スーパーフラット


  • この項目については、いろいろと付け足したい。とりあえず。項目まで・・。

渋谷パルコの「スーパーフラット展」へ行きました。なかなかオタク系な人たちでにぎわっていて、個人的にかなりインパクトありました。レクチャーもあったのですが、情報不足で見られず。東氏による、思想史的文脈が今後どんな展開をみせていくのかちょっと気になりました。

オタクとサブカルチャーの違いはまだよく分かりませんが今後探っていきたいです。一般的に社会性のなさを批判されるのが、オタク系のほうだとなんとなく認識しています。 もちろん、ある秩序をカッコにいれて物事に追求することは、一般的なことと思いますし、社会性云々はまた別の問題ですね。

そんなことを言ったら、社会性という秩序にしがみつくあまり、何をしていくのか見いだせない大人のほうがある意味寂しいだけの人生。

しかし、彼らを生理的に受け付けにくい点では、ちょっとまえのヤマンバ系にも通じるものがありますが・・。2000.05.30k.m


分かるということが、ある境界なり線引きなりを設定することならば、あらかじめ自分の中にある価値形態を組み合わせた認識ということなのでしょうか。人を卑下して自分の存在を認識するような差別も、はたしてそんな分かりたい欲求からくるのでしょうか。

言葉があるおかげで、存在できていることは多いですよね。最近気になったのは、「フーリガン」。あれも呼び名があるおかげ(?)で存在が増幅されています。ランク付けまではじまる騒ぎは、すでに十分キャラ化した証拠ですね。日本でのワールドカップでは、「渋谷フーリガン」とかも登場するかもしれません。

「ガングロ」だってそんな言葉のおかげで、本来理解不能な世代までも、彼女たちを語ることを可能にしています。今の世の中、分からない現象ばかりですが、少しでも分かりたい欲求はみな持っていると思います。

「スーパーフラット」がそれらの現代的現象を、「分かる」或いは「分ける」キーワードになり得るかは、まだ「分かりません」が、少なくとも僕にとっては、共感出来るキーワードでした。

同時代的な、社会性のなさ。政治に無関心であると言うよりも、政治的話題を支える社会的基盤が、ウソっぽいと思います。関心が持てないのは、そちら側にも原因があるのですが、あまり議論されていません。

平和で成熟した社会で、共通の基盤が見いだせないのは、当然の成り行きです。あらたな共同体意識をさがすのでもなく、ただ今が楽しければと意地になるのでもなく、静かに混迷の時代を生きて行くには、ただ「分かる」ことが決め手なのかもしれません。そこには大きな欲求があるのだと思います。2000.06.25k.m


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最終更新:2009年03月25日 01:39