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うたかたの日々

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主人公コランは金持ちで気ままに暮らす御曹司だ。こう言ってしまうとすごく自分がコンプレックスを抱いている様だが、実際にそうかもしれない。しかし「気ままに」と言ったところで、彼にとっては恋愛が何よりも人生をリアルにさせる主体であって、全てのエネルギーの源であるのだから、全く気の抜けない一大事ばかりの連続でもあったのだろう。そう思うと自分の抱いたものは「気ままさ」でなく、その「全力さ」だろうか。全力でぶつかっていく彼の姿が余りにも明快で辛辣ですらある。その強い態度に何か敵わない思いを抱かされたのだろう。

全てのことに対して先験的な判断を下し、個人が常に正しく、そこから行動の指針を引き出す。そんな作者の言葉とともにコランは激しく「自由に」行動を起こしていく。

それにしても恋人そして妻であるクロエは肺の中で睡蓮が生長するという何とも奇妙な病気にかかっている。それが二人の幸せを徐々に奪っていくのだ。どうして幸福の絶頂にある人間は臆病になるのだろうか。コランもまたよからぬ想像を膨らますのであった。この幸せが終末をむかえるときを頭の中で描く。それは少しでも衝撃を和らげようとあがいている自己防衛なのだろうか。そのためにかえって、良心の呵責に苦しめられながらも?。人間はそうやって不毛なことを繰り返していかなければ、幸せに向き合えないと言うのだろうか。

この小説の素晴らしさは、不幸を描くなかに美学をも打ち出しているところではないだろうか。肺に花が咲く、そしてその花を枯れさせるために部屋を花でいっぱいにする。膨大な花の中で美しいく、はかない男女が嘆き悲しみ、その言葉の中にも軽やかにユーモアを混ぜ、ただおちて行くばかりでない「華麗」な姿ですらある。そしてそれは悲劇と喜劇の等価な扱いにも見える。

無邪気に喜び幸せを分かち合っている人間の姿。それぞれが向き合う悲劇はいつもそんな姿などお構いなしに背後にピッタリとついている。屈託無く笑う背後で同じように屈託無く近寄っていた死。この小説の半分以上は悲劇の連続でもあるのに、それが深刻に見えてこないのは、そのような等価な表現によるものだろう。

お金に執着のない生活を送ってきたコランが向き合った貧困。人生における労働の無意味さを謳歌しながらも、自らの困難を救うものがお金であり、彼の幸福な生活を支えていたのもそんな有限なものでしかなかった。その簡単な事実に立ち向かいやがて訪れる終末。最後には貧困を背負ったことをあざ笑うかのような展開だ。

軽やかにカクテルをつくる冒頭の姿と同様な意匠で友人が死に、パルトルというカリスマが死に、そしてクロエが・・。最後には飼っていたネズミが「頭をおれの口に入れて待ってろよ」と猫に「自殺」を依頼する姿も同様な「軽やかさ」で描かれていた。それが全ての締めくくりなのだから、なんとも等価な意匠で激しい振幅を流れている「記号の戯れ」のような小説である。

2002.07.05k.m


コメントをぜひ

  • k.m>zzzさんの興味深い書評
  • zzz>フランスでも映画化されたけれど、忠実に映像化しようとしてうまくいってなかったような記憶があります。個人的にはいつかデューク・エリントンを奏でてできたピアノカクテルを飲みたいと思っているのですが、生きているうちに製品化されるといいな。2003-06-18 (水) 21:37:28
  • k.m>コメント有難うございます!。フランスの映画化は知りませんでした。それにしても映像化は難しいですね。先日見た小栗監督のNHK人間講座ではちょうどそんな話題をやっていて、とても参考になりました。そのうちまとめたいです・・。2003-06-18 (水) 22:41:13
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