Françoise Hardy @ wiki

MA VIE par Françoise Hardy

最終更新:

mingus

- view
メンバー限定 登録/ログイン



私の人生

フランソワーズ・アルディ

(SLC誌 1965年2月号より)


私は、1944年1月17日21時30分、パリで生まれました。お母さんによると、空襲警報の最中だったとのことです。つまり、サイレンの音で生まれてきたのです。この点について、好意的かそうじゃないか、ジャーナリストの方々がどちらの視点で記事を書けるか、容易に想像がつきます。両親はオマール通りの、キッチンとバスルームの二部屋しかない、とても質素で小さなアパルトマンに住んでいました。私が18歳まで暮らしていたのはそこだったのです。18ヶ月年下の妹ミシェールも同様です。お母さんは、パートタイムで会計の仕事をしながら、私たち二人を育ててくれました。子供の頃の一番古い記憶は、私と同じくらいの大きさだったと思いますが、一体の人形についてのことです。彼女はジョゼットという名前でした。『ママン』と声を出すことが出来て、横に寝かすと目を閉じたり、おねしょまで出来たのです。人形と言えば、ジョゼットの家系はずっと続いていました。つまり、私の最後の『子供』は、私がもう大きなリセエンヌになって第3学級にいた時、クリスマスの日にプレゼントしてもらったものだからです。ブロンドのエティエネット、褐色のゾエ、それから、私が憧れのジョルジュ・ゲタリーにちなんで名付けたジョルジュという大きな赤ちゃんもいました。

ラ・ブリュイエール校の最初の登校日に私を見送ってくれたのは、ジョゼットでした。私はここの第12学級に入学しました。このミッション・スクール(三位一体修道会によって運営されていました)で、私の最初の先生だったのは、マダム・マリエでした。もうお亡くなりになってしまいましたが、優しく、包容力があって、母親のような女性だったのを今でも覚えています。私は彼女と仲が良かったのです。私は大人しくて、勉強熱心でした(凄く嫌いな算数に対しても)。罰を受けたことは一度もなかったと思います。学校で一番最初に夢中になったのは、理科の実験や『実物教育』でした。ある時は、パンを作ったり ― もちろん、パン屋さんにあるようなものではありません。生地はチョコレートの紙に包んで焼いたのですから ―、またある時には、湿らせた脱脂綿でレンズ豆を発芽させたり。一言で言うと、これは今でもまたやってみたいと思う刺激的な体験です。木曜日、妹と私にはある決まった行事がありました。母方のおばあさんに連れられて、チュイルリー公園かトリニテ教会に散歩に出かけるのです。私の方は、トリニテ教会の方が好きでした。そっちの方が元気な子供たちが沢山いたし、大人しい小さな女の子にとっては、他の子供たちの騒々しい(それと、禁じられた)遊びの方が、ずっと魅力的だからです。この毎週木曜日にトリニテ教会に行っていた時、間違いなく何度か ― 一度も話しかけたことはありませんが ― コクトーがダルジェロと呼んでいたような、あの元気な男の子を見かけていたと思います。広場で我が物顔に振る舞い、グループの紛れもないリーダーとして長い間そこを陣取っていたこの手に負えない子、ジョニー・アリディを。最近になって、彼とその頃のことについて話をしたのですが、とても驚いたことに、もしその当時知り合いになっていたら、敵同士になっていたかも知れないのです。というのは、私の知り合いだった唯一の男の子たちは『ブランシュ』のメンバーで、それに対して、彼の方は敵対するグループ、トリニテ族のリーダーだったからです。何が原因で、二つのグループは敵対関係になっていたのでしょうか?それぞれの陣営がお互いから1ブロック分の距離を置いていたので、取り返しのつかないくらい異邦人嫌いの二つの部族の間では、縄張りの境界線がちゃんと決められていなかったという問題があったのです。私の方は、敵対行為に参加したことは一度もありません。私にとって、日曜日はもっと大人しい日でした。私たちは、北駅から汽車に乗って ― 煙と蒸気と沢山の煤を吐き出す本物の機関車の付いた本物の汽車です ― オルネー・スー・ボアで降り、そこにいた祖父母の家で一日を過ごしていました。私は授業の『復習』をするため、よく教科書を持って行きました。一方、ミシェールの方は、家でもっと自発的に勉強していました。私たちはまれに髪をつかみ合ってケンカをしましたが、その理由のひとつは、彼女は勉強をする時にいつも大きな声を出していたからです。そのことには凄くイライラさせられました。それでも、やっぱり私たちは世界中で一番の親友同士に変わりはありませんでした。私たちには秘密の暮らしがあったのです。それが存在するとは誰もが想像だにしない私たちだけの世界です。夜が更けた私たちの部屋、お母さんが私たちは眠っているものだと思い込んでいる時、私たちは別の時の中にいたのです。そこにはもうミシェールやフランソワーズはいませんでした。待ちかねたいつもの夜、魔法に呼び出されるのは、マダム・キャフェティエ ― これは彼女 ― そして、マダム・デヴァン ― これは私 ― だったのです。私たちにはそれぞれ、随分と心配を掛けさせられる子供がいました。子供たちがそばで眠っているので、小さな声で、私たちは彼らのことやその将来のことについて語り合いました。彼女の男の子は私の子よりも綺麗で、私の子はより素直でより働き者の男の子でした。だから、私のお店を引き継ぎたいと後になってこの子がこっそり言ってくれるんじゃないかという望みを抱いていました。そのお店では、私は ― 日によって ― ミルクやチーズや香水を売っていたのです。私たちが住んでいたのは、普通のお家ではありませんでした。私たちそれぞれが持っていたのは砦……、動く砦でした。お互いと戦い合うにはうんと実用的です!

