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「詩」について

■時
2006年
■場所
民俗学研究会部室
■利用図書
谷川俊太郎の詩集
■参加者
サトミ、オオクマ、サモン、センセイ、マエノソノ
■感想文
以下参照

■サトミ
題:「詩」について思うこと
 あまり人に知られてない(というか言ってない)ことですが、実は昔、私は詩を書いていた時期がありました。たしか、中学3年の最後の方から高校1年の終わりくらいまで。もともと、文章を書いたり絵を描いたりすることが好きで、それらを他人に見られるのは何とも思わなかったのですが、自分の書いた詩を誰かに読まれるのは話が別でした。詩=自分の内面を曝け出したモノという感じがして、非常に恥ずかしいし、弱い部分を見せるようで嫌だな・・・と思っていたんだと思います。(もちろん今でも自作の詩を人前で発表するなんて、大の苦手です。)
 さて今回、読書会の題材に選ばれたのは「詩(現代詩)」です。選書会のときにサモンがもってきていた冊子の中にある作品を見て、詩とアートって似ているなと思いました。(私はあまり芸術作品に詳しくないので「アート」という言葉の意味を偏ったイメージで捉えていると思いますが・・・もしかしたら、詩も「アート」に含まれるのかも。)
詩の中に使われている言葉のひとつ取っても、平仮名にしたりカタカナにしたり漢字にしたりと、様々な表記方法があります。そもそも日本人だからといって、必ずしも日本語を使うわけではない。また、同じような意味を持つ言葉の中から自分の書きたいことにしっくりくるものを選んで使っていて、文字(もしくは文章)の並べ方も人によって違っているわけです。そのような詩を目の前にした時、私は内容よりも先に全体の形に惹かれました。そういう部分が、「何だろう、これ・・・」と思わせる芸術作品に似ているように感じたのだと思います。
 そのように(言い方が悪いかもしれませんが)「奇抜な」詩があるかと思えば、私がイメージしているものに近い詩も世の中には沢山あって、詩の世界は奥が深いというか、全体が掴めないというか、どんな詩が素晴らしくて、どんな詩がつまらないものなのか判断に困るという気がしています。中には「こういうの、私にも書けるんじゃないかな」と思ってしまうものもあります。詩の良さ(素晴らしさ)はどういう部分で決まっているんでしょう?内容の豊かさや表現力なんでしょうか。これについては、他の人の意見を聞かせていただきたいと思っています。

 最後に。谷川俊太郎といえば、CMで詩が使われているのをよく目にします。有名なものでは、ネスレの「朝のリレー」がありますが、私は結構好きです。内容が分かりやすいし、詩で使われている言葉が、そのまま自分の中にすんなり入ってくる感じがします。
あと、どこかの保険会社(おそらく日本生命)のCMにも谷川氏の詩が使われています。「保険がどうの〜」という内容だったと思います。

