バベルの塔の狸 間章 海辺の白い花 「トべラ」


 頭が痛い。
 今のところ気になるのはそれだけ。
 今、自分はどこにいるのか。なぜここにいるのか。そもそも自分は誰なのか。
 何一つはっきりしない記憶に戸惑うこともなく、彼女は歩く。

 頭が痛い。
 今のところ気になるのはそれだけ。
 頭の中に何か蟲のようなものがいて、それが動き回っているような。
 激痛ではなく、徐々に侵食してくるようなとてつもなく不快な痛み。
 それでも彼女は死人のように、ただのそのそと歩き続ける。

 彼女が歩くのは破壊の後に住み着いた欲望と暴力。
 アヴェンジャーが生み出した現代のソドムの街。
 悪徳と野心、頽廃と混沌とをコンクリートミキサーにかけてブチまけた、
 ここは煉獄のゴモラ。どこか気の狂いそうな光景。
 着ているものは煤けたシャツとスカートだけ。
 しかもその服には赤い染みがベッドりとへばりついている。自分の血じゃない。他人の返り血。
 ぺたり、ぺたりと裸足が歩くたびに音を立てる。
 右手には黒光りする鉄の塊。指一本で人を殺せる。拳銃。

 彼女が通路の曲がり角を曲がると、そこは少し変わった通路が続いていた。
 通路の両側には鉄格子のついた窓のある家がずらり。路にそって延々と続いている。
 
 彼女は無言で通路を進んだ。
 鉄格子越しに、中の住人がこちらを見ている。
 みんなまともじゃない。あの中にいると、人は狂ってしまうのだろう。自分もついさっきまであそこにいたのだ。

「出してくれぇ! ここから出してくれぇえ!!」

 鉄格子をがたがた鳴らしながら、中の住人の一人が彼に叫んだ。
 こいつはまだまともらしい。だが、いくら暴れても鉄格子はビクともしない。
 その声に触発されたように、一斉に住人たちが声を上げた。
 笑い声、怒声、泣き声。
 助けを求めるものもいれば、意味不明な言葉を連呼するものもいる。
 みんな、彼に何かを訴えかけていた。部屋の中に閉じ込められた彼らは全くの無力だ。
 唯一自由になった彼女だけが、他の者をどうすることもできるのだ。
 だが、彼にとってそんなことはどうでもよかった。

 頭が痛い。
 今のところ気になるのはそれだけだ。
 耳障りな騒音が頭に響く。不快だ。とても不快だ。
 銃声と笑い声がそこかしこに響く。
 ここに、まともな人間はいなかった。ただ一人として。

「いたぞ、あそこだ!」
 不意に、別の騒音が加わった。軍靴の音。
 通路の先にある角から数人の警備員がマシンガンを片手に姿を現す。
 ここは完全管理された監獄。銃なんて持てばすぐにこういう奴が駆けつける。

「すでに収監員が数人殺された! 射殺許可は出ている!」

 リーダーらしき男が叫んでいる。他の奴ら叫んでいる。
 うるさい。うるさい。うるさい!
 彼女はそれまでの緩慢な動作から一変して、一気に駆け出した。
 信じられない瞬発力で、銃を構える警備員たちに突進する。
 身を隠す物は何もない。このままいけば無数の銃弾に体をさらすことになる。
 彼女は銃を構えると走りながら残りの弾を全部撃ち出した。
 上下に揺れる銃身を器用に固定して、走りながら正確に警備員を狙い撃つ。普通はできない。私にはできる。
 警備員の一人が額を数発撃ちぬかれて倒れる。動揺する仲間。
 そこに彼女は体当たりに近い勢いで突っ込んだ。弾倉の空になった銃を投げ捨て、素手で警備員に襲い掛かる。
 少女一人相手に鍛え上げられた屈強の男が数人。本来なら勝負の結果は明らかだ。だが、まず警備員の一人目が死んだ。
 自分に向けられたから銃身を掴んで、引き金を引くより早く捻りあげる。
 そのまま肘を掴んで勢いよく押し込むと、鈍い音と共に腕が反対側にへし折れた。
 甲高い悲鳴を聞きながら、自分より体のでかい男の首を片手でへし折る。
 そのまま振り向きざまに回し蹴りを後ろの男の首元に叩き込んだ。また鈍い音。
 強靭な警備員の体を的確に破壊する。別に特別な体術を使っているわけでもない。
 ただ純粋な力。ただの暴力。体格差を無視して、私には出来る。なぜかはわからない。
 銃口を向けた男に対して、その銃身を掌で叩いて向きを無理矢理返る。
 トリガーに掛けられた指が一緒に捻じ曲がって、ポキリという小さな音ともに折れた。
 苦痛に悲鳴を上げる男の下腹に深く踏み込んで拳を打ち込む。
 腕の筋肉が軋む。
 鉛をぶつけられたようなボディブローにバキバキと肋骨が折れる音が響いて、男は血反吐を吐いて崩れ落ちた。
 その隙にマシンガンを奪い取る。残った警備員二人に、連続的な銃声が響いた。
 
 鉛の衝撃を受けて、男たちが踊る。血を撒き散らして踊る。

 ブラッディ・ダンス。

「……」
 もう、騒音はない。
 彼の周りには、骸と化した警備員達。喧騒は嘘のように消え、恐ろしい沈黙だけが辺りを支配する。

 ざまあみろ……。

 自分はもう狂っていると思っていた。なのに中々どうして、人間らしいところも残っているじゃないか。
 彼は自分でも気付かぬうちに笑っていた。
 それは、非常に弱弱しいものではあったが。
 
 不意に爆発音がした。
 だが今度は遠くではなかった。すぐ近く。
 路の突き当たりの壁が爆弾でも爆発したように吹き飛ばされたのだ。
 凄まじい爆風に巻き込まれ、彼女は宙を飛んだ。

 破壊された壁の中から現れたのは麗装の女性。
 男性とも見えるような、キリッとした顔立ちに漆黒のスーツ。
 目鼻立ちの整った美貌。
 だが、先の衝撃のせいか煤と土汚れで、彼女の顔は渋く険しい。



『ォ■■■ォオ゛オ■オ■■■ーーーッ!!』


 けたたましい咆哮。
 とともに、麗装の女性目掛けてブレーキを外した自動車のような白色の塊が突っ込んできた。

「─────ちいっ!!」

 寸での所で翻し回避する麗装の女性。
 たたらを踏みながら、自分の前に着地する。

「─────!?一般人!?どうしてこんな所に!?」

 自分を見て驚く女性。
 霞む眼を擦りながら、なんとか状況を見て取ろうとすると、
 先ほど女性がいた場所からゆっくりとこちらに立ち上がる人影が見えた。
 時代錯誤の純白色の甲冑を身に纏い、右手に御伽噺に出てきそうな両刃の片手剣。
 そして感情といったものが一切欠落したような、死人のような無機質な表情の偉丈夫。
 だが、その虚ろな瞳とは裏腹に、物理的な重圧を伴うかのような濃密な敵意と殺意が見てとれる。

