感性工学

情緒工学から感性工学へと、古くから関わってこられた長町先生は以下のように感性工学を定義しています。
「人間がもっている願望としてのイメージや感性を、物理的なデザイン要素に翻訳し、具体的に設計する技術」のことをいう。


メモ


しかし、感性工学の定義も、サービス工学の定義も、エクスペリエンスデザインについても、言葉の抽象度が高いせいか、ふやぁっと誤魔化したように世の中に流れてる。ボクの中では全然しっくりこない。
そうか・・・そういう時は自分で定義してしまえばいいのか!ある概念を作る時に、誰かの意見に収束していくなら、それが僕であっても構わないわけだ。というアウェアネス。
まぁ、棚橋さんの本を読んで、そうそうとか思ったわけで、いったらパクリみたいなもんです。まぁ、自分なりにとりあえず書き出してみた~第一弾なわけです。もう1度、棚橋さんの本を読み返して書き直さないとまずいけど、とりあえず第一弾。

モノ作りやサービス、マーケティングでも、モノからコトへという流れに随分前から言われている。けれど、コトを考えればそれでいいのか?いやいや、ダメですよね。コトを提供するには、モノやサービスを提供する人。つまり資源があってなりたつのだから。

例えばその1:携帯電話
「いつでもどこでも自由に知り合いと連絡がとれること」を提供してる。しかし、携帯電話、ネットワークインフラというモノがあってこそ提供できるサービス。

例えばその2:美容室
「お客様を美しくすること」。ユーザはモノを何ももらわない、自分が変わることを提供される。そこには腕のたつ美容師がいて、パーマ機があって、清潔でクールな空間というモノがある。

繰り返しになるが、いくら良いコトをデザインしようと、それを支える適切なモノがないと意味をなさない。コトは、物理的なモノによって支えられている。それを忘れて、コト化、コト化なんて言っても仕方ない。

例えその2の美容院、もし美容師が無愛想な態度ならどうだろう?
腕はたつけれど、ユーザはこの美容室に満足することはあるだろうか?
「お客様を美しくすること」その目的を店がかがけ、ユーザが美しくなることを目的に来店する。しかし、無愛想な態度に気を悪くしたユーザは当初の目的など忘れて、あの店はダメだというかもしれない。美容師はモノではないが、サービスを提供する物的資源と考えるならば、やはり適切なモノがコトを支え、サービスを提供するために必要となる。
そう考えると、サービス分野で有名なディズニーランドは、コトを作るために空間まるごと演出したり、良い従業員をおいたりと、モノをうまくデザインしてコトを提供している。

美容室やディズニーランドでお客が提供されるのは、コト。
そして、ユーザはコトの体験をする。サービスの定義はあるが、それを支える要素は多い。結局一言でいうと何なの?それに、エクスペリエンスデザインについてどうもしっくりこなかった。良いサービスを提供する、良い体験を提供する、それは良いコトを提供することに変わりない。そして、良いコトを支える適切なモノの存在がある。エクスペリエンスデザインってなんのことはない。コト化のことだったんだね。

サービスはユーザの目的を叶えるコト。そのために物理的環境やモノを与え、ユーザ自身、もしくは従業員が行動を起こす。
例えばボーリング場なら、「楽しく遊びたい」という目的を叶えるために、従業員はピンとボールと靴とレーンを用意し、ユーザは与えらたモノで自らの目的を叶える。このとき、従業員にとってコト化は「ユーザに楽しんでもらうコト」。ユーザの目的を叶えること(サービス)に加えて、エクスペリエンスデザインという良いコト化を考えて、そのための物理的資源を提供すれば、ユーザに価値あるコトを提供できる。

一度まとめてみる。
サービスはユーザの目的を叶えるコト。
エクスペリエンスデザインは、その目的を達成する適切で喜ばしいコト化を考えること。そして、何度も言うがコト化を支える物的資源の良いモノが存在することを意識する必要がある。

(※サービスがユーザの目的を叶えるコト、すなわち何でも内包する一番抽象度の高いことで、それを工学でくくるというのがまず気持ち悪い。だからサービス工学なんてものは作らないほうがいい。コトをデザインして運営する、考えてみればマネジメントだ。経営工学になるんじゃないのかと思う。
ただ、経営工学は何か僕は知らない。マーケティング戦略やお金の絡んだことが入ってくるのだろうか?お金の面を切り離したら、ユーザに直接関係しないことがらをはずしたら、サービス工学になるのか?
工学は、製品などを発明することを主な研究目的とする学問の総称らしい。だとすればモノの話だ。サービスはコトの話で、工学の外側にある。僕らは概念を広めて、工学にこの要素を内包したら良いのだろうね。そうだ、そうしよう。あー、気持ち悪さがとれた。)

次にエクスペリエンスデザインの話。
上ではエクスペリエンスデザインが目的を達成する適切で喜ばしいコト化としたけれど、これをインタラクションとの関係から考えると少し違ってくる。例え使いがってが悪くても、未だ体験したことないインタラクションはエクスペリエンスデザインになるだろう。

これは普段の生活をささえる製品やシステムには適用できないけれど、ゲームや学習システムには適用できる。例えば、Wiiは新しい操作とそのインタラクションを提供するエクスペリエンスデザインだ。ツールとして使いやすいかどうかではなく、使いこなすことが面白く価値あることに繋がる。楽器がよく例にだされるが、ピアノなどの難しい楽器操作をなぜ人間は行い続けるのか?それは達成感がこの上なく価値のあることだからだろう。

話を戻す。僕の頭の中でエクスペリエンスデザインが混在していた。言葉に惑わされていたのか、なんて当たり前なことだったのだろう・・・

1.良いインタラクションで作る(良いモノで支える)エクスペリエンス。
こっちはユーザビリティが必要。目的を達成する適切で喜ばしいコト化。

2.良いか悪いか判らないインタラクションが生むエクスペリエンス。
受け入れられなければ消え、受け入れられれば良いインタラクションとして定着する。目的を達成する、未体験の提供。


ところで、インタラクションは人間とシステムやモノのインターフェースとのやりとり、反応、相互作用のこと。ユーザに対して適切な対応、もしくは喜ばしい(喜ばしいという表現があうかは判らないけれど)対応ができているかを考えればよいのかなと思う。
何も難しい話をしているわけじゃない。これって人間と人間がするコミュニケーションのことでしょ。つまり、「インタラクションはコミュニケーションと同義だ」と言い切ってしまえばいい。そもそも人間同士のインタラクションが究極のはずだ。それを機会に代役させようっていうのだから、インタラクションなんて言わずに、機会とのコミュニケーションで良かったんだ。

良いインタラクション、つまりは良いコミュニケーションを考えればいい。良いコミュニケーションとは、相手の言いたいことが判って、こちらの言いたいことも簡潔に伝えられて、そこに知識があって、その知識を駆使した面白い会話できる。そういうことじゃないのか?
相手の要求がわかる。理論的かつ効率的に話せる。楽しさを与える。知識を共有昇華できる。この4つだ。これさえあればコミュニケーションもインタラクションもうまくいき、ユーザに満足してもらえるはずだ。

最後に感性工学の話、満足ってのが感性工学の追い求めてるところではないのか?負の感情をも含めて考え出すのは、少し違う気がする。-から0にすることは問題解決であって今までやってきたことだ。そうじゃなくて、0から+、+から++という良い面を見つけて、それらを伸ばし、満足度を上げることこそ感性工学の進む道じゃないのか?。その上で、どういう満足の仕方か、その要因はなにかについて調べる。それはつまり、コミュニケーション(インタラクション)の追求になる。

最終更新:2010年07月01日 11:58