
そこに映っていたのは、以前アーリーバードを襲った真紅の機体と、見たことも無い、背景の宇宙に溶け込みそうな漆黒の機体。
どちらも進路的に真っ直ぐに向かってくる。お互いには構うつもりはないらしい。
「コルト、お前は赤い方だ、前に戦ったことがあるなら、何とかなるだろう。俺は黒い方をやる!」
『ちょっと待てよケーン、あの赤い奴、滅茶苦茶強いんだぜ?』
しかしコルトの抗議も聞かずに、ケーンの機体は真っ直ぐ黒い機体へと向かっていく。
「やれやれ……仕方が無いか。見てろよ、赤の化け物。あの時とは違うんだぜ」
コルトも赤い相手へと向かっていく。そして、壮絶な戦闘が始まった。
真紅の敵は相変わらず触手のようなものを伸ばし、そこから雨のようなレーザーを放ってくる。それを掻い潜り、グングニルを発射するコルト。
轟音すら感じさせそうな太いビームに、触手が焼かれていく。
グングニルの再チャージの隙に、赤い敵、ヴァナディースは脳波誘導ミサイルを発射した。
コルトはプラズマトーチを抜くが、グングニルの長い砲身が邪魔をし、切り払えなかったミサイルが命中する。
吹き飛ぶ右足。オートバランサーの制御に任せ、機体を安定させる。
『あたしの前に出る奴は、みんな殺してやる!』
ヴァナディースが再びミサイルを発射。扇形に広がるミサイルが、セイバーハウンドSPを包み込む。
「何の、まだだっ!」
マルチロケットポッドから粒子弾頭ロケットを発射。散弾が、濃密な弾幕を張る。
飛び込んだミサイルは自爆、残りの散弾がヴァナディースを襲う。
ガリガリと装甲各部を浅く削られるヴァナディース。
『何すんだよ、こいつっ!』
受けたダメージで、レーザーテンタクルが使用不可能になる。再びセイバーハウンドからの砲撃。若干反応速度が鈍くなっているためか、右腕にかすってしまう。
振動の中、サレナはミサイルを第三射。これでミサイルは最後だ。そのミサイルを、スラスター全開で錐揉みをしながら避ける敵。
自分の攻撃を、ここまでかわされたことに驚きを感じるサレナ。
今まではどんな相手であれ倒してきたのだ。こんなたった一機の相手に……。
『ウザいんだよ! こうなったら、切り札を使ってでも、お前を!』
肩のバインダーから、無数の小さな飛行物体が飛び出す。
『ティンカーベル』。脳波でコントロールされる、無線誘導式の小型レーザー兵器。
強化された人間の精神力でしか扱えない、死を呼ぶ妖精。それが執拗にセイバーハウンドを追尾し、レーザーを発射する。
「この武器……実用化されていたのか!?」
コルトがまだディオニュソスにいた頃には、脳波誘導兵器は実験段階だった。
今は完成され、強化されたと思われる相手が使っている。これほど厄介な事はない。
ミサイルよりも、更に複雑で濃密な攻撃。飛び交うレーザーの雨。逃げる先にも、予測したかのように回りこんでくる。
セイバーハウンドの左腕が、レーザーの直撃を受け破損。持っていたワイヤードライフルが破壊される。
残された武器はグングニルとプラズマトーチが一本だけだ。これだけであの重機動兵器を倒さなければならない。
『ほらほらどうした! その程度で……なにっ?』
いきなりセイバーハウンドは突進をかけると、レーザーの雨を強引に掻い潜ってヴァナディースへと向かってきた。
『こいつ、この武器の欠点を知っているのか!』
ティンカーベルは脳波コントロール式。
そのために、パイロットが自分の機体をイメージしてしまうと、素直にそれを攻撃してしまうという欠点がある。
故に安全装置として、母機の周囲ではその攻撃が自動的に禁じられるようにセッティングされているのだ。
コルトが過去に覗き見たデータが役に立った。彼にしかこの弱点は分からなかっただろう。
そして、ヴァナディースには近接戦闘用の武器はレーザーテンタクルしかない。
レーザーテンタクルは先ほどの攻撃で使用不能になっている。仕方なくパンチで応戦しようとするサレナ。