■サモン
題:谷川俊太郎、発
 谷川俊太郎の詩選集のひとつめを今回の課題図書として読んだわけですが、なかなかサクサク読めないなとおもうところでは辞め、また手にとっては1、2篇を読んでは閉じ、といった読み方をしていたので、感想を書くのにたいへん時間がかかりました。それはひとえに詩を読みなれていないから、とも思えるし、読みやすい詩と読みにくい詩がこの詩選集のなかにどっちもごっちゃになって入っている、とも思えるところです。
 谷川俊太郎は私の家にもありました。マガジンハウス社から出たムックと呼ばれるものとあと詩集と絵本が何冊か。そのムックを高校生のときに読むまえに、宮崎の市民文化ホール(地元ですね)で氏が氏の朗読と講演とをするのに家族で観に行った記憶があります。そこでの記憶は氏が自作のうんこについての詩を朗読したのだけは覚えています。氏のすごさはうんこから哲学的なことまで網羅して詩に組み込むことではなくてそれが芸になっているとでもいいましょうか許されているところ、みんな(とくに小学生以下)が俊太郎にうんこの詩やおならの詩を朗読して欲しいと思われていて、それが氏のメジャー感、ブランド感の始末になっているのかなと。ですがこうやって彼の詩について何か書こうとしてもどんどん氏に吸収されているような気がして始末に負えません。なにか普遍的な感じがするのですがそれは自然を扱っているからともいえるかもしれませんが。最近のことで言うと今年の十月のはじめごろにンHKで中学・高校生の合唱コンクールがやっていたので看るとはなしに観ていたら、高校生のほうの課題曲が谷川俊太郎作詞でそれの曲名がかなり長くて、例えば、「(司会者が曲を紹介するときに)作詞、谷川俊太郎、作曲、○○○、『かなしみはあたらしい』(たぶん歌曲集名)より、かなしみはあたらしい(←たぶん歌曲集のなかの一曲の名)」という感じに同じ文が曲名紹介で二度言われるというところがそれまで中学生の部、高校生の部と続けてみていた自分にとってはかなりびっくりしたのを覚えていてそこではじめて、いっまではうんことかおならの詩しか見聞したことがなく、詩の大家という言い方も似合わないけれどもそんな感じの印象しか氏にもっていなくて、でもやっぱりすごいんだ、と考えを新たにしたのです。そいでそのことをふまえて感想をものしてみると、自分にとって谷川俊太郎は常にどこかにあったと言えて、それは前述した朗読と講演会のこともそうだし家には彼の絵本や詩集があったと思われたぶん幼いころから触れていたような気がしていてそれが紙媒体ではこれまで触れていたような気がしてなんとなく谷川俊太郎的なものに慣れていたのだけれどもテレビの中の音声で彼の表現の仕方を聞くとそれは作詞というちょっと作詞とどう違うのか疑問があるところなのですが、やっぱりほかと違う異彩を放っていたのでした。でもそれはたまたまなのかもしれず、本の内容とは一切関係ありません。でもなぜあんなに不思議なかっこいいかんじがしたのかはいまでも疑問です。

■マエノソノ
題:二十億光年の孤独についての感想
 私の想像に過ぎないのですが、この作品で彼は自分の抱いた強い危機感とかすかな希望を表現しようとしているように思われます。彼が感じているかもしれないその危機感とは、別々の民族や国家、文化圏、文明圏を形成しながらも元来は祖先を同じくするはずの人類がいがみ合いをやめず、自滅に向かっていることです。そして彼がなおも託そうとする(と私には思える)そのかすかな希望とは、①詩や広い意味での芸術の力、②人間が自覚した「孤独」とそれゆえ”他者”に向かう素朴な好奇心です。
 大岡信さんの解説によればこの詩は谷川さんが18歳(1949年、昭和24年)のときに書いたもののようです。当時は資本主義対共産主義のイデオロギー対立があり、しかもそのわずか4年前までは日本もまた周辺の国々に住む人にとっては理解されないような理由で破滅的な戦争をやっていたのでした。
 そのような時代の状況の中で『二十億光年の孤独』に登場する「僕」は、自分たちが日常当たり前と思い込んでいる言語や習慣、考え方とまったく異質としか思えない”敵”が自分たちのすぐそばにいることにひとまず触れないことにして、実在するかどうかさえも定かでない「火星人」に思いをはせます。「小さな球の上」に何千キロか離れて住んでいるだけで少なくとも外見や身体能力は大して違わない人類どうしが一方では互いに衝突を繰り返しつつも、もう一方では”知性”を持つ唯一の存在である人類が「孤独」を自覚しながら「火星に」「仲間が欲しがったりする」、と事実を指摘します。それから読者を滑らかに彼の想像に引き込んでいき、いつの間にか「火星人」の存在することが前提となって「僕」の想像はさらに発展していきます。「或はネネリ(眠るのに似た行動)し、キルル(起きるのに似た行動?)し、「ハララ(働くのに似た行動)してい」たりするのかな、一見したところはまったく違ってしか見えないのによく見ると意外にも地球人と似たような日常を過ごしていたらどんなに楽しいかな、と想像それ自体の遊びを読者と共有するのです。「火星人」もまた、「しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする」こと、「それはまったくたしかなことだ」と強く断言します。この作品ではこの行だけひらがなしか使われていないのは彼が最も強調したい部分だからではないか、と私は考えています。

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