『Diver's shellⅡ』
「朝夜ロマンス」
いつ、睡眠から覚めたのかは定かではない。
なんとなく自身と、世界の認識が開始されて、ああ今起きたのだろうと理解する程度。起きることに気がつかなかったとも言えそうだった。元より意識することも無い。
深海から徐々に水面へと浮き上がり、飛沫を上げる。意識が亀より遅く脈拍を打ち始め、脳に覚醒の血液が流れ出す。
命がけの縄張り争いを朝っぱらから開始した小鳥の鳴き声と、いつ聴いても哀しいウミネコの唄う声を耳が拾った。
ユト=シーゼンコードは、やや遅い時間に瞳を開けた。見慣れた天井と照明が最初に目に入って来て、次に見えてのは人だった。
でも、驚かなかった。
実は今回が最初だったわけじゃないのだ。
「起きた?」
「………おはよ、メリッサ」
その人は婚約して夫婦となったメリッサ=ファルシオンだった。
彼女は母親譲りに髪をポニーテールにして、エプロンを前に引っ掛けユトの寝ているベッドの前で両手を膝に置いて彼をじっと見ていたのだ。
ちなみに苗字が変わっていないのは、ネオ・アースだからである。結婚したら苗字を変えても変えなくてもいいし、子供が生まれた場合どちらを受け継いでも両方受け継いでもいいという、実に寛容なのだ。
二人は一緒に話し合って、せっかくだから変えないでおこうと結論付けたのだ。いつでも変えられるなら何も失うことはない。
昨日の仕事のせいなのか肩こりが取れきれてなくて、布団の中にもぞもぞ戻って目を瞑る。こうすれば、陽光も照明も入ってこれないのだから。
彼女に妊娠の兆候が出たので、遺跡に潜るのを中止した。そして今は普通の家庭らしく、妻が家で働き、夫は外で働く生活を送っている。逆の場合もあるがそれは今議論すべきではない。
なんとなく察したのか、メリッサはベッドに座ると、優しく尋ねた。その指には簡素な指輪があった。
部屋にある作業机の上には、やりかけと思われる何かの書類が広がっていて。
「お疲れ?」
「うーん、ちょっと……」
布団の膨らみが上下して今疲れていることを訴える。
勿論メリッサは邪魔するつもりなんてないし、しっかりと休んでほしいと思っている。だから次のような行動に出た。
「じゃあ……私も」
「え」
ユトが反論を構築、もしくは逃げ出す前にエプロン姿のままで布団に入る。花の香りがするシャンプーの匂いと、女性でしか纏えない甘い香りがユトの鼻腔をくすぐり、脳を一種の官能で溢れさせた。
物事の決断を中々付けられなくて、物腰の柔らかいユトだって、自分に素直になりたくなるときだってある。
熱い吐息が二人分。
体触れ合う距離にいる彼女を抱き寄せれば、髪を指に絡めて首筋に唇を触れる。
彼の髪の毛が爆撃を受けた大都市の様相なのはこの際気にしないことにしよう。
窓ガラスを透過した仄かな光が、体温を包む布団の隙間から入り込んで、二人に少しばかりの明かりをもたらす。
布団内部で二人は再会すると、悪戯に指を絡めたり、額をぶつけたりしてみる。恥ずかしいと感じる心はいつの間にか、嬉しい、触れ合いたいと思う心に変わっていた。
その変化はいつだってそう。特にユトはそうなのだ。
結婚しても恥ずかしいことは恥ずかしいし、大っぴらに想いを伝えるなんて、やっぱり恥ずかしくて。でも、恥ずかしいや遠慮の気持なんかより、一緒に居たいと思う気持ちのほうが勝る。
愛なんて大仰な言葉を二人は使わない。言葉は使うと擦り切れてしまう気がするから。
どちらかと言えば、言葉より行動で、普段の何気ない仕草で、ただ黙っていても伝わる、そんな方が好きだった。息を吸うように自然に伝わる方がいいと思っている。
そう、それは潜水機の操縦者と補助者が言葉も交わさないのに意思を交換して、機体を適切に操縦するのに似ている。
首筋と首筋が重なるほど体を寄せ合えば、生きている証である心臓の鼓動が皮膚を通して感じられる。
ユトは、手でメリッサのお腹に力を込めないように撫でた。新しい命が、彼女の中に宿っていると考えるとつい口元がにやけそうになる。
信じられないことに、自分が父親になるのだ。
メリッサはユトの手に手を重ねた。
仕事でごつごつ硬くなった手と、細く絹のように溌溂な手が、そこにあることを確かめあう。
「ねー」
「ん?」
「名前、どうしようかな」
「……女の子なのか、男の子なのかも分からないし、もっとじっくり考えても罰は当たらないよ」
「そうね……」
「………」
「ねー」
「うん」
「キスしよ」
「えっ、え……?」
「だめ?」
「ううん」
布団の小山が、少しの間だけ止まった。
.