しかしそれを軽々と避け、セイバーハウンドは背後へと回り込む。
『ふざけんじゃないよっ!』
サレナは毒づくと、背後へ回し蹴りを放つ。グングニルでそれを受け止めるコルト。
衝撃で、グングニルが発射不可能になる。しかし、これだけの長物ならば発射できなくとも使い道はある。
「んなろーっ!」
加速をかけ、一気に突っ込む。そしてヴァナディースのコックピットとおぼしき場所へ、全力でグングニルの砲身を叩き込む。
まさに、その使い方は騎兵の用いる『槍』と同じだ。
『あぁ、きゃあぁっ!』
前面装甲がひしゃげ、コックピットハッチに亀裂が入る。そこから覗く砲口。
「おとなしく、抵抗をやめて投降しろ! 今なら命はとらない。けど、もし抵抗すんならこのままトリガーを引くぞ!」
発射できないことを隠しての恫喝。相手が戦意を喪失してくれなければ、危機に陥るのはコルトの方だ。
咄嗟の賭け。そしてその賭けに、コルトは勝利した。
『……分かったよ、降参する。ハッチから出るから、武器をどけてくれ』
警戒しながら、いつでも発射できるぞという風に見せかけて、機体を離すコルト。するとひしゃげたハッチをこじ開けて、中から小柄なパイロットが現れた。
「女の子、だってのか?」
宇宙空間を流れてくる体を、コルトは無事な右マニュピレーターで回収する。
そして牽引ワイヤーを引っ掛け、ヴァナディースを引っ張り戦場から離脱する。
「ケーンの奴、うまくやってるだろうな……」
どちらにしても、今のこのセイバーハウンドSPの損傷では助けに向かうこともできないのだ。コルトはただ、ケーンの無事を祈った。
漆黒の機体は、猛烈な加速でセイバーハウンドASに迫り来る。中の人間すら引き裂きそうに思えるほどだ。
しかし、乗り込む男は歯を食いしばって耐えた。
搭載されたショックアブソーバーや耐Gスーツでも、完全には防げないものなのに。
鍛え上げられた肉体と精神力が、不可能を可能にしたのだ。
彼は強化されているわけではない。肉体も精神も、ごく普通の人間である。それでもなお、不可能を可能にする執念。
ミシミシとコックピットが軋み声を上げる。モニターに軌跡を描く、敵からのレーザー攻撃。
しかし、多くは機体の加速に追いつけずにかすめ去り、また直撃しても強化型のデフュージョンスクリーンのまえに無力化される。
急速に過ぎ去る一瞬を、彼は心地よく感じた。これぞ戦い、これぞ戦争! 激動の中に身を置いてこそ、人は輝くというものだと。
やがて加速を終えると、両腕を広げ、逆噴射をかける。目の前に迫る、赤い塗装の機体。
彼には分かる。そこにあの男、ケーン=エイジャックスが乗っていると。
昔からケーンはそうだった。目立つ色に機体を塗装し、最前線へと格闘戦用の機体で突っ込んでいく。彼の戦い方に、自分は賞賛を覚えたものだった。
しかし、今は違う。全てにおいて、自分の方が上なのだ。機体の性能も、操縦の腕も。
その上で、徹底的な実力差を感じさせながら、粉々に引き裂いてやる。
それがケーンに与えられた、この自分からの罰なのだからと……。
至近距離から、ショルダーバスターカノンを放つ。大口径のビームが、一瞬で赤い機体を包み込む。しかし、それを咄嗟の所で回避するセイバーハウンド。
流石に時がたっても、戦闘センスは衰えてはいないようだ。それでこそ、倒し甲斐がある。
デュアルプラズマトーチを作動させ、斬りかかる。同じくプラズマトーチで受け止めるセイバーハウンド。
何度となく斬り結ぶ。アイガイオンの圧倒的なパワーに押され、後退する赤の機体。
『どうしたケーン、その程度か?』
突然の通信に、ケーンは耳を疑う。確かに知っている声……再び斬りかかってくる敵。
『俺を忘れたか? あれほど一緒に過ごしたのにな』
「まさかお前……カイン、カイン=ゴッドワルドか!」
コックピットの中で、カインと呼ばれた男はにやりと笑う。
『そうだともケーン、お前を倒すために、地獄から舞い戻ってきたぞ!』
「そんな……馬鹿な……」