「さすがに見逃すわけにはいきませんね……そこの貴女、立てますか?」

 話しかけられた。
 うなずいて肯定の意を伝え、言われたとおり立つ。
 
「できるだけ時間を稼いでみます。貴女は今すぐ脇目を振らず、振り返らず
 全力で反対へ逃げてください」

 女性の緊張が伝わる。
 あれには勝てない。
 それでも見ず知らずの私の為に、命を賭けて立ち向かおうとしているのだ。
 
「─────行って!!」

 言葉とともに駆ける。
 彼女の覚悟を踏みにじってはいけない。
 私は、背後の激突の音を振り切るように精一杯走った。





 戦い方によっては戦車すら倒す兵器。その強固な鎧はさすがに素手では砕けない。
 彼女は空気打ちをありったけ撃ちまくった。しかし、弾は全て弾かれる。いくらなんでも生身で勝てる相手ではない。
 白銀の騎士が右手の両刃の片手剣を構えた。無数の風の刃がかき消されていく。
 彼は無抵抗でそれを受けた。
 もっとも、抵抗したところでその風の刃が効くはずはしないのだが。
 鋼鉄の衝撃が、体に潜り込む。腕の肉が弾け、脚の骨が砕けた。
 右目を剣閃が走り切り裂かれる。
 人間の体は意外と強靭に出来ていて、急所や重要な臓器を破壊されなければ簡単に死にはしない。
 彼女は身体を切り刻まれながらもまだ意識を保っていた。

 こみ上げる熱い塊を地面にぶちまける。そのまま彼女は自分で作った血溜まりに倒れこんだ。
 体中から血と一緒に力が抜けていく。
 感じる死の感覚。何一つはっきりしない記憶の中、彼女はぼんやりと迫る死を見つめていた。
 何も思い出せないまま、何も知らないまま死ぬ。それもいいかもしれない。
 耳がもう良く聞こえない。しかし、何か大きな音が響いたのがわかった。

 一方的な殺戮はすぐに終わった。
 再び訪れる静寂。
 薄れ行く意識の中、彼女は黒い闇の中から浮かぶ光を見た。
 


 666



 美しい金髪の、長身の美女。
 だがその体はなぜか鋭い刃物で出来ているように思えた。触れたら切れる。そんな危険な女。
 右手に茨の杖を携えてこちらに近づいてくる女に、彼女は近くの剣を向けようと腕を伸ばした。
 だが、すでに彼は指一本まともに動かせなくなっていた。
 そのうち心臓さえまともに動かなくなるだろう。
 女が自分を見下ろすように立ち止まる。
 その顔にはなにがおもしろいのか小さな冷笑。
 女は辺りを見回すと、自分が破壊した人間の死体を見つけて、ふふんと鼻を鳴らした。

「貴女がやったのかな?」

 彼女が今まで聞いたことのない種類の声。
 不快にはならない。少し冷たくて、危険な雰囲気をまとって、それがちょっと心地よい声。

「……殺しなさい」

 かろうじてつぶやく。それが彼女の最後の力だった。
 心なし、女の笑みが濃くなる。

「いい返事です」

 女、魔術協会に所属する魔術師、フォルテの呟きを、彼女は最後まで聞かないうちに息絶えた。







(……どうしたの?)
 彼女は闇の中にいた。
 自分がここにいる理由。そもそもここはどこなのか。何一つ分からない。結局、あの白い部屋に居た時と同じ。
 何も変わらない。
 死んでも、何も変わらなかった。
 彼は力なく倒れている。何もする気も起きなかった。
(……目を覚まして)
 彼女の足元に、少女が立っていた。
 誰?
 思い出せない。見覚えのある少女。紫色の髪に青い瞳の少女。懐かしい匂いのする少女。
 だけど、思い出せない。
 あなたは私を知っているの? 
 なら忘れて。私はもう死んだんだ。
(……)
 少女が悲しそうに微笑むのが見えた。その笑顔が、彼女の心に痛みを走らせる。
 やめて……。
 闇が、彼女を包み込む。
 そうだ、このまま自分を消して。もう、疲れたんだ。
 永遠に覚めない眠りが欲しかった。
 だが、それでも光はやってくる。現実の光がやってくる。




「……」
 目を覚ますと、見慣れない天井が目に入った。
 目に見える光景。聞こえる自分の心臓の音。かすかな鉄の匂い。肌に感じる空気の感触。
 確かな現実感。夢じゃない。これは現実。
 天井が見える。ここは少なくともあの地獄の中ではない。
 まどろみすら感じず覚醒する脳。何があったのか、すぐさま記憶が整理される。
 だが、以前の記憶が未だに思い出せない。
 自分は何者なのか。
 どういう名前で、どういう顔で、どういう人間なのか。
 肝心なところが何も変わらない。
 頭痛はいつの間にかなくなっていた。
 ずっと感じていた筋肉の痛みも嘘のように消えている。
 しかし、起き上がる気力がどうしても湧かない。
 私は寝転がった姿勢のまま辺りを見渡した。
 柔らかいシーツの感触。自分は今ベッドのうえに寝ているらしい。
 さほど広くもない部屋。
 だが、高級そうな家具一式や、テーブルの上に無造作に置かれた年代物の調度品類からして、
 どう考えても一般人の部屋とは思えない。
 大きな窓。それと長髪の男性の後ろ姿。

(……男の人?)
「ん、目が覚めたか」

 男の人が振り返って言った。彫りの深い顔。白い肌に不機嫌そうに寄った眉。
 そして小さな笑みを張り付けた顔で近づいてきた。
 自分が最後に見た風景は戦場。
 油断できる相手ではない。
 彼女は反射的に飛び掛かった。
 彼女は今まで敵しか知らなかった。
 この男が自分を助けてくれただろうことさえ、彼女には思いつかなかったのだ。
 いきなり襲い掛かった彼女に怯むことなく、男は変わらない笑みを浮かべたまま身を捻った。
 あっさり突進をかわされ、彼女は足をもつれさせて床に倒れこんだ。
 体に力が入らない。
 男の笑い声が頭上から聞こえる。

