この物語にはご都合主義と残酷な表現と少しばかりのエロスがトッピングされています。ご了承ください。

 自分は、自分であり、自分とは、一人である。
 そのようなことに、自分が気づいたのは、乳児期から幼少期の間だった。
 自分は呪われし仔として、誰からも祝福されず産まれた。母親……いいや、そう呼ぶには抵抗がある。自分はあの人を母と呼びたくない。あの人もそうだろう。だから名前で呼ぶことにする――パシパエさんと。

 パシパエさんが浮気をして生まれた子。そう周りの人に認識され、パシパエさんの夫である人にも憎悪され産まれてきた。
 パシパエさんが行ったのが、ただの浮気なら、こう話は拗れなかっただろう。不貞の妻は夫の叱責を大人しく受け、子供はどこか遠くに捨てられる。そう言う、みんなが幸せになれる解決策をとれたのだから。
 それはとれなかった、妻の浮気相手は牛で、自分は牛頭人身の化物として産まれたのだから。
 自分の産声は、牛の吠え声のそれだった。らしい。これは城に住む従者のうわさ話として聞いた内容だ。
 兎も角、それによってパシパエさんの浮気はばれ、産婆は逃げだし、夫は怒り狂い、城内は騒然となった。
 ――父親が神の牛でも、その子供を敬い愛す理由にはならない

 自分は、産んだ者から一度も抱かれず、ミノスは産湯を産まれたばかりの自分にぶっかけ、従者に命じて隠し部屋を急遽造らせた。
 そこに、自分は閉じこめられた。
――餌は容器に満たされた牛の乳を啜り、部屋と自分が臭えば、上からの大量の湯によって清められ、藁にくるまって眠った。
 普通の赤子ならとっくに死んでいただろう。しかし、自分は仮にも神牛の子である。人間以上の生命力を持っていたのである。

 さすがに自分でも産まれたばかりの記憶は曖昧であった。だから、これらの話は、自分が死に“座”と呼ばれる概念に、自分が住むことになったときに、記録として読んだモノである。


自分は生きていた。自分は牛の乳を啜り、湯によって体を打たれ、人の愛を受けずに。
自分は聞き耳を立てて人の会話を聞くことを習慣としていた。何故その様なことをしようと思ったかわからない。
自分の中の人間の部分がそれを欲していたのかもしれない。
それにより自分は人の言葉を覚え、言葉を出すことができるようになった。
ある日いつものように聞き耳を立てていると、懐かしい声が聞こえた。
パシパエさんとミノスである。どうやら、自分の父を殺す、殺さないで揉めているようだ。未だに、パシパエの恋は冷めていなく、ミノスの憎しみは熱いようであった。
自分は父が殺されるかもしれないと言うことを聞いても、何も思わなかった。言葉は覚えても、感情は憶えることができず、心が枯れてしまっているみたいであった。
声は段々大きくなり、荒々しくなっていった。そして
「愛しの君の方が具合が良いわよ! あなたとはモノがちがうからね! 凄く激しくせめてね! あなたと比べられることが恥ずかしいくらいにね! 
 優しくしてって懇願する私の声を無視してガンガン奥まで突いてくれてね! あなたは私が愛しの君に抱かれてから、一度も抱いてくれなかったじゃない! 
 あなただってあの牛に惚れ込んだのだからわかる部分があるでしょう!? ああそうだ。名案を思いついたわ! 私が愛しの君に抱かれている間、あなたも後ろの方を使って愛しの君をだけばいいじゃない! きっと貴方も思い直してくれるわ。 あはっははっはははっは!」
 何が何やら言っていることが、一つとしてわからなかった。
 それっきり、会話は途絶えた。
 そうして、暫く立ったある日ミノスに首を掴まれ、外に連れ出された。抵抗しようかと思ったが、幾ら自分の体が同年代の子より大きく、力が強くても相手は屈強な大人である。呻き声を上げるしか他なかった。
ミノスは言った。
「お前を迷宮(ラビュリントス)に幽閉する。もう城にはおけなくなった。自分を恨め、餌は届けてやるから勝手に食え」
 それだけ言い、お抱えの従者の下へずるずると自分を引き摺って行った。
 自分を従者の足下へ投げ捨て、ミノスは数歩後退った。そして、突然女性の金切り声が聞こえた。
 自分はその声の方へ顔を向けた。


