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<散髪記念日>

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淹れたての珈琲を一杯口に運び、じっくりと嗜む。カカオの芳醇な味に私は舌鼓を打った。自画自賛する訳でもないが、結構上手く淹れられたと思う。
窓の外の、真っ青で太陽が眩しい空を眺めながら、私は彼女が帰ってくるのを待つ。
早く彼女が帰ってこないかなぁと、年甲斐もなくワクワクとした思いを抱きながらもう一杯、珈琲を口に運ぶ。熱い、旨い。
天井へと昇っていき、はかなく消えていく湯気を目で追いながら、私は少し早い気がするものの、今日一日の出来事について思考を巡らした。



激務、といっても過言ではない程の仕事がようやく一段落ついた。一段落ついたというより、ようやく休日が取れたというべきか。
ほぼ毎日出張していた為、私の体力は尽きそうだった。体力と共に精神的な疲れも相当溜まった気がする。そんな私に比べ、テンマ君は実に元気だ。
出張するだけでも私は色んな意味で疲れを感じてしまうのに、彼女はキビキビと動き、働き、助手を担ってくれる。そんな満ち溢れる元気さに敬服する一方。

ただ遠出するだけでも疲れてしまう自分に、私はショックを受けている。これが年を取るということなのかもしれない。
髪の毛に少しづつ、白髪が混じってきているのが何よりの証拠だろう。

最近、仕事の先輩、上司としてテンマ君に情けない姿を見せぬ様、ひたすら仕事に打ち込み過ぎて私生活がだらしなくなってきた。
お客様に不快感を与えぬ様に身なりには気を付けているが、あまりに疲れてしまう日は彼女に悪いと思いながらも、食事も取らずバタンと寝てしまう。

何と言うのだろう、一度仕事が入ると、頭の中がその仕事の事で一杯になり、どうも他の事が億劫になってくる様だ。
自分が今食事を食べているのか、風呂に入っているのか、寝ているのか、全ての行動がぼんやりしてきて夢の中にいる様に感じる。
それでいて、仕事の時には意識がはっきりしてるから困る。いや、困ってはいけないのだが。

最近、ティマに食事中に寝ないでよ、と注意される。そうなると私は自分が寝ていたという事に驚く。眠っていたのか、そうかと変に我に帰る。
テンマ君にも目の下にクマが出来てますよ、と心配そうに言われる。睡眠……足りてないのだろう。依頼されてきた大量の仕事内容を確認してると、どうしても夜更かししてしまう。

いざ振り返ってみると、昔一人で修理士として働いていた頃より何倍も働いている気がする。
助手……いや、テンマ君という部下が出来たという事で精神的にしっかりせねばと、自分に鞭を打っているからだろう。

テンマ君には早く、私の手を借りずとも修理士として自立して欲しいという事で、ハードと分かっていながらも仕事を入れ過ぎているきらいがある。
習うより慣れろ。私が持つ技術の全てを、彼女に覚えてもらい、様々な局面で活用して貰う為に、と。
そう考えると、自然に私はテンマ君に厳しい態度を取ってしまう。が、テンマ君は嫌な顔一つせず共に頑張ってくれる。
その様子を見てると、私はテンマ君の為にもヘタれてはいけないと自分自身を奮わせねばなと思う。

……しかし、そんなやる気と裏腹に体は正直な様で。白髪だけでなく、良く目元がぼやけてきたり腰が痛くなったり。肩も若い時に比べて上がらなくなった。
テンマ君には悪いが、もう少し休日を入れた方が良いかもしれない。私自身が倒れてしまっては、元も子もない。

……髪の毛を指先で摘まんでみる。大分伸びたな。髪を切ったのは何時頃だっただろうか、思い出せない位に伸びてる。
久々の休日という事で、私は今日、床屋に行く予定だったのだ。鬱陶しく伸びているこの髪をバッサリと切って貰い、気合いを入れる為に。
……行く予定だった。何故行く「だった」というと……。



