「もう、二十年にもなるか……」
 白く、細い指先が銀製のペンダントヘッドの扉を開き、女は中に収められていた写真を見て、懐かしげに眼を細めた。
 この水佐波市に、たった二人で就任した時に、二人で撮った記念写真。
 もう、撮影されてから二十年以上も経つそれは、既にセピア色に変色し、時間の経過を刻まれている。
 あの時は、なんて無駄な事を、と思ったものだが、今、見返してみると、こんなにも懐かしい。
 写真の上、涙で歪む視界の中に、二人の人物が立っている。
 一人は雪白の銀髪とガーネットの瞳を持つ少女。不機嫌そうに顔をしかめ、真横に立つ男を睨みつけている。
 そしてもう一人。
 相棒の様子に苦笑しながら、穏やかな笑みを浮かべている男。
 ゲルマン人にはよくある金髪碧眼。
 やや色素が薄く、老け顔の顔立ちもあって、冴えない男といった印象が強いが、女は、彼がどれだけ有能だったか、誰よりも良く知っている。
 ……誰よりも傍にいたから。
「……大佐」
 もう、上がることのない階級。
 本当は殉職したのだから二階級特進して少将になっているはずなのだが、そんな呼び慣れない階級で彼の事を呼ぶ気にはならなかった。
 あの忌々しい聖杯戦争の中で、ライダーとの戦いにおいて、なぜか自分を庇って死んだ。
 理想を掲げて戦っていた彼が、なぜ自分などを庇ったのかは分からない。
 だが、彼の理想を継ぐ事が出来れば、分かるかもしれないと思った。


「セイバー……」
「ああ。ここにいる」
 女の背後に現れる影は、あの忌々しい戦争の中で、最後まで共に戦ってくれた相棒だ。
 頼れる相棒の力でもって、女は、かつての男と同じ地位にまで上り詰めた。
「また、始まるのだな……二十年ぶりの、聖杯戦争が」
「ああ。だが、いいのか? サーヴァントの召喚もしないで」
 相棒の言葉に、女は首を振った。
「無用だ。お前一人いれば、他は敵ではない。何より、サーヴァントが七騎揃っている状態なら、敵の油断を誘うのは容易い」
「だが、敵は七騎とは限らんのだぞ。……ライダーの消滅は確認されていない」
 二十年前の戦いで、セイバーと並んで最強だったサーヴァント。
 セイバーが単体の最強ならば、あれは群体の最強。獅子と群狼の差だ。
 だが、負けるつもりはない。
「ヤツが出てきたなら、その時はその時だ。二十年前の決着をつける好機だろう」
「そうだな。それに、お前にとっては……」
 セイバーの言葉に、女は深く頷いた。
「ああ。復讐の時だ」


 エーベルト・フラガ・ヌァザレ・ソフィアリは昂っていた。
 水佐波市で行われる聖杯戦争――――そこで、自分は勝利するのだ。
 何となれば、自分は間違いなく最強のマスターだ。没落したとはいえ代々時計塔の降霊科学部長を歴任してきた名門、そして、自分には優れた魔術に加えて母譲りの格闘の才と、伝承保菌者であるという、最強の切り札がある。
 決して、伊達であの絶対領域マジシャン先生の授業を受けていたわけではないのだ。
「勝ってみせる……否! 勝たねばならんのだ」
 三十年ほど前の事になる。
 まだ、エーベルトは生まれてすらいなかった頃。
 冬木市にて行われた、第四回聖杯戦争。
 それに参加したエルメロイの婿養子は、ソフィアリ家が膨大な私財を投じて手に入れた聖遺物をあっさりと弟子に奪われた上、魔術師の誇りのホの字も持っていない極悪マスターにいいようにやられてしまったのだ。
 その損失から、ソフィアリ家は権力闘争に敗れてあっさりと没落し、今に至る。


 今、自分の手の中にあるのは、幸運と偶然と奇跡の三拍子によって手に入れた聖遺物。
 かつて英雄が食した鮭の骨。
 もはや、これ以上のものは絶対に見つからないはずだ。
 この聖遺物でケルトの大英雄フィン・マックールを召喚し、他の全てのマスターを斃して、自分が聖杯戦争を制するのだ。
「勝利するのは――――俺だ」
 気合いを入れて、拳を握り締める。その瞬間――――――。

 ぺき。

 嫌な音がした。
 それも、自分の手の中で、だ。
 さて、問題だ。自分の手の中には、一体何があったでしょう? 