第6学級への進学試験に見事合格し、そこから第1学級までは、勉強での問題は全然ありませんでした。ところが、規定が改定されたこの年に、バカロレアの試験に合格してしまわなければならず、口述試験を受けなくてはいけないことを考えると、物凄い恐怖のどん底に突き落とされた気がしました。私の考えは間違っていました。というのも、私自身驚くほど簡単に一次試験に合格したからです。哲学の授業では、特にマドモアゼル・シャイユーのことをよく覚えています。彼女は、物理や化学それと特に天地学と同じく私が毛嫌いしていた質料について、興味を持たせてくれました。それから、二人の仲の良かったクラスメート、ミシェール・ボスク(彼女はバカロレアの二次試験に何度か失敗してしまいました)とモニーク・ボケー(彼女は『文学』の分野で勉強を続けました)のことも。私はラ・ブリュイエール校のかつてのクラスメートたちが集まる時にはいつも顔を出しています。そうして、クロディーヌ・スィエが結婚したことを知りました。それに、マリー=フランソワーズ・ショップフェールが1963年に交通事故で亡くなったことも……。このようなニュースを聞くと、私はまだ、心の中では、昔のクラスメートたちのそばにいるんだと身をもって感じました。実際、私がここで記憶を呼び覚ますことの出来る人たちは、私に恐れを抱かせなかったからこそ、私が選んだ人たちなんだと気付かされます。

