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「14歳からの哲学」

■時
2007月05月31日
■場所
民俗学研究会部室
■利用図書
『14歳からの哲学』
■参加者

サトミ、原口勇希、マエノソノ、ジンちゃん、モンチ、ハシヤマくん

■感想文
以下参照

■原口勇希
題:哲学といっしょ・・・。
 考える、ということはどういうことなのかという、途方もなく思われるようなことについて、読んでいるあいだ頭をめぐりました。しかもこの本で考える対象というのが、普段生活していて気にもとめないようなそういう必要があれば考えるというようなもので、それこそ数週間前に読んだ、前田英樹・著『倫理という力』(講談社現代新書)で「なぜ人を殺してはいけないのか」というような質問はどう転んでも理屈っぽくならざるを得ず、理屈は人を救わないから、そういう質問の意味するところはあたりまえのことである(かなり大雑把に要約)、と書かれていたことをとくに「善悪〔1〕」のところでは逐一思い出していました。
つまりこの本に書かれていることはかなりあたりまえのことと思われることを疑ってかかっており、その試みじたいはすごく面白いのですが、さきの前田英樹氏によるとそれは疑うべきでないというほどバッサリ斬って捨てているわけではないけれども、例えば「善悪[1]」の冒頭の「なぜ人をー」という命題は「してはいけない」と思い定めることであり、その理由として私たち一人一人が、そもそも他の人間たちとの間にしか生まれてはこない生存の形をしていて、他人によってこそ自分があるのなら、その自分なるものは「してはいけないこと」の限界の内でこそ生きるはずである(要約)。ここでは「人を殺すこと」を「してはいけないこと」としているわけで、ここでこの章の最後で池田氏が言っていた、なぜ人は悪いことは悪いことだと知っているのかという命題の解答として前田氏の発言を借りれば、人は倫理的(人を殺してはいけないということを疑わないということも含めて)になることがしばしばあって、それはバスに乗車中のときにお年寄りに席を譲ってしまうとか、この人には妙に優しくしてしまうとかいうようなことで、そういう振る舞いにはどこか倫理的に行動することがそのひとにとって心地よいということがあり、その倫理的な行動を包括する倫理的な何かは必ずあって、しかもそれはある種普遍的であるというふうになっていて、私はおおいに納得させられたわけです。
 納得させられただけではだめで、それこそちゃんと考えてないということになるのでしょう。そこで気になったこのふたつ、哲学的であることと現実的であることについてしばし考えてみたいと思います。どちらがいいというのではなく。本の中身と関係がありませんが。哲学的であるとなるとどうしても根源的にならざるをえないという実感があって、それを論で詰めていくというかんじがします。対して現実的ということになるとその、ふっと頭をかすめる哲学的なことになるだけ囚われないように、日々を謳歌する。もちろん哲学的なものにふれることで逆に日々を謳歌できるというのもあるし、私たちのような学生の身分だとどうしてもふれたくなります。それをいうと社会に出たらそういうものにふれる機会がなくなるというふうにとられかねないですが、そんなことはなくてふれようと思えばふれられるわけです。本なりで。いっこうに答えが出せそうにないですが、このことについてどう考えますか?哲学と現実についてです。