髪を切ると決めて外を見ると、微笑ましいほどの青天模様。天気予報では百%晴れという事で大的中だ。やるじゃないか、天気予報。少し見直したぞ。
こんな天気のいい日に、髪を切りに行くのは縁起が良い。そんな事を考えながら、年も考えずにウキウキとした気分で車を走らせて床屋へと向かう、
確か三店程、近場に床屋があった筈だ。駅の近くと商店街の近くと、最近出来た奴。きっとどれか一店が休みでも、他の二点は開いているだろう。

……が、信じられない事態が起こった。その三店すべてが閉まっていたのだ。本気で信じられない。
まず駅の近くの床屋は良く分からないが臨時休業、商店街の近くはリニューアル準備という事で工事中。まぁ、休業だろう。
最近出来た奴……最近出来た奴はその、閉じてた。一店目の様に何があったかという情報もなく、閉めてた。夜逃げでもしたのか……。
そんな訳で、私の髪を切るという予定はあえなく棄却される事となった。



そんなこんなで、私はすごすごと自宅に帰って来た。意気揚々と出かけたが、まさか全ての床屋が全滅だとは思いもしなかった。
一応、もう少し遠出すれば別の床屋はあるだろう。けれど近場の床屋が全滅という事実に、私のテンションがどん底に落ちた為、出かける気力が失せてしまった。
空がやけに晴れ晴れしいのも何と言うのだろう、逆に出かける気を無くしてくれるというか。さんさんと輝く太陽に馬鹿にされてる様な気がして悔しいというか。
自分でバリカンでも使って切る方法もあるが、まぁ面倒くさい。どうせ今日は休日だし、天気が良い日でも家でのんびり過ごしても良いじゃないか、と私は無理やり自分を納得させる。

「ただいまー」

玄関を開ける音と共に、いつも聞く馴染み深い声が、家の中に響いた。彼女が買い物から帰ってきたようだ。
私はよっこらせと立ち上がり、彼女を出迎える為に玄関へと向かう。
彼女――――――――私の妻であるティマが、両手にお手製の買い物袋を持ちながら、足だけで器用に靴を脱ぐ、
私はティマの両手にぶら下がっている買い物袋を代わりに持ってあげて、ティマを出迎えた。

「おかえりなさい。お疲れ様、荷物持つよ」
「ありがとう」

先導する様に、ティマの前を歩く。向かうは台所。というかそこしかあるまい。

「良い買い物が出来たかい?」
「うん。チラシに載ってたのは残念だけど、あんまり買えなかったな……」
「仕方ないさ。スーパーはある意味戦場だからな……」

そんな会話を交わしながら台所に入る。買い物袋を置くと、ティマは私に感謝し、しゃがむと買い物袋の中の食料品等を冷蔵庫に入れ始める。
午前中に髪を切りに行くと、朝食を食べた後ティマに伝えたが全く髪は切れてない。……のだが、ティマはその事について触れない。
淡々と冷蔵庫に食料品を入れており、私の髪の事は気にも留めてない様だ。私は素知らぬ顔をして、リビングへと戻ろうと。

「髪、どうしたの?」

……私は恐る恐る、ティマの方を向いた。作業を中断し、不思議そうに小さく首を傾げているティマの目と目が合う。
疑っている訳ではないだろうが、単純に疑問を抱いているのだろう。今は午後を周っているが、髪を切れていない私に。
ここは午後から切りに行くだとか、切る気分じゃなかったとか誤魔化せるが、ティマにそういう嘘は通じない。ここは正直に、言うしかない。