「寝起きだというのに大した威勢だ。
 だがね、きみは一時間ほどしか寝てないんだよ。そう簡単に体の自由なんてききゃしない」

 言って男は手を差し出す。
 彼女は不思議そうにその手を見つめ、そしてためらいがちに掴んだ。力強い腕力で、彼女を起き上がらせる。

「ふむ、軽いね」

 不思議な男だと、彼女は思った。
 いきなり襲い掛かった相手に手を差し出す。
 それでいて、ためらいもなく手を差し伸べた。彼女はこの男の人が自分とは違う種類の生き物のように感じた。

「さて、まずきみの名前から聞かせてもらおうか」

 ベッドに座らせた彼女に対して、男はそれが普通の表情のように笑みを張り付かせたまま尋ねる。
 しかし、彼は俯いたまま何も話さない。

「声帯や言語中枢は無傷だから喋れるはずなんだが……やはり暗示の干渉が出ているか」
 
 男が困った様子もなく、むしろ面白そうにつぶやく。

「一応、私はきみの命の恩人なんだから名前くらい教えてくれてもかまわないと思うが?」
「……名前もわからない私をなんで助けたの……?」

 自分でも違和感のある声に内心驚いた。
 自分の声のはずなのに、初めて聞いたような気がする。
 見た目では変化のわからない男の笑顔が、ちょっとうれしそうに変わったような気がした。

「死に掛けてる人間を助けるのが趣味でね」

 冗談のような返事。しかし、この男の人が言うと本気に聞こえるから不思議だ。
 男はまた笑うと、背を向けて元いた場所に戻っていった。
 さっきまで机の上で調度品の分解整備をやっていたらしい。
 その作業に何事もなかったようにもどる。
 彼女は呆気に取られて男の背中を見つめた。
 まるでこの男の性格が掴めない。名前も知らない自分を助けながら大した関心も見せず、名前を聞いておきながら深く追求もしない。
 まるで自由奔放な、いや自分勝手な行動だ。

「……私は誰?」

 私は誰へともなくつぶやいた。
 誰も答えてくれるはずのない問い。
 自分がわからないのに他人が知るはずのない答え。

「なるほど。記憶喪失ってやつか?」

 それを聞いて男が手鏡を渡してくる。

「自分の顔をよく御覧なさい」

 鏡を覗き込むと、年若い女の子の整った顔が映っていた。
 自分の顔。それなのに見覚えのない顔
 肌の色は健康そのものだが、右手には奇妙な痣がある。
 首筋には中で炎が燃えているような紅の数字が三つ。
 そして、両目は海のような色ではなく、どちらかというと生命力の感じられない汚れた海の濁った色。
 生きた眼と死人の眼が一個ずつはまっているような違和感のある顔だった。
 髪は明るい茶色。
 
「……これが私?」
「他に誰がいる?」

 不思議そうに自分の顔を触る私に対して、相変わらず男の人は振り返りもせずに言い捨てた。
 私は記憶を探る。
 今の自分の相貌のように、濁って見通せない記憶の海。 
 そこから一つだけ見つける。
 自分の名前。





「……由紀香、三枝由紀香」
 




 男が振り返った。

「私の名前だ。たぶん」
「…………良い名前じゃないか」
 
 そう言って、男はくくくっと小さく笑った。






 冬木ハイアット・ホテル客室最上階
 ──地上三二階の高みから見下ろす眺望は、中々に壮観である。
 ここハイアットホテルはここ新都でもっとも初期に落成を果たした建築物である。
 今後の新都の発展に伴い、新生のホテルは続々と増えていく。
 そんな最高級のスイートルームを含めホテル全階を借り切って、窓際の本革ソファで難しい顔をして座するこの男は
 
「ウェイバー・ベルベットだ」
「え?」
「名前だよ。君に名乗らせてそのまま黙するわけにはいくまい」

 と無愛想に自己紹介をはじめた。
 これが私とウェイバーさんの初めての接点。
 今日という地獄の一夜を共にする最初の邂逅であった。



「─────さて、記憶喪失となると少し話が長くなってしまうが。
 きみに安全な場所と適切な説明をしたいのだが、生憎と我々には余裕がない。
 こうしている時間も惜しいぐらいなんだ。
 非常に申し訳ないが、我々と一緒に来てほしい」
「─────え?」

 自己紹介を終えたと思いきや、突然協力の要請をお願いしてきた。
 いきなり突拍子もないことを切り出され面を食らってしまう私。

「いいえ。彼女とは相互理解が必要ですよ『ロード・エルメロイ』」

 と思わぬところから響いた声に驚き、声がした方向を思わず振り向く。
 入口のドアの前にスーツを着たキリッとした女性が立っていた。

「ファック。その名前で呼ぶなと何度も言ってるだろうバゼット・フラガ・マクレミッツ」
「失礼」

 ツカツカとこちらへ歩む女性。
 右肩に掛けている銀択の細長い筒が印象に残る。

「協会は神秘を隠匿する為の組織。下手な開示はできません。
 事態の収束は絶対条件であることは理解してます。
 ですが、彼女は一般人ですが、重要な関係者です。
 必要な情報を提供してから助力を要請しても不足はないでしょう」
「────む」



 ………………
 ……………
 …………
 ………
 ……
 … 
 



 彼は魔術師達の最高学府の教授であり、別名『ロード・エルメロイⅡ世』と呼ばれている存在らしい。
 本名は前述にあるらしいが、彼を知る者は皆敬意を込めてロード・エルメロイⅡ世と呼んでいる。
 まだ若くありながら、時計塔の中でも最も優秀な教師と言われ、彼に教えを受けて巣立っていった生徒達は、
 その誰もが優秀な魔術師として世界に羽ばたき、時計塔の中でも数多くの栄誉に輝いている。
 ゆえに、彼は魔術師達の間でも尊敬の念を集め、
『プロフェッサー・カリスマ』や『マスター・V』、『グレートビッグベン☆ロンドンスター』など、
 実に多くの二つ名を与えられている。
 もっとも、本人はその名で呼ばれるのは大層嫌いであり、いつか自身の功績でその名を轟かしてやるのが夢だそうだ。

 もう一人の男装の麗人はバゼット・フラガ・マクレミッツさん。
 同じく魔術協会所属の魔術師で、彼女は第1線で活躍する戦闘のスペシャリストなのだそうだ。
 どのくらい強いか聞いてみたら、アリスター・オーフレイムとセーム・シュルト、ヒョードルを
 3秒でマットに沈められるとか。………………その喩えはどうかと思う。