カイン=ゴッドワルド。ケーンが軍から脱走する時に戦い、ケーン自身が機体を破壊してしまったはずだ。
死んでいるとまでは思わなかったが、こうして再び自分の前に現れるなんて……。
『お前にやられた右目が疼くのだ。仲間が欲しいとな! だからケーン、お前を俺の右目と同じ場所へ送ってやる!』
カインの右目。そこには、一本の傷跡が走っていた。ケーンに撃破されたときに、負傷した右目だ。
傷はこの五年間、ずっとカインを苦しめてきた。パイロット復帰は絶望的と伝えられたこともある。
しかし、彼はそれを乗り越えた。胸に抱いた暗い想い。それを果たすためにも。
そのために、血反吐を吐くような訓練を繰り返してきた。そして得たのだ。右目がなくとも、凄まじい戦闘能力を得る事を。
『どうした! 反応が遅いぞ! その程度が貴様の正義か!』
「カイン……そんな、そんな事が……」
ケーンにとって、親友だった男。そしてライバルでもあった男。
それがこうして、自分の前に立ち塞がっている。とても信じられない。
勢い、操縦も散漫になる。その隙を突き、カインはMGMDを発射した。
複数の誘導される浮遊機雷が、ケーンを襲う。
「うっ……くっ!」
咄嗟にプラズマトーチで切り払う。しかし、その爆発は装甲を焼き、機体に少なからぬダメージを与える。
残った機雷も誘爆し、爆発の中にセイバーハウンドを包む。
『情けないな、ケーン。だがその程度で死んだわけではないだろう。早く俺に立ち向かって来い!』
爆炎の中から姿を見せる赤い機体。各部が焼け、ボロボロになっている。それでも何とか体勢を立て直し、カラドボルグを構える。白熱したビームが、そこから迸る。
『そうだケーン、それでいい。さぁ、戦争を楽しもうじゃないか』
漆黒のアイガイオンもティルフィングを抜き、ビーム刃を形成させる。そしてふたつの機体は衝突した。
交差するビームの刃、飛び散る火花。どちらの攻撃も、直撃すればただではすまない威力を持つ。気を抜いたほうが、負ける。
『貴様はいつもそうだったな。接近戦では敵うものがないと言われたお前だ。だがそのお前と、こうして打ち合えるようになった俺は、お前を超えたのだ!』
カインはあえて積極的な射撃戦には持ち込まないようにしていた。
どのみち、ケーンの乗るセイバーハウンドに、大した射撃武器が搭載されてはいない事は承知しているのだ。
射撃での戦いになれば、圧倒的に自分が有利だということ。火力も、機動性も、運動性も、すべてアイガイオンのほうが優れているのだ。
それでもなお、格闘戦での決着を選ぶ。まさしくカインの自負心が現れていた。
『そうだ、その勢いだ。正義と共に生き残りたければ、死ぬ気でかかって来い!』
何度目の斬撃だろうか、ふいにセイバーハウンドの持つカラドボルグの出力が弱まる。
連続しての高エネルギー消費に機体のジェネレーターが持たず、パワーダウンを起こしてしまったのだ。
だが、カインはその手を休めることはない。受けきれずに、残撃を食らってしまうセイバーハウンド。
左腕が切り裂かれ、爆発を起こす。残った右手でカラドボルグを保持しながら、ケーンは体勢を立て直す。
息は荒く、額に汗が流れる。ここでカラドボルグを捨てれば、パワーダウンは免れるだろう。
しかし、ただのプラズマトーチだけでカインの機体に勝てるとは思えない。パワーダウンの事は忘れて、全力で戦うしかない。
ところがケーン自身の気力はまだ残っていたが、流石に機体の限界が近づいていた。
すでに各部は破損し、出力も上がらない。スラスターは咳き込み、まともな機動もできない。
『どうやら限界のようだな。そろそろ死ね、ケーン! そしてあの世でセラに詫びろ!』
止めの重い一撃が振り下ろされる。出力の低下したカラドボルグでは受けきれずに、そのまま直撃を受けてしまうセイバーハウンド。両断されていく正面装甲。ここまでか……。
「すまない、セラ……」
無意識の言葉は、失ってしまった彼女へ向けてか、それとも帰りを待つ少女に向けてのものか……本人にも分からない。