 恐る恐る手を開いてみると、手の中には粉々に砕けた聖遺物。
 握り潰した時に少し皮膚に刺さったらしく、わずかに血がにじんでいる。
「…………」
 エーベルトは、聖遺物の残骸を力一杯壁に叩きつけた。
 やはり、聖遺物なんぞに頼らずに、自分の力だけで進んでいくべきだろう。
「さーて、召喚召喚っと」
 エーベルトは何もなかったかのように、儀式の準備を始めた。
 その放り出した“魚の骨”が触媒となって、最弱のクラスであるキャスターが召喚され、エーベルトが落胆するまでにあと数秒。


 その船がハワイより出航して数時間。
 その甲板の上で、男は煙草に火を付けた。
 暗闇の中で、そこだけが赤々と男の口元を照らす。
「ファルデウス大尉……」
 背後からの呼び掛けに、ファルデウスと呼ばれた男は煙草を携帯用灰皿に落としながら振り向いた。
「提督ですか。仕事はもうよろしいのですか?」
「今の当直は、副長が行っておるからな。しかし、いいのか? B-2の整備性の劣悪さは私も聞き及んでいる。それを、あのように潮風に野ざらしにしておいても。
大体、あのサイズの機体が発艦するのには、いくらフォード級が最新鋭とはいえ、とてもではないが滑走路が足りないぞ」
 提督と呼ばれた初老の男は、巨大な艦の六分の一余りを占める巨大な翼影に眉をひそめる。
「問題ありません。ライダーの宝具はあらゆるものに生物の特性を付与します。
結果としてあのB-2Aスピリットは生物としてのホメオスタシスを獲得し、整備すら必要としません。それはこのアリゾナすら例外ではありませんよ」
 この艦――――原子力空母ジェラルド・R・フォード級航空母艦、三番艦アリゾナ。
 そして、F‐22Aラプターを始めとするその艦載機の全て。
 それら全てが、ファルデウスのサーヴァントの支配下にある。
「宝具、そして聖杯――――マジシャンどものスペシャルアイテムか。
その内、テロリストどももビビデバビデブゥと唱えながらホワイトハウスに突っ込むようになるのかね? 
大体、海兵隊を一個師団用意したというのに、妙なガンマンなんぞ雇う必要などあるのか?」
 提督は苛立ったように肩をすくめる。その様子にファルデウスは溜息をついた。
「貴方の質問こそが答えですよ、提督。貴方を含めた一般の軍人は、聖杯の危険性について何も知らない。
そうでなければ、私の雇った“ガンスリンガー”ルイス・ローウェルなど、ただの狂人でしかない。彼は誰よりも、化け物どもの恐怖を知っている」
 ファルデウスは煙草の煙を吐き出そうとして、先程火を消したばかりである事を思い出した。
 舌打ちしたい気分だが、仮にも序列で上位に当たる提督の手前、あまり非礼な真似は出来ない。


