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ランドマーク



ホームドラマ!を見た。あの「ちゅらさん」を書いた岡田恵和の脚本だ。最近の堂本剛の長髪がいったい何を意味するのか、はたして彼はどこを目指しているのか、その疑問は日に日に増すばかりだった。長い髪ばかりではない。けっこう「ふっくら」してきている。アイドルとしてギリギリではないか。そこまでリスクを背負う意味とは一体何なのだろう。

けれどこのドラマを見て思った。かれは金八先生になりたいのだ。あの長髪は武田鉄矢だったのだ。事故で家族を根こそぎ失ってしまった人々がやがて寄り添うように疑似家族をつくっていく。しかしそこには否応なしに世間の冷たい眼差しが差し込む。常識だとかの既成概念の前では被害者は徹底して被害者の道を歩まされる。哀れみと言う名の排他性でもって共同体から駆除されていくのだ。

しかし我らが金八先生は違う。実は彼自身がもつ「家族像への渇望」からの行動とは言え、排他性を強いられた疑似家族メンバーのぽっかり空いた心の中へ絶妙のタイミングで光を差し込むのだ。兄貴然とした態度は強引さ故、その恥ずかしいくらいに「くさい」セリフ故、妙に身を任せてしまう魅力に変わるのだ。

このドラマは面白い。それは疑似家族のような考え方へ僕らが飢えているからではないか。自分という存在へ適切な距離感を持てなくなってきているからではないか・・。

そんな訳で、吉田修一の「ランドマーク」を読んだ。「パレード」、「パーク・ライフ」に続く3部作との噂(http://d.hatena.ne.jp/solar/20040413#1081812726)もある新作だ。

建築家、と言うか建築を志す主人公がいる。大宮に建設中のビルを現場監理している。自分も先日まで埼玉へ毎週のように現場監理に出かけていたのでちょっと親近感を覚えた。その手のドラマでもそうだが突っ込み所のある展開が見えてきそうな気配で、実際ほくそ笑んで読んでしまう点も多かった。以外と専門用語を多用してもいた。

とても断片的な小説だ。そして終わり方も突然だった。なぜこのような中途半端なものを、最初はそう思った。けれど登場人物達はみなバラバラなようでどこか繋がっていく。それは幾つもの意味ありげなキーワードと共に。

高層ビル、スパイラル、そそり立つ、貞操帯、鍵、打ち放しコンクリート、無柱空間・・・。どのキーワードもそしてどの登場人物も無機質に表現されている。わき上がってくる彼らの共時性は、(彼ら自身の抱える)多くの矛盾なくしては均衡しないのではないか。

共通している所は「現実への無根拠さ」ではないか。建築に関わる者が実はこのような脅迫感に悩まされていることを、意外性でもって受け止めた。目の前に立ち上がる現実を日々つくり上げていくのが僕らの仕事だ。それは紛れもない現実であってまさにその生成に関わっているのが自分なのだ。

けれどその現実も疑いのないものであると同時に、自分が必ずしもそこへ関わっていることを保証してはくれない。言い換えれば自分がそこへ関わっていなかったかも知れないという、脅迫感のようなものから逃れられないのだ。

登場人物達は皆その脅迫間を共有しているようだ。誰もが目の前の現実へ参加しているのにも関わらず同時にそれは存在する理由を欠いているように見えるのだ。そしてそれは先の見えない渇望となってあらわれていた。

疑似家族にも同じような脅迫感を覚えた。「かけがえのない」存在をなくしたことと「かけがえのない」という現実への不確かさが浮き彫りとなった状態。既成概念からの解放と喪失からの恐怖。

大きな物語の喪失。あるいはこのように表現されるものなのかもしれない。けれど哲学がそのように名付けてみても、ドラマや小説が感情へうったえて来るものを、言い換えることは出来ないのではないか。2004-04-23/k.m

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カテゴリー-小説