女性の髪はなんと柔らかく痛みの無い光沢をしているのだろうと、心の中で感嘆した。
一日のんびりと過ごした二人は、一緒に作った食事を摂って、お風呂に入り(どう入ったかはご想像にお任せで)そしてリビングに居た。髪を降ろしたメリッサは、ユトに髪の毛を梳いてもらっていた。
湿った黒茶の髪を指で伸ばして、櫛を差し入れ引っかからないように慎重に梳く。ポニーテールにしているので分かりにくいが、実はメリッサは癖の無い真っ直ぐな髪質なのだ。
髪の毛は女性の宝とは、本当に上手いことを言ったものだ。
お風呂上がりで特にシャンプーの匂いが強く感じられる。かわいい服は好まない彼女とてそういったことに無関心ではないのだ。無論シャンプー香料ではないのも感じられる。
匂いを嗅いでしまう自分は変態なんだろうかとユトは考えたが、自分で否定しておいた。
髪を梳けば、やや赤らんだ項が垣間見えた。
「ポニーテール以外の髪型って挑戦したことはあるっけ?」
長い髪を梳いていき、アラの無いように全体を眺めると頭に沿った部分から徐々に下に櫛を降ろしていく。ほとんど引っかからないし、毛が抜けることもない。
メリッサがポニーテール以外の髪型をしているのを見たのは記憶にも薄く、今やっていることについて語ってみた。
メリッサは床にぺたんと座って、髪の毛を委ねながら、人差し指を顎にちょんと触れて首を傾げた。そういえば、余り考えてことがなかったのだ。
「結わない時はあるんだけど……なんだが締まらなくて。私がツインテールとかやったら、どう?」
「そうだね……」
ユトは手を止めずに、脳内に画像を構成して閲覧してみた。
ツインテール……吊り眼気味の彼女ならなんとなく似合う気がするのだが、ではいざやった時にどうかと言ったら、正直微妙と言わざるをえない。活発というか幼い印象になってしまう。
サイドテール……確かにメリッサの性格や容姿に合う。が、やっぱりしっくりこない。左右非対称の髪型はユトとメリッサ双方の好みでなかった。
いっそのこと、お団子にしてみたらどうか。これも微妙。ミステリアスな感じと活発さを両立することが可能だが、メリッサには似合わない。
もちろん、髪の毛があろうとなかろうと可愛いということは不変である。
では髪を切って短くするのは? そのようなことをメリッサに提案したところ、首を振られた。
「折角ここまで伸ばしたのに切るのはちょっと」
「やっぱりメリッサはこのままがいいよ。どの髪型でも、いけると思うけど」
「う、うんっ」
髪の毛を梳くために、片方が背中を見せて片方がその後ろにつくようになっているので、表情を窺い知ることはできない。でもメリッサが俯いたのは分かった。
気恥ずかしくなって、黙々と髪を梳く作業に没頭する。全体に整ってきたので、もういいかなと思い手を止めた。
静謐が生まれる。
決して不快ではない、穏やかな瞬間(とき)。
「………」
「………」
やおらにふり返ったその頬に指が触れる。赤ん坊のお腹のようにふにふに柔らかく、それでいてその輪郭が引き締まったものであることを再度頭が感ずる。
羞恥か、風呂に入ったことによる体温上昇か、あるいはその両方なのか、メリッサは顔を赤らめ、指が勝手に動いたユトのほうも顔を紅潮させた。
薄い素材で編まれた水色のパジャマに体を包んだ彼女は、後ろから見ても可愛かった。でも告白した時のように言葉に出そうとしたとしてもまず喉が動かず舌も動かない訳で。
家の真上をエアバイクが低速で通過、エンジンと風の呟きが聞こえた。
―――……ええい、ままよ。
「あ……」
彼女の頭を抱えるように引き寄せると、その華奢な体躯を抱擁した。突如の事に驚き、一瞬腕を振りほどくように身じろぎしたが、次の瞬間には自分から重心を彼に傾けた。