■サトミ
題:『14歳からの哲学』
 14歳の時、私は何を考え、どんなことをしていたんだろう。本のタイトルを見て最初に思ったのはこれです。14歳ー中学2年の夏から中学3年の夏までの1年間、私は私立の女子校に通う平凡な女の子でした。公立の中学校へ行ってみれば、高校受験や進路など諸々のことで頭がいっぱいにしていたかもしれませんが、一貫校の生徒だった私は毎日をのんびりと過ごすだけ。女子校という特殊な環境には「女の子同士の暗くネチネチした難しい何か・・・」もあって、それなりに自分と他人の関係を意識しつつ、それまでの小学校生活との違いを感じていたように思います。
著者の考えとあっているかどうか、人間の発達に関する知識(特に心理的な面での発達)が私にあるかどうかは別として、この本がなぜ『14歳からの』となっているのか、あの頃を振り返ると少しだけ分かるような気がします。身体も心も大きく成長する思春期の真っ只中、自分自身とそれを取り巻くものごとについて考えてしまうことが多かったように感じるからです。
 さて、本文の感想ですが。
 2003年出版のこの本を私が14歳のときに読んでいたら、きっともっと自分のことを考えるきっかけとなっていたでしょう。私はすでに大学生なので、本文が語り口調なのは気になってしょうがないですが、当たり前のこと・なんとなく分かってはいるのだけれど上手く説明できないことを丁寧に分かりやすい言葉で語っているので、中学生~高校生くらいの人々にはまさしく「考えるための教科書」となるのではないかと思います。(ただ、少し説明がしつこいなあと感じる部分もありましたが。)文中に例として14歳くらいの人なら誰でも知っているであろうポピュラーな人物を挙げているのも、自分の中で具体的に考えられるのでよいかもしれません。
 けれども、その分かりやすい説明の中には池田氏自身の偏見・・・ではないけれど、「決め付け」みたいなものが感じられました。特に『メディアと書物』の項目では、ネットというものに対して悪い印象を抱いてしまう書き方をしているように思えました。池田氏はネットが嫌いなんでしょうか・・・。確かに書物は素晴らしいものですし、古典は読んで学ぶべきものを多く含んでいます。また、調べ物は書物の中から探し出すほうが、ネットから引用してくるよりも信頼できると思っています。『メディアと書物』だけでなく、『恋愛と性』の項目では「売春=悪い事」だと言い切っていますが、そうせざるを得ない状況にあってもその人は悪い人なのでしょうか。私自身も売春はよくないことだと思っています。けれども、様々な状況・事情を切り捨てて「悪い」と言い切っているところに、池田氏の個人的な思いも含まれているように感じてしまいました。・・・哲学的に考えた場合、悪いと言い切れるってことだとしたら私には何もいえませんけど。

■モンチ
題:「17歳のプロタゴラス」
 『14歳からの哲学』の著者は、14歳が読む本だといって、あまりに簡単に議論を持って行き過ぎるというのが第一印象だ。「自分が考えている」ということを議論の根本にして、各テーマを「自分が考えている」ことから考えていくことの大切さを問う。サモンのいうようにまるで人生読本のようにしか読めないのだが、それはおそらくすでに26歳になってしまったからかもしれない。疑いになれてきた年齢だ。
 哲学に関する読書暦のはじまりは、17歳のときの『ソフィーの世界』だった。その世界に驚きと面白さを感じたのが哲学の本を読むようになった契機であることは間違えない。今、哲学の本を読んでいて、あのときの楽しさを超える楽しさを味わうことはほとんどないと言ってよい。今はもういったん吹き込まれてしまった楽しさをもう一度味わいたくて読んでいる感じだ。しかし、本書の「17歳からの哲学」にある「善悪」のテーマを読んでいくうちに、17歳のときに味わったものとは違うけれど、それと同じぐらいの濃い楽しさを感じた。なぜなら、「善悪」のテーマの議論が、第3回読書会の時に議論したことにつながっていたからだ。第3回で使用したテキストは『プロタゴラス』だったのは当然承知のことだろうけれど、あそこで語られていたことと、「善悪」のテーマで語られていたことはとても似ている(と思わなかった?)。すくなくとも第3回のときの自身の感想文を思い出し、さらにそこで書かれてあることの正しさを考えながら、ここのテーマを読み進めていった。
 僕はそのときの感想文でこのように書いていた。
 「それは違うと思う。無知は善悪を決めるのではなく、悪をなす原因となるものであるということだと思う。無知であるがゆえに悪をなすということは、必ずしも無知が悪を決めていることを意味しない。」

 あのときの僕の考えは、社会が善悪を決めるのであって、個人の無知が善悪をきめるのではないということだった。『プロタゴラス』のソクラテスとプロタゴラスの対話が善悪に関するものでもあったので、僕はそのことについて自分なりに考えた。それが正しかったのかは次の課題にして、今回『14歳からの哲学』を読むことで、『プロタゴラス』を読む際になりよりも以下の点に気をつけて読み進めていくことが大切なのだと分かった。

 「私が吟味するのは、何よりも言説そのものですけれど、しかし、そうすることによって、おそらく、質問するほうのこの私も、答えるほうのあなたも、ともに吟味を受ける結果になることでしょうか?」出典:『プロタゴラス』プラトン岩波文庫p79
 終わりに、これを機会に『ソフィーの世界』をぜひ読んでみてください。

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