第5話 子羊のように二本の角を持つ獣

 粘土はすぐに崩れた。
 電動ろくろを止める。軽く練り直す。叩いて回転板に押さえつける。私はまだ中心を上手く合わせられない。
 回転板と粘土の中心軸が合っていないと作れない。本当に合わせるには三年かかるという。
 ろくろを始動させる。一応、中心を決めた。粘土の上を平らにし、親指で穴を開ける。穴を湯飲みの口くらいに広げた。
 二日目の学校の特別実習は電動ろくろで湯飲みを作る。午前中はあの人の講演だ。
 壇上に立ち、あの人はただひたすら言葉を紡ぐ。
 カーテンで暗くしたためか、かなりの参加者が目を閉じていた。
 二日酔いのせいだけではなさそうだ。彼の低く静かな声が子守歌のように響いていた。
 一同にやっと生気が戻ったのは、講演が終わり、あの人が立ち去った後である。

 両手の中指と人差し指を使って筒を引き伸ばす。脇(わき)を締め、指先に神経を集中する。
 湯飲みの形になってきた――と思った瞬間、崩れた。
 上手くいかない。いかないからこそ、やりがいもある。
 ドアの上に丸い時計が掛かっていた。文字盤に星座の十二宮がデザインされている。
 午後三時。あと二時間ほどで二日目の講習も終わりだ。
 なんとか湯飲みに見えるものを作るのに、もう一時間を費やした。午後四時。
 少しいびつだが、私にしてはいい出来だ。
 湯飲みの底に切り糸を入れる。両手の人差し指と中指で持ち上げ、さん板の上に置く。
 その時だった。
 ぶつかる音。あっという男の声。何かが落ちる音。「こら」という怒声。
 部屋中の目が集中する。氷室鐘と蒔寺楓がストーブの近くに立ちつくしている。
 男は全身を硬直させていた。少女、三枝由紀香は茫然(ぼうぜん)としている。
 二人の足元にはつぶれた湯飲みが数個、散乱していた。さん板が二枚落ちている。
 おそらく、完成した作品を乾燥棚へ運ぼうとし、お互いの、あるいはどちらかの不注意でぶつかってしまった。
 結果、作品をさん板とともに床に落とし、湯飲みは粘土の残骸と化した。
 馬面の男の口は、「こら」の形に開いたまま固まっている。顔色が赤から青に変化するさまはユーモラスでさえあった。
 面白がってはいられなかった。
 男が手を上げた。止める間もなく平手が飛ぶ。右頬(みぎほお)。
 骨が砕けるような音がした。首が左へがくっとのけぞる。左頬。少女の顔は振り子のように揺れた。
 男は由紀香を突き飛ばした。スカートが翻る。腰から床に当たった。蹴りが入る。
 由紀香の腹に、一回、二回、三回、四回。少女は守るように体を丸める。男は暴れ馬になった。
 相手の頭といわず背中といわずめちゃめちゃに蹴り始めた。息が荒い。顔が歪み、笑ったようになった。
 おかしなものだ。私はただ見ていた。予想外の異常な行動にすぐに対応できなかった。
 ガラスのコップがテーブルから落ちるのを見ている時のようだった。
 スローモーションみたいにゆっくり見えるのだが、手が出ない。間に合わない。
 何とかしなければ。重い腰を上げる。体に鉛がついているようだ。声さえ出ない。

 男に誰かが組みつく。私より早かった。
 一八〇近い長身の馬男を一六〇そこそこの騎手が乗りこなそうとしている。狂ったロデオだ。
 七三分けの男の眼鏡が飛ぶ。かまわず、彼女は男を由紀香から引き離した。美綴綾子だった。
 私は由紀香に駆け寄った。しゃがんで声をかける。
 ――大丈夫か。彼女はふらつきながらも立ち上がった。
 手の甲で口を拭(ぬぐ)う。真っ赤な血がついた。私はポケットをさぐった。
 茨の杖の刺繍が入った白いハンカチが出てきた。会場でもらった物だ。由紀香にハンカチを渡す。もう一度、大丈夫か、と聞く。
 由紀香は表情を変えず、しかし震える声で、
「いいんです……慣れてるから」
 後ろで罵声(ばせい)が飛んでいる。
 工事現場で聞くような怒鳴り声だ。
 ――てめぇおとなしくしやがれキレやがってそれでも教師か。男ではない。美綴がいさめているのだ。
 「それでも大人か」といいたくなるほど口汚い。
 美綴も衛宮に劣らずエキセントリックな女子のようだ。
 だが、私よりは行動が早かった。由紀香を守ったのは彼女である。
 男はおとなしくなっている。青白い顔をし、自分が殴られたかのように自失していた。
 しばらく経つと、彼女は、
「すみませんでした。私の方から謝っておきます。あの馬鹿には後で厳しく詰めておきますから」
 その程度ですむのか。しかし美綴の目には説得力があった。
 彼女の頭は私の鼻くらいの位置なのだが、見下されている感じがした。美綴は落ちつきはらった声で、
「三枝さんは病院へ連れていくか別室で休ませた方がいいよ」
 氷室鐘が床に散らばった粘土やさん板を片付けている。

