小説の誕生


  • 保坂 和志著
  • 出版 : 新潮社
  • サイズ : 四六判 / 475p

先日偶然に遭遇できた出版記念の青山ブックセンター・トーク。その時の保坂和志・新作をようやく読んだ。『カンバセイションピース』あたりから、彼の著作はどんどん厚くなって、今回も500ページに近い。ソフトカバーなのでかろうじて通勤時に読めたけど(実際、体裁については著者も気にして作ったようだ)、内容もかなりズッシリとしていた。

引用が多く、半分以上を占めていたように思う。知らない作家ばかりだった。程度の差はあるけど、個人的に小説は入り込めるまでに100ページくらいを要するので、断片の引用には(10ページ分ほどあったりして断片を超えているが)とても入りづらかった。

引用を中心に話を進めるというのは、批評、研究などの論文みたいだけれど、そんな印象ではなく、著者による思考の寄り道、あるいはモノローグ的な対話に感じた。つまりどこまでが引用で、どこからが保坂和志の文章なのか分からないくらい、絡み合っている所が多い。

この本で著者は沢山のことを伝えようとしているのではなく、小説の芸術性について執拗に言及している。もちろん芸術の定義みたいな所からはじめていて、例えばこんな風にある。「あるいは本当は芸術こそが最も無防備にすべての人に向かって開かれているのだが、それが無防備でありすぎるために少数の人しか近づかないと言えばいいか。」(本文引用)。

芸術作品には「解釈」がガイドのように必要とされていたり、分かった、分からないなどの「理解」を前提とすることで存在している面がある。けれど芸術を見て受け取った感情は、言葉に表せるような小さなものではなくって、「何か」でしかないのではないか。音楽を聴いて感動したときの「すばらしい」という言葉が、とても小さな「感情」しか含めていないように。

確かに「無防備」を前にした時、僕らはその感情を言葉に出来ないことで戸惑う。けれど感情を第三者へ伝える言葉が見つからないからといって、わざわざ表現出来る「小ささ」まで変形させてしまうのもおかしい。そこに小説の役割があるようだ。

小説は「言葉」を表現手段としながら、本来言葉によって表せていなかった領域にまで拡張させた「芸術」なんだということ。保坂和志が芸術への言及にこだわる理由はそこにあって、「小説とは」を語りだすためにあらゆる芸術的な題材を使ってそれに近づこうとしている。

そんな理由でこの著作はとてもすぐれた「芸術論」でもあるのだと思う。映画も小説も、現代アートも写真も、これから色んなものを見たり感じたりする時に、著作の一部を参照しながらフィードバックしていけば、「小説(言葉の領域を超えた表現)」というものにもっと近づける気がした。2006-10-31/k.m

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最終更新:2008年04月11日 08:15