そして、セイバーハウンドASは爆発した。
「……ケーン?」
コルトが敵機を捕獲して帰投する様子を眺めていたセラは、不意にケーンの声を聞いたような気がした。
彼はここにはいない。空耳に過ぎない。だが、それでも鳥肌が立ち、嫌な予感が胸を覆う。
「ケーン、早く戻って……」
宇宙を漂流するケーンの体。爆発の寸前に、脱出装置が働いて彼の体を排出したのだ。
今回に限ってセラの忠告どおりに、ヘルメットを被っていたのが正解だった。
それでも、体のあちこちに痛みが残る。あばらの数本は折れているらしい。口の中も、血の味がする。
「俺もここまでか……」
諦めて目を閉じる。いずれ酸素もなくなる。30分もかからず、死は訪れる。
今まで自分が成してきたことの、すべての報い。それがここにきて襲ってきたのだ。
ならば、あとはただ受け入れることしかできない。それが、彼の責任だ。
その時、こちらに近づいてくる巨大な船。オリュンポスという名の大型の船。ノイエ=フォン=ミュールの乗る船だ。
そこから小型艇が発進すると、ケーンを回収しにかかる。体を襲う痛みの中、ケーンは複雑な気持ちと共に意識を失った。
・第九話へ続く……
報告を聞き、目を細める人物。元よりあの男の相手を、そこらの連中ごときができるとは思っていなかった。
全滅も当たり前だろう。あの男を倒すには、絶対的な力が要る。そう、自分のような……。
「ケーン、独善と共に来るがいい。今度こそ、この俺がその息の根を止めてやる……」
火星圏に辿り着いたアーリーバード。しかし、その進路は絶望的であった。
無数ともいえるイオカステ本星艦隊。そして対するディオニュソスの艦隊。この両者を止めるには、どんな手段があるだろうか。
更にケーンたちを苦しませる、もうひとつの現実。イオカステ艦隊が持ち出した新兵器。
衛星砲『ゼウス』。大型の隕石の内部にジェネレーターと加速器を置き、隕石丸々一個を巨大な粒子砲に改造した戦略兵器。
その一撃は、ディオニュソス艦隊を殲滅するのに充分すぎるほどだ。イオカステの切り札なのだろう。
だが、逆に言えばゼウスを破壊することができれば、戦いを終わらせることができるかもしれない。
戦力的には、ディオニュソスの方が質が優れている。隕石砲を破壊し、両者の戦力差を無くせば、戦いは膠着状態に陥り、争いそのものが中断される可能性が高い。
全力での戦いとは、彼我の戦力差が大きい時を見計らって行われるものだ。そうでなければ、戦力をすり減らすだけの自殺行為だからだ。
イオカステがゼウスを持ち出してきたのも、圧倒的戦力差を確保するためだろう。
「よし、作戦は決まった。戦いが始まると同時に突入、衛星砲ゼウスを破壊、両者の戦力バランスを変えて、戦いを中止させる。それしか方法はない」
「ケーンの立てる作戦だからな。信頼してるよ」
「はい、私もそれに賛成です」
こうして、作戦の実施が決まった。コルトは格納庫に降り、機体の整備を始める。ケーンはセラと共に、ブリッジのウィンドウから星の海を眺める。
「今度の作戦は、危険だ。できればセラには……船を降りて欲しい」
唐突にそんな事を言い出すケーンに、セラは毅然とした態度で答える。
「私は降りません。最後までケーンと一緒にいるって、誓いましたから」
「どうして、そんなに俺の事を?」
その答えは、セラにもはっきりとは分からない。しかし、彼から離れるのだけは、どうしても嫌だという気持ちは本物だ。
何も答えないセラの頭に、ぽんと手を置くと、ケーンは格納庫へと向かった。
イオカステの艦隊指揮を行う、隕石砲ゼウス内部。ひとりの男が、じっと時を待っていた。
「……そうか、分かった」
不審な船を発見したという報告を受け、男は格納庫へ向かう。
すれ違う兵士たちが、敬礼で後を見送る。それなりに軍では立場のある人間らしい。
格納庫に辿り着くと、一機の大型の漆黒の機体を見上げる。『アイガイオン』というコードを与えられた機体。
