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第十五話 「二対の影」

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 『Diver's shellⅡ』


 第十五話「二対の影」



 翌日、ジュリアとクラウディア両名は愛機の修理に勤しんでいた。
 時間をかけてゆっくり潜ったなら大丈夫かもしれないが、急激に超深度へ降りたのなら、破損して当たり前。高い強度と耐圧性を持ち合わせても、限界はある。壊れぬ機械など、無い。
 触手を振りほどこうとして限界以上の力をかけた腕関節部にも損傷が見られた。
 それらの修理費は高額だったが、遺跡で引き上げたキューブを売却すれば十分賄える金額だったので、今回の仕事はまぁ成功の部類に入ると言える。最悪なのは死だ。
 潜水殻(耐圧殻とも呼ばれる)に異常は見られないかを一通り調べた二人は、続いて腕の修理に移っていた。
 修理不能な部分すらあった関節は、やむを得ず交換することにした。修理が難しいのをわざわざ手間をかけることはない。労力の無駄遣いになってしまうからだ。
 潜水殻、腕、各部油圧、電池、スラスター……。
 全てを確認して整備修理し終わってみれば、朝昼通り過ぎておやつの時間になっていた。軽食をとった。冷凍ピザだった。
 その後、リビングの机で、ジュリアは砂糖のみを入れたコーヒー。クラウディアはミルクと砂糖をこれでもかと投入した激甘コーヒーを飲む。談笑を挟みつつ、ついこの前購入したサクサクのクッキーを食べた。
 一杯目のコーヒーを二人が飲み終えた直後、ぴろぴろと妙な音が響いた。

 「? 着信かな」

 ジュリアは、自分の携帯電話をとった。通話とメールの着信音が同じ、つまり初期設定のまま変えていないために、どっちがどっちなのか判別出来ないのだった。
 メールだった。差出人を見たジュリアは、指をはたと止めた。その人物は、動揺を誘うに足りる人物だった。赤の双眸が見開かれる。
 オルカ=マクダウェル。
 様子の変わったジュリアを不審に思った――予想は出来ているが――クラウディアは、足に車輪でもついているようにするする床を歩き、背後に周った。

 『逢いたい』

 たった一文が、携帯電話の画面に映し出されていた。
 背後にクラウディアが移動したことにやっと気が付き、携帯電話のメールボックス画面を終了させてポケットにねじ込み、暗青色の髪の頭を腕で締める。レスラーも真っ青な鮮やかさであった。

 「むみゅ!?」

 クラウディアが猫に冷水を浴びせたらこんな声を出すであろう声を上げた。
 首を絞めると大きい胸が背中辺りに押しつけられるものだから、余計に腹立たしい。

 「覗き見するとは、許せないな」
 「いたたたたたた! いやぁーん!」

 ぎりぎり締める。
 首をへし折ってやろうと結構本気で考えたが、やったら殺人になるから止めた。気道を塞がないが首は痛いという絶妙の力を加える。
 痛い痛いとクラウディアは連呼してもがくが、万力のように締められた腕から抜け出せない。顔に血が昇って赤くなってきた。

 「ぎぶあーっぷ!」
 「ごめんなさいしないといけないよね?」
 「ごめんなさいごめんなさい!」
 「よろしい」

 久しぶりに主導権を握った。相棒の頭をフットボールを小脇に抱えるように拘束して、ついでにぺしぺし叩く。じたばたする体を押さえつけられたのは、あくまでじゃれあいだからだ。
 謝罪をもぎ取れば、もう離してもよかろう。
 ジュリアが腕を緩め、クラウディアを解放した。クラウディアはげほげほ咳をしながら立ち上がると、ジュリア目がけて拳骨を振りおろした。

 「……おっと!」

 頭を前に傾けた、次の瞬間、拳骨が頭のあった場所を殴りつけた。計算された回避だった。
 クラウディアは頬を膨らませながら、ジュリアの隣に腰掛け脚を組んだ。程よく肉のついた脚線美が披露されるものの、相手がジュリアでは何の意味も無い。