この学校は、それでも十分『お金持ち』のための学校でしたが、どちらかと言えば貧しい家庭に生まれ育った私も、そこでは良い生徒でした。今考えると、ちょっと甘やかされ過ぎたかなと思います。それが私の勉強や私の質素な家柄のせいだと考えると、断り切れないのですが、時には何とも言えない不快感を覚えました。私は、母親に厳しく『管理された』女の子でした。ひとりで外出したことは一度もなかったし、ハイヒールを履く許しを得たのも、私が哲学を習っている時期だけでした。夏休みには、決まって(7歳の時から)オーストリアに行き、インスブルックの近くにいる私たちのお友達ウィスラー家の元でよく過ごしていました。この家族の子供たちと一緒にいるうちに、いつの間にかドイツ語を覚えて行きました。旅行や外出は私が率先して出来るものではありませんでしたが、その代わりに、読みたい本は十分早い時期から自由に選ぶことが出来ました。14歳の時、シモーヌ・ド・ボーヴォワール(『マンダラン』、『招かれた女』、『他人の血』)、バルザック、ロマン・ロラン(『ジャン・クリストフ』)、ジュリアン・グリーン(『アドリエンヌ・ムジュラ』)、そして、もちろん、アルベール・カミュ(最初は『異邦人』から)も読みふけりました。母は、バカロレアの二次試験 ― これは『良』の評価で合格はしたのですが、評価点が全くないよりも見劣りしているように思えました ― の後の余裕も見てくれました。つまり、軽率にもパリ政治学院に入ったのは良いけれど、怖じ気づいて2週間でそこを出た挙げ句、その後、フランス語、ドイツ語、歴史学を勉強するために、ソルボンヌに入ったのです。最後に、お母さんには、私の音楽に対する欲求を邪魔せずにいてくれて、今でも感謝せずにはいられません。バカロレアの一次試験の後、私はギターを手に入れ、余暇のほとんどを、それまで聞いたことのある歌から何も借りることなく、メロディーやメロディーのかけらを生み出して過ごしました。とは言っても、我が家にはずっと後 ― 私の第3学級の頃 ― になるまでラジオすらなかったし、私たちは聞くこともほとんどありませんでした。どうやっても『作曲』とは呼べそうにもない試みには、私たちの家のキッチンという場所が基本的に用意されていました。冬には温度が一番暖かくなる部屋でした。夏もそこで演奏するのが好きでした。そこのタイルで音に思いがけないボリュームが出るからです。キッチン(またはバスルーム)は、ちょっとした自然のエコー・チェンバーになるのです。あえて一言付け加えると、私が好んで歌を作ったのは、いつもこの部屋でした。最初にこのキッチンから出てきた歌 ― 歌詞も曲も ― は、« Tu es passé sur la route » というものでした。私の作る曲は、たちまち、週に3曲か4曲の割合で増えていきました。毎週木曜日には、お母さんがルーヴル・ホテルにある『モカ・クラブ』まで私に付き添ってくれました。そこで、他の大勢の若い作曲家兼演奏家兼ギタリストと同じように、私も週替わりの3曲で『賭けて』みたのです。この昼間の余興は ― 私は『子供っぽい』と書くつもりでしたが ―、十分楽しめるもので、小さな奇跡を見にそこにやって来る一般のお客さんなんて誰もいないというのは、私の目には、素晴らしい原理原則として映りました。観客は、私たち自身でした。私たちのお母さん方は、ひけらかしなどすべきではないということを良く知っていました。私が歌に対する意欲を抱き始めたのは、間違いなく、そこの場所でした。私の中で歌に真剣に取り組みたいという欲求が生まれてくるのを感じました。そして、ある日、『噂好きな人のためのゴシップ誌』を読んでいると、大手レコード会社のパテ・マルコニーが若いアーティストを求めていて、出来るだけ沢山の人をオーディションしたがっているという内容の広告が目に入りました。少しも自慢にはなりませんが、私が受けようとしていたオーディションが、その後、誰の目から見ても実り多いものになったとしても、びっくりするくらいつまらないこの出来事については事細かく話そうとは思いません。もしある女の子がひとりっきりでオーディションを受けて、成果を上げられず、失望に向かいつつあるというのでなければ、私自身の例をひけらかすのは、あまりにもためらわれます。これについて言えば、夢は99.99%崩れてしまいます。そう、まさしく、私のキャリアを決めたのは、この広告記事ではなかったのです。私を立ち止まらせるのに十分であったかもしれないこのオーディションの失敗でもなかったのです(『あなたはマリー=ジョゼ・ニューヴィルに似すぎていますね』)。私が、自分のデビューに関するこの初めての失敗のエピソードを思い起こすのは、それが単に、私の人生の中である大切な瞬間を刻み込んでいるからです。それは、自分のギターを手に持って、お母さんにあるお願いをした時のこと:
― 準備はいい?そろそろスタジオに向かう時間よ、あの有名なオーディションを受けにね……。
― いいえ、フランソワーズ。ひとりっきりで行けるでしょ。上手く行くといいわね……。
こうして、私は知ったのです。自分がもう小さな女の子ではないことを。


F.H.


目安箱バナー