 魔術協会。
 一般には知られていないが、遥か昔から西欧に存在する魔道の総本山。
 
 ファンタジー映画や小説、アニメなどでよく知られるあの魔法と大体イメージは同じだが
 現実にはそこまでお手軽で派手なものではなく
 色々な縛りや決まりごと、そして関係者も素質と代々続く家系の人、もしくは一部の権力者に限られた
 秘密主義が徹底された怖いものなのだそうだ。
 ちなみに私は、それなりの素養があるかもしれないそうだが、魔術師として大成することはまずなく
 何年もの修行をしても、大したことは出来ないとか。
 マジックの練習でもした方がずっと有意義だとウェイバーさんに鼻で笑われたのは少しイラッとした。

 そして聖杯戦争。
 現在冬木市内を戦禍に包んでいる災厄の源がこれだ。
 遥か200年近くも前から、この土地で行われてきた血なまぐさい殺し合いで
 7人の参加者が英霊を使役し、バトルロワイヤル方式で聖杯を勝ち取る儀式。
 この賞品の聖杯は聖書に出てくる本物ではないのだが、それに匹敵する万能の杯であり
 勝者にありとあらゆる願いを成就させる無限の可能性を秘めた願望器なのだ。

 英霊とは昔の偉人や神話に出てくる登場人物たちのことだ。
 霊長最強の存在。
 一騎当千・伝説の象徴(シンボル)
 人間とは一線を画する遥か上の存在で、本来ならば制御・使役することなど到底叶わない
 凄い人たちである。
 そんな英霊を、マスターの使い魔として魔力を糧に契約して使役し、共に闘うことを可能としている。
 これこそが聖杯が万能の器たらしめる所以の一つであるそうだ。
 ちなみにこの戦争では漫画やアニメは対象外。
 単純に聖杯の選考基準外とのこと。残念だ。
 でもさっき見た騎士の格好をした人の壮絶さを思い出すと納得できる。
 あんな恐ろしい存在が7人も市街地で暴れまわったら
 たくさんの人たちが犠牲になる。
 警察も相手になんかならない。戦車やステルス戦闘機でも倒せるかどうか………。
 それほど途方もなく危険な相手だということがアレを見て本能的に悟らされた。



「────以上がこの地で起きてる事象の正体だ。
 簡単ではあるが、理解はできたかな?」
「……………はい、大体は。まだちょっと信じられないですけど」

 語られた内容は眉唾なものだった。
 といっても、それほど驚きはない。
 現実離れした話ではあるが、自分でも驚くほどストンと納得がいったのだ。

「無理に全てを受け入れる必要はありません。
 貴女に求められてるのは現在の危機的な事態への理解と、”貴女自身”についてです」
「────え?」

 そうだ。
 この人たちは、私に協力してほしいと言っていた。
 でもなんでだろう?
 私みたいな普通の女子高生に出来ることなんて、大したことはないはず。
 ましてや秘密主義の魔術師であるという彼らは、私たち一般の人が魔術関連に抵触してきた場合
 記憶操作などの処置までするほど遠ざける。
 わざわざ自分に事態の真相を打ち明けてまで求められる理由があるとは思えないのだけど……。

「報告どおり記憶の喪失が見られるようですね」
「あ、はい。でも私、ここの普通の学生だというのはわかります。
 みなさんのお役に立てることと言っても、少しばかりのお世話ぐらいしか出来ないと思うんですけど………」
「GOOD。正しい判断だ。落ち着いた状況判断も出来てる。
 癇癪でも起こされたら、もう一度寝てもらうところだったが杞憂だったな」
「………あの?」
「右手を見るがいい」

 ウェイバーさんに促され、私は右手に視線を向ける。
 すると、手の甲に見慣れぬ痣があったのだ。
 ………これは、花びらだろうか?
 紅い線が幾筋も枝分かれし、歪な渦を巻くように拡がって淡く輝いている。

「それは令呪です。聖杯戦争のマスターが参加の証として刻まれる刻印であり
 サーヴァントと結ぶ縁(えにし)でもあります」
「────────え?」
「きみは、この聖杯戦争のマスターなんだよ」
「────────」

 驚きはある。
 驚いてる。
 でもわたしは不思議と落ち着いている。
 きっと、それは真実なんだろう。だからわたしは彼らの言う事を素直に受け入れられてる。
 
「──────続けよう。
 7人が揃い、聖杯戦争が正式に開始されたのは1週間前の午後19時。
 ここ冬木市内で、きみたち参加者たちが聖杯を巡って殺し合いの舞台となった。
 本来ならば、私たち魔術協会と聖堂教会は相互不可侵で、直接的な介入はしないのが決まりであった。
 だが、事態は一変した。
 とある預言者が、この地で黙示録の終末の日が起こされるという告言がもたらされた」
「黙示録?」
「そう、簡単に言えば世界の終わりだ」

 ──────言葉もない。
 世界の終わり?終末?いきなり、そんな告白をされても受け入れられない。
 聖書とかなんかわからないけど、さすがにスケールが大きすぎて現実味が湧かない。

「これは確かな情報筋です。
 私も信じがたいことではありますが、このまま行けば高い可能性で世界の滅亡が起きてしまいます。
 ですが、まだ確定したわけではありません。
 その預言者の告げる未来は、回避させることも可能なのです。
 よって我々を含め、様々な組織が強制軍事介入を行い、この聖杯戦争の解体と予言の阻止を
 しにこの地に赴きました」
「──────それで、私との接触と協力の要請を?」
「呑み込みが早くて助かる。
 きみは覚えてないようだが、間違いなくこの聖杯戦争の参加者であり
 終末の日になんらかの関連を持つ可能性がある重要人物でもある。
 補足しておくと、きみは約1時間前にここから6km離れた住宅街の路上に倒れていたのを
 そこのバゼットが保護し、ここまで運ばれてきた。
 そして、きみには魔術による意図的な記憶操作と、戦闘による痕が見られている。
 もっとも、私にはいったいどんな意図があってそんなことをしたのか見当もつかないが………」


 ………大体の話の大筋が呑みこめてきた。
 
 要約してみると
 私は、理由はわからないが聖杯戦争の正式な参加者であり
 右手に令呪を持ち、英霊を使役して闘っていた。
 だが、どんな経緯があったかわからないが、私は何者かによって記憶を奪われたのだ。
 それがはたして敵によるものなのかはわからない。
 なんの目的があって記憶を奪ったのかもわからない。
 そして、わたしには幾つか疑問がまだ残っている。