ちょっと前だったら大声を上げて拳骨でもかましてきたかもしれないが、そんなことはなくなった。一般で言う「デレ」というものらしいが、二人に知る由もない。
座ったまま二人は抱きしめあって、メリッサが欠伸をすれば、伝染してユトも欠伸をする。
「……ふぁ~~……、……ねむい」
「ん。眠い。もう、寝よっか」
急激に襲ってきた睡魔に、この場で溶けだす勢いで夜を明かしてしまうようだった。
左右の瞼一枚一枚に見えない小人がぶら下がって閉ざさんとしていると言おうか。眠気は無かったはずなのに、頭にとろりと流れ込むなにかと、抱き寄せた相手の心地よさがそれを津波に進化させる。
既に眠気対策の防波堤は結界寸前だ。こんな場所で眠ったらユトはともかく身重のメリッサには悪影響になりかねない。
ユトは、自分の舌を噛むと、メリッサを立たせて彼女の部屋に連れていく。
床の冷たさに足が震えあがる。
「う~~……」
「ちゃんとベッドで寝ないと駄目だから、な」
「わかってるぅ~~、ねむぅ」
部屋に行く前に倒れて寝潰れてしまいそうだった。
メリッサは、ほとんどユトに身を任せてよたよた歩き。自分の部屋に行くだけならなんとかなりそうなものだが、あえてしない。
上目遣いで物欲しそうな顔をしてみせる。それはユトにあることをせがむ為であり、かといって口に出すのはアレなので、パジャマを軽く摘み引っ張って。
困惑するユト。
「歩けない?」
「無理、眠くて死んじゃう」
「じゃあ、……俺でよければ」
ユト本人も眠かったし、何より彼女の身も考えて、そしてそうしてみたいという願望があったので実行した。
腕を離し、身を屈めると彼女の両脚に腕を、背中に腕を。彼女が横になる大勢のまま抱き上げる。一般で言うお姫様だっこ。ポニーテールが体につき従い揺れ、真下に垂れて。
メリッサはユトの首に腕を廻し、胸元に頬を寄せた。
静かな廊下に一人分の足音と二人の会話が染み込んでいく。
「レッツゴ~」
「はいはい、お姫様」
「お姫様?」
「……ハニー?」
「……バカ」
部屋の前に辿り着くとなんとか扉を開けて、メリッサをそっとベッドに寝かせて布団をかけてあげる。髪の毛が邪魔にならないように横に除けて、目にかかった前髪を指で整えた。
寝やすいようにせっせせっせと世話をするのを、温かい布団の中で安心して居られる。
メリッサの視線に気がついたユトは、両膝立ちになって目線の高さを合わせるようにした。
どちらが、というわけでなく、当たり前のように手を握る。眠いので手が熱かった。
「お休み」
「お休みなさい」
ユトは口の端を上げ微笑すると、最後にメリッサの額に口づけを落とし、照明を消して、自室に戻った。
明日は平日。
二人は、ベッドに入って早々夢の世界へ旅立った。
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いつ、睡眠から覚めたのかは定かではない。
なんとなく自身と、世界の認識が開始されて、ああ今起きたのだろうと理解する程度。起きることに気がつかなかったとも言えそうだった。元より意識することも無い。
深海から徐々に水面へと浮き上がり、飛沫を上げる。意識が亀より遅く脈拍を打ち始め、脳に覚醒の血液が流れ出す。
命がけの縄張り争いを朝っぱらから開始した小鳥の鳴き声と、いつ聴いても哀しいウミネコの唄う声を耳が拾った。
ユト=シーゼンコードは、やや遅い時間に瞳を開けた。見慣れた天井と照明が最初に目に入って来て、次に見えてのは人だった。
でも、驚かなかった。
実は今回が最初だったわけじゃないのだ。
「起きた?」
「………おはよ、メリッサ」