 「そこは殴られるべきなんじゃなーい?」
 「覗き見する奴が悪い」

 鼻を鳴らし、腕を組むジュリアの横で、クラウディアがにたにた笑った。全ては予定調和とでも言わんばかりだった。

 「そーねぇ、だってよりによってラヴメールだもんねぇ」
 「!?」

 唾液吹いた。
 コーヒー風味の唾液を盛大に吹き、さっと手で拭い、クラウディアに飛びかかる。この間僅か一秒。韋駄天級の早業で、クラウディアの両肩を手で捕縛した。
 クラウディアをがくがくと揺さぶるジュリアは、必死だった。

 「ラヴじゃない、会いたいって書いてあっただけ!」
 「逢いたい、たった一文だけど、ラヴじゃないのぉ?」
 「違う!」
 「戦わなくちゃ現実と~♪ オルカ君はジュリちゃんが好きなんでしょー」
 「………ッ」
 「素直になればいいのに」

 言葉に詰まったジュリアの頬を、クラウディアが優しく撫でて、黒髪を梳かす。ジュリアは目を逸らし、床に興味深いものがあるかのように振る舞った。
 両手から力が抜けていくのを感じる。脱力感と虚無感がふわりと忍び寄ったが、よく観察すればそれは安堵にも似た心の熱だった。
 手が肩から滑り落ちた。
 主導権を掌握したのは一瞬だけだった。

 「ジュリちゃんは何に恐れているの?」
 「………怖いものなんて、ない」

 単純で抽象的な質問であるはずなのに、答えに窮する。クラウディアの大きい瞳が、真実を映す鏡のように思えてきて、どうしても視線を合わせられない。
 怖いもの。それは命をつけ狙う輩や、死ぬこと、病で苦しむこと、老いること、心霊的なこと、それの類とはまた違ったものを指しているというのは分かっても、具体的に言葉に出せない。
 だから精一杯見栄を張る。急所を守るために言葉の盾を構える。

 「本当に?」
 「………」

 また、答えられない。
 口を塞ぎ目を閉じ耳に栓をして、逃げ、そうすることで逃亡し続けてきた故の罰なのか。ジュリアは迷いなく前だけ見据えられる人間や、悪いことを良い教訓として学ぶ人間が羨ましかった。
 沈黙したジュリアを見たクラウディアは、そのポケットから携帯を奪い取り操作、勝手にメールを始めてしまった。あ、と反応する暇も無かった。

 「ちょ、何をして!」
 「はいはーい、黙ってて」

 クラウディアが打ちこんだ文は一文だけ。問題は、宛先がオルカだった点だ。
 余り鮮やかに文を打ちこんだものだから、携帯電話を奪還してメールを送らせまいとしても手遅れだった。メール送信完了の文字が憎々しい。
 ジュリアはクラウディアを、鋭い視線で突き刺した。だが糠に釘を刺すようなもので、まるで手ごたえが無い。むしろ睨まれて喜んでいる気がしなくもない。
 クラウディアは、ジュリアの頭に手を置いた。ジュリアが委縮した。背を丸める。

 「メール、返ってくるんじゃないかしら」
 「……そんなに早く返ってくるわけ……あ? 着信……?」

 ジュリアは、文句や皮肉を詰め込んだ口撃を加えんとしていたが、携帯電話が着信を告げたのでままならなかった。携帯電話を手で包むようにしてメールを開き、読む。
 画面には一文が丁寧に並んでいた。
 ジュリアの頭から手を離したクラウディアは、答えを知っているように笑みを浮かべていた。本当に、悪意抜きの笑顔だった。

 『煙突の工場で』

 煙突の工場。
 それはかつてジュリアとオルカが遊び歩いた一つであり、今は動植物に管理されている廃屋のことである。街を見下ろせる場所にあり、工場から突き出した二本の煙突が印象的だったことから、当時はそう呼んでいた。
 その地名が書かれているということは、これしかなかった。

