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&(<font size=5>『プロタゴラス』を読む</font>)
■時
2006年07月12日20時~23時、翌日02時~5時
■場所
民俗学研究会部室、夜警部屋
■利用図書
プラトン著『プロタゴラス』
■参加者
メンバー全員
■感想文
以下参照

感想文

■オオクマ
題:プロタゴラスを読んで
 「プロタゴラスって受験勉強で倫理をやってるときに出てきたけど、どんな考えを持った人だったけ。」と思いながらこの本を読んでみました。当初に想像していたよりもかなり読みやすい内容だったと思います。
 読み終えて最初に持った疑問は「この人たち働きもせずにこんなことを考えていたのはなぜなんだろう」ということでした。

 そんな疑問を解決するために、ちょこちょこと当時のことを調べてみました。説明を読んでみて納得がいったのは、なんで哲学者が生まれたのかという点、哲学者がいかに収入を得ていたのかという点、特に哲学が神話に対する疑問から始まるあたりは『なるほど』といった感じを受けました。
 この『プロタゴラス』という本のなかでソクラテスやプラトンは徳やら善やらの何たるかを延々と討論しているわけですが、私にとってそんなことはどうだって良いんです。なぜなら、『徳』とか『善』のような漠然としたものである事自体に意味があるのではないか、そのような漠然としたものに真理なるものをみつけようとすることは愚行ではないかと私は考えるからです。しかしながら、私自身『漠然としたものである事自体のもつ意味』を説明しろとソクラテスに言われても、「言葉にはさまざまな解釈が成り立つものがある。なかでもとりわけ漠然とした意味をもつ類の言葉が善や徳である。私は、善や徳といった言葉を作った人ではないし、いつ、誰がその言葉が作られたかを知る術をしらない。だから、どのような状況で、また、どのような意図でこのような言葉がつくられたか解らないから、その言葉が元々、1つの状況を指して使われるべきものかどうかわからないから想像でしかものを語る事が出来ないが、少なくとも、現在において善や徳といった言葉には様々な解釈が成り立っている。その様々な解釈にそれぞれ意味がないわけではないから、意味があるんじゃないですか?」というような事しか言えないでしょう。
 例えば、殺人に快楽を求める趣向の人が、殺されることで快楽を得る人を殺した場合、その行為は『悪』だといえるだろうか?安楽死、尊厳死の問題は?

■サモン
題:感想と抱負
読んでいる最中に思ったことですが、ある部分は感覚的に「あーあーそれは分かる」と腑に落ちるというか納得することがあって、とりあえずの反駁なりをそこの箇所にすりいれようとするのですが果たせずおわり、またある部分は下記のように具体的な問いがボヤボヤと浮かぶというようなところがあることが印象に残りました。
●ボヤボヤ浮かんできた具体的な問いの内容とその箇所の引用(そのいちぶ)
 章番号…32 同様に、いまの私たちの場合のような交わりにしても、もしそこに集まる人間が、私たちの大多数がみずから任じているような人物であるならば、自己自身以外の声を何ひとつ必要としないでしょう。それが詩人たちの声であろうと、同じことです。
ここで浮かんできたのは、「自己自身以外の声を何ひとつ必要としない」で語ることはむずかしいだろうなというようなことです。私たちは普通に(?)生活している以上、外部から少なからず影響を与えられること(この影響を与えられるということも考える余地ありとみえます)を免れることはできないとおもいます。本を読んだり、映画を観たり…。それら影響を与え、私たちが観たり読んだりしたものはどこにいくのでしょうか。その如実な例が会話においての発言であるかなと考えたりします。なんの確証もないのに自分が私淑するひとのことばをそのままのたまわって(決して悪い意味ではありません)みたり、かと思えばとくになんの関心も抱いていない親戚のじさまのひとことが妙に気になって結構多用してしまったり、ひとの発言はどこか移ろいやすいものでもあります。ここの章でのこの箇所では理由こそ述べられてはいませんが、自分自身の声がもっとも大切であとは所詮他人のうわごと(そこまで言ってはいませんが)、というような達観をかんじます。やっぱりひとがなにかものを言うとき経験がおもきをなすのでしょうか。ものをいうという行為とだいぶ飛躍してしまうかもしれませんがものを書くという行為にもそれが少なからず加担しているわけで、今現在隆盛をきわめているブログなんかはどうなんでしょうか。ものをいうこと、ものを書くこと、についてにわかに考えさせられる部分ではありました。
 哲学書は全体からとらえよ、とは最近読んだ保坂和志という作家のエッセイからのことばですがこの本からはこの本全体から通してなにか考えさせられたということはあまり実感としてなく、代わりにソクラテスが口走ったその一端一端にはっとするようなことが書かれてあったり、そこからいろいろと考えることがふくらんでいくとおもうのですがどうでしょうか。哲学書ってどう読めばいいんでしょうかね。また哲学書をよむこととは。そんな途方もないことばかりがなぜかよく気になります。今回の読書会でなるべく卑近な話題でそのことに迫れればと切実に思います。抱負になっちゃいましたけれども。

