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「小さな家」の気づき


  • 塚本由晴著
  • 1,800
  • 出版:王国社
  • サイズ:四六判 / 189p
  • 2003.6

アトリエワン・塚本由晴さんの著作。それぞれは時折雑誌で目にしていたものの、こうやってまとめて読んでみると、とても明快な語りようと誠実なまでの「建築家魂」に脱帽である。例えば分かりやすい言葉で、戦略的に語りつくすという記述態度は、東浩紀にもつながる読後感なのだが、それは建築家の文章からはあまり得られなかったように思う。分析的な態度に独りよがりな情念がないところがとても気分よく読めた。(ただそのように作品と言説が明快につながってしまうことが容易な解釈を生み、かえって物足りなさを指摘されていることもある。)


世の中の複雑さはコンテクストと言う概念をかつてのように成立させなくしている。むしろ現にある状況に対して盲目的な「思いこみ」によって依然として都市や建築は語られてもいる。あたかも住宅メーカーのCMのように(お父さんと仲のよい娘が一緒に出勤・通学することをほほえましく見送る妻の姿を生む家という思いこみ)。

一方で、塚本さんのように観察と定着というフィードバックのループによって建築を再構築する動きもある。それはあまり語ることのない妹島さんが、現状から見える発見を通してモノを徹底的に突き詰める姿勢とも通じる。

著者の指摘するように、建築の社会性をとなえつつも、認識の度合いに差が大きいのは、見方そのものを疑わないためであろう。どこをもってして社会性を捕らえるのか。常に考える先は変化している。

小ささの中にも同様に複雑な解決を挑む。小建て住宅一戸でランドスケープを問題とする姿勢。実は建てるのはあくまでも住宅であって、その効果や関係として作られる姿へあらかじめ目を向けること。タイポロジーに対する批評性。あとから来た建物が、既に存在している周辺の住宅を包囲してしまう。それは理念ではく解釈として評価されるのだろうか。

確かに設計の仕事に求められるのは、特定の社会性を充足するものを作ることだ。本質的な想像力を欠いてでも体裁さえたてば成立してしまう。しかしでは何が本質で、何が単なる体裁かを認識していない設計者ばかりかと言えば、そんなことはないと思う。さらに言えば、本質を決めるのも体裁をなすのも、クライアントとの関係であって、設計者の個人的探求心ばかりではない。

「建ち方」の重大さを語るとき、それを倫理的な姿勢として訴えている。現状の間に合わせのやり方を批判し、住宅の設計によって制御しうる都市像を唱える。すべて関係性のデザインととらえる執着的なまでの一貫性を著者は維持しうるまれな建築家ではないか。実作以上に理念の大きさは果てしない。

東京を捕らえる視点はまったく現状をうまく表している。それゆえに都市を身の丈にあうように分割する「カスタマイズ」という方法は、既に都市生活者が無意識に行っている術ではないだろうか。多様な都市生活をサポートする空間としての住居。実は機械的な機能ではなく、潤いや心地よさこそがサポート機能であることも十分に定着していると思う。

家族論もライフスタイルも技術信仰でもなく、都市の問題として住宅を解く。それが批評を生む視点なのだ。


施主の要望が20あったら、僕らもここの場所に住むんだったらという建築の条件を20個くらいつくる。(中略)それをぶつけあっているうちにプライオリティーが決まってくるわけです。

建築の空間とうものをいくつかのキャラクターの重ね合わせとして捉え、そのキャラクターを建築の構成の水準まで整理するところまでは、あのプロジェクトでやっていた。

ありきたりなところから設計をはじめて、単なる凡庸に陥ることなく面白さを引き出すことに関心があった。

些細なことだって世界の一部である。逆に言うならば、些細なことごともまた世界であり、その中に現れている社会や環境があるはずである。

建築の社会性というのが、特定の社会関係を建物が受け止め、それに伴って何らかの規範を内面化することを指すならば、それは垂直に序列化されるものではなく、むしろ水平方向に並列されるべきものだろう。


建築家は社会性というファクターを通して自らの作品存在を語る。一方で街中にあふれる建物を語るべき対象から巧みに除外もしてく。そこには語られるべき理念が存在しないからだと言わんばかりに。建物をつくりあげるまでの過程には、理念があろうとなかろうと同様にたどる道のりがある。それなのに、建築界には歴然としたヒエラルキーの違いを認める姿勢があるのだ。

「建築的でない」、その一言でばっさりと除外される大多数の「建物」は、実際の街並みから都市景観までを構成しているのだ。それらを見ないで自作を語ることは、社会性と反している態度でもあるだろう。しかし建築家は学生に向かって、「あなたのデザインした建築が、社会に対してどのような影響を与えるのか」を問う。美意識は内面化された個人的なものである。されど表現は社会性をファクターとしなければならない。建築家を巡る矛盾はここからはじまっている。

ただしこれは矛盾ではなく、価値判断の異なる次元を一緒くたに語る混乱なのだろう。それゆえに建築を批判するのは容易いのだ。一方で好みに合った美意識を礼賛し、その一方で好みでない形態を社会性のなさで非難出来るのだから。

建築家は社会性獲得の為に理論武装し、造形の動機づけを語る。しかし理念から直ちに「建築的である」カタチを生み出すことは出来ない。自己矛盾の葛藤へと堂々巡りだ。そしてその時こそ、建築家であるかどうかの分かれ道が見えてくる。彼はその先のカタチへと辿り着いたとき、理念と具体の融合、美意識と社会性の了解へと達する。あたかもどちらが先に生まれたのか分からないほど、両者の結びつきが密接な時をむかえる。幸福な創造が見えてくるのである。

この創造を形式と言い、抽象化と称して自らのキャラクター・商品価値を一つ高めるのである。これらの「生き方」こそ「誠実」であり、「倫理的」な建築家像ではないだろうか?・・・。そこから学ぶことは多い。2003-07-17/k.m


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