その人は婚約して夫婦となったメリッサ=ファルシオンだった。
彼女は母親譲りに髪をポニーテールにして、エプロンを前に引っ掛けユトの寝ているベッドの前で両手を膝に置いて彼をじっと見ていたのだ。
ちなみに苗字が変わっていないのは、ネオ・アースだからである。結婚したら苗字を変えても変えなくてもいいし、子供が生まれた場合どちらを受け継いでも両方受け継いでもいいという、実に寛容なのだ。
二人は一緒に話し合って、せっかくだから変えないでおこうと結論付けたのだ。いつでも変えられるなら何も失うことはない。
昨日の仕事のせいなのか肩こりが取れきれてなくて、布団の中にもぞもぞ戻って目を瞑る。こうすれば、陽光も照明も入ってこれないのだから。
彼女に妊娠の兆候が出たので、遺跡に潜るのを中止した。そして今は普通の家庭らしく、妻が家で働き、夫は外で働く生活を送っている。逆の場合もあるがそれは今議論すべきではない。
なんとなく察したのか、メリッサはベッドに座ると、優しく尋ねた。その指には簡素な指輪があった。
部屋にある作業机の上には、やりかけと思われる何かの書類が広がっていて。
「お疲れ?」
「うーん、ちょっと……」
布団の膨らみが上下して今疲れていることを訴える。
勿論メリッサは邪魔するつもりなんてないし、しっかりと休んでほしいと思っている。だから次のような行動に出た。
「じゃあ……私も」
「え」
ユトが反論を構築、もしくは逃げ出す前にエプロン姿のままで布団に入る。花の香りがするシャンプーの匂いと、女性でしか纏えない甘い香りがユトの鼻腔をくすぐり、脳を一種の官能で溢れさせた。
物事の決断を中々付けられなくて、物腰の柔らかいユトだって、自分に素直になりたくなるときだってある。
熱い吐息が二人分。
体触れ合う距離にいる彼女を抱き寄せれば、髪を指に絡めて首筋に唇を触れる。
彼の髪の毛が爆撃を受けた大都市の様相なのはこの際気にしないことにしよう。
窓ガラスを透過した仄かな光が、体温を包む布団の隙間から入り込んで、二人に少しばかりの明かりをもたらす。
布団内部で二人は再会すると、悪戯に指を絡めたり、額をぶつけたりしてみる。恥ずかしいと感じる心はいつの間にか、嬉しい、触れ合いたいと思う心に変わっていた。
その変化はいつだってそう。特にユトはそうなのだ。
結婚しても恥ずかしいことは恥ずかしいし、大っぴらに想いを伝えるなんて、やっぱり恥ずかしくて。でも、恥ずかしいや遠慮の気持なんかより、一緒に居たいと思う気持ちのほうが勝る。
愛なんて大仰な言葉を二人は使わない。言葉は使うと擦り切れてしまう気がするから。
どちらかと言えば、言葉より行動で、普段の何気ない仕草で、ただ黙っていても伝わる、そんな方が好きだった。息を吸うように自然に伝わる方がいいと思っている。
そう、それは潜水機の操縦者と補助者が言葉も交わさないのに意思を交換して、機体を適切に操縦するのに似ている。
首筋と首筋が重なるほど体を寄せ合えば、生きている証である心臓の鼓動が皮膚を通して感じられる。
ユトは、手でメリッサのお腹に力を込めないように撫でた。新しい命が、彼女の中に宿っていると考えるとつい口元がにやけそうになる。
信じられないことに、自分が父親になるのだ。
メリッサはユトの手に手を重ねた。
仕事でごつごつ硬くなった手と、細く絹のように溌溂な手が、そこにあることを確かめあう。
「ねー」
「ん?」
「名前、どうしようかな」
「……女の子なのか、男の子なのかも分からないし、もっとじっくり考えても罰は当たらないよ」
「そうね……」
「………」
「ねー」
「うん」
「キスしよ」
「えっ、え……?」
「だめ?」
「ううん」
布団の小山が、少しの間だけ止まった。
.
