「パーク・ライフ」の軽快な文体に好感色だった僕は、続いて文藝会「新人賞」作品「最後の息子」を手にした。こちらは3つの中編が入っている。「パーク・ライフ」も中編くらいのボリュームだった。いつかこの作家の長編を読むことを想像しつつ、軽やかに足を踏み入れるのだった。
表題「最後の息子」とは?、ああ、そう言うことか、とちょっと感激のタイトルでもあった。そんなシャレタ感覚が似合うのも、文体の醸し出す雰囲気がそう思わせるのだ。オカマの「閻魔ちゃん」と同棲する主人公の撮ったビデオ映像。ある日まとめて「見直していた」という設定が、物語らせるリズムをうまく作っている。小説の描写が映像的であるという、僕らの癖を逆手にとったような批判性をも感じさせる構成だ。映画にまつわるエピソードもそれなりにある。そんな僕好みの要素を確認しつつ、「破片」、「Water」と読む。
「最後の息子」では橋口監督の描く軽快な日常ドラマを思い出させ、「破片」においては中上健次を思わせる自然と労働の快楽を感じ、「Water」においては恥ずかしいくらいの青春描写に目頭が熱くなる。この多彩な作家を感じる自分の中へ「今」という時代性を発見できる。それは吉田修一を読む態度の中へ、明らかにコンテンポラリーな感覚を認めようとする自分があり、関係性を描くというデザインに近い行為を、清々しく提示してくれる安心感を認めるからだ。
k.m2002.09.14
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