 「アイツが呼んでる」

 クラウディアがその携帯電話を手にとって、ポケットに入れてあげると、手を振り上げた。そして、大まか四十五度の角度から、ジュリアの肩をぱしーんと叩いた。
 遠慮なく叩き下ろされたその衝撃たるや、ジュリアの細い体が飛びあがり、肩に紅葉を印刷するほどであった。口を尖らせ怒りを露わにする。

 「痛っ!? このヤローなにすんだ!」
 「行ってきなさいな。帰りにおいしいケーキでも買ってきてね」

 ちょっとコンビニでアイスクリーム買って来てね。
 もう、そのくらいの軽い一言がクラウディアから紡がれ、ジュリアは絶句した。馬鹿かこいつはと叫びたかったし、仕返しに肩を叩いてやりたくもあった。だというのに、これだ。
 クラウディアはひょっとして大物なのかと、今さら思った。
 拳をぎゅっと握る。爪が皮膚に食い込み、血を押しのけた為に白くなる。女性的な長方形の爪の中央も、白くなる。
 そしてジュリアは金魚のように口をぱくぱくさせて、頭を掻き毟った。

 「………あ゛―…………くそっ……」

 握った拳で自分の腿を叩き、両足を床にぶつけるように立ち上がる。
 時間は既に夕方。今から煙突の工場に向かうとすると、帰りは間違いなく夜に食い込むことは確実。
 でも、行かなくては。

 「後で覚えてろよ!」
 「ごめんねぇ~、お姉さんトリ頭だから寝たら忘れちゃうの~」

 その会話はとても外出する時のものではないが、彼女らがすると違和感が余りない。ジュリアは、玄関に駆け込みドアを破壊する勢いで開け放つと、全力で街に消えた。
 遅れてドアが閉まった。
 クラウディアはコーヒーメーカーから自分のカップに注ぎ、砂糖とミルクを多めに投入して、金色のスプーンで底をさらうように掻き混ぜた。苦みが隠されて、カップの中でマーブル模様を作る。
 そのコーヒーを一口飲むと、椅子の上でほっと溜息を吐く。暖房器具のお陰で寒くないが、心が冬を感じて温かいものを飲みたくなるのだ。

 「恋って、いいなぁ……」

 クラウディアが青春を思い出している老婆のように呟く。そしてカップを置き、夕日で朱に染まった外の景色を見遣った。美しいが、憂いを抱いているようにも見えた。
 勘違いの無いように書くが、彼女は決してモテないのではない。ただ続かないだけだ。こればっかりは本人にも直しようがない。
 何はともあれ今日は一人で夕飯なんだろうなと直感したクラウディアは、コーヒーをごくりと飲み干した。料理が苦手だしピザの出前を取ろう、そう考えて携帯電話を開いた。
 その日はLサイズを一人で平らげた。






 走る。
 全身に命ずる。お前の限界を見せろと。
 そして己に命ずる。今は、前に走り続けろと。
 歓楽街でうつつを抜かす酔っぱらい共の真ん中を突き抜け、走る。妖しげな店が並ぶ地帯を、走る。仕事帰りの人達が群れをなして歩く道を、全力で駆け抜ける。
 冬なのに、暑い。
 爆走する女性を見て、眉をひそめる人もいれば、謎の声援を送る者、反応皆無の者がいるが、全く意味が無い。止まったら失速してしまうのだから、気にしては居られない。
 耳に入らないと言うべきか、見る景色の全てが一本の線であり、それを辿って目的地に向かっている気分であった。
 全身の筋肉が熱くなり摩耗していく。いくら呼吸しても吸い足りず、しかし自分の足が自分の所有物で無いかのように前へ前へ駆り立てる。
 運動すれば、悩みは消えるかと言ったらそうではない。止まらない。ブレーキの外れたトロッコを蹴飛ばした状態と言えば一番近いだろうか。