「提督、貴方は――――あのスノーフィールドの惨劇が聖杯戦争によって起こされたものだと言っても、まだそんな事を言っていられますか?」
「まさか……! 本当なのか?」
「事実ですよ。私はそれを、この目で見ていた。黄金の英雄王と、原始の神獣。最強の化け物どもの激突を、この目でね」
 かつて、人口八十万を超える大都市スノーフィールドで始まった原因も全容も経過すらも不明な大災害。
 辛うじて外部から理解できた経過はこうだ。
 わずか数日間でスノーフィールド全域にまで広がったペスト菌が住人達を虐殺し、さらに周辺地域にまで感染を拡大。
 どう観察・実験してみても従来のペスト菌と全くの同一物でありながら、原理も原因も不明だがとにかくあらゆるワクチンも抗生物質も無効化して被害者を拡大したペストは、
驚くべきことにわずか数日で鎮静化し、同時に保存用と研究用に残してあったものを含めて全ての病原体が消滅。
 辛うじて生き残った数人の患者の体をどれだけ切り開いても、周辺の自然をどれだけ探してもペストの痕跡は欠片も見つからなかった。
 そして、その数日後に、同じくスノーフィールドを起点に、大洪水と暴風――――らしき災害が発生。
 「らしき」というのは、規模と破壊力が凄まじ過ぎて、ハリケーンなどと同列に扱っていいものか、今でも議論があるためである。
 その威力はアメリカ大陸を東西に薙ぎ払う巨大な断層を作り出し、その断層から直線距離で百キロほど離れた
ロサンゼルスにおいても、ビルが二三本倒壊するほどの大惨事を引き起こした。
「知っていますか提督、NASAの計測によると、あの暴風の中央には、ブラックホールの存在が計測されたそうですが」
「馬鹿な……」
「事実ですよ。そして、それだけの災害を引き起こす可能性のあるものが、同盟国の国土に眠っている。その危険性はゴジラの比ではありません。いざとなれば――――」
「このアリゾナに搭載された核を用いて、同盟国の国土を灼き払え、かね?」
 提督は、ファルデウスがわざわざこの艦を、そして貴重な戦略爆撃機を用意してきた真意を悟り、吐き捨てるようにして言葉を発した。
「ええ。確実にやっていただきます。目標となる聖杯は、ネオナチ――――あのナチスドイツの亡霊によって保持されているとの情報がありますから」
 提督は舌打ちして、暗闇の、そして水平線の向こうにあるはずの水上都市を睨みつけた。
「魔法使いに、ゴジラ怪獣に、ネオナチまで、か。まるで悪い冗談だな。この世界は一体、いつからジャパニメーションの舞台になったのかね?」
「初めからですよ、提督。貴方が気付いていなかっただけで。世界は初めから、ハリウッドよりもよほどタチの悪いスペクタクルに満ちている」
 ファルデウスが鼻を鳴らすと、艦体に付着した硝煙混じりの潮の香りがまるで血の臭いに思えてくる。
 その臭いを消すべく、ファルデウスは再び煙草を取り出して火を付けた。
 無情に漂う煙草の煙が、なぜか無性に苛立たしかった。


 遠坂桜は優秀な魔術師である。
 かの大師父の宝石箱を開き、遠坂の魔術に新たな展望を見出した母。
 そしてその母に教えを受けて固有結界にまで辿り着いた父。
 そんな二人の素質を存分に受け継ぎ、固有結界を使う程にまで成長した桜は、聖杯を手にした父母を超えるために、聖杯戦争に参加したのだ。
「……父さんと母さんに出来た事なんだから、私にだって出来る」
 ごう、と吹いた風が大地に深々と穿たれた断崖絶壁の上に立つ少女の黒髪を弄り、舞い上げて去っていく。
「ここが、ほんの数年前まで人口八十万人の大都市だ、なんて、誰が信じるでしょうね」
 桜は母から受け継いだ澄んだ翡翠色の瞳で、じっと底知れない断崖絶壁の奥を見つめる。
 北米大陸を東西に分断し、地平線の彼方から彼方まで走る断崖。その奥底は闇に閉ざされて見えない。
 公式の調査では地殻を両断してマントル層にまで続いているとも言われており、
また、フォークロアでは、地獄にまで繋がっていて、かつてのスノーフィールドの惨劇の犠牲者は、未だにその地底を彷徨っているという。
 そのため、かの惨劇の犠牲者の遺族達の中には、この断崖に身を投げる者が絶えないという。
「ぞっとしない話ね……」
 しかし、ふと疑問に思う。
 遠坂の血筋には、ある致命的な弱点がある。
 そう、それは「うっかり」だ。
 しかし、だというのに、自分はこの聖杯戦争に関わると決めてから、一度も致命的なミスを仕出かしていない。
 同期の中ではずば抜けて優秀な能力を誇っていたエーベルト・フラガ・ヌァザレ・ソフィアリは、
持前の馬鹿力で、せっかく用意した聖遺物を粉砕してしまったらしい。
 だというのに、自分は一度もそれらしいうっかりをやらかしていない。なぜ――――。
「マスター、そういえばずっと疑問に思っていたのだが……一つ、聞いてもいいだろうか?」
 桜の相棒であるセイバーが遠慮がちに口を挟む。
 そう、桜が何の障害もなく最優のサーヴァントたるセイバーを召喚出来たという点で、既におかしいのだ。
 母は儀式を行う時間を一時間間違えて、セイバーの召喚に失敗してしまったというのに……。
「いいわ。何でも言ってみて頂戴」
 いい加減、思考が煮詰まっていたところだ。何かの糸口になるかもしれない。
歴戦の戦士たるセイバーの意見も聞いてみるべきだろう。
 ならば、と前置きしてセイバーは続けた。