 私は眼鏡を掛け、位置を修正しながら、全員に向かって、
「皆さん、たいへん失礼致しました。見苦しいものをお見せし、申しわけありませんでした。
 心から謝罪致します。お気になさらず、どうか実習をお続け下さい」
 気にするなといっても無理だ。かえって騒然となった。また通じていないのかもしれない。
 美綴は机の上に腰掛けてほうけた顔をしている。
 氷室鐘と蒔寺楓は三枝さんを優しく慰めながら部屋を出ていこうとする。私は二人を呼び止めた。
「もし、よかったら私が送りましょうか」
「そう……では、お願いしましょうか。タクシーでも呼ぼうと思ってました。助かります。でも、教室の方はいいんですか」
「世話人はもう一人いますんで」
「すみません」
「玄関で待ってて下さい」
 私は学芸員室へ行った。藤村先生は机にしがみつくようにして書き物をしている。
 状況を説明し、世話を任せると、あからさまに面倒くさそうな顔をした。

 玄関で、二人は待っていた。結局病院へは行かず、保健室で休むことにしたという。
 ベッドに三枝さんを乗せた。三枝さんは口にハンカチを当てていた。茨の杖の刺繍が入ったハンカチ。
 部屋に入るまで、彼女はハンカチで口をふさいでいた。
 一息つくとすぐ、三枝さんは入口に駆け込んだ。水道口で吐いているのかもしれない。

 いや……違う。
 茫然(ぼうぜん)と立ち尽くしている。自失し、何かに心を奪われているようだ。
 背中が窓からの光で、逆光に暗く沈んでいる。窓から外を見ているのか、窓の下のテーブルを見ているのか。
 彼女に近づき、視線の先をのぞきこんだ。
 あの人がいる。
 あの人は赤い霧が発ちこめる校庭の真ん中で、凄然と聳え立つ塔をじっと見ている。
 すると、私たちに気づいたのかあの人は、遠く離れた私たちに微笑みこちらへ歩を進めた。
 
 間もなくあの人が私たちの前に姿を見せる。
「どうしたんですか、みなさんこんな所で。まだ授業中だと思うのですが」

「実は」いいかけて止めた。私の肩越しに後ろを見ている。振り向くと三枝さんが立っていた。
 ひどい顔をしている。両頬は髪に隠れて見えないが腫れ上がっているだろう。
「横になったほうがいい」
「大丈夫」
「やはり病院へ行った方がいいよ由紀香。
 それとも医者を呼ぶか。お父さんとお母さんに連絡しなければいけないしさ」これは蒔寺。
「止めて。放っておいて。休みたいだけ」
「だが保護者には連絡しなければならない」
「駄目」
「しかし」
 私の語調がきつくなった。あんないい方をされれば無理もない。私はなだめるように、
「まぁ落ち着いてください柳洞さん。三枝さんはたいしたことはないようです。
 保護者の方はお仕事で家にいないのかもしれません。後程、私が責任を持って連絡しますので」
「……そうですか。では、お願いします」
 素直に折れた。
 あの人がそう言うなら、それが正しいことなのだろう。
 それはここにいる私たちの共通認識であり、皆従った。

 
 三枝さんは布団の上に横座りしたまま動かなかった。ドアを閉める。
 氷室鐘と蒔寺楓はまだ部屋の中、彼女が心配なようで残って看病するのだそうだ。
 私は美術室に戻って特別実習の様子を見ることにした。
 あの人も同行するという。道中はお互いに一言も発しなかった。
 美術室に到着すると、気が重くなった。
 今回もトラブルが起きてしまった。教師と生徒のつかみ合い、生徒同士の暴行事件、平穏だ。
 美術室のドアを開く。静かだった。
 驚いたことに美綴がろくろを回していた。誰よりも集中している。
 皆がこちらを見てワッと騒ぎ出す。
 あの人が来たからだ。
 私は自分のろくろに向かう。さすがにすぐに制作には移れないようだ。私はストーブの側で油を売る。
 藤村先生の姿はない。役に立たない世話人だ。

 
 その後の特別実習は静かに進行し、終了していった。
 講演では、違った。異様な盛り上がりを見せたのだ。
 それまでの反動のように騒ぎまくっていた。
 暴行事件の話が一段落した頃、一同はますます盛り上がってきた。
 混乱の度を深めたといってもいい。藤村先生が特にひどかった。
 凄まじいハイテンションだ。英語交じりの日本語で爆笑の渦を巻き起こしている。
 明るすぎるということは、暗すぎると同じくらいおかしなことだ。付き合っていられない。
 自分の家に戻ることにした。誰にも断らずに学校を出る。無礼は承知だ。
 