 「はぁっ、はぁッ、はぁッ、……はっ」

 筋肉が働けば栄養素を消費し、だるさの元である乳酸を産出する。
 全身に汗。息絶え絶え。疲れたからもう止めてしまおうかと考えた。
 けど、きっと待っているのだろうと思えば苦にならない。苦痛ですら前に進む為の燃料となってくる。
 記憶の糸を辿って走っていくと、今もなお人が住んでいるボロ民家があった。爬虫類の内臓を彷彿とさせるパイプ類が縦横無尽に壁に張り付いて絡み合っている。
 ―――……そう、ここを右に曲がったところで童話を歌い始めれば、終わる頃につける。
 銀杏並木の先に、虚空に聳え立つ二本の影が見えた。
 この先に工場があり、彼が居る。
 初めてこの煙突の工場を見つけたのは冬のある日だった。季節は巡り、在りし日の思い出を踏みしめるように、今ここにいる。
 ジュリアは、かつての自分が好きだったその歌を呼吸を整えながら歩き始めた。汗で濡れていたはずの身体は、冬の乾い空気であっという間に乾いていた。
 歌が終わり、目的地への道が終わる。
 大声で呼んでみようと思ったが、暗闇になにか恐ろしいものが潜んでいる気がして、声量が落ちて丁寧になる。

 「……おーい………誰かいな……誰かいませんかー?」

 レンガ造り。昔は大手電化製品メーカーの工場で、煙突は言わば象徴的な意味を持っていたという。つまり粉塵は一ミクロンも排出されていなかったらしい。
 かつてここで人が沢山死んだと宣伝文句をつければお化け屋敷として売り出せそうな暗調の雰囲気。さほど広くはなくとも、夜が不気味さを上乗せする。
 人の手が加わらなくなった建築物は自然に侵食され、朽ち果てる。この工場も例外ではない。
 よく目を凝らして見れば、二本の煙突にも蔓が巻きついていて、あちこちが欠けて表面がボロボロになっている。
 蝶番の片方を失い傾いた鉄製の門を蹴り開け、中に入る。錆びてぎしぎしになった門が哀しく泣いた。どんなに技術が進歩しても、鉄を放置すれば錆びてしまうのは不変であり。
 一歩、一歩、思い出を噛み締めつつ歩く。
 寒い。ジャケットもコートも着てないことをこの場に至って後悔した。
 歯がカタカタ鳴るのをなんとか堪え、工場の奥に進む。三流快活映画のラストシーンで人質を取り戻すために独り赴く主人公の心情だった。
 携帯電話を取り出して、着信が無いかを見る。メール、通話、どちらも無い。時計には八時と出ている。夏ならまだ明るい時間だが冬では真っ暗闇だ。
 目を上に泳がせれば、星空が瞬いているのが映った。
 不規則だった呼吸も徐々に落ち着いて、頭に宿って離れなかった熱も冷めていく。勢いに任せて進めればよかった。冷静になると、過程や周囲の目について考察してしまい、ヒビを見つけ出してしまう。
 その小さなヒビから冷水が入り込み、全てを破綻させかねない。だから目を瞑って走る必要がある。そうすれば、細かいことは気にする余裕がなくなる。
 ジュリアは、痛いほどの沈黙の中で耳を澄まし、一歩、また一歩と足を進めていく。
 その時、工場のどこかで音がした。次の瞬間、闇から染み出す様に人影がぬっと現れた。ジュリアは思わず両手を握りしめた。
 その人物は片手を挙げて見せた。怪しい人物でも野犬でもありませんよと主張するように。

 「遅かったな」

 灰色の髪に優男風貌、黒主体の地味な服装。オルカだった。彼という存在は、ずっとこの場所で生きてきたかのように馴染んでいた。
 丁寧な物言いは消え去って、かつての喋り方がそこにあった。

 「いきなりこんな場所に呼び出しておいて、よくも偉そうに言えるもんだ」
 「でも、ちゃんと来てくれた」
 「………呼ばれたから、来た。それだけのこと」

 オルカは、ジュリアの顔を一瞥すると俯き、突然顔を上げた。今にも泣きそうな顔だった。見てはならないものを見た気がして、ジュリアが目を逸らす。
 見つめ合った時間は、ほんの僅か。
 ぽつり、ぽつり、雨のように言葉が紡がれて。