「聖杯戦争はニホンという国の、ミナサバという土地で行われるはずではなかったか? なぜ、我々はアメリカにいるのだろうか……」

「あ……」
 行き先を間違えた。
 これが、遠坂桜の最初のうっかりであった。


 水佐波市は、一般的には水上都市として知られているが、その水上都市を取り巻く陸地の存在は、あまり知られていない。
 海と山、森に囲まれ、大規模な自然公園が存在する――――と言えば聞こえはいいが、要するに田舎だ。
 森と山以外には、一面の田畑と、後は農家が広がっているだけ。
 一応海上都市のおこぼれのようにJRから枝分かれした私鉄の支線が通っているものの、街の中央にある無人駅に、人の姿が見えることはほとんどない。
 だからこそ、死角というのは大量に存在する。たとえば、数十年前に廃れたと思しき、小さな神社。
 山の上、獣道寸前の崩れかけた細い石段を上った先に、朽ちかけた鳥居が存在する。
 その鳥居の奥、鎮守の森に天井が塞がれ、その向こうの空は蒼く晴れ渡っているというのに、その場は異様なまでに濃厚な闇に満たされていた。
 夜の闇のような、澄んだ心地のいい闇ではない。腐臭によく似た、どこか生物的な匂いのする闇。まるで無数の蟲が蠢いているような気配。
 その鳥居の向こうに、一人の少女が立っていた。
 漆黒というにはやや青みを帯びた、月夜の闇色の艶やかな長髪。
 ガラス玉のように輝きのない紫がかった瞳。
 装甲のように重厚な漆黒のトレンチコート。
 その袖口から出ている左手は、真紅に染め上げられた包帯のような呪布によって幾重にも拘束されている。
『知っておるか、真夜。お主の姉が、ようやく水佐波市に姿を現したらしい』
 老人の声が、静まり返った境内に響く。だというのに、声を発したと思しき老人の姿は影も形もない。
 しかし、少女はガラス玉のように凍りついた瞳に感情の欠片を見せる事もなく、頷き一つ返すのみ。
『ふむ……もう少し、お主の母親のように、感情があれば楽しめるのじゃが……まあ、兵器に感情を求めても無駄じゃろうて。むしろ、よくぞ完成したと言ったところか』
 老人の声は少し物足りなそうに、しかしどこか満足そうに続けた。
『まあ、善い。お主の力ならば、儂等の勝利も決まったようなもの。崩壊した冬木の聖杯の代わりに、力を振るってもらおうか――――間桐家の本命よ』
 その言葉に、少女は再び頷きを返し――――そして、間桐真夜の聖杯戦争は始まった。


