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構造主義について

■時
2006年07月12日20時~23時、翌日02時~5時
■場所
民俗学研究会部室、夜警部屋
■利用図書
内田樹 著 『寝ながら学べる構造主義』
橋爪大三郎 著 『はじめての構造主義』
レヴィ・ストロース 著 『悲しき南回帰線』
■参加者
メンバー全員 +マエノソノさん、ピノキオ、ウィラポン
■感想文
以下参照

■サトミ
題:感想
 今回の読書会のテーマが構造主義に決まった時、私は正直「参ったなー」と思いました。前回の「プロタゴラス」でも、哲学が苦手で「うーむ」と唸ってしまった私が、今回は「構造主義」について語る…どう感想を述べればよいのやら見当もつきません。そもそも、構造主義って何なんだ?(同じように、実存主義とかマルクス主義というのも実はほとんど分かっていない)そういう状態の私が、構造主義の話についていけるのでしょうか。それを心配しつつ、今回の読書会に挑むこととなりました。

 本を読んだ感想としては、とりあえず少しは興味が持てたという感じです。構造主義という言葉の説明は上手くできそうにありませんが、本の中に出てくる、どこかで聞いたことのあるような名前の方々が、どのようなプロセスを経てどのような考え方をしたのか…という部分を知ることは、非常に面白かったです。「寝ながら学べる構造主義」、さすがに「寝ながら学ぶ」というのは厳しかったですが、ロラン・バルトについての章は最も興味を持った部分です。言語、と言うか私が何気なく使っている「ことば」に焦点を当てているので読みやすかったのでしょう。
 身近なものなのですが、よくよく考えてみると「ことば」ってすごいものだなーって思います。私が特に面白いと思うのは、若いコ達が使う「ことば」。「ギャル語」なんてものがありますが、普通に聞くと意味のわからないものが多々あります。けれど、その「ことば」と意味を照らし合わせると「そうか」と納得してしまったりします。元々の単語を短くしたり、ことばとことばをくっつけてしまうところが、あのギャル語の面白さなのかなぁと考えています。これ、構造主義の話とは関係なんでしょうけれど。
※ついでに、ギャル語と同じように意味不明なもので「ギャル文字」ってありますけれど、あれは読めないです。どういう仕組みになっているのか全く分かりません。
(今日б読書会は「⊃ゥ'ノ”ゥシユ≠”」レニ⊃レヽζζ”す★)←ギャル文字

 んー、でも最終的な感想を言いますと…本当は、何を書いていいのか分かりません。構造主義って言葉自体、すごく難しいものに感じてしまうんです。私も知らず知らずのうちに「構造主義的に」物事を考えているかもしれませんが、それを実感することがないわけで。初心者向けに書かれた本を読んだはずなのに、構造主義が分からない…そこで、今回の読書会は、私は他の人の考えや感想を聞いて学ぶ立場をとり参加したいと思います。