■サトミ
題:「プロタゴラス」
 私は「哲学」というもの苦手です。物事について考えたり、他人と話し合って意見を述べるのは嫌いではありませんが、今回の「プロタゴラス」のような内容は、ちょっと私と相性が良くないような気がしています。
私の中で「哲学」というと、ちょっと「硬い」感じがするというか、私は自分が分からないことを延々と考え続けるのが苦手なんだと思います。「徳」とか「正義」とか、はっきり言って私にはよく分からないし、深く考えることがあまりありません。でも、それを言ってしまうと他人に「何も考えていない」と言われてしまいそう。そういってことも、私が哲学を避けてしまう原因かもしれません。
 今まで哲学を避けてきた私には、この手の話題について知識が足りなかったので、少しだけ調べてみました。そこで出会ったのがプロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という言葉。とても有名な言葉らしいのですが、実を言うと今の今まで知りませんでした。「人間は万物の尺度である」、これってとても素敵な言葉だと思います。なぜなら世の中に溢れる意見や価値観など、何でも「それは個人の主観によって良くも悪くもなる」って言えてしまうからです。「それはあなたがそう思うだけでしょう?」と言われてしまうと、私には何の反論もできません。絶対的な真理があって、それはどういうものかなんて、私には分からないし、説明も出来ません。確かに、腑に落ちないという気分は拭えませんが。でも、私もその言葉を使って人と意見を交わす時に逃げることもできるわけです。
だから、私は最初、何故こんなにソクラテスがプロタゴラスに食ってかかるのか全く分かりませんでした。ソクラテスのやり方は人の揚げ足をとるようで、とても嫌な感じがしてしまい、実に巧妙だなと思わせられます。私だったらソクラテスは絶対に友達にしたくない人間です。
ソクラテスのやりたいことって何なのか。それは単純に見れば「人の揚げ足をとって喜ぶ」ことかもしれません。
でも、実はそうではないんですね。
自分には分からない、知らないということを自覚して、もっと知ろうと努力することが大切だと言っているんだと私は思います。偉い人や有名な人の意見に踊らされて、自分もその気になるのは間違ったことだと。そこが分かると、やはりソクラテスは偉大なのかもしれないと感じます。
だけど、やっぱりソクラテスは少し苦手です。自分が実は何も分かっていないということが分かるのは、けっこう怖いことだと思いませんか?それを人に指摘されるのは嫌だと感じるのが、とても正直な気持ちだと思います。

■モンチ
題:『プロタゴラス』
 「-善をさしおいて悪と信じるもののほうへ行こうとするようなことは-もともと人間の本性のなかにはないのではありませんか。〈中略〉」(p152, 岩波文庫)