「……どうしたの、って?」
「マキ、午前中に髪切りに行くって言ってたから。床屋さん、閉まってたの?」
「あ、あぁ。ちょっとな」

そう言うと、ティマが訝しげな表情で私を見つめる。恐らく、今の私は真意を悟られぬ様目を背けているに違いない。
ティマは私の事をじっと見つめながら、言う。

「……ホントに? 周ったお店、全部閉まってたの?」

ティマの疑問に、私は力強く頷いて答える。疑いたくもなるだろうが、現実だから仕方がない。

「本当にだ。逆に奇跡だよ。私は床屋に嫌われているのかと思う位に」

ティマは私の目を見つめ続けたが、嘘を付いていないと分かったのだろう、小さく一息吐いて呟いた。

「珍しい事もあるんだね……ごめんね、疑ったりして」
「構わんさ。私かて冗談だと思う」
「冗談なの?」
「いや、ホントだ」


そこで一旦会話を切り、私達は各々の行動に戻る。
行動といっても、私はのんべんだらりと居間でテレビを見ているだけで、ティマは冷蔵庫の整理をしているだけだが。

思えば……こんな風に普通に家で何もせず、のんびりと休むのも久々な気がする。
家ではいつも、食事を取るか、風呂に入るか、寝るか、仕事についての諸々をしているかで、休みに家でこうして過ごすというのは久しぶりだ。
というより、ティマと一緒に休日を過ごすという事が久しぶりというか。

職場で評価されている為だろう、ティマもほぼ毎日仕事に駆りだされている為、中々休みが取れなかったのだ。
だから今日、こうして二人共休みでかつ、一緒に家にいるというのは珍しい。バレンタイン以来だ。
だから何だろう、普段は何気なく交わしているこういう会話が、妙に懐かしく感じる。共働きだとゆったりと同じ時間を共有する事が無いから。

「これで終わり……と。あっ」
冷蔵庫に買ってきた食料品を全て入れて整理し終えたティマが、短く言葉を発した。買い忘れた物でもあったのだろうか。

「ティマ? どうした?」

心配になって私がそう呼び掛けると、ティマは立ち上がって、私の方を向いた。

その目は何故だか輝いている様に見える。いや、何時も輝いて入るのだが、凄くキラキラとしている。こんな表情を見るのもまた、久しぶりだなと。
時が経つにつれ、人としての自我が確立されてきたティマは、大人の女性として既に自立していると言っても良い。
故に落ち着き払っており、たまに驚くくらい、しっかりした言動や態度を見せてくれているのだが、こういうはしゃいでいる様な……。
言うなれば、子供みたいに感情を露わにした表情を見るのは久しぶりだな、と思う。

目を輝かしながら、ティマは私にこう言った。

「切ってみたい」

聞くまでもないだろうが、一応私は聞く。

「……何を?」
「マキの髪だよ。私、マキの髪切ってみたい」

ティマはそう言って台所から早足で出てくると、私の傍らにぺたんと女の子座りした。
そしてティマは、私を見上げながらこう、言葉を続けた。

「ねぇマキ、髪切らせてくれる? こういう事やってみたかったんだ、私」
「やってみたかったって……どうしていきなり?」
「んっとね……ちょっと恥ずかしいんだけど」

ティマは恥ずかしげに俯いて、私をチラチラと見ながら、その理由を私に話し始める。

「その……図書館で借りた恋愛小説でね、主人公が恋人の髪を切る、って言うシーンがあるの。
 そのシーンが凄く詩的で素敵で、胸がジーンとしたから……だから私……」

図書館……と聞いて、私はかつて、ティマが妙な本から得た知識で、私にキスしようとしてきた出来事を思い出す。
あの頃は、ティマに良からぬ事を教えおってと、馬鹿馬鹿しいが少しばかり図書館に憤慨した。だが、今ではそんな感情を抱いた事を反省している。というか謝りたい。
図書館はティマにとって大切な情報源の一つだ。ある種、図書館の、というか、図書館に数多ある書物のお陰で、ティマがここまで大きくなったと言っても良い。

ティマは私に寄り添うと、私の両肩から首に掛けて腕を回し、キスする様に顔を近づけながら、囁く。

「駄目……かな?」

一体何処でそんな上目遣いを覚えたんだという位、ティマが私を上目遣いで見つめてくる。
ティマの息遣い、呼吸を肌で感じる。仕事で何時もつけているのだろう、甘い香水の匂いが鼻をくすぐる。
艶やかに濡れる唇と、蒼く潤む大きな瞳。私は驚く。ティマは何時の間にこんなに……色気が出てきたのだろう。