「わたしは負けたのですか?」
「いや、それはない。
 きみの手に残っているその令呪がなによりの証だ。
 聖杯戦争のマスターの敗北とは、マスターの資格喪失か死亡、もしくは全ての英霊の撃破が条件となっている。
 また令呪の喪失条件は、自身の使役するサーヴァントが消滅、及び簒奪されるか
 令呪そのものを奪われた場合のみだ」
「じゃあ………」
「はい。貴女のサーヴァントも今だ健在の筈です。
 基本的にはマスターを護るために傍に控えるはずですが、現在近くに観測できないとなると
 あちら側になにか理由があるというのが妥当な見解でしょう。
 それが我々がいるせいか、サーヴァントに止むを得ない理由があるかはわかりませんが」
「それで、わたしに世界の終わりの阻止するための協力のお願いを………?」
「その通りだ。
 きみには不確定要素が多々あるのだが、それでも我々はきみの力が欲しい。
 英霊の力は桁外れで、我々や別組織の戦力ではどこまで太刀打ちできるかわからないからだ。
 英霊に確実に対抗できる力を持つのは、同じ英霊だ。
 ………正直に告白すると、きみの命は保証できない。
 拒否すれば最悪、きみを殺して英霊の力を奪う選択肢も考慮している。
 だが、我々はどんなことをしてもこの世界を守りたい。
 そしてきみを全力を賭して守り抜くことも約束する。
 ──────由紀香くん」

 そしてウェイバーさんは一歩足を引いて、わたしの正面に向きなおすと


「──────頼む」


 頭を下げて、請い願った。





 ◇◇◇



 空間、
 そして時間。
 それらのいずれとも、
 彼女は乖離していた。




「人間が多過ぎるのね」と彼女はよく口にした。
「大勢で力を合わせて、今までなんとかやってきたんだよ」
 私は言った。はたしてそうだろうか、とは思ったけれど。
 残念ながら、この頃ではもう彼女との会話は続かない。
 ときどき彼女の呟きを聞いて、私がそれに反応しても、言葉にしたそのときには、もう彼女はそこにはいない。
 速すぎる。とても速くて、見えないくらいだ。ますます速くなっている。
 彼女から見れば、人間の時間なんて、止まっているみたいなものなのだろう。
 人の歴史も、時代も、何もかもが、彼女とはスケールが合わない。つまりは、自分自身の躰さえも。
 生きていることが、彼女の自由を束縛している、という意味を私は何度も納得した。
 少女の小さなその躰が、これほどまでに強力で巨大なシステムを支えているという不思議な構図
 そしてその矛盾した構造。でも、それだからこそ、桜は桜なのであって、私にとっては、それがこのうえなく愛おしい。
 彼女のことが好きだ。
 私以外に、いったい誰が彼女をちゃんと理解できるだろう。
 この近さは、それでもアンドロメダほども隔たりがある。単に最も近い、というだけのことだ。
 雑誌を読んでいた彼女が溜息をついた。
「疲れたかい?」
 私は尋ねる。こういった機会は外せない。彼女と会話ができる貴重なタイミングだった。
「ええ、少し」
 桜は頷いた。
「体力がないんだ、私って」
「このところ、ずっと忙しかった。無理もないよ」
「………あぁ、少し、眠るわ。今夜は……久しぶりに先輩に会う」
「そう」
「お休み」
 私は彼女の躰のコントロールを引き受ける。彼女の役に立つというだけで、私は嬉しい。
 雑誌を片づけるのは、職員にお願いした。
 貸し出してもらいたい本だけを持っていくことにする。
 ずっと座っていたので、少し運動をした方が良いかもしれない。
 ゆっくりと次元の境界を渡り歩き、世界に残された記憶を辿っていく。

 過去の世界の観測。

 程なく世界はモノクロ映画のように灰色になった住宅街へと間桐邸へと景色が変わる。
 彼女の祖父を探すことにした。
 おそらく工房だろう。地下にいる、と聞いていた。
 階段を下りていくと、工房の鉄の扉を開けて中へ入っていく女性の姿が見えた。紅い外套とフードを被り髪が長い。
 その部屋には桜の祖父がいるはずだ。
 彼女に気づかれないように、注意しなければ。
 それが私の役目なのだから。

 持っている本を一度開く。
 複数の悲鳴のような粘ついた音が鳴り、重いドアがゆっくりと開かれていく。
 地下室は暗く、部屋は見通せない。
 少し歩くと、右手の奥に、間桐臓硯が立っていた。
「桜」
 片手を挙げて彼は微笑んだ。
「なにか用かな?」
「いえ、大丈夫です」
「なにか聞きたいことがあればいつでも言いなさい」
「はい、お爺様」
 良かった。
 あの女と一緒ではなかった。
 此処は過去の記憶だ。
 そして私は、間桐桜として、この世界を歩いている。
 さらに部屋の奥へ進んだ。
 次々におぞましい器具や蟲が過ぎる。しかし、女の姿はなかった。
 一つ手前まできて、並んだ部屋の隙間から紫色のスカートが見えた。
 良かった。
 彼女とは、ずっと離れた場所だった。
 それが確かめられただけでも、嬉しい。
 私はもう数メートルだけ進んで、女の姿を覗き見た。
 金の杯を手に持っている。
 彼女の後ろ姿を、じっと観察する。
 やっぱり、あのときの女ではない。
 髪が茶色い。
 そうだ、思い出した。
 あのときの女は、ブロンドだった。
 あれは、日本人ではなかった。
 誰だったのだろう?
「こんにちは」
 私は声をかけた。
 彼女は振り返った。
 瞳の大きな顔。
 少し驚いたようだ。
「あら、また会ったわね」
 彼女は言った。
 私には覚えはない。きっと、桜が会ったのだろう。
「すると、向こうの紳士が、貴女のお爺様かしら?」
 彼女は目を細め、優しそうな表情できいた。
 普通の人間よりも反応が速い。
 ときどき、この種の人間に出会うことがある。
 私は試してみることにした。
「その聖書を読みなさっていたのは、この異常事態に関わっているからですね?」
 私は言った。彼女が持っている本が見えたし、それは、ついさきほど読んでいたものだったからだ。
 女は目を見開いた。
 面白い。驚いている。
 でも、少し可哀想になった。
「驚かないで下さい」
 私は微笑んで、彼女に言ってやった。
「実は、私も今さっき、それを読みました。お名前を聞かせてもらえませんか?」
「………?、美綴綾子ですけど」少女は答えた。
「美綴綾子さん?」聞き覚えがあった。
「ああ、美綴先輩、どうしてここにいるんですか?」
「あ、ええ……」
 覚えている。
 間桐桜の1つ上、同じ弓道部に所属しているしっかりした少女だ。
 印象がまったく違う、と私は思う。
「どうしてここにいるんですか?」
 違和感と疑念を晴らすため、私は尋ねた。
「え?」
 彼女はまた驚く顔。とても可愛らしい。
「いいえ、そんなつもりでいた訳じゃないから」
「では、どんなつもりで?」
「どうして、そんなことに興味があるの?」
 ああ、やはり、この少女は違う、ということがわかった。
 こんな時間にここにいること自体、普通ではない。
 間違いなく、歪みの結節点だ。
「貴女が教えてくれたら、私も教えます」
 私は友好的に微笑んで首を傾げてみせた。
 


