薔薇乙女寿史料館

ひいらぎレールジャーナル第五回

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healagi

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新幹線の開業でそれぞれ新しい人生を歩み始めた東海道本線の特急たち。その中で最も劇的な運命をたどったのが今回取り上げる列車である。すでに愛称が消滅しており、馴染みのないマイナーな列車だがそれゆえのエピソードがあったりするのだ。

その列車は名古屋のために生まれた


 1958年、国鉄初の電車特急「こだま」が2往復デビューし、1960年には特急「つばめ」2往復が電車化され、東海道の特急は徐々に充実してきた。

 戦前、超特急「燕」がそうだったように特急は最もメインである東京~大阪・神戸という区間を意識して設定・増発していた。増発する際、どこが重要かを考えれば当然な話である。

 しかし実際、途中停車駅の一つである名古屋での利用客も多かった。
 東京~名古屋では準急「東海」をはじめとする準急列車が数往復設定されていたが、速さと快適さから特急を選ぶ人は少なくなかったのである。

 その上、特急のさらなる増発が求められていたことから、国鉄は1961年10月にダイヤ改正(通称「サン・ロク・トオ」)を実施し、東海道線にはそれまでのほぼ倍にあたる、7往復の特急を設定した。

 その中に1往復、東京~名古屋に新しく設定された列車があった。


その列車こそが特急「おおとり」である。

「おおとり」は東京と名古屋の間を4時間15分で結んだ。

もっと言えば朝7時45分に名古屋を発車し、12時ちょうどに東京に到着。
そして東京を18時ちょうどに発車し、名古屋に22時15分に着く。
東京での滞在時間はジャスト6時間と日帰り出張するのにも十分なダイヤ設定であった。

編成は他の電車特急「こだま」「つばめ」「はと」「富士」と共通で151系電車の11両編成。
そのためつばめと同様、1号車には1等特別車「パーラーカー」が連結されていた。

3年働いた線に別れを告げ北海道第2の特急へ


こうしてサン・ロク・トオ以降、東海道特急の全盛期の一員として活躍していた「おおとり」であるが、早くも転機が訪れる。

 そう1964年10月。東海道新幹線が開業したのだ。それに伴い東海道線の昼間の特急は廃止。
「こだま」はその新幹線列車に召し上げられ、「富士」は夜行の寝台特急として(第2回参照)、「つばめ」と「はと」は新幹線と接続して九州へ向かう特急へ(第4回参照)それぞれ転属となった。

 転属とは言っても「富士」は時間が夜に変わっただけで東海道を走っているし、「つばめ」と「はと」も大阪~神戸と短いながらもまだ東海道線の走行区間が残っていた。

 だが「おおとり」だけは違った。

 この改正で東北本線上野~青森に初めての寝台特急「はくつる」が登場したが、青森~函館で青函連絡船を介し、函館から札幌・網走・釧路へ結ぶ特急が新設され、これに「おおとり」と名付けたのである。


 こうして「おおとり」はわずか3年で東海道を去り、北の大地にやってきたのだった。

 ちなみにサン・ロク・トオでは北海道で初めての特急「おおぞら」がデビューしており、「おおとり」は北海道で2番目の特急となった。

その時のダイヤがこちら


 函館~札幌は室蘭本線・千歳線を経由。今の特急「北斗」などと同じである。なので札幌で進行方向が変わる。網走行きはさらに遠軽でも方向が変わっている。

 下りは上野18:30分発青森6:10着の寝台特急「はくつる」、そして青函航路3便から接続しており、上りは青函航路4便、そして青森22:40発の「はくつる」に接続し、上野に朝10:20に到着するダイヤが組まれている。

 列車は特急型気動車のパイオニア、キハ80系12両編成で運転。(というか当時これしか特急型気動車がない。)

 網走行きと釧路行きがあるが両者は滝川で分割・併合。列車番号からして網走行きの方が基本編成になるはずだが網走行き5両、釧路行き7両と、釧
路行きの方が多い。
 しかも食堂車は釧路行きの方に連結されていた。

札幌を跨いで運転する最後の特急に


 「おおとり」が北海道に移籍した翌年1965年には函館~旭川を室蘭本線経由で結ぶ北海道第3の特急「北斗」が、1967年には函館~旭川を倶知安・小樽経由で結ぶ北海道第4の特急「北海」が登場し、徐々に北海道にも特急が増えてきた。

 その中で「おおとり」はしばらくは特に変化もなく安定した毎日を送っていたが、1970年に輸送力増強のため釧路行き編成を「おおぞら2・1号」として分離・編入した。これによって「おおとり」は函館~網走の単独運転となったのである。

 ただしこの時、分離によって網走行きの輸送力が増強されたわけでもなく、6両と短い編成で10時間以上走るにも関わらず食堂車もなかった。

 1972年、「おおとり」に待望の食堂車が連結され7両編成になった。


 この時、本州では今まで気動車で運転されていた特急「白鳥」「いなほ」「ひたち」が電車化されることになり、そのあおりで要らない子になった80系気動車を北海道に転属させる。

 これらの車両を使用して札幌~網走に新たに特急を1往復新設した。これが特急「オホーツク」である。


 「オホーツク」の登場で札幌~網走の特急は「おおとり」と「オホーツク」との2往復体制となったのだが、1981年と1985年にそれぞれ急行「大雪」1往復ずつ特急に格上げされ「オホーツク」に編入された。

 これによって「おおとり」1往復に対し、「オホーツク」3往復と、「おおとり」は徐々に肩身が狭くなってきた。


 しかも1979年に北海道向けの新型特急気動車であるキハ183系がデビューし、今までキハ80系で走っていた特急を次々と置き換えて行く中、「おおとり」だけは置き換えられずキハ80系で淡々と走っていた。

 「おおとり」は北海道の特急の中で一番最後、国鉄分割民営化間近の1986年11月でようやくキハ183系に置き換えられたのだった。

 キハ183には食堂車が付いてなかったため、この「おおとり」は北海道最後のキハ80系使用列車であると共に北海道最後の食堂車付きの列車でもあったのだ。
(※厳密に言えば、寝台特急「北斗星」など食堂車連結は今でも存在するが道内のみ、または昼行だと「おおとり」が最後だと言える。またキハ80系全体の最後の運用は名古屋~紀伊勝浦の特急「南紀」である。)


 国鉄が分割・民営化され、JRとなっても「おおとり」は相変わらず函館~網走の長距離で運転されていた。

 他の特急は既に札幌を境に系統が整理されており、札幌を跨いで運用される特急はもはや「おおとり」だけとなっていた。

 だが、この貴重な存在が運用における不合理さを生み出していたのは間違いなかった。


 民営化翌年である1988年3月。
JR化後初の全国ダイヤ改正によって函館~札幌を「北斗」に、札幌~網走を「オホーツク」に任せて「おおとり」はその名前が消滅した。


 東海道ではたった3年だったのに対して北海道では8倍の24年に渡る活躍であった。 



 歴史は繰り返す。




 米原で新幹線から接続し、北陸の金沢まで最速で結んでいた特急「きらめき」が今は九州の博多~小倉・門司港を結ぶライナー特急として走っている。

 かつて東京対九州の名門ブルートレインで名を馳せた寝台特急「はやぶさ」が今は東北新幹線の最速達列車に君臨している。


 このように、一度廃止された列車の愛称が全く異なったところで復活するケースは鉄道史のなかにいくらかある。


 しかし「おおとり」ほどあまりメジャーでないのに極端なのはあまり思い当たらない。

2012年10月13日


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