女性の髪はなんと柔らかく痛みの無い光沢をしているのだろうと、心の中で感嘆した。
一日のんびりと過ごした二人は、一緒に作った食事を摂って、お風呂に入り(どう入ったかはご想像にお任せで)そしてリビングに居た。髪を降ろしたメリッサは、ユトに髪の毛を梳いてもらっていた。
湿った黒茶の髪を指で伸ばして、櫛を差し入れ引っかからないように慎重に梳く。ポニーテールにしているので分かりにくいが、実はメリッサは癖の無い真っ直ぐな髪質なのだ。
髪の毛は女性の宝とは、本当に上手いことを言ったものだ。
お風呂上がりで特にシャンプーの匂いが強く感じられる。かわいい服は好まない彼女とてそういったことに無関心ではないのだ。無論シャンプー香料ではないのも感じられる。
匂いを嗅いでしまう自分は変態なんだろうかとユトは考えたが、自分で否定しておいた。
髪を梳けば、やや赤らんだ項が垣間見えた。
「ポニーテール以外の髪型って挑戦したことはあるっけ?」
長い髪を梳いていき、アラの無いように全体を眺めると頭に沿った部分から徐々に下に櫛を降ろしていく。ほとんど引っかからないし、毛が抜けることもない。
メリッサがポニーテール以外の髪型をしているのを見たのは記憶にも薄く、今やっていることについて語ってみた。
メリッサは床にぺたんと座って、髪の毛を委ねながら、人差し指を顎にちょんと触れて首を傾げた。そういえば、余り考えてことがなかったのだ。
「結わない時はあるんだけど……なんだが締まらなくて。私がツインテールとかやったら、どう?」
「そうだね……」
ユトは手を止めずに、脳内に画像を構成して閲覧してみた。
ツインテール……吊り眼気味の彼女ならなんとなく似合う気がするのだが、ではいざやった時にどうかと言ったら、正直微妙と言わざるをえない。活発というか幼い印象になってしまう。
サイドテール……確かにメリッサの性格や容姿に合う。が、やっぱりしっくりこない。左右非対称の髪型はユトとメリッサ双方の好みでなかった。
いっそのこと、お団子にしてみたらどうか。これも微妙。ミステリアスな感じと活発さを両立することが可能だが、メリッサには似合わない。
もちろん、髪の毛があろうとなかろうと可愛いということは不変である。
では髪を切って短くするのは? そのようなことをメリッサに提案したところ、首を振られた。
「折角ここまで伸ばしたのに切るのはちょっと」
「やっぱりメリッサはこのままがいいよ。どの髪型でも、いけると思うけど」
「う、うんっ」
髪の毛を梳くために、片方が背中を見せて片方がその後ろにつくようになっているので、表情を窺い知ることはできない。でもメリッサが俯いたのは分かった。
気恥ずかしくなって、黙々と髪を梳く作業に没頭する。全体に整ってきたので、もういいかなと思い手を止めた。
静謐が生まれる。
決して不快ではない、穏やかな瞬間(とき)。
「………」
「………」
やおらにふり返ったその頬に指が触れる。赤ん坊のお腹のようにふにふに柔らかく、それでいてその輪郭が引き締まったものであることを再度頭が感ずる。
羞恥か、風呂に入ったことによる体温上昇か、あるいはその両方なのか、メリッサは顔を赤らめ、指が勝手に動いたユトのほうも顔を紅潮させた。