私の心拍数は気付けば並々ならぬ速さを刻んでいる。こんなに心臓の鼓動が激しくドキドキするのも何時頃だっただろう。
日常的にキスを交わしてはいるが、こんな風にティマがキス……と、言うより顔を近づけてくるとは思わなかった。
最早こうなると、私が折れるしかある間に。私はティマに心で白旗を挙げる。



「……分かった」

「ん……良く聞こえなかった。何?」

ティマはそう言ってとぼけてみせる。とぼけながら口元が僅かに笑っている。
一体何処でこんな……一体何処でこんな仕草を覚えたのか。夫ではなく一保護者として、ティマに問い詰めたくなる。
恐らく同僚のハナコさんにでも学んだのだろうか。……まぁ良い。私はもう一度、今度はしっかりと言う。

「分かった。だから……」

私は顔を近づけて、ティマの唇に触れようとする。ここまできて、我慢は出来ない。
私の唇が今正に、ティマの唇に触れ……ない? 寸止めされているのか?

少し離れるとティマが、私の唇と自分の唇の間を掌で挟んでいた。というより、二人の間を遮断していた。

「まだお預け。続きは、髪を切ったら……ね?」

……完全に一本取られた。私は呆然としたまま、ただコクン、と頷くしかなかった。
まさかティマにこうも弄ばれるとは……。ティマが成長しすぎているのか、私が色々と衰えたのか。
ティマは鼻歌を歌いながら立ち上がり、身なりを整えると財布を持った。私はハッとして我に帰り、ティマに聞く。

「何処に行くんだ、ティマ」
「図書館行ってくるね。散髪の為の情報を収集しなきゃ」
「情報って……そんなちょっと調べた位で髪は切れないと思うぞ」

私がそう言うと、ティマはきょとんとして、私に言い返した。

「大丈夫だよ。こう言うのもなんだけど、私アンドロイドだから学習能力が凄い高いし。
 そりゃプロの理髪師さんみたいに凝ったのは無理だけど、パパっと切るくらいは覚えればすぐ出来るから」

……あ、あぁ。そうか。考えてみれば君はアンドロイドだったな。いけない、すっかり忘れていた。

「じゃ、軽く道具も買ってくるから待っててね。行ってきます」
「あぁ、いってらっしゃい」

ティマが出かけてから、私は何だか惚けている頭を頬を強く叩く事でリセットさせる。完全にティマのペースに乗せられてしまった。
……何を忘れていた。彼女は、ティマはアンドロイドじゃないか。すっかり忘れていたが、ティマはアンドロイドだ。
何をボケて、すっとぼけているんだ私の脳味噌は。決して忘れてはならない最重要事項じゃないか。ティマがアンドロイドという事は。

しかし……。
ふと、私はキスしかけて阻止された唇に触れる。……直に感じていたティマの息遣いや表情、それに言葉は、もう、人のそれと言っても良い。
私は完全に、ティマがアンドロイドである事を忘れていた。頭の片隅に「彼女はアンドロイド」という事を留めておかねば私は……。
私はいつか、一線を超えてしまう。私はそれが怖くもあり、しかしどこか、待ち望んでいるアンモラルな自分に気づき、猛省する。



話は最初の地点に戻る。

珈琲を入れて青空を眺めながら、私はティマが帰ってくるのを待つ。
かれこれ一時間半程度、時間が経った。一体ティマはどれだけの情報を蓄え、そしてどんな買い物をしているのか、楽しみでもなり何となく不安でもある。
ティマの知識欲は子供の頃からずっと変わっていない。一度知ろうとした事は徹底的に調べる、そんな習慣をティマは変わらず続けているからこそ、こうして成長できた訳で。
珈琲を飲み干して、もう一杯飲もうかと立ち上がった時、丁度ドアを開ける音がした。