――涙を浮かべた一人の女性だった。泣いている理由は、この恐ろしい自分の姿を見た所為だと思った。しかし、違った。
 そのふくよかな体をした女性は、ミノスに食って掛かっていった。
「あんな小さな子供を迷宮に閉じこめるなんて酷い! 酷すぎるわ! 私に育てさせて! 牛の頭がどうしたというのです! 私は牛に乗って荒波を越えて、この国に来ました。
 そして、貴方を産みました、牛は大好きな生き物です! それに可愛い仔牛じゃあありませんか! 私が育てるから離して!」
 その女性は、“あの子を育てる。自分が育てる。”と叫び続け、近衛兵によって、自分の下から離れていった。
 最後まで、自分に手を伸ばし、大粒の涙を浮かべ、暴れていた女性は視界から消えていった。
 それが何だか、麻痺した心に深く響いていった。




気がついたら迷宮にいた。
目を開けたら、目の前には湧き水がわき出している小さな縦穴があった。
周りは煉瓦でできた壁に囲まれ、天井も煉瓦でできていた。少し壁伝いに歩いてみた。
――――上下左右とも縦横無尽。そう表現する他ないくらい通路が滅茶苦茶に入り乱れていた。正直言って吐き気がした。
自分はまず喉を潤し、目に付いた通路を進んでみた。曲がり角があれば、曲ったり曲らなかったり、兎に角進んでみた。
不思議と突き当たりに出会わず、それどころか正面の壁が遙か彼方に見えるくらい離れている通路さえあった。
自分は歩き続けた。そして汗水漬くになり、息が上がり始めたときそれが見えた。
――元の場所。湧き水の間であった。あれだけ歩いたのに戻ってきてしまったのだ。
自分は疲れ果て座り込んだ。そして頭を抱えてどうやって生きていくかを考えた。正直、餌を届けてやるというミノスの言葉は信じられなかった。
ふと、獣の臭いを嗅いだ。ここは窓もないのに空気が不思議と澄んでいた。それに微かに空気が流れているようにも感じられた。
自分は臭いを感じた方へ足を進めた。そこには鹿がいた。
――立派な牡鹿であった。その鹿の胴体には野菜や果物が括り付けられていた。
ミノスは自分を生かすつもりらしい。神の牛の仔である自分を殺さないのは神威の怒りを恐れてか。
自分は自分の中の獣に従い、牡鹿に飛びかかった。牡鹿は、ひらりと身を躱し、通路の奥へ逃げていった。
自分の手には胴体に括り付けられていた餌が握られていた。牡鹿を殺して食うことはできなくても、野菜くらいは奪い取ることができた。
自分は元の場所に戻り、水と一緒にそれを食い、寝た。


目覚めは突然だった。自分は脇腹に鋭い痛みを感じて覚醒した。
目を開けて脇腹を確認すると、牡鹿の角が突き刺さっていた。
「ぐぶ、ごもおぉぉぉ!」
 だらしなく開いた口から悲鳴とよだれが辺りに飛び散った。刺さった角を掴みこれ以上食い込むのを防ぎ、牡鹿に顔を向ける。
 その時自分の体に電流のように流れていくモノがあった。それは生まれて初めて感じる感情だった。生まれて初めて感じる肉体の痛みだった。生まれて初めて感じる心の揺らぎだった。
「ぴぎきぃぃぃぃああああ!!!」
 牡鹿は狂った悲鳴を上げて自分(獲物)に刺さった角を振り回し、勢いよく壁に叩きつけた。
「ぶぐあ……げぼはがぁ!」
 背中に走った衝撃で息が詰まり、血反吐を吐いてのたうち回った。幸いにも角は抜けていたので体は自由になった。
「ぴゅぎぃぃぃあああ!!」
 再度雄叫びを上げ自分に向かって突進してきた。それを自分は痛みに耐えながら、ごろりと転がり間一髪で避けることができた。
 ズシン――! 牡鹿は勢い余って壁に激突し、その際角の片方が乾いた音を立てて折れた。
「ぴゅぎいえああああ!!」
 九門の叫びを上げる牡鹿。しかしその目には狂気の紅が宿り、逞しい体は鬼気を宿し、吐息はこの迷宮を蒸し風呂にするかのような熱を持っていた。
「ひぎいっ!」
 自分は逃げ出した。同年代の幼児よりも遙かに逞しい足を動かして、背を向け一目散に逃げ出した。
「ぴゅいえええあああ!!」
 牡鹿は今までより遙かに大きく叫び、自分を追ってきた。何故自分を追うのかわからなかった。自分が憎いのか。自分を食うつもりなのか。それともこの迷宮が狂わせたのか。それは誰にもわからない。
 ともかく、追いつかれれば殺される。殺されるのは『嫌だ』と自分の生存本能が騒いでいた。
 自分は兎に角曲がり角があれば曲り、出来る限り牡鹿と直線に並ばないようにした。幾ら自分の足が同年代の者と比べて、少々速いといっても相手は牡鹿である。足の速さでは比べるのが間違っている。