■サモン
題:感想
 最初に構造主義について漠然と感じたことは、考えすぎなんじゃないか、ということでした。
  世の中は突き詰めるとある意味シンプルにできているのでは、などとたまに思う私は、思想とか主義主張と、時代ががっぷりよつに組んだとされている1960年代の若者(団塊の世代)が学生時代にマルクス主義とかの影響を受け反体制を掲げていたにもかかわらずほとぼりがさめたら体制の側に・・・・といった構図を様々な媒体で吹聴されるにつけ、思想って・・・といった感慨を抱かずにはおられませんでした。
 そういった感じで主義主張って実体のないものでそれにある時期にかぶれるひとがわずかにいるといった認識でした主義主張思想にかんしては。だから今回の読書会の素材としてとりあげられている五冊を読むまえはなんだか斜めに構えてしまっていました。しかしまずはじめの新書の二つ(『はじめての~』と『寝ながら学べる~』)を読み終わったとき『寝ながら~』に書いてありますが構造主義ともなるほとんどあたりまえのことを言っていて、それは、私たちにとって自明のものが実はある特殊な歴史的起源を有しており、特殊な歴史的状況のなかで育まれたものだ、ということでそれを明らかにするための構造主義の名乗りであるこの五冊であるらしいのですがわたしたちにとって自明なものから出発しているということはつまりその自明なものがどういう経緯でわたしたちにとっての自明になったかということはつまりその自明なものがどういう経緯でわたしたちにとっての自明になったかということは別に知らなくてもいきてはいけます、と言うのは簡単です。明らかにされるものがわたしたちにとって自明なものであるからけっきょく自明のものにかえってくる、だけ、とまで言ってしまったら野暮なのかもしれません。でもこの五冊を読んでいる最中の感想です。そこから先が肝であるのは言うまでもありません。
 しかしこの五冊の本だけとは限らなくても構造主義と名のつくものに触れない限り自分たちにとって自明のことが自分たちにとって自明であることがわからいということになりそうです。この本たちを手に取ったひとにはからずもそのことがおぼろげにわかってしまうのですがそうでない場合は・・・。それってほんとうにわたしたちにとって自明のものっていえるのでしょうか。じぶんたちにとって自明であるものだったらそんなのにふれないのに自明であることが薄ぼんやりとわかってしまうくらいないと私たちにとって自明であるなんて言えないんじゃないか、というのは暴論でしょう。
 結局やっぱりじぶんたちにとって自明であることが自明であるというのは殊勝なひとだけといった感じは私にとっては否めません。つまり世間と離れたところにあると。だから面白いのでしょうけれども。
 感想だから書けることをかいてみました。

■モンチ
題:わかる+方=方法∽構造
 わからないことは無数にあるのだから、そのことを生きる目標にすれば暇になるようなことは決してない。たとえば、今回の読書会のテーマとなった構造主義をひとつとっても、わかるまでに必要なことは無数にあるように思えてしまう。課題となった本を読んだだけでも、わからないことはいくつもあった。この読書会を機会に、わかるまでになったのはごくわずか。完全と思えるほど構造主義をわかるのに費やす労力が、数十倍必要であるのは目に見えている。
 それでも構造主義をわかりたいと思うのは、わかろうとする本能があるからだと思う。僕は、構造主義にある無矛盾や正当性などは二の次で、この主義をわかろうとする行為自体を本来的なことと感じているのだ。一方で、構造主義の必要性に疑問をもったり、わからなすぎたりして、わかろうとする行為を今回限りだと決め込んでいる人もいるだろう。
 実のところ、構造主義を一人でわかろうとせずに、勉強会でもしようかと思っている。僕一人の力で手に負えないというだけでなく、ぼくのわかり方正しいのかチェックできないからだ。だから、僕は今回の読書会を始まりと見なし、読書会のメンバーと今後も構造主義についての勉強会をしたいわけだけれども、いったいそれに賛同してくれる人がどれほどいるだろうか。それほど期待できないだろう。勉強会が希望通りに開けないとしても、これだけは暫く心にとどめておいて欲しい。それは、構造主義の対象は実在ではなく、”わかり方”なのだということ。
 構造主義というのは、古今東西どの人間も当てはまる、わかろうとするときのわかり方や、問題を解決するときの解き方を探求する行為だ。つまり、構造主義をわかろうとしている僕達がやっていることは、ややこしいのだけれど、こういうことになる。
 「”わかり方”のわかり方をわかろうとしている」。さて、ここでもうひとつ考えて欲しいことがある。それは、一体”わかり方”のわかり方を記述することは可能なのだろうかということ。どこかレヴィ・ストロースは終わりのない解決できない問を立て続けるような行為をしている、沙門のように思える。
 終わりのない行為を続けていく気のある人が一人でもいれば、読書会が終わって具体的な勉強会の計画を考えましょう!

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