 善があり、悪があり、その背後には無知がある。無知が善悪を決める。
 それは違うと思う。無知は善悪を決めるのではなく、悪をなす原因となるものであるということだと思う。無知であるが故に悪をなすということは、必ずしも無知が悪を決めていることを意味をしない。例えば、赤信号の意味を知らない人間は、赤信号で横断すると悪となる。しかし、「赤信号で横断してはいけない」と決めているのは無知ではない。悪であった者が、あるとき悪をなさずに善をなすようになったのは、善悪が何によって決まるかを知ったからではなく、単にある行為が悪であることを知ったからである。
ある行為が悪であることを知った人間は、本性によってその行為をしなくなり、善をなすようになるという。それでは、全ての行為が悪であることを知った人間は、本性によって行為をしなくなり、善をするようになるというのだろうか。それは何を意味しているのだろうか、つまり、それは死を意味しているのではないだろうか。人間の本性に死が含まれているということなのか。
 たとえ、人間の本性に死が含まれているとしも、その本性の範囲は自己に対してのみである。自殺である(他殺も含まれているのか否か、今回は考えない)。すべての行為が悪であると知った人間がとる善とは、自殺であるか否か。すべての行為を行なわずして人間が生存できる可能性があるのであれば、答えは否である。仮に、心肺機能のみは行為とみなさないのであれば、上記のような状態に自身を追いやることは可能であるから。
 元来、人間は悪をなさずに善をなすようにできているのだというような考え方をされると、僕はほとほと困ってしまう。僕は「悪は悪ではない」とか「善は善ではない」とかいう不条理な世界に生きている人間であり、僕の行為が善か悪かをしらずに結構な頻度で善をなせる(悪をなせる)ような世界に生きている人間だ。
 ソクラテスには、雁字搦めに人間の行為が悪かどうかをはかり、善をなせないのを無知のせいにするような世界を幸福な世界であると言える自信があるのだろうか。そのような自信は、常に善をなしているのだという過信に由来するのではないだろうか。「無知の知」の大切さを説いたソクラテス自身が、自身の行為に無知であった可能性は、ソクラテスが殺されたという事実に含まれるのではないだろうか。
 無知が善悪を決めるのでなく、悪をなすことの原因が無知なのだ。ソクラテスは「無知の知」を知っていた、しかし、ポリスでの悪を知らなかったから…あ、自殺したに近いな。

■センセイ
題:プロタゴラス
読み進めていくうちにどうやって感想を書いていいものか不安に感じながら読了しました。とりあえず、本文の流れに従って感想を書くことにし、では早速
p, 18 ソクラテスは、ヒッポクラテスがプロタゴラスから学ぼうとしているのは
「一個の素人として自由人が学ぶにふさわしいものとして一般的教養」ではないかと述べ、私は大学そのものがプロタゴラス〈ソフィスト〉なのかと考えてしまいました。ただ、最近見聞きする大学像は心なしか異なっている気がしますが。
p,23 ソクラテス曰く、「どれが有益でどれが有害かをちゃんと知っている」果たして有害なものとは一体何だろうか?その判断はどのように定めるのか。この本では主題が”徳”とは何か?教えられるものなのか?ということですが、私がもっとも気になったことは上記の事柄です。
”人間にとって有益なものが、善いもの”
果たしてそう言えるのか?必ずしもプロタゴラスの説明が適当とは思わないが、ソクラテスの表現に納得はいかない。
そもそも有益なものとは何か?有害なものとは何か?普遍的にそうしたものが在り得るのか。
具体的に見ても有益なものと有害なものは、おそらく個人によって差があるでしょう。うーん、こう書いちゃいましたが、レヴェルが違いますね。どうやったら良いのか。
徳、敬虔、節制(分別)、知恵、勇気
「快苦-とはすなわち善悪なのだが-の選択について過ちをおかす人々があるとすれば、それは知識を欠いているから過つ」
「ただ知識の欠如というだけでなく、その場合に欠けている知識とは計量術にほかならない」
『自分自身に負ける』=無知、『自分自身に打ち克つ』=知
正直いって、この本について巧く感想をまとめられなかったです。実際の集いのときにその辺を突き合わせられたらと思います。

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