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 むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。 おじいさんとおばあさんはとても貧乏で、しかもむかしのことだったので政府によるセイフティーネットが発達しておらず、 もうすぐお正月だというのにお餅をつくのに使うもち米を買うお金もありませんでした。 ぶっちゃけ、そんな実際的な利益の無い行事のために金を使おうと思うような精神構造だから貧乏から抜け出せないのではないか、 とお思いの方もいるでしょうが、 現実問題として金を持ってる側の人間にもそういった不合理な精神構造をした連中は結構いるものなので、 そういった合理性の度合いとその人間の財産との相関関係について断定的に語るのは少なくともこの事例からは不可能です。 まあもっとも、金持ってる側の人間に関して言うと、 金を絞るためについてる嘘を嘘だとばれないように自分も信じてるふりをしたり、 コミュニティーの平穏さを維持するために周囲と合わせて少なくとも表面上は不合理を受け入れたり    (この手の閉鎖的なコミュニティーは得てして広い意味での環境に取り残され、     内部競争に明け暮れているうちにコミュニティー全体が立ちいかなくなってしまったりするものですが。     ナチス高官が第三帝国の崩壊寸前まで権力闘争に執心だったことは象徴的です)、 財産を自分の能力で得たわけではなく、相続や運により得たという場合も多いわけであり、 この辺りの事情は社会というものについて非常に重要だったりするのですが、 これは>>882が思い付きをテキトーにネタにするSSであるので深く立ち入ることはしません。  そんなことを言っている間に、おじいさんとおばあさんは相談して、自律思考型AIをつくって町に売りに行き、 それで稼いだお金でもち米を買うことにしました。 「そんな物作れる奴等がなんで貧乏なんだ」というツッコみが賢明なる読者の皆さまから入るのは当然のことですが、 このSSはなにぶん高度電子機器が庶民レベルで普及しているどころか、産業革命すら迎えていない程のむかしの話であり、     ・ そうした社会環境下で高度な電子計算機があっても、それを必要とする実用品を生産することができないため、      単なる珍しい品としての価値しか持ち得ない。      技術は必要とされる環境にあるからこそ利用され受け継がれていくものであり、      このことは各地の技術の内容とその変遷を見れば明らかなことである。     ・ 上述の内容とも重なる部分があるが、社会に高度な電子機器を大量生産することが出来る技術的基盤が無い。      「その社会に構造を理解し、設計することが出来る人間がいる」ということと、      「その社会に十分な物的・人的資源とそれに支えられた技術レベルがある」ということは全く異なることである。      仮におじいさんとおばあさんにそうした技術基盤が整備出来れば、      この二人は社会を大きく発展させた人物として後世にまで名を残すことになる。      そしてそうした技術基盤の整備を行うのは、      社会において指導的立場にある人間、もしくはそうした人間に影響を与えられる人間でなければ      不可能であることを想起すれば、      この困窮したおじいさんとおばあさんにそれが不可能であることは明白である。      故に、おじいさんとおばあさんの個人レベルによる少量生産しか出来ないのであり、      その絶対数の少なさから言っても、(少なくとも一般に出回るレベルでの)実用性を持たない珍しい品にしかなり得ない。     ・ その希少性ゆえの高価な品として流通させるには、それに価値を感じる人間を一定数以上に増やす必要がある。      しかしそれは、いわゆるトレンドを生み出す、広い影響力を持った人間・機関、      またはそれに影響を与えることの出来る人間・機関でなければ不可能なことである。      上記のAIが結局個人レベルの少量生産しか出来ないのと同様の理由により、      これもおじいさんとおばあさんには不可能なことである。 等といった問題があるのです。 長いために要約すると、勢いで書いてる思い付きSSなんだからそんなにツッコむんじゃない、ということです。  さて、そんなわけで、おじいさんとおばあさんは自律思考型AIを6個こしらえ、 おじいさんが町まで出かけて売ってくることになりました。 購入者に対するサービスのため、自律思考型AIの取り付けを補助するロボットをつれて、おじいさんは出かけました。 「いやこの時代設定から言って『取り付けてくれ』とか言う奴いるはずねーだろ」 とおっしゃられるのは当然のことですが、 おじいさんとおばあさんは自律思考型AIを売ろうとしている、 すなわち購入者が存在しているということを暗黙の前提としているのです。 