 大地には、深々と雪が降り注いでいた。
 深い、深い森。ドイツ。スイス。ベルギー。ロシア。ヨーロッパの大地は、ほぼ全てが森だ。
 一様に並んだ針葉樹の森は視界の果てまでも酷似した光景を作り出し、見る者に、世界の果てまでもそれが広がっているような錯覚すら与える。
 森とは人界とは隔絶した妖精達の大地であり、人の領域よりも遥かに広大な、人を拒む異界。
 それがシュバルツバルト、黒い森だ。
 その中央に、巨大な孔が存在していた。
 クレーター――――絶大な破壊力を以て抉られた大地。
 かつてアインツベルンの城と呼ばれる建造物が存在していた場所。“いた”……過去形である。
 アインツベルンの城は、土台から人知を超えた破壊力に抉られ、跡形もなく砕かれていた。
 そのクレーターの中央に、人影が立っていた。数は二つ。
 長身の男が、一人の少女の体を抱えて立っている。
「……ランサーは強いね」
 少女は細過ぎる自分の体を抱えている男を、鮮血のガーネットの輝きを孕んだ無垢な瞳で見上げた。
 そんな少女の銀色の髪を、男は困ったような笑みを漏らしてそっと撫でる。
「行こう、ランサー。アインツベルンの、この愚かな一族の痕跡を、この世から跡形もなく消し去るために。水佐波の聖杯を破壊する!」
「……承知した、我がマスター。全ては貴女の望むがままに」
 そして、男の背中から巨大な翼が広がり、二人の姿を覆い隠す。風が起こり、瓦礫が舞い上がり、樹木が薙ぎ払われる。そして全てが収まった後、二つの人影が存在していた痕跡は、何も残されていなかった。


 場所は水佐波市中。時刻は正午。日曜日。
 季節はちょうど、秋が終わって冬に突入しようかという挟間の時期。変態が出没するには、少しばかり厳しい季節。
 大通りを、変な男が歩いていた。
 ある種の海藻のように波打つ蒼黒い髪。小さなメガネ。赤いコートを翻し、ヤケクソ気味に歩く。
 後ろに従うは小さな少女。見る者が見れば分かるはず。その少女はサーヴァント。その気配を丸出しに、真っ赤なコートを翻し、歩く歩く。
 何となく赤ザコという単語が頭に浮かぶが、とりあえず無視だ。
 男の名は、タダーノ・ド・カマッセーヌ。
 アルバ家の血を引く、由緒正しい魔術師だ。
 ついでに、とある没落した名家の血をも引いている。隔世遺伝によって発現した、頭を飾るワカメヘアーがその証だ。
 礼装である魔導書を小脇に抱え、歩く。
 そういえば、マスター権限の受け渡しをするための“偽神の書”も本の形状をしていたらしい。
 まあ、タダーノには、あまり関係ない話だが。
 満を持して召喚したというのに、召喚したサーヴァントは最悪と言われるバーサーカー。
 大した格の英雄ではないので、未だ干からびるような事態には陥っていないが、それでもやたら消耗がデカい。
 令呪を使わなかったら、もうとっくの昔にミイラになっていたはずだ。だが、何より腹が立つのは、大した英雄ではないというその事実。
「……何でよりによってバーサーカーで、しかもこんなしょぼい英雄なんだ……」
 三画あるはずの令呪も、既に一画しか残っていない。最初の令呪は消耗を抑えるために「タダーノを上回る魔力を行使してはならない」で飛んでしまった。
 そして二つ目の令呪は、バーサーカーが妖術のスキルを持っていたことが災いし、
知能低の狂戦士相手に魔術で負けるのがどうしても我慢ならず、つい「タダーノが知らない魔術を行使してはならない」とやってしまった。
 最後の一画を消費したら、マジで死亡フラグな気がする。具体的にはルルブレで串刺し。
「ふ……ふふふ…………何で私がこんな目に……」
 涙目で呟くタダーノ。
 かくなる上は、他のマスターで憂さ晴らしするしかない。見敵必殺。
 勝ったらどうしてくれよう。
 生首切り取った後で、床に叩きつけて粉砕してくれようか。
 それとも、肉体をドロドロに溶かして魂を抽出する赤っぽい結界に取り込んでじわじわと嬲ってくれようか。
 何となく、どっちも死亡フラグな気がするが無視だ。
 ああ……今夜はこんなにも月が……出ていない。
 そこに出ているのはギンギラ照りつける太陽だ。照りつけている割には寒い。冬だから。
「へぇーっくし!」
 くしゃみをすると、何となく幸福が逃げていく気がしてならない。とにかく、早期決戦に限る。
 さもなければ、バーサーカーに魔力を吸い尽くされて干からびてしまう。
 そんな訳で、今現在タダーノはサーヴァントの気配を撒き散らしながら街中を闊歩している訳だが……。
「アサシン、喰ってよし」
 なんか、不吉な言葉が聞こえた。
 同時に、ぼん、とタダーノの頭が爆発した。それはまるで、冬の日差しに照らされて咲く、赤い花のようにも見えて。