 がく


 がくがく


 がくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがくがく
 がくがくガクがくがくガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガク
 ガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガク
 ガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガク
 ガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガクガク



「………最悪の気分ね。」

 彼女は棚に本を戻してから、私の前まできて、屈み込んだ。
 スカートが床に広がって、私はそれが気になった。

「頭はからっぽ、手足はスカスカ、胃袋はそもそも無し。
 こんなんで大淫婦(グレートマザー)だなんて、笑い話を通り越して泣けてくるわ」

 なんという答だろう。
 私は緊張を堪え、深呼吸を一度する。
 今度は少しこちらが驚かされた。
 目の前の彼女はにっこりと微笑んでいる。
 既にペースを取り戻しているのだ。尋常ではない。

「………ふふ。寄り道をするつもりはなかったんだけど、気がつけば悪魔(アスタロト)の胎の中、か。
 土地の記録そのものに常時接続(リアルアクセス)出来るだなんて凄いわね。
 でも、私にその海辺の白い花 「トべラ」を見せて招待する非礼について、
 いちよう釈明を聞いてみたいところだけど……まあ、我慢するわ」

「ありがとう」
 私は余裕を見せるために、とりあえず頷いた。
「貴女の番よ」
 顎を少し上げて、彼女は促す。
 相手を見くびっていたことに私は気づいた。
 軽く処理できる相手ではない。ちゃんと接しよう。
 しかし、彼女を呼び起こさなければならなかった。なんとか今の私一人で対処しなければ……。
 記憶を呼び起こして、この街で起こった事件についての情報を彼女に与えてやる。
 それで、相手を刺激しようと考えた。

「それ、いつのこと?」彼女はきいた。
「四ヵ月と十三日後」計算して答える。
「貴女は、そのとき、ナニヲしているの?」
「悪い魔女に囚われているよ」
「本当のお話?」
 彼女は息を止め、目を見開いた。
「貴女、いったい……」
 どうやら、こちらのことを少しはわかってもらえたようだ。
 私のことを知らないのだろうか、こんなに有名なのに。
 さらに、私は記憶の情報を引き出して説明した。
「ふうん、そう……」
 彼女は大きな瞳をさらに開ける。
 爛々と瞬く紅い瞳は、恐ろしく蠱惑的で美しく
 全身が意思とは無関係に熱く火照り、背筋はひりつき凍るように固くなっていく。



「どうでも良いことですけれど」
 私は彼女から視線を逸らした。
「もう、行きます。お話ができて楽しかった、美綴先輩。貴女、面白い人ですね」
「どうして?」
「反応する時間でわかります」
「反応……」女は不思議そうに首を傾げる。
 
 私は彼女に背中を向けた。
「待って、ごめんなさい」後ろから呼び止められる。
 そうか、私の名前が知りたいのだ。
「私の名前でしょう?」振り返って微笑む。
「ええ、お願い。教えてもらえない?」
「■■といいます」
「■■さんね。下のお名前は?」
 少し驚いた。この時点で既に彼女は意図していたのかもしれない。相手の名前を記憶から呼びだした。
「美綴先輩のファーストネームは、■■■さんですね?」
「そうよ。ありがとう、覚えていてもらえて嬉しいわ」
「私は、■■■です」
「■■■さん? ■■■■■さん? 男の子の名前だわ」
「ええ」僕は笑いそうになる。
「でも……」
「貴女が今見ているのは、私の召喚主(マスター)です」
 これが驚かす最後だ。
 彼女は仮初めの姿の向こうを見通している。
 でも、私という存在がキャスター本人ではない、ということは看破できていない筈だ。
 私は、彼女の目をじっと見た。
 それが、どう変化するのかを……。
 けれど、
 彼女の表情は、意外なほど穏やかなまま。
 変わらない。
「え? ああ、そうなの……」
 彼女は自然に微笑んだ。
「とても可愛らしい方だわ。そうお伝えしてね」
 これには、驚いた。
 どうしよう……。
 私は躊躇する。
 こいつは、何者だ?
 なんとか気持ちを落ち着け、またメモリーから情報を引き出した。私はそれを披露する。
「博学なのね」彼女は微笑んでいる、まったく動じない。
「貴女ほどではありません」私は正直に言った。
 一瞬、頭がぼんやりとして、私はそこで止まってしまった。
「え?」彼女の声が聞こえた。
「もう、どうでも良いことですけれど……」
 彼女が答える。本体が起きてしまったのだ。
「失礼します」
 彼女の意識は急速に薄れ、そして眠くなる。
 歩いていることしか、わからなくなってしまった。
「起こしちゃったね」
 私は美綴さんに謝った。
「あれ……ここは?迂闊(うかつ)だなあ、ついうたた寝しちまったみたいだ」彼女は言う。
「ごめんなさい。起こすつもりはなかったんです」
 本を開く
 彼女の瞳が閉じるのを確認し、背を向けてこの場を立ち去る。
(……次にいくか)
 囁きとともに歪む世界。
 さらなる深遠へ。この地に起きた惨劇と真相を確かめるべく、男はさらに歩を進めていく。
     


 ◆◆◆


 煉獄だ。
 赤い花が一面に咲いている。
 しかし、私には関係がない。
 何のために、こんなに沢山咲かなきゃならないのか、まったく馬鹿馬鹿しい。そう考えると、可笑しくて笑えてくる。
 
 此処は10年前の冬木市。
 第四次聖杯戦争決戦の最後の夜。
 西の空も赤い。
 歪(ひず)んだ可視光線。
 割れそうな天球に。
 リズムを嫌う風の息。
 斜めに傾いた標識。
 朽ちつつある柵。
 土に還る亡骸。
 叫ぶ声の主。
 夢を運ぶ。
 血の声。
 ステップを上がっていき、私は火の海を渡っていく。


 午前二時――
 寝静まった街の静寂は、普段に増して徹底している。
 街路からは車の影すら消え、街灯だけが白々しく照らし出すアスファルトは、冬の夜気に冷え切っている。
 人の営みが完全に途絶えた町並みは、まるで等身大に引き延ばされた玩具の情景の中にいるかのようだった。
 常人の認識の埒外にある場所を〝異界〟と呼ぶならば、まさしくこの夜の冬木市がそうだ。