 「答えを、聞かせて欲しい。もし嫌ならそれでもいい。俺が嫌いなら、それでもいい。今までの関係でありたいなら、それでもいい。もしも、ちょっと付き合ってもいいかな、でもいい。……好きだ、でもいい」
 「………」
 「お願いだから、何か言ってくれ。じゃないと俺はもう駄目になりそうで……一言でもいい、首を振るだけでもいい。頼む」
 「…………」

 一秒が永遠に感じられた。
 ここまで至るまでには血を吐くような葛藤があったであろう。何年もの時間を注ぎ込んだ答えが、今ここでカタチとなった。答えを得る、ただそれだけの事に彼は心を擦り減らしてきたのだ。
 ジュリアが口を開き、オルカが唾を飲み込んだ。赤い瞳が、蜃気楼で作られているように震えて。

 「―――……私は多分……、好き、……なんだと思う」

 やっと、一つの答えが言葉になった。だがまだ続く。
ジュリアの視線が定まらず、あちこちに放浪する。オルカは真っ直ぐ見つめているが、内心は全然真っ直ぐではなく、動揺が大部分を占めている。

 「でも、ずっと友達だったから、…………その、やっぱり、卑怯な女だわ、私。いつまでもうじうじしちゃってさ、……好き、なんだけど、なんだけど……」

 例えるなら、二人の関係は硝子だ。見ているだけなら綺麗でも、うっかりすれば壊れて砕け散るような、脆く儚い関係。加工する際に不純物が混じれば、そこでごみになりかねない。
 ジュリアは目を無理に前に向け、やっと視線を合わせた。吐く息吐く息白く化粧して、夜に旅立っていく。

 「だから、……もう少しだけ、友達の関係でいたい。私はオルカの知らない部分をもっと知りたい。……その答えじゃ、ダメ……かな」

 言うなり、自分が言った内容全てが頭の中でぐわんぐわん大合唱されて。
 オルカは、目の前で地球が半分に割れたのを目撃した宇宙飛行士のように、十秒前後固まったが、じわじわと元通りになり、目に涙を浮かばせた。本人は自覚していない。

 「……ありがとう」
 「感謝するなっ」

 恥ずかしくて卒倒してしまいそうだったが、そんなことはまず無い。卒倒出来たなら、どんなに楽なのだろう。
 何故か感謝の言葉を述べる幼馴染のお腹に蹴りを繰り出す。見事に命中。鳩尾は外したが、突然蹴りを入れられれば、痛くてうずくまる。
 流石にやり過ぎたと感じて、地面にしゃがみ込んだ相手の目線に合わせようとしたが――。

 「なーんてッ!」
 「あっ」

 苦しんでいるはずのオルカが、しゃがもうとしていたジュリアに逆襲した。
 お腹のあたりを突き倒し、上に圧し掛かる。意図したのではない。殴られたからやりかえした。ただ、返事が悪くなかったことが彼を興奮気味にさせていただけだ。
 若さゆえの過ち―――……そう書くと、何か色っぽくないだろうか。
 ジュリアはあっさり尻もちをつき、目を開ければ、上にオルカの顔があった。距離は僅か。鼻と鼻がキスするほどの、近く。絶対的な隔たりと言えば自分と他者という壁程度。
 都合が良すぎても、これが現実。神様とやらは人類に偶然を与えては自分に酔う類の下劣な生命体なのかもしれない。

 「………だめ、待った」
 「………だめ?」

 オルカの両頬に手を置き、やんわりと押す。
 ジュリアの上にのしかかったオルカは、体重をかけないよう、体を触れさせないよう、足と足を広げて空間を作っている。全ては根付いた無意識、理性が成したこと。本能に従えば、こんな面倒で非合理なことはしない。
 やけに大きい風の音。やけに大きい呼吸の音。やけに大きく見える、瞳の中に、自分が居る。
 彼が上に居るために、灰色で長めの髪が彼女の顔にかかっている。昔は短く切っていたこれは、ふと気がつくと伸ばすようになっていたとか。
 もし地震でも起きたら顔と顔がくっ付く。それが横揺れが主でも、きっと。

