社会派映画が作られないのは、個人の状況と社会の状況が分断されているからだと、社会学者は巧みに説明するだろう。しかし、『ラザロ』は逆に、社会問題はつねに存在しており、現代日本の映画人が見ないふりをしていることを証明している。さらに、これが隆盛とされる日本映画界の外側においてつくられたことに、大きな問いがあると指摘。
上記、柳下毅一郎の映画評を引用していた五十嵐太郎のサイトをみつけ、この映画が見たくなった。今日はアテネフランセに行くつもりだったけど止めてこっちにした。この映画は以下の3部作になっている。
アップリンクの小さなシアターで一気に見た。10人強の人数で3時間以上も同席しているからか、「どうでした?」みたいに話しかけたくなるような気分だった。
いやー。それにしてもスゴイ映画。感動したし鳥肌も立った。社会問題とされている格差や貧困、グローバリズムなど、若者を中心に登場させたフィクションとして描くことで、とても鋭いリアルな描写となって迫り、心の内部をえぐられるような気分だった。
ドラマの構成や映像の完成度も高く、商業映画としても充分ブラッシュアップさせることが出来そうだ。けれど実態は20人入れるくらいのシアター。(ポレポレ東中野からのリバイバル上映とはいえ・・)。こんな映画が多くの人に見られて話題になれば社会は変わるのだろうか。それもまた希薄な夢想だし、なにより多くの人を魅了する(メジャー嗜好な)作品でないことは確かのようだ。
渋谷の駅から10分以上歩くこのシアターまで、汗をびっしょりかいた。けれど外の狂った暑さ以上にこの映画は熱く、見終わってからも狂気の先にある恍惚としたまばゆさに満ちているような気分で渋谷の街へもどった。2007-08-14/k.m
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