 血をぶちまけながら首無しタダーノは地面に崩れ落ちる。その背中を踏みつけて、一頭の獣が地面に降り立った。
 狼。
 赤褐色の毛皮に包まれた、牛程もある巨大な獣は、噛み砕いたタダーノの脳漿の滴る口元を、どうやってかニタリと嘲笑の形に歪ませると、タダーノと同じ声を出した。
「俺に喰われろ、バーサーカー」

 こうして、第二次聖杯戦争の最初の戦闘は、あまりにもあっさりと決着した。
 だが、この戦争こそが、凄惨さに置いて他の聖杯戦争を遥かに越える、水佐波市の第二次聖杯戦争の始まりだったのだ。


 菅代・総司・アルサラン・アル・ムイードというのは、名前としては死ぬほど長い部類に属すると思う。
 まあ、これは父親と母親の両方の姓を受け継いだのだから仕方がないと思う。
 優秀な魔術師だった父と母の、優れた能力を受け継いだ代価とでもいうべきものだ。
 例えば、父から受け継いだ日本人風の顔に、母から受け継いだ褐色の肌。
 どこからどう見ても日本人風の顔であるのに、肌色が違えば、それは別物にしか見えない。
 そんな事を思いながら、アルサランは手元のコーヒーカップを傾けた。
 瞳の色は翡翠、静かにカップを傾けるその姿は、まるでどこかの王侯のような気品と威厳に満ちており、
それはさながらインドのマハラジャかトルコのスルタンもかくやといった風情。
「うん、やっぱりここのコーヒーは美味い」
 実際にはアルサランにはコーヒーの味なんぞ分からないのだが、そんな風に思う。
「そう? そんな風に言ってくれると、おばさん嬉しいわ」
 カウンターの向こうでほにゃぁっとした笑顔を振り撒くのは、喫茶店『レーヴェンスボルン』のマスターこと、小日向葵。
 当年とって三十七歳との事だが、どう見ても十歳から、下手をすれば二十歳近く年齢を高くサバ読んでいるように見える。
「ああ。素晴らしい。決めたぞ葵さん……俺のモノになれ」
 そう言った瞬間、アルサランの口元から尖った犬歯が覗き、その一瞬だけ、まるで凶暴な獣のような気配が噴き出してくる。
「あら、嬉しい。でも、みことちゃんの事もちゃんと見てあげなくちゃ駄目よ」
 葵がそんな風に言った瞬間。アルサランの頭に、学生鞄がごすん、と音を立ててめり込んだ。しかも角、直撃だ。


「お母さん! 私はアルの事なんて何とも思っていないんだから。変なこと言わないでよ!」
 顔を真っ赤にして叫ぶ少女。小日向みこと、十五歳。小日向家の娘の片割れであり、喫茶店『レーヴェンスボルン』の看板娘でもある少女だ。
「そうか、じゃあ問題はないな」
 鞄の打撃から回復したアルサランが顔を上げると、みことの眼つきが三角に吊り上がる。
「何? 何がいいたいか、私、はっきりと言って欲しいかな。かな」
「ああ。今現在、みことは、かなりの部分で足りないからな。具体的には、つるん、ぺたん、すとん――――」
 ごしゃす、と鞄の角がかなり嫌な音を立ててアルサランのこめかみにめり込んだ。
「ねえアル、遺言はそれだけ?」
「ああ、そうだな。できれば、毎朝牛乳を飲む習慣を付けておいた方が……あ、悪かったな。飲んでいてそれなのか。ま、人間だれしも限界はあるものだ。気を落とすな」

