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ファイト・クラブ



なかなか面白い。デビットフィンチャーの作品で、ブラピといえば、セブンなんですけど、こちらはだいぶ系統のちがった作品ですね。映像の見せ方などは、独特のセンスというか、MTVばりの軽やかさというか、その時代性にのった表現が、脚本へとはまっていてよかったです。

アメリカは、日本の先を行く高度「消費」資本主義社会なのだから、この映画に現れている状況がフィクションとは思えないくらい近いものに感ます。そこでは確かに、不眠症が人生最大の問題になろうかと思われるし、それを解消するカタルシスが「何々ガンの励ます会」だというのも、またそれをカルチャースクールなんかと同等に利用したりして、ひょっとすると会のメンバーのうち半分くらいはそんな連中ばかりではないかと思わせるのも、実はもう現実なのかな、と・・。

そしてその先に現れてくるモノが、ファイト。殴り合い。身体の破壊行為。戦争は訪れないけれど、戦闘的な日常は築けると言うのだろうか。身体の破壊を通して、「生」がリアルな実体となって浮かび上がるのか。エドワード・ノートンが消費社会の象徴、生きながら死んでいるのだとしたら、ブラピは破壊の象徴、生のリアリズム?。

カタログ社会。ブランド社会。マニュアル社会。退屈な平和の先には、退屈な終わり無き消費のサイクルが巡る。もはや消費すら快楽ではないと、ランデイーさんも言う通り、快楽としての非日常を求める気持ちは行き詰まりを見せています。

社会問題とは、それ自体が問題であるという、自明で退屈な解釈こそが原因で、再生産されているモノなのかも知れません。複雑なモノなどではなく、自明な問題こそ厄介で無くならないのでは?。

共同体意識に問題の原因を見つけて、ある新しい運動に出て、時期襲ってくるものは、新たな共同体でした。分裂した自分が快楽の象徴だとしたところで、自我を揺るがし、破壊へと導くはずが、一時の「生」を感じさせる冒険へと終わっています。もう超自我ですら、ここでは一つの商品へとなってしまう日が近いのかと思わせるモノがありました。ブラピが象徴ではなく、商品へとなった先には、どんな快楽が人を満足させるのでしょうか?2001.05.31k.m

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カテゴリー-映画