「はっ。はっ。はっ。はっ……」
 いったい何回角を曲ったのかわからない。牡鹿はまだ追ってきている。それにこれだけ走っているのに、一度も行き止まりに当たらないのも不可解だったが、さらに不可解なことがある。
 ――一度たりとも同じ場所を走っていないのだ。
 自分は脇腹から血を流しながら走っている。つまりは地面に血の跡が残ってしまうわけだ。しかし、走りながら地面を見てもそんな跡はまったくなく、それどころか空気すら汗臭くなく新鮮な空気であった。
 異常。超常。そう言っても大袈裟ではない現象だった。
 自分はこの事態を冷静とは言わないが、心の片隅のどこかで納得していた。『ミノスはこれくらいのことはやる。そのぐらい自分に出て来て欲しくないのだろう』そう思った。
 今はそんなこと考えている場合ではない、と自分を叱咤し足を動かす。
 そして右に曲ったとき、視界が暗黒に塗り潰された。
 ――世界の果てに続くような真っ直ぐした通路だった――。
 曲がり角は遙か先で走っていったら確実に追いつかれるほどの長さがあった。
 自分は後戻りをし、別の道を行こうとしたがその選択肢も塗り潰された。
 牡鹿がもうすぐ側まで来ていた。戻る時間もなければ、血を流しすぎた体はもう走れそうになかった。
追い詰められた。殺される。突き殺される。
牡鹿もさすがにふらふらだが、自分のような幼児を屠りさる力は残っているだろう。ただ一度の突進で自分を殺せると思うことだろう。
自分の思考を呼んだのか、牡鹿は片方の角しか残っていない頭を深く下げ後ろ足に力を溜め始めた。
当たる寸前によける――不可能だ。そんな体力は足に残っていない。そもそも一瞬で牡鹿の角は自分に突き刺さるだろう。足を動かしている暇はない。
そこで自分は――拳を握った。相手をぶち殺すために。生き残るために。
ここで一生を過ごすより、この場で死んだ方が楽なのではないか。そう思ったが、今死ぬのだけは駄目だと思った。せめてあのふくよかな女性の涙の理由を知ってから死ぬべきだと思った。
ろくに教育もふれあいもしたことのない自分が何故このようなことを思ったのかわからない。でもただ生きてみようと思った。

そこまで考えたとき牡鹿が閃光になった。そう思えるほどの速さだった。自分は兎に角がむしゃらに拳を相手の頭に当てることだけを考えて振り下ろした。
――弾かれた。弾かれて無様に地面に転がった。
自分は負けたのかと思い、目を恐る恐る開けてみた。とても奇妙な物体があった。
それは牡鹿だった。顎が上を向き、額が陥没し、目と鼻と耳から粘着質の血を流し、肛門から据えた臭いの立つ血便を垂れ流している。
牡鹿は「ぴ……ぎ……」とだけ鳴くと崩れ落ちた。
自分は勝った。自分は初めて生き物を殺した。これで自分は獣になった。そんな多数の思いが頭を駆けめぐった。しかし今は眠ろうと思う。
牡鹿は後で食おう。それはとても自然なこと。そう思ったとき、目はもう閉じていた。

To be continued.