新型のデフュージョンスクリーンを装備し、高出力のデュアルプラズマトーチ、ブーステッドライフル、ショルダーバスターカノンなども備える。
自動追尾兵器のマルチプル・ガイドライン・マインディスペンサー(MGMD)、
戦術兵器オーバーエクスプロージョンミサイル(OEM)などの付属兵装。
そしてケーンの持つカラドボルグと同型のビームブレード、ティルフィングを搭載する超重機動兵器である。
たった一機で、敵の集団と戦えるように設計された機体。そのコックピットに乗り込む男。
「行くぞ、ケーン。すべてを壊したお前が正しいというのならば、その力で証明してみせろ」
同時刻。ディオニュソスの艦隊でも、ひとりの少女がアーリーバード発見の報を聞いていた。
「あのときの相手か。今度こそ、逃がしはしないよ!」
サレナ=ミッドウィル。ヴァナディースのパイロット。
以前にコルトと戦った時以来、ずっと再戦のチャンスを待ち続けていたのだ。
前回は体の不調で撤退せざるを得なかったが、今度は違う。何としても、あの時の相手を落としてみせる。
ヴァナディースに乗り込むと、即座に発進するサレナ。アーリーバードに向かって。
こうして、二機の強敵が自分達の元へ向かっている事を、ケーンたちはまだ知らない。
「ケーン、いいだろこの大砲。あの余り物だった戦艦の主砲で作ったんだぜ」
コルトが格納庫で、自慢げに先の戦いで使用した自機の装備、機動戦艦主砲転用プラズマランチャー『グングニル』を示す。
ケーンは苦笑いでそれに答える。まったく、コルトにも子供っぽいところがある。グングニルという辺りが大げさだ。
きっとカラドボルグを持ち出したのを見て、自分も必殺兵器が欲しくなったのだろう。
「これでケーンにも負けないぜ……何だ?」
ブリッジからの緊急通信がハンガーに響く。
『ケーン、コルトさん、二機の高速移動物体が、こちらに近づいてきています。敵機動兵器だと……ただ』
「ただ、何だ?」
『発進方向が別々です。イオカステ、ディオニュソス、両方の艦隊から発進したものと思われます』
「分かった。迎撃する。コルト!」
「はいはい、いつでも出られますよっと」
『待ってください、ケーン。お願いですから、ヘルメットを被っていってください。何かの間違いがあって、ケーンが酷い目にあったら……』
「ん……分かった、そうするよ」
コックピットに滑り込むコルト。それを確認すると、ケーンも自分の機体に流れる。
たった二機の敵……しかし、何故だか嫌な予感がする。そして予感は、外れてはいなかったのだ。
二機のセイバーハウンドが発進する。その前方に、ふたつの光点が迫る。
「……あれか?」
カメラをズームさせるケーン。
そこに映っていたのは、以前アーリーバードを襲った真紅の機体と、見たことも無い、背景の宇宙に溶け込みそうな漆黒の機体。
どちらも進路的に真っ直ぐに向かってくる。お互いには構うつもりはないらしい。
「コルト、お前は赤い方だ、前に戦ったことがあるなら、何とかなるだろう。俺は黒い方をやる!」
『ちょっと待てよケーン、あの赤い奴、滅茶苦茶強いんだぜ?』
しかしコルトの抗議も聞かずに、ケーンの機体は真っ直ぐ黒い機体へと向かっていく。
「やれやれ……仕方が無いか。見てろよ、赤の化け物。あの時とは違うんだぜ」
コルトも赤い相手へと向かっていく。そして、壮絶な戦闘が始まった。
真紅の敵は相変わらず触手のようなものを伸ばし、そこから雨のようなレーザーを放ってくる。それを掻い潜り、グングニルを発射するコルト。
轟音すら感じさせそうな太いビームに、触手が焼かれていく。
グングニルの再チャージの隙に、赤い敵、ヴァナディースは脳波誘導ミサイルを発射した。
コルトはプラズマトーチを抜くが、グングニルの長い砲身が邪魔をし、切り払えなかったミサイルが命中する。
吹き飛ぶ右足。オートバランサーの制御に任せ、機体を安定させる。
『あたしの前に出る奴は、みんな殺してやる!』