私は空になったカップを台所に置き、すぐさま玄関へと駆ける。
そこにはどれだけの道具を買ったのか、またぎっしりと中身の詰まった買い物袋を持ったティマが立っていた。

「おかえり、ティマ。欲しい情報は手に入ったかい?」
「ただいま、マキ。ごめんね、遅くなって。色々調べて色々買ってたら、帰るのが遅くなっちゃった」

と、ティマは小さく謝りながら靴を脱ぎ、家に上がる。当然、買い物袋を持ってあげる。
しかしどれだけ道具を買ってきたのか、買い物袋はぎっしりと重い。リビングに買い物袋を置くと、ティマが言った。

「それじゃあマキ、バスルームで待っててくれる?」

私は頷いて、バスルームでティマが来るのを待つ事にする。
しばらく待っていると、ティマが買い物袋を持って入ってきた。
一体何を取り出すのかと思っていると、袋から……椅子? キャンプとかでよく見る、簡易的な折り畳みの椅子を取り出した。
それを数秒もせずに組み立てる。次にティマは、ポンチョの様な形をした、ビニールで出来た布を取り出すと、私に手渡した。

「これ着てくれる? そしたら汚れないから」

とティマは言うがその……私は正直に思った事をティマに言い返す。これを着なくても別に……。

「ティマ、わざわざこんなのを羽折らなくても、私が服を脱げば良いと思うんだが……」

と私がそう言うと、ティマはぶんぶんと首を大きく振り、少し失望した様な口ぶりで私に言う。

「それじゃ駄目なんだよ、マキ。ちゃんとこういう道具を揃えるから雰囲気が出るんだよ」
「でも、ただ髪を切るだけだから」
「だーかーら……もー、マキってムードとか読まない人じゃないよね?」

頬を少し膨らましてそういうティマに、私はすまん、と小声で呟き頭を下げる。まさか怒られるとは思わなかった。
というか、まさかティマがこんな事を言うとは思わなかった。いや、私が配慮を欠いていたのがいけないのか。
しかし考えてみれば、ティマは「主人公が恋人の髪を切る」というシーンを自らで再現したいのだ。なら、この布を着ない理由は無い。何一つ無い。

「分かった、ティマ。着るから髪を切ってくれ」

そう答え、私は布を受け取って椅子に座り、布を体に羽織る。

ティマがその上からタオルを巻いて、袋からハサミを取り出す。髪を切るだけならハサミだけでも十分な気がするがまぁ、これ以上余計な事は言わないようにする。
一体どんな本からどんな情報を習得したのか凄く聞きたいところだが、今は聞かないでおく。というか聞く必要もない。
今はただ、ティマを信じて楽しみに待つだけだ。気合いを入れる為か、ティマは髪をゴムで結いで、ポニーテールにする。

いざ切らんとした時、ティマは耳元で私にこう、囁いた。

「……ごめんね、マキ。私の我儘に付き合って貰って。変な事言って、ごめんなさい」

私はティマのその言葉に首を振り、答える。

「気にしないでくれ、私の配慮が足らなかっただけさ。……お願い、出来るかな」

「任せて。カッコいい髪形にしてあげる」

凛とした返事をして、ティマは私の髪を切り始める。自分で学習能力が高いと豪語するだけあり、その手際はまるでプロの理髪師の様だ。
いや、実際は前を向いている為、私の髪を切っているティマを見る事は出来ないがきっとそうだと思う。
小気味良く髪を切る音だけがバスルーム、否、家の中で響く。その音のリズム感が心地良くて、私は目を瞑りそうになる。
……いかん、目を瞑っては。と、ティマが少しづつ横へと移動してくる。

目が、寄りかかってくるティマの胸に向く。いや、向くな、向いてはいない、向いてはいないぞ。

男としての性が勝手に目線を、ティマの胸へと向けているのだ。何と下賤な性か。私は今まで生きてきた中でこれ程、男として恥じる瞬間は無い。
しかしティマは私のそんな邪で下賤な性など全く知らぬだろう、一生懸命私の髪の毛を切り続けている。その目は真剣そのものだ。
これ以上いけない。私はさっきの考え方をガラリと変え、強く目を閉じる。ついでに、己の中の百八の煩悩を、頭の中で風船に見立てて割りまくる。