 「だめ……」

 一線を越えてしまいそうな気がして、紙一枚も揺らせまいという淡き囁きで意思を伝える。限りなく弱いその言葉が声帯から生じて、鼓膜を優しく打つ。
おでことおでこがくっ付いて、むずむずしてならなかった。
 無人の廃工場でなら拳銃片手にドンパチをやっても誰も来ないなんてことは分かっている。大声で叫ぼうがなんだろうが、誰もいないし、覗き見する悪趣味な奴もいない。
 両手で頬を押さえていると、その接地面がみるみるうちに熱くなっていくのを感じ取れるわけで。頬の血管が、どくん、どくん、皮膚を叩いて、指先に脈拍を伝える。
 あと数cmがもどかしい。指の第一関節が入るか入らないか。唇を触れるという、科学的な観点から見れば養分すら摂取できない行為がすぐ目の前にある。
 オルカは、ジュリアの身体が細いこと、唇の血色の良さを身を持って実感することとなり、麻薬をやったように恍惚となったが、しかしその恍惚は理性を孕み、冷めた視点でものを見ることもできていた。
 冷静に考えれば、退くべきなんだとは解り切ったことでも、やってしまえと心の中で叫ぶ自分もいる。どんな人間だって相反する感情を抱くのだ。
 でも―――オルカは、上半身を起こし、ジュリアの隣に寝転んで空を見上げた。きらりと流れ星が空を切り裂き、残像に白線を刻む。
 かつての地球での過ちを繰り替えせまいと、環境管理を徹底した結果星空が克明に見える状態が維持されている。澄んだ風が地上を舐めて、廃工場の埃と劣化したオイルの臭気を二人に届けた。
 凍えそうな気温下、男女二人が仲良く寝転ぶ。

 「なぁ……」
 「……あぁ」

 ジュリアは両腕で枕を作ろうとして、寒くなったので両腕を抱いた。冬に軽装で外出してしまった自分の過失とは言え、体が勝手に震え始めるのでは、辛い。紛らわそうとではないが口を開いてみた。
 だらりと重力に従ったジュリアの髪。その黒は夜によく映える。

「着ろよ」

 寒そうに身を震わせるジュリアを見たオルカが、コートを脱いで手渡した。この間、二人はお世辞にも綺麗とは言えない地面の上で仰向けで寝たままだ。

 「ん、ありがと」

 ジュリアは一瞬躊躇したが、ありがたく受け取りいそいそと羽織った。オルカの温もりが残っていて、まるで抱擁されたようだった。侵入を試みる外気を、温もりが彼女を守らんと立ちふさがる。
 不気味で古臭く危険なはずの廃工場は、この瞬間だけ自宅のベッドよりも居心地のいい場所となっていた。
 ジュリアは、星空に目を向けたオルカをちらりと見て、自分も上を、寝ているから前に向きなおした。飛行機だろうか、チカチカ点滅しながら星空に混じる物体が一つ、ゆらりゆらりと飛んでいた。

 「風邪ひきそうだわ……」
 「そんなことはないと思う。俺の知る限り、このくらいじゃ風邪引かない」
 「でもお腹は壊すな」
 「ぁー……確かに」

 ジュリアが寒さを堪えようと両手をコートのポケットに突っ込めば、オルカは自分の両手を重ね、吐息を浴びせることで暖を得ようとする。
 二人は、どうしてここに来たのかを忘れそうになっていた。正確に言えば忘れるというより、どうでもよくなったに近い。
 自然と口から出てくるのはロマンチックな言葉でも愛の言葉でもなくて、普段するような他愛もない言葉と言葉。奇妙な達成感と、連帯感が眠気すら誘う。

 「一つ………聞く、から」

 ジュリアは、オルカの方を向けないまま、口を開いた。見たら、きっと躊躇いが出てしまうから。

 「―――……私のどこが?」

 説明不足にもほどがある。いつどこでなにを。それすら明白ではない言葉。どこがどうした、すら言わなかった。
 しかし、オルカには伝わった。頭を傾げるような頷きをする。