ヴァナディースが再びミサイルを発射。扇形に広がるミサイルが、セイバーハウンドSPを包み込む。
「何の、まだだっ!」
マルチロケットポッドから粒子弾頭ロケットを発射。散弾が、濃密な弾幕を張る。
飛び込んだミサイルは自爆、残りの散弾がヴァナディースを襲う。
ガリガリと装甲各部を浅く削られるヴァナディース。
『何すんだよ、こいつっ!』
受けたダメージで、レーザーテンタクルが使用不可能になる。再びセイバーハウンドからの砲撃。若干反応速度が鈍くなっているためか、右腕にかすってしまう。
振動の中、サレナはミサイルを第三射。これでミサイルは最後だ。そのミサイルを、スラスター全開で錐揉みをしながら避ける敵。
自分の攻撃を、ここまでかわされたことに驚きを感じるサレナ。
今まではどんな相手であれ倒してきたのだ。こんなたった一機の相手に……。
『ウザいんだよ! こうなったら、切り札を使ってでも、お前を!』
肩のバインダーから、無数の小さな飛行物体が飛び出す。
『ティンカーベル』。脳波でコントロールされる、無線誘導式の小型レーザー兵器。
強化された人間の精神力でしか扱えない、死を呼ぶ妖精。それが執拗にセイバーハウンドを追尾し、レーザーを発射する。
「この武器……実用化されていたのか!?」
コルトがまだディオニュソスにいた頃には、脳波誘導兵器は実験段階だった。
今は完成され、強化されたと思われる相手が使っている。これほど厄介な事はない。
ミサイルよりも、更に複雑で濃密な攻撃。飛び交うレーザーの雨。逃げる先にも、予測したかのように回りこんでくる。
セイバーハウンドの左腕が、レーザーの直撃を受け破損。持っていたワイヤードライフルが破壊される。
残された武器はグングニルとプラズマトーチが一本だけだ。これだけであの重機動兵器を倒さなければならない。
『ほらほらどうした! その程度で……なにっ?』
いきなりセイバーハウンドは突進をかけると、レーザーの雨を強引に掻い潜ってヴァナディースへと向かってきた。
『こいつ、この武器の欠点を知っているのか!』
ティンカーベルは脳波コントロール式。
そのために、パイロットが自分の機体をイメージしてしまうと、素直にそれを攻撃してしまうという欠点がある。
故に安全装置として、母機の周囲ではその攻撃が自動的に禁じられるようにセッティングされているのだ。
コルトが過去に覗き見たデータが役に立った。彼にしかこの弱点は分からなかっただろう。
そして、ヴァナディースには近接戦闘用の武器はレーザーテンタクルしかない。
レーザーテンタクルは先ほどの攻撃で使用不能になっている。仕方なくパンチで応戦しようとするサレナ。
しかしそれを軽々と避け、セイバーハウンドは背後へと回り込む。
『ふざけんじゃないよっ!』
サレナは毒づくと、背後へ回し蹴りを放つ。グングニルでそれを受け止めるコルト。
衝撃で、グングニルが発射不可能になる。しかし、これだけの長物ならば発射できなくとも使い道はある。
「んなろーっ!」
加速をかけ、一気に突っ込む。そしてヴァナディースのコックピットとおぼしき場所へ、全力でグングニルの砲身を叩き込む。
まさに、その使い方は騎兵の用いる『槍』と同じだ。
『あぁ、きゃあぁっ!』
前面装甲がひしゃげ、コックピットハッチに亀裂が入る。そこから覗く砲口。
「おとなしく、抵抗をやめて投降しろ! 今なら命はとらない。けど、もし抵抗すんならこのままトリガーを引くぞ!」
発射できないことを隠しての恫喝。相手が戦意を喪失してくれなければ、危機に陥るのはコルトの方だ。
咄嗟の賭け。そしてその賭けに、コルトは勝利した。
『……分かったよ、降参する。ハッチから出るから、武器をどけてくれ』
警戒しながら、いつでも発射できるぞという風に見せかけて、機体を離すコルト。するとひしゃげたハッチをこじ開けて、中から小柄なパイロットが現れた。
「女の子、だってのか?」