「その前提がそもそも間違ってんじゃねーか」 と思われるのは当然なのですが、「需要があるから供給する」のではなく、「供給するために需要を設定する」というのは、 よくあることなのです。 実はこれは、生活に必要な物品が既に十分にあり、供給が飽和状態にあるが、 市場経済というものは大前提として経済的成長、すなわち供給側の得る利益の継続的増大を必要としている、 という現代社会においてこそ重要な課題かもしれません。 このため、様々な方法で需要を喚起しようと企業は血道を上げ、政府は新たな経済分野の開拓に躍起になっているのです。 つまり、ここでおじいさんとおばあさんについて言えば、 「『供給のために需要を設定しようと発想していること自体』が問題なのではなく、  『供給のために需要を設定し、その需要を実際に作り出すことが出来ていないこと』が問題なのだ」 とすることも可能です。 「供給のために需要を作り出す」ためには、やはり広範な影響力を必要としますが、 しかし、個人レベルにおける消費意欲というものには様々な揺らぎが存在しているため、 「一つの小世帯(おじいさんとおばあさん)が年始に必要な金銭を得る」程度であれば、 運により可能であるかもしれません。 ここまでで既に繰り返し述べているとおり、おじいさんとおばあさんには、経済構造に影響を与えるような能力は無いのであり、 そのような運にかけるのは、実際的な行動として理解されるべきです。 「自律思考型AIはいりませんかー、  限定的ではありますが自己解体・修復能力があり、さらにそれと自己学習能力と合わせて自己改修・改良まで可能な  自律思考型AIですよー」  町に着いたおじいさんは、早速声を張り上げ、通りを歩きます。  でも、おじいさんを呼びとめる人は誰もいません。  それでもおじいさんは声を張り上げるのをやめません。 家ではおばあさんが、おじいさんが上手いこと、どこかの馬鹿がどぶに捨てた金を持ってくるのを待っているのです。 しかし、おじいさんを呼びとめる人は誰もいません。  自律思考型AIを誰にも買ってもらえないまま、とうとう日が暮れてしまいました。 「ああ、おばあさんはがっかりするだろうな」  おじいさんはとぼとぼと、暗い道を家へと向かって歩きます。 途中で降り出した雪の中、おじいさんの進んでいく先に、おじぞうさまが並んでいるのが見えました。 おじぞうさまは吹きさらしの中、笠もつけずに立っています。 「おお おじぞうさま。こんな寒空の下おかわいそうに」  おじいさんは、おじぞうさまに積もっている雪を払い落してあげました。でも、雪はどんどん降ってきます。 これでは、また雪が積もってしまいます。しかし、おじいさんがずっとここにいて雪を払い落しているわけにもいきません。 「困ってしまったなあ…… おじぞうさまが、自分で雪を払い落すことが出来ればいいんだが……  そんなことが出来るわけもない…… いや、いいことがあるぞ」  おじいさんは、自律思考型AIを、おじぞうさまに組み込み始めました。 そして、おじぞうさまの体にセンサーや駆動機器などをつくっていきます。 そう、おじぞうさまを自らの意志を持つロボットにしようというのです。 優秀な作業補助ロボットが手伝ってくれるので、作業はどんどん進みます。  ところが、困ったことがありました。おじぞうさまは、7体いるのです。でも、自律思考型AIは6個しかありません。 1体のおじぞうさまに自律思考型AIを組み込めないことは、確定的に明らかです。 「ああ困ってしまった、どうしよう。……そうだ、わたしの脳がある」  本当に困ったものなのはおじいさんの頭ですが、 おじいさんは、作業補助ロボットに命じ、自らの脳を残りのおじぞうさまに移植しました。  これでおじぞうさまはぜんぶ、自らの意志を持ち、思考し、判断するロボットになりました。 「ああ よいことをした。さて、うちにかえろう」  おじいさんは、家に帰ろうとしました。 しかし、いまやおじいさんの脳はおじぞうさまの中です。体はじぞう、頭脳は老人と言っても過言ではありません。 「ううむ、どうしよう。しかたがない、このまま帰っておばあさんにわけを話そう」 「ただいま、いま帰ったよ」  おじいさんの技術により、いかにも人工音声といった不自然さは無いが、おじいさんでは無い人の声のため、 いささかの不審とともに戸を開けたおばあさんはびっくりしました。 そこに立っていたのはまるで人間のようにふるまうおじぞうさまなのですから、むりもありません。  おじいさんは、腰を抜かしてしまったおばあさんをひっぱりおこすと、史上初の地蔵人間になってしまったわけを説明しました。 「それはいいことをしましたね。おもちがつけないのはざんねんですが、いいことをして新年を迎えるというのはよいことです」  おばあさんはそういいました。  さて、おじいさんは、地蔵の体でしばらく暮らしていましたが、むしろこの方が前よりいいことに気がつきました。 