「………………死ネ」

 それきり、アルサランは気を失った。


 自宅に戻ったアルサランが安楽椅子に腰掛けると、背後に旋風が起こり、その中から声が聞こえてくる。
『本当に良かったのか?』
「何がだ、アサシン? それとも、今や、バーサーカーと呼んだ方がいいか?」
『アサシンでいい。それより、あの娘はマスターに危害を加えた。なぜ見逃したのだ?』
 その言葉に、豪奢な背もたれに背を預けたアルサランは獣じみた獰猛な笑みを浮かべて見せた。母が故国から持ち込んだ家具だ。
「なに、俺は身内には甘いのさ――――それ以外は蹂躙するが。抗う暇も与えるものか」
 アルサランの獣気はすぐに霧散して、普段通りの穏やかな空気が戻る。そんなアルサランの視線の先で、風が渦を巻いて変容し、狼の姿をとり、次いで紅白の装束を纏った少女の姿に変わる。
『身内という概念は“私”には理解できない。“私”は元々、人の恐怖という淀みが獣という形をとったものに過ぎない。
淀み故に、内に淀んだ死の気配はこのように“私”の一部に出来るが、感情もまた無い。この顔が浮かべる嘲笑も人間が恐れる“獣”という表情を具体化したものに過ぎないし、故に淀みに身内という概念は無い』
 一瞬少女の姿が揺らぎ、その顔が禍々しい嘲笑を浮かべる狼のものに変容し、再び美し過ぎる少女のものへと戻る。
「ふむ。なら、アサシン……お前は聖杯に何を望む? 戦況次第ではお前が勝利することは可能だろう。だが、感情すら持たん貴様が願いという概念を持つとも思えん」
『“私”は、“獣”という共通項を持つが故にマスターに召喚された存在だ。そこに願いは無く、意志は無い。だが、この姿の元になった狂戦士という娘を捕食した時、この“私”にも願いと呼べるものが生まれた』
「ほう? 感情を持たない概念に興味を持たせるとはな。面白い。何だ、その願いとは」
 アルサランは愉快そうに隣に立つ少女の姿をした怪物を見た。
『“私”は、恋愛という行為に興味がある。雄と雌がつがう事で子供を産む。これは要するに、何の関連性もない他者が家族となる行為だ。“私”に身内という概念は無いが、行為によって身内を作り出す事が可能だというのなら、“私”はその行為に興味がある』
 怪物は、仮面に過ぎない少女の顔に、酷く切なそうな表情を浮かべていた。何となれば本来の顔に嘲笑しか浮かばない怪物は、仮面以外に感情を表現する手段を持たない。
「っ、はっ、あはははっははははっははははっははははっは!!」
『マスター?』
 唐突に笑い出したアルサランに、アサシンは怪訝そうな表情を向けた。
「いや、笑ったりして悪かった。あまりにも面白い願いだったからな」
『そうか、“私”の願いは面白いか。興味深い事実だ』
 愉快げなアルサランに対して、アサシンの様子はあくまで不動。


「いや、面白い。アサシン、そこまで言うのならば、お前の願いを叶えてやろう」
 アルサランは顔の横に持ち上げた右腕を軽く払い、袖を振り落とす。ずれた袖口から覗く二の腕に刻まれているのは、燐光を放つ兇暴な獣の顎を模した紋様。三画に分かれた紋様の内一画が、蒼白い光を強く放って、空気に解けて消える。
「アサシン、これから貴様は、俺を愛するがいい。俺だけを望み、俺だけを見、俺だけを求め、俺だけを恋し、俺だけを慕い、俺だけを愛するがいい。令呪を以て命ずる――――」
 人型となった怪物は、深々と膝をついた。
『なるほど、これが恋、そして愛というものか。そして感情というものか。……なるほど、確かに興味深い』
 アルサランが差し伸ばした手を取り、中世の騎士がするように、その手を額に当て、唇を当てる。
『契約しよう。此処に“私”は、未来永劫、貴方に従い、貴方を望み、貴方に従い、貴方を求め、貴方を願い、恋し、愛すると誓おう。此処に、契約は結ばれた。我が名はアサシン、音もなく影すら持たない忠実なる貴方の顎として、貴方の敵の悉くを喰らい尽くそう』
 かくして、第二次聖杯戦争において最悪の主従が誕生する。獣と獣、凶悪極まりない共通項を持った二人は全てを蹂躙し喰らい尽くすべく戦いを挑み――――しかし、その始まりは、かくも叙情的な代物であった。