薄い素材で編まれた水色のパジャマに体を包んだ彼女は、後ろから見ても可愛かった。でも告白した時のように言葉に出そうとしたとしてもまず喉が動かず舌も動かない訳で。
家の真上をエアバイクが低速で通過、エンジンと風の呟きが聞こえた。
―――……ええい、ままよ。
「あ……」
彼女の頭を抱えるように引き寄せると、その華奢な体躯を抱擁した。突如の事に驚き、一瞬腕を振りほどくように身じろぎしたが、次の瞬間には自分から重心を彼に傾けた。
ちょっと前だったら大声を上げて拳骨でもかましてきたかもしれないが、そんなことはなくなった。一般で言う「デレ」というものらしいが、二人に知る由もない。
座ったまま二人は抱きしめあって、メリッサが欠伸をすれば、伝染してユトも欠伸をする。
「……ふぁ~~……、……ねむい」
「ん。眠い。もう、寝よっか」
急激に襲ってきた睡魔に、この場で溶けだす勢いで夜を明かしてしまうようだった。
左右の瞼一枚一枚に見えない小人がぶら下がって閉ざさんとしていると言おうか。眠気は無かったはずなのに、頭にとろりと流れ込むなにかと、抱き寄せた相手の心地よさがそれを津波に進化させる。
既に眠気対策の防波堤は結界寸前だ。こんな場所で眠ったらユトはともかく身重のメリッサには悪影響になりかねない。
ユトは、自分の舌を噛むと、メリッサを立たせて彼女の部屋に連れていく。
床の冷たさに足が震えあがる。
「う~~……」
「ちゃんとベッドで寝ないと駄目だから、な」
「わかってるぅ~~、ねむぅ」
部屋に行く前に倒れて寝潰れてしまいそうだった。
メリッサは、ほとんどユトに身を任せてよたよた歩き。自分の部屋に行くだけならなんとかなりそうなものだが、あえてしない。
上目遣いで物欲しそうな顔をしてみせる。それはユトにあることをせがむ為であり、かといって口に出すのはアレなので、パジャマを軽く摘み引っ張って。
困惑するユト。
「歩けない?」
「無理、眠くて死んじゃう」
「じゃあ、……俺でよければ」
ユト本人も眠かったし、何より彼女の身も考えて、そしてそうしてみたいという願望があったので実行した。
腕を離し、身を屈めると彼女の両脚に腕を、背中に腕を。彼女が横になる大勢のまま抱き上げる。一般で言うお姫様だっこ。ポニーテールが体につき従い揺れ、真下に垂れて。
メリッサはユトの首に腕を廻し、胸元に頬を寄せた。
静かな廊下に一人分の足音と二人の会話が染み込んでいく。
「レッツゴ~」
「はいはい、お姫様」
「お姫様?」
「……ハニー?」
「……バカ」
部屋の前に辿り着くとなんとか扉を開けて、メリッサをそっとベッドに寝かせて布団をかけてあげる。髪の毛が邪魔にならないように横に除けて、目にかかった前髪を指で整えた。
寝やすいようにせっせせっせと世話をするのを、温かい布団の中で安心して居られる。
メリッサの視線に気がついたユトは、両膝立ちになって目線の高さを合わせるようにした。
どちらが、というわけでなく、当たり前のように手を握る。眠いので手が熱かった。
「お休み」
「お休みなさい」
ユトは口の端を上げ微笑すると、最後にメリッサの額に口づけを落とし、照明を消して、自室に戻った。
明日は平日。
二人は、ベッドに入って早々夢の世界へ旅立った。
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