その風船が割りまくった末、ようやく視界がただの暗闇へと変わる。

耳に届くのは、私の髪をティマが切る音だけだ。その音はまるで子守唄の様に聞こえてきて、私の意識は次第に暗闇の中へと落ちていく。

ふと、過去を思う。

ティマは最初世の中の事も、右も左も分からなかった子供、いや、赤ん坊だったな。
それが今はこうして、私の生活に取って掛け替えの無い、とても逞しく頼りがいのある存在となっている。
彼女にとって私が必要な存在だった頃から、私にとって彼女が必要な存在へと変わっている。

ここまで成長してくれるなんて、今でも夢を見ている様だと思う。ティマ自身はまだまだ成長途上と謙遜してるが、とんでもない。
ティマは私の手助けが無くとも生きていける。もし……もし私がいなく……

いなく……なっても……。


きっと……。




                                   ―――――――――――


「パパ!」


ハッとして、目を覚ます。掛けていた眼鏡がずり落ちている。私は慌てて眼鏡を掛け直した。
ぼんやりと滲んでいた視界が、眼鏡をかけた事で段々鮮明になっていく。……人? 目の前に、口をへの字にして屈み、私を見下ろしている少女が立っていた。
鮮やかな金髪と落ち着いた黒色が入り混じった、妙に現実離れしているが美しい髪の毛。ガラス玉の様に透き通った蒼い目、綺麗な目鼻立ち。
この子は……どこかで、あった様な。しかし何処で会ったのかが、全く思い出せない。

「えっと、君は……」

私がそう言うと、その少女は私の発言に驚いているのか大きな眼を見開く。続けて目を閉じ、大げさに溜息を吐いて私に言った。

「君はって……何寝ぼけてるのさパパ。娘の名前も忘れちゃったの?」
「むす……娘?」

そういえば……ここは何処だ。私は少女に悪いと思いながら、少女の背後の景色に目を向けた。

草原。少女の背後には、見渡す限りの広大な草原が広がっていた。こう、緑色の海……あんまり上手い表現じゃないな。
優しい色合いである緑色の草花が、柔らかい風に乗って気持ち良さそうに靡いている。その様はまるで海の様に見えて、私はつい、息を飲む。
しかし、ここは何処なんだ。私の記憶にこんな景色は無い。というか、こんな所、来た事が無い。

と、いつのまにかさっきの少女が姿を消している。
違う。誰かの手を引っ張っりながら、私の方へと歩いてくる。
最初は少女が引っ張ってくる人物の姿が分からず目を細めていた。が、次第に少女と共に、その人物の姿がはっきりと見え……。


「……ティマ」

私の足は自然に立ち上がり、歩き出した。歩きだしていた。その人物は忘れもしない。私の、妻だ。


「ねぇママ聞いてよ。パパったら私の名前忘れちゃってるの。ホント信じらんないんだけど」

少女が膨れっ面でそう言うと、妻――――――――ティマは、少女の頭を優しく撫でながら、少女に言う。


「パパもお仕事で疲れてるの。労わってあげなきゃ」
「けどさー……」

ティマは少女を微笑みながら見つめる。少女は最初不満げだったが、ティマに説得されたのか。

「……ごめんなさい、パパ」

と言って、私に謝るとティマの後ろに隠れた。照れ臭そうに、私の事を見――――――――。

その時、欠けていたパズルのピースが嵌っていく様に、途切れていた記憶が蘇ってくる。そうか、私は……私は……。


私はティマの右手を握った。温かく、血の通った、人の感触。
ティマの後ろに隠れていた―――――――が、照れているのか、私に顔を背けながら出てきて、もう片方の左手を繋ぐ。
私はティマと――――――――に頷いて、言う。