 「ジュリアはコーヒーが好きだろ。どこが好きだって言われて、苦いのが好きだ、とか言っても、『なんで?』って尋ねられても答えられない」
 「確かに」
 「それと一緒。好きなもんは仕方ない」

 何かを悟ったような言い方で締めくくり、首を真っ直ぐに戻す。
 理由なんかない。道端の石が石であることに意味はないし、空に星が存在することに、究極的には意味なんかない。いわば巡りあわせがそうさせただけのこと。
 顔が赤いのを誤魔化すが如く、ジュリアが鼻をすすった。

 「どうしてそう恥ずかしいことをヌケヌケと言えるんだし!」
 「恥ずかしいよ。死にそうだ。でもさ、男だから言わないといけない」
 「ふん、それは男女差別か?」
 「いいや、意地だ」
 「………意地」
 「意地」
 「オルカは意気地無しじゃなかったんだな。このモヤシめ」
 「はは………割と本気で怒るぞ」
 「よし怒れ、ワトソン君」
 「………今は怒れないだろシャーロック」
 「………」
 「………」
 「寒い」
 「寒いな」
 「とっても、寒い」
 「コート着てるのに?」
 「私は脂肪が少ないから仕方ないだろ」

 びゅう、風が煙突を我が物顔で占拠している蔓を殴った。あまりの静かさに、星の瞬きが頭に響いてくるように感じた。
 大きな雪色の星が拍手するように点滅して、やがて大人しくなった。

 「帰りたいから帰る。オルカは?」
 「明日も仕事だから帰る」

 帰宅の意思を示した二人だが、一向に立ち上がろうとしない。
 冬の日のヒーターから離れられなかったり、早朝布団から脱出できなくて二度寝に突入するときにそっくりだった。
 二人は、どちらが最初かは分からないが、笑っていた。ギャグを見て笑ったわけでもなくて、子犬がじゃれあっているのをみて自然と笑みがこぼれたあの感じと言えば、分かるだろうか。

 「くっくっ……ふふっ、お前さぁ、早く起きろって」
 「はは……、ジュリアが起きればいいだろ」
 「起きたら負けかなと思ってる」
 「じゃあ俺が!」
 「そうはいかない!」

 二人は我先にと飛び起きると、体から汚れを払った。
 夕方から夜へ。冬であるため日照時間は短い。長時間話をしていたわけでもないのに、深夜であるような気すらしてくるほど、夜空は見事だった。二本の煙突が 夜空の一角を占めて、黒のキャンバスに光の粒を散らしたそこを更に黒で塗り潰している。
 吐く息が、揺らめく白色に変化して飛び去っていく。
 ジュリアは、煙草が吸いたいなぁと思ったが、止めた。どっちにしろ持ってきていないのだから。
 先にオルカが工場の外に歩き始め、ジュリアが半歩下がった横を歩く。

 「途中まで送ってくよ」
 「お願いするけど、迷ったら海に落とす」
 「ないない。残りの人生をかけて誓う」
 「…………あっそ」

 オルカに残りの人生をかけると言われた為に心臓がぴくりと跳ね、体の中が痒く感じてしまう。胸に手を置き、送れぬように急ぎ足。
 オルカの長めな灰色髪が、歩くたびに規則正しく動き。

 「私さ―――……」
 「うん」
 「なんでもない。帰ろう」
 「なんだそりゃ」

 ジュリアは何事かを呟き、口を閉ざすと、オルカを押しのけ家路を急ぐ。門を超え、銀杏並木通りの中央を、ゆったりと歩いていく。
 オルカはやれやれと首を振ると、ジュリアの後ろ姿に改めてほう、と溜息をついて、横並びになるように早足になった。
 誰もいなくなった煙突の工場で、人が居なくなったことを見計らったように猫の群れがあちらこちらから瞳を光らせ現れると、思い思いの時間を過ごし始める。
 その日は、そんな風に過ぎていった。






          【終】

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