 そんな異様な景色の中を、猛然と、我が物顔に駆け抜ける屍たち。
 ギシギシと軋みながらソレは吠える。
 可聴域外の周波数。人間には聞き取れない声で、群衆は確かに告げていた。

 苦しい、と。

 餓えと渇きに悶え狂う、屍たち。
 私の首筋を黒いものが貫いた。
 色がわかる戦慄(せんりつ)。
 自分が直立していると意識しながら、私は奈落へ落ちていくのを知った。
 あそこだった。
 混沌たる薄明の囚人。
 死者しかいない世界。
 燃え盛る周囲を灰色の影が覆った。
 
 血みどろの闘争の気配が近づいてくる。
 当然だ。ここは、そいつ等しかいないのだから。
 生物は発狂し――
 奇跡に縋り求める亡者どもが、醜く潰しあう。
 来た。
 あの感じだ。
 果てしない世界の果てにまで伸ばされた触手。
 
 唯一絶対の『救世主』セイバー
 万夫不当の『蹂躙王』ライダー
 災厄の『双剣の騎士』ランサー
 復讐の『瑞験の星月(カウラヴァ)』 アーチャー
 焦熱の『魔人王』バーサーカー

『双剣の騎士』『魔人王』はセイバーの断罪の剣によって敗れ
 言峰に囚われていたアイリスフィールが夫を庇った際に、刺し穿たれた『聖槍』によって
 中空に逆十字に張り付けにされた彼女と黒く禍々しい孔が現れ
 街は火の海と、原罪に満ちた呪詛が奔った。
 そしてアーチャーとライダー、そしてセイバーによる最後の殺し合い。
 濃密な殺意と、中空に明く漆黒の孔から漏れ出る呪い。
 

 呪いに汚染された屍者たちが足首にからみついた。私は思わず悲鳴を上げた。
 全細胞の絶叫だった。
 犯される処女の恐怖に近い。
 肉体のみか魂まで汚される恐怖。
 そいつは腿(もも)まで来た。
 狙っている。
 



 敵の攻撃は熄(や)むことを知らぬようであった。
 セイバーの新たな光撃が群がる亡者たちに炸裂するや、それは地の面に沿って青いさざ波のような光を広げた。

「ジャーァハッハッハ!頭を噛みつぶせ!許しを請うてみよ!
 恐怖の叫びを絞り出して、無様に地を這いまわれ畜生ども!!」

 ぶお、と凄まじい殺気が吹きつけてきた。
 人間の死体を集めて固めた屍狼に跨り、血糊で汚れた戦衣装を纏い
 長い無精髭を揺らしながら、ライダーは血走った眼で猛り叫ぶ。

「アヘ顔晒してエレクトかましてんじゃねえぞ毛むくじゃら!」

 上空からの叫び声が響いた次の刹那、地響きと砂塵がライダーたちを呑み込んだ。
 必殺の光弾が迸る。
 耳を覆いたくなるような『陽光宿す天の双翼(ヴィマーナ)』 の銃撃音が空中を流れた。
 その空中にセイバーもいた。
 必殺の連続掃射にかかる寸前、彼は光弾をかわして跳躍し、ライダーの頭上を越えたのである。

 頭上を?――頭はなかった。疾走をつづける馬上のライダーの頭部は一瞬で接近したセイバーの
 剣撃によって薙ぎ払われたのだ。
 その頭部は鮮やかに切断されて鮮血を噴いている。血潮の一部は朱の霧となって風にふぶいた。
 音もなく着地したセイバーの左方で鈍い音が鳴った。首が落ちたのであろう。
 走り去る屍狼を見ようともせず、セイバーは宙を仰いだ。

 頭上に風を裂く音を聴いたのである。
 小さな鳥の影が見えた。ぐんぐん近づいてくる。
 ふた呼吸と置かず、それは片翼一〇メートルを越す機械仕掛けの大鷲と化した。
 二〇メートルほどの高みで激しく空気を振動させて旋回しつつ、それは金属を思わせる嘴を開いた。

 白光が大気を薙いだ。骨を断たれる音がして、巨大な鉄爪がライダーが騎乗していた屍狼の足首ごと掴み
 肩を捉えて、凄まじい勢いで上昇を開始したのである。

「死んだふりー♪ってかあ!うぜえっつってんだろ!!」

 銃口を屍狼に向け、間もなく響く銃撃音とマズルフラッシュ。
 
「汚物は消毒だぜえ!ヒャーハッハッハァ!!」

 ガトリング掃射によって肉片を撒き散らしながら、跳ねるように屍体を踊らす屍狼。
 その口の中から、

「――――気骨な奴じゃあ」
 
 黒く腐った死体の血に塗れて乱杭歯を鳴らし、その刹那、胸元の首飾りが躍った。
 喉もとから脳幹までしか残らぬ頭部から、ぼこぼこと新たな屍が凄まじい速さで生まれ現れ
 鉄爪をつたって這い登っていく。
 舌打ちとともに、アーチャーは機体を廻しながら振り落とそうとし
 銃撃が止んだ隙を逃さずライダーは刀剣を引き抜き、右翼のつけ根へ飛び移った。
 
 大鷲が上げた声は、断末魔のそれであった。
 すでに高度は五〇〇〇メートルを越している。
 必死に飛行を維持しようと努めながら、ついに錐揉み状態に陥った。

 機上で、アーチャーとライダーが剣を交差する。
 吹きすさぶ風圧の中、暗闇に瞬いては消える火花。
 空気を震わせる金きり音が全身を押し包む。
 数十合の剣戟の後、機体に大きく風に煽られ、体勢を崩した両者は僅かにたたらを踏み
 その一瞬の隙をついたアーチャーは、即座に機体制御の命令信号を発令した。
 足元が数メートルも跳ね上がり、ライダーはわけもわからぬまま空中に押し出された。
 暗闇の中、バリバリとなにかの駆動音が空中を突き抜け、鋼鉄の軋む音が遠くで連続する。

「我が真の道(オン・バサラ・ウン)!!逝けよ『陽光宿す天の双翼(ヴィマーナ)』 !!」

 装甲の継ぎ目から漏れる光が強さを増す。
 より攻撃的なフォルム、強襲形態へと変形した『陽光宿す天の双翼(ヴィマーナ)』は
 渦巻く黒煙を引き裂き、爆発的なスラスター光を背負って空中で身動きが取れぬライダー目掛けて突進してくる。