宇宙空間を流れてくる体を、コルトは無事な右マニュピレーターで回収する。
そして牽引ワイヤーを引っ掛け、ヴァナディースを引っ張り戦場から離脱する。
「ケーンの奴、うまくやってるだろうな……」
どちらにしても、今のこのセイバーハウンドSPの損傷では助けに向かうこともできないのだ。コルトはただ、ケーンの無事を祈った。
漆黒の機体は、猛烈な加速でセイバーハウンドASに迫り来る。中の人間すら引き裂きそうに思えるほどだ。
しかし、乗り込む男は歯を食いしばって耐えた。
搭載されたショックアブソーバーや耐Gスーツでも、完全には防げないものなのに。
鍛え上げられた肉体と精神力が、不可能を可能にしたのだ。
彼は強化されているわけではない。肉体も精神も、ごく普通の人間である。それでもなお、不可能を可能にする執念。
ミシミシとコックピットが軋み声を上げる。モニターに軌跡を描く、敵からのレーザー攻撃。
しかし、多くは機体の加速に追いつけずにかすめ去り、また直撃しても強化型のデフュージョンスクリーンのまえに無力化される。
急速に過ぎ去る一瞬を、彼は心地よく感じた。これぞ戦い、これぞ戦争! 激動の中に身を置いてこそ、人は輝くというものだと。
やがて加速を終えると、両腕を広げ、逆噴射をかける。目の前に迫る、赤い塗装の機体。
彼には分かる。そこにあの男、ケーン=エイジャックスが乗っていると。
昔からケーンはそうだった。目立つ色に機体を塗装し、最前線へと格闘戦用の機体で突っ込んでいく。彼の戦い方に、自分は賞賛を覚えたものだった。
しかし、今は違う。全てにおいて、自分の方が上なのだ。機体の性能も、操縦の腕も。
その上で、徹底的な実力差を感じさせながら、粉々に引き裂いてやる。
それがケーンに与えられた、この自分からの罰なのだからと……。
至近距離から、ショルダーバスターカノンを放つ。大口径のビームが、一瞬で赤い機体を包み込む。しかし、それを咄嗟の所で回避するセイバーハウンド。
流石に時がたっても、戦闘センスは衰えてはいないようだ。それでこそ、倒し甲斐がある。
デュアルプラズマトーチを作動させ、斬りかかる。同じくプラズマトーチで受け止めるセイバーハウンド。
何度となく斬り結ぶ。アイガイオンの圧倒的なパワーに押され、後退する赤の機体。
『どうしたケーン、その程度か?』
突然の通信に、ケーンは耳を疑う。確かに知っている声……再び斬りかかってくる敵。
『俺を忘れたか? あれほど一緒に過ごしたのにな』
「まさかお前……カイン、カイン=ゴッドワルドか!」
コックピットの中で、カインと呼ばれた男はにやりと笑う。
『そうだともケーン、お前を倒すために、地獄から舞い戻ってきたぞ!』
「そんな……馬鹿な……」
カイン=ゴッドワルド。ケーンが軍から脱走する時に戦い、ケーン自身が機体を破壊してしまったはずだ。
死んでいるとまでは思わなかったが、こうして再び自分の前に現れるなんて……。
『お前にやられた右目が疼くのだ。仲間が欲しいとな! だからケーン、お前を俺の右目と同じ場所へ送ってやる!』
カインの右目。そこには、一本の傷跡が走っていた。ケーンに撃破されたときに、負傷した右目だ。
傷はこの五年間、ずっとカインを苦しめてきた。パイロット復帰は絶望的と伝えられたこともある。
しかし、彼はそれを乗り越えた。胸に抱いた暗い想い。それを果たすためにも。
そのために、血反吐を吐くような訓練を繰り返してきた。そして得たのだ。右目がなくとも、凄まじい戦闘能力を得る事を。
『どうした! 反応が遅いぞ! その程度が貴様の正義か!』
「カイン……そんな、そんな事が……」
ケーンにとって、親友だった男。そしてライバルでもあった男。
それがこうして、自分の前に立ち塞がっている。とても信じられない。
勢い、操縦も散漫になる。その隙を突き、カインはMGMDを発射した。
複数の誘導される浮遊機雷が、ケーンを襲う。
「うっ……くっ!」