「柳洞さん」
 後ろから声をかけられた。
 見るとあの人だった。私に続いて出て来たのだろう。並んで階段を歩く。
「ご気分が優れないようですが、大丈夫ですか?」
「はい。ご連絡もせず黙って帰ってしまい申し訳ありません」
「いえその事を咎めに来たわけではありません」
 彼はあいまいに笑い
「柳洞さん、今夜は怖い顔してますね」
 私の顔を見上げて、
「昨日と同じですよ。また事件が起こってしまった。今日は暴行。昨日はケンカ」
「あれはすごかった。殴り合いですからね。今日のもひどい。美少女虐待ショーかと思った」
「笑えないですよ、ジョークが過ぎる」
 金髪の青年は素直にスミマセンと謝った。
「ま、冗談にしたくなる気持ちもわかりますがね」
 部屋に入ると、布団が敷かれていた。
 テレビを点け、二人で漫然と眺めた。くだらないバラエティー番組だ。仰々しい刺激に満ちている。
 普段は気づかず、面白く見てしまう。愚劣さに気づかぬほど感覚が鈍磨しているのだろう。
 百害あって一利なし、だがやめられない。おかしなものだ。私は眼鏡を外し、布団の上で体を横にした。
 テレビから二メートルは離れている。目を痛めないためという。
 ブラウン管の中で顔の歪んだコメディアンが正論を吐いている。影響力は政治家の比ではあるまい。
 特に若者に対しては。匹敵するのはミュージシャンくらいのものだろう。九時になった。
 兄たちの様子を見にいくことにする。あの人に断って部屋を出た。
 薄暗い廊下を歩いていると、下から宴会のざわめきが、微かに聞こえてくる。
 ドアをノックする。返事はない。鍵は開いている。この前と同じ。不用心だ。部屋の明かりはついていた。
 僧たちは布団に入り天井を真っすぐ見上げている。気味の悪い人形みたいだ。
 襖からのぞき込むようにして、

「具合はいいかい」
「大丈夫。かまわないで」
「ドアの鍵、掛けとけよ」

 返事はない。静かにドアを閉め、自分の部屋に戻った。
 あの人は映画番組を観ていた。『007/リビング・デイライツ』。
 日本語で訳してほしい。かといって往年の『007/危機一発』などというのも困るが。
 主人公はショーン・コネリーではなく、見慣れぬ俳優だが適役だ。考えずに面白く見れる。
 今の私にはいい。
 イギリスのアクション映画はハリウッド製と違いどこかに品格がある。
 『危機一発』の邦題で公開された『ロシアより愛をこめて』などは偏愛していた。
 子供の頃見た印象が今も鮮やかだ。
 少年の私から見ても総じて子供っぽかった007映画の中で、珍しく大人の匂《にお》いがあった。
 かなり微妙な男女の機微が描かれていた。偽りの関係しかあり得ないスパイ戦の中で浮上してくる真の関係。
 少年だった私は、おそらく今よりも敏感にそれを感じ取った。
 さらに冒頭とラストに出てくるヴェニスの風景がすばらしくロマンティックで、
 FROM RUSSIA WITH LOVE……と歌う男の声とともに長く記憶に残った。
 私はヴェニスの風景をロシアと勘違いし、ロシアってなんてすばらしいんだろう……と思っていた。
 大人になってからこの映画を観直したことがある。
 胸躍るアクションものから、少し退屈な名作ものに変貌していた。
 こちらが変わったのだが。昔感動したものは観直すべきではない。
 007が終わり、ニュースが始まった。




 翌日、あの人の講演が始まった。
 体育館に反響しながら漂ってくる叫び。この世の無情を。遍く怨嗟の嘆きを。
 私たちは絶望と怒りに全身がわなないた。
 集まった全校生徒の動きが一層激しくなり、凶暴な唸りが洩れた。

 あの人のスピーチが終わり血よりも紅い両の瞳がかっと見開かれた。
 灰色をした布を被せられ、がっくりと天をあおいでいる昨日暴行を働いた男の喉首から二筋の血潮が流れ、
 その肌は白蝋に変わりつつあった。
 絶望が憤怒と化して全身を貫き、生徒たちの叫びを館内を怒号が満ちる。 
 銀光が一閃し、紫の火花がほうせんかのように散って壇上を明暗が交錯した。
 
 小さな種火が、この地を業火で焼き尽くすまで。
 大地は荒れ果て、瓦礫と荒野と化す。そして彼は人々にこう宣言する。

「我は我が与えし印を持たぬものを救わぬ
 死力を尽くして、あのまやかしを打ち崩し、屍をさらせ。」

 刻限は近い。
 二つの黒い光。
 吹き荒れる白魔の奥に、ほんの一瞬、黒いコートの影が滲んで見えたような気もしたが
 ――すべては果てしない怨嗟と憎しみに呑み込まれていった。
 漆黒の空を流れ星が飛んだ。