「行こう、ティマ」


そして――――――――。


「行こう、





                                   ―――――――――――



「―――――――キ、マキ、マキ」

誰かの声が、私の名前を呼んでいる。いや、誰かじゃない。この声は、私の愛すべき人の声だ。
閉じていた目をゆっくりと開ける。最初は目に涙でも溜まっていたのかぼやけていたが、一度目を強く閉じ、もう一度開けると視界が元に戻る。
ティマが私を心配そうに見上げている。どうやらティマが散発してくれている間、眠ってしまったようだ。




「マキ、大丈夫? 何度呼んでも起きないから……」

……何時頃から寝ていたのか思い出せない。本当に気付けば眠りに落ちていた様だ。
これは真剣に、深刻な寝不足だ。テンマ君には悪いが、今後仕事のスケジュールについて検討する事にしよう。
病院に通うようになってからでは遅すぎる。しかし健康を気遣う様になるとは、年を取ったなぁ私は……。

「心配させて悪いね。大丈夫だよ、ティマ」
「ホントだね? 心配……させないでね」
「だから大丈夫だよ。さて、ティマ……」

ティマが丁寧にタオルと布を外して、代わりに手鏡を差し出して来た。
受け取って、ティマが切ってくれた髪型を拝見する。さて、どんな……。

……何故だか、笑いが自然に口から溢れてくる。何故だろう。

ティマは私の髪を、私がティマに初めて出会った時の髪型に切っていた。あくまで模して、いや、殆どそっくりと言っても良いくらい。
あの長いのか短いのか、手入れされているかされていないか分からない妙な、けれど気にいっていた髪型に。しかし上手く切られている為、サッパリとして実に清潔だ。
椅子から立ち上がって後ろを向くと、ティマは照れているのか、俯きながら言う。

「あのね……マキの車、昔の車に限りなく似せて作られてるでしょ? でね、私もそれに倣って昔のマキの髪型を再現してみたの。どうかな?」

「……凄いぞ、ティマ。ホントにこんな髪型だったもんな、昔の私は。この髪型は気にいってたし、嬉しいよ、ティマ」

「うん。いつもの年相応の髪型も良いと思うけど、私は……やっぱりその髪型が好き」

そう言って、ティマは微笑んだ。
その時のティマの表情、声、笑顔は、昔の子供の頃だった頃のティマと、重なって見える。
いや、違う。ティマは何も変わってない。ティマは子供の頃から何も変わっていない。ただ、少しだけ背が伸びて、賢くなっただけだ。

……私はどうだろうか。年を取り、段々大事な何かを失ってきていないだろうか。
その何かは沢山浮かぶが、その中でも一番、失っちゃいけない物だけは……。
失っちゃいけない一番大事な物だけは、これからも守り抜こうと思う。ティマの笑顔を見、私はそう、強く思った。

「……ティマ」

近づいて、私はティマの右手を握った。ほのかに温かくて、しかし冷やりとした、人の手を模した手だ。
しかし、人の手には変わりない。手と手を絡ませながら、私はティマの唇に自分の唇を近づける。




「……マキ、駄目。まだ、片付けが……」

ティマがそう言うが、私は構わず唇を塞ぐ。ほんのりとした冷たさと、吸いつく様な感触。今まで重ねてきたキスの中で、今のキスが一番、柔らかい。
時間を止めて、私とティマは唇を重ね合う。ティマは私の全てを受け入れてくれる。左手のハサミを手放し、ティマは結いでいた髪を解く。
美しい金色の長髪が、ふわりと広がる。何秒くらい経っただろう。私はティマから唇を離す。額同士を合わし、私達は、両手を絡ませ、言葉を交らわせる。

「……マキのエッチ」

仄かに頬を紅くして、ティマがそう言った。

「褒め言葉かい?」

私がそう聞くと、ティマは笑って、言った。



「……ばか」










                                  散髪記念日













……それにしても、あの奇妙な夢は何だったのだろう。
まさかと思うが、いづれ来る未来なのか、それともあくまで夢でしか無いのか。





今はただ……彼女を愛し続けよう。たとえどんな未来が、この先に待ち受けていようと。


ティマを抱き寄せて、私は額にキスをした。




窓から差し込んでくる太陽が、私達を温かく包む。


しばらく、こうしていよう





END




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