咄嗟にプラズマトーチで切り払う。しかし、その爆発は装甲を焼き、機体に少なからぬダメージを与える。
残った機雷も誘爆し、爆発の中にセイバーハウンドを包む。
『情けないな、ケーン。だがその程度で死んだわけではないだろう。早く俺に立ち向かって来い!』
爆炎の中から姿を見せる赤い機体。各部が焼け、ボロボロになっている。それでも何とか体勢を立て直し、カラドボルグを構える。白熱したビームが、そこから迸る。
『そうだケーン、それでいい。さぁ、戦争を楽しもうじゃないか』
漆黒のアイガイオンもティルフィングを抜き、ビーム刃を形成させる。そしてふたつの機体は衝突した。
交差するビームの刃、飛び散る火花。どちらの攻撃も、直撃すればただではすまない威力を持つ。気を抜いたほうが、負ける。
『貴様はいつもそうだったな。接近戦では敵うものがないと言われたお前だ。だがそのお前と、こうして打ち合えるようになった俺は、お前を超えたのだ!』
カインはあえて積極的な射撃戦には持ち込まないようにしていた。
どのみち、ケーンの乗るセイバーハウンドに、大した射撃武器が搭載されてはいない事は承知しているのだ。
射撃での戦いになれば、圧倒的に自分が有利だということ。火力も、機動性も、運動性も、すべてアイガイオンのほうが優れているのだ。
それでもなお、格闘戦での決着を選ぶ。まさしくカインの自負心が現れていた。
『そうだ、その勢いだ。正義と共に生き残りたければ、死ぬ気でかかって来い!』
何度目の斬撃だろうか、ふいにセイバーハウンドの持つカラドボルグの出力が弱まる。
連続しての高エネルギー消費に機体のジェネレーターが持たず、パワーダウンを起こしてしまったのだ。
だが、カインはその手を休めることはない。受けきれずに、残撃を食らってしまうセイバーハウンド。
左腕が切り裂かれ、爆発を起こす。残った右手でカラドボルグを保持しながら、ケーンは体勢を立て直す。
息は荒く、額に汗が流れる。ここでカラドボルグを捨てれば、パワーダウンは免れるだろう。
しかし、ただのプラズマトーチだけでカインの機体に勝てるとは思えない。パワーダウンの事は忘れて、全力で戦うしかない。
ところがケーン自身の気力はまだ残っていたが、流石に機体の限界が近づいていた。
すでに各部は破損し、出力も上がらない。スラスターは咳き込み、まともな機動もできない。
『どうやら限界のようだな。そろそろ死ね、ケーン! そしてあの世でセラに詫びろ!』
止めの重い一撃が振り下ろされる。出力の低下したカラドボルグでは受けきれずに、そのまま直撃を受けてしまうセイバーハウンド。両断されていく正面装甲。ここまでか……。
「すまない、セラ……」
無意識の言葉は、失ってしまった彼女へ向けてか、それとも帰りを待つ少女に向けてのものか……本人にも分からない。
そして、セイバーハウンドASは爆発した。
「……ケーン?」
コルトが敵機を捕獲して帰投する様子を眺めていたセラは、不意にケーンの声を聞いたような気がした。
彼はここにはいない。空耳に過ぎない。だが、それでも鳥肌が立ち、嫌な予感が胸を覆う。
「ケーン、早く戻って……」
宇宙を漂流するケーンの体。爆発の寸前に、脱出装置が働いて彼の体を排出したのだ。
今回に限ってセラの忠告どおりに、ヘルメットを被っていたのが正解だった。
それでも、体のあちこちに痛みが残る。あばらの数本は折れているらしい。口の中も、血の味がする。
「俺もここまでか……」
諦めて目を閉じる。いずれ酸素もなくなる。30分もかからず、死は訪れる。
今まで自分が成してきたことの、すべての報い。それがここにきて襲ってきたのだ。
ならば、あとはただ受け入れることしかできない。それが、彼の責任だ。
その時、こちらに近づいてくる巨大な船。オリュンポスという名の大型の船。ノイエ=フォン=ミュールの乗る船だ。
そこから小型艇が発進すると、ケーンを回収しにかかる。体を襲う痛みの中、ケーンは複雑な気持ちと共に意識を失った。
・第九話へ続く……