「虚けを抜かせ!さぱっと死せい!
 黄泉路の先陣じゃ!ジャーハッハハハハァ─────!」

 不気味な哄笑を上げて、ライダーは迫る鋼の凶鳥に怯みもせず声を高らかに上げる。
 すると右手に握られていた黒く汚濁した手のひら大の卵状の固形物を前方に突き出し
 火山の噴火を思わせるような、怒涛の勢いで亡者の群れをぶちまける。
 複数の悲鳴と呻き声が響き渡り、超反射能力を有するアーチャーの慣性を捻じ曲げるような直角機動によって
 回避しようとするも、屍者の濁流に呑まれてしまい
 ライダーを捕まえられずに二度三度と屍に打ちつけられた。
 その瞬間は痛みを感じる神経も働かず、とにかく取り付きが増えた亡者を振り落とそうと
 機体を大きく揺らしながら、視界を取り戻そうと群れの中から抜け出す。

「飛行機に手足がついてるか? 敵をぶん殴ったり、横移動したりするか? 
 いっちょまえの口は、きっちり動かせるようになってから叩けぃ!」
 
 口元を歪めるライダー。
『覇王の卵(アトガ・ヌジ)』によって召喚された空を落ちる亡者たちをつたって再度機体にとりつき
 旋風じみた、ライダーの刀剣が一閃する―――! 轟音。
 大気を裂きかねない鋼と鋼のぶつかり合いは、アーチャーの敗北で終わった。
 ざざざざ、という音。
 ライダーの刀剣を受けたものの、アーチャーは受け止めた剣ごと押し戻される。

「ちいっ……!」

 アーチャーの姿勢が崩れる。
 追撃する血塗れのサーヴァント。
 それしか知らぬかのように刀剣を叩きつける。
 避ける間もなく剣で受けるアーチャー。

「鳥葬台に堕としてやるじゃきい!」

 鍔迫り合いにより膠着した状態で、ライダーはさらに亡者たちを召喚していく。
『陽光宿す天の双翼(ヴィマーナ)』の機体に加重がどんどん増し、浮力を維持できず
 真逆(まさか)に堕ちて行く。
 
 いきなり轟いた墜落音が暗闇を赤く染めた。
 外傷はあるものの問題なくエンジンも復旧し、先刻と同じ画角の映像がコクピットのモニターに映し出される。
 ――だが、そこにあるべき路はない。
 途中でへし折れ、焼け焦げた断面をめくれ上がらせるアスファルトがモニターに映じている。
 その向こうは、炎がちらちらと閃(ひらめ)く闇の虚空。
 不時着の際になんとか投げ出されずに済んだアーチャーは
 あちこち痛む体をなんとか立ち上がらせた。

 不意にぞくりとした悪寒を背中に覚えた。
 背後を振り返る。なにかがさっと視界の中を横切り、白い残像をアーチャーの網膜に焼きつけた。
 確かな質量を持ったなにか、肌を粟立(あわだ)たせるほどの敵意を持ったなにかが、この艦に迫っている。
 それが重い存在感を放ち、幾重もの装甲を透過して殺気を突きつけてくる。
 アーチャーは、一瞬よぎった白い影を眼で追った。
 流星にも似た影はすぐには姿を現さず、新たに起こった爆発が白い光芒(こうぼう)を虚空に閃かせた。
 
 
「敵に容赦はねえ……と聞いちゃあいたが……これほどとはよ
 ……おかげで……俺様も……その気になった!!」

 右手の中で、がちゃりと音をたてて柄を握り直す。
 握り直したときアーチャーは床を蹴り、反射的にエンジンを再点火させた『陽光宿す天の双翼(ヴィマーナ)』は
 前方の爆心地目掛けて飛翔する。

 墜落した機体を追撃しようとしたセイバーは
 不時着する直前に飛び降り、付近に転げたライダーの襲撃にあっていた。
 わらわらと数を増していく亡者たち。
 広く開けた交差点の上で、次々と襲い掛かってくる屍者たちを甲冑形態へと衣桁し斬り捨てていくセイバーは
 一際大きく光剣を薙ぎ払って、周囲を吹き飛ばす破邪の極炎で燃やしつくす。
 腕を突いて顔を起こし、迫りくる火炎を目にして魂消(たまき)る悲鳴を亡者たちはあげ
 魔獣『四駿』に身を隠して、浅い火傷を負いながら、距離をとっていた場所からさらに後退をする。
 あの火炎がどのくらい凄まじい威力を持っているのかは、熟知している。
 炎の直撃を受けた者の逃れようもない末路を、間近く見て知っている。
 思わず顔を眩んで眼を背けていたライダーに、吹きつけられる火炎の圧力が襲いかかった。

 骨をも残さず身を焦がす炎を浴びて、ライダーたちの周囲にいた亡者たちが火柱となって燃えあがった。
 火を吹き、音を立てながら崩れ落ちた。
 ぼたぼたと、炭化し、それがなんであったのか定かでなくなった塊(かたまり)が地に落ちた。
 
 周囲はあまねく火の海となり、火炎地獄の様相を呈している。
 紅蓮の炎の色に染まる中に屹立(きつりつ)する揺るぎない色。
 一人の青年。
 目を凝らしてよく見ると、彼の体を、薄い光の膜のような物が覆っている。
 圧力を感じているのは、この光の保護膜が炎を受けているからだ。
 成す術もなく炎に巻かれ死に絶えていく者たちの中で、二人だけが無傷でいる。
 
 剣をかざし不動の姿勢で、セイバーは炎を操っている。
 後方へ跳んだライダーとの距離が50Mほど空けたとき
 その頭上から真っ向上段――『四駿』の頭頂から鼻のつけ根まで断ち割っていた。
 空中からの奇襲、しかも、超高速の突撃を、身をねじってかわしたのはライダーならではだ。
 着地した『陽光宿す天の双翼(ヴィマーナ)』に座するアーチャー目掛けて反撃の一太刀が襲う。
 爪先のみ床につき、アーチャーは右方へ跳びつつ、矢を番えて射る。
 ライダーの眉間を狙った矢は、突き刺さったと見えた刹那、回避した。寸前のアーチャーの一撃のごとく。

「――――――ジャッ!」

 走り寄ったライダーの一刀はアーチャーの左の肩口を割った。
 鮮血が飛んだ。
 それは意志を持つもののように、なお一跳躍から目前にまで迫っていたセイバーの顔に叩きつけられ、彼を盲目にした。
 立ちすくむ刺客の胸もとへ黒いつむじ風が、うなりを立てて吸い込まれた。
 刃は心臓を貫いた。
 ――そのはずが、彼の刀剣は堅固な鎧に防がれ、刀身が鈍い音とともに折れてしまう。
 刀身はまたも消失したのである。
 眼をふさぐ血を拭いつつ、すかさず光剣で反撃を繰り出そうとした、がセイバーはたたらを踏んで立ち止まった。
 地中から出てきた巨大な屍狼がその身に喰らい付いたからである。