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「伊東 豊雄」メモ書き


伊東さんは、僕の学生時代で一番気になる建築家でした。 分厚い著作集の「風の変様体」を、なんだかよく分からないまま読んでいたのを思い出します。 ある一人の建築家へのこだわりは、逆に色んな人達をも教えられました。富永譲さんや、長谷川逸子さんなどの菊竹さん門下生達を知ったのも伊東さんからです。

90年頃ですから、ちょうど公共的な仕事へシフトしてきた頃です。それまで初期の作品など、なにか内向的な空間表現も伺えていましたが、なにより伊東さんが、学生の僕にうったえかけていたのは、その軽やかさでしょうか。

風の様に漂う建築、シュミレーション的、浮遊する建築。光と風の視覚化。なにか建築の存在そのものを否定するかの様なコンセプトをなげかけられ、それらは僕らの存在そのものを解放系へとさそう魅力にも感じられました。

小さい作品から、突然大きな建築へ行くとき、どこかぎこちなさを感じる建築家が多いなか、常にのそスタイル自体が軽やかな伊東さんの作品は、そういった変化への境界をあまり感じさせません。

人間の行為に境界のない様に、建築へ向かう意識にも境界をもうけたくはない。 まず建築ありきではなく、人間の活動があって空間が生ずる。「場」の形成。 人の集まりが既にパブリックな活動なのであり、公共建築だからパブリック性を出すのではない。 最終的に市民に共感される建築のみをめざすのではない、むしろ「裸の個人」へ共感される建築を。

クライアントへ説明する建築。どんになに社会性を考慮した建築を、大勢へ説得させる努力を重ねようが、自らの内部には常にもう一つの「建築」がある。 市民利用者団体とのインタビュー。 「あなたは建築学会賞がほしくて建物をつくっているのだろう、邪魔なそのチューブをやめてくれ。」

なにか一定の枠におさまらないさま。にじみ出ていくさま。ブラーリング。 透層する建築。トーソーって逃走?。人間のアクティビティはもはや一つの場所へ留まることを許さない。 主体としての自己の歴史的一貫性などにしがみつかない、疾走する非主体性。

TNプローブには、もう一つの「建築」がある。巨大なスクーンへ流れていく膨大な図面スタディー。 モノとしての動かない建築がより純粋さを保つとき、内部の活動をサポートするプランニングは、場をつくるための最小限の手段でいいのだ。どこにも解答がない。一回性のイベントを作っているだけなのだ。

「場」は既にチューブとスラブによってできている。しかしその2つの構成された空間は、たんなるユニバーサルとは違う。形態と機能が、永遠不変の固定した関係にはないと論ぜられ久しいが、依然として従来の固定化された息苦しさを拭えない建築。 あるいはそんな、空間と機能の間の断絶を現代的なありようと認識し、単なる誠実さの欠如した独りよがりの建築。

膨大なスタディーには、自らの建築を空間として社会に存在させる「矛盾」を埋めるべく、ひたすらなしたたかさが伺える。

<Blurring Architecture>とは、建築という行為を逸脱していくそのさまの中にあるのかもしれない。

99.11.27/k.m

行って来ました

昨日は伊東さんの講演会行って来ました。 朝日ホールはすごい人。5分前くらいにいったら、座るどころか立ち見もきつい感じでした。階段に座り込んでいたおかげでおしりが痛かった。 なかなか面白い話しだったですけど。公共施設もあれだけ数をこなしていくとコンセプトも絞り込まれていきますね。 アルミの家の現場ビデオ。LGSにしか見えなかった。

99.11.27/k.m

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