おじいさんは、動力源に高効率太陽電池と大容量バッテリーの組み合わせを採用していたので、燃料費はタダです。 さらに、貧乏なおじいさんとおばあさんでも無理なく購入出来る材料でつくられているので、維持・管理もリーズナブルです。 その上、病気やけがにおびえることも無く、 そして、おじいさんは人類のつかめないはずだった夢、不老不死に手の届く存在となったのです。  そのことに気が付いたおじいさんは、おばあさんもロボじぞうにしてあげました。 おばあさんは最初こそ抵抗しましたが、ロボじぞうになってしまうと、すっかり満足し、おじいさんに感謝しました。  そしておじいさんとおばあさんは、周りの人間も次々とロボじぞうにして、みんなから感謝され、 お金もたくさんもらって大金持ちになり、人類史に燦然と輝く足跡を残しました。 もしかすると、これはおじぞうさまの恩返しだったのかも知れませんね。  だがしかし、本当にそうなのだろうか。 困難や危機を通じてこそ得られる生きているという実感を感じることも無く、 永遠に生き続けることが、果たして本当に幸福なのだろうか。  あるいは、これは、人間の卑小な考えで勝手につくりかえられたことに対して、地蔵が下した罰なのかも知れない。                            めでたしめでたし。
 むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。 おじいさんとおばあさんはとても貧乏で、しかもむかしのことだったので政府によるセイフティーネットが発達しておらず、 もうすぐお正月だというのにお餅をつくのに使うもち米を買うお金もありませんでした。 ぶっちゃけ、そんな実際的な利益の無い行事のために金を使おうと思うような精神構造だから貧乏から抜け出せないのではないか、 とお思いの方もいるでしょうが、 現実問題として金を持ってる側の人間にもそういった不合理な精神構造をした連中は結構いるものなので、 そういった合理性の度合いとその人間の財産との相関関係について断定的に語るのは少なくともこの事例からは不可能です。 まあもっとも、金持ってる側の人間に関して言うと、 金を絞るためについてる嘘を嘘だとばれないように自分も信じてるふりをしたり、 コミュニティーの平穏さを維持するために周囲と合わせて少なくとも表面上は不合理を受け入れたり    (この手の閉鎖的なコミュニティーは得てして広い意味での環境に取り残され、     内部競争に明け暮れているうちにコミュニティー全体が立ちいかなくなってしまったりするものですが。     ナチス高官が第三帝国の崩壊寸前まで権力闘争に執心だったことは象徴的です)、 財産を自分の能力で得たわけではなく、相続や運により得たという場合も多いわけであり、 この辺りの事情は社会というものについて非常に重要だったりするのですが、 これは>>882が思い付きをテキトーにネタにするSSであるので深く立ち入ることはしません。  そんなことを言っている間に、おじいさんとおばあさんは相談して、自律思考型AIをつくって町に売りに行き、 それで稼いだお金でもち米を買うことにしました。 「そんな物作れる奴等がなんで貧乏なんだ」というツッコみが賢明なる読者の皆さまから入るのは当然のことですが、 このSSはなにぶん高度電子機器が庶民レベルで普及しているどころか、産業革命すら迎えていない程のむかしの話であり、     ・ そうした社会環境下で高度な電子計算機があっても、それを必要とする実用品を生産することができないため、      単なる珍しい品としての価値しか持ち得ない。      技術は必要とされる環境にあるからこそ利用され受け継がれていくものであり、      このことは各地の技術の内容とその変遷を見れば明らかなことである。     ・ 上述の内容とも重なる部分があるが、社会に高度な電子機器を大量生産することが出来る技術的基盤が無い。      「その社会に構造を理解し、設計することが出来る人間がいる」ということと、      「その社会に十分な物的・人的資源とそれに支えられた技術レベルがある」ということは全く異なることである。      仮におじいさんとおばあさんにそうした技術基盤が整備出来れば、      この二人は社会を大きく発展させた人物として後世にまで名を残すことになる。      そしてそうした技術基盤の整備を行うのは、      社会において指導的立場にある人間、もしくはそうした人間に影響を与えられる人間でなければ      不可能であることを想起すれば、      この困窮したおじいさんとおばあさんにそれが不可能であることは明白である。      故に、おじいさんとおばあさんの個人レベルによる少量生産しか出来ないのであり、      その絶対数の少なさから言っても、(少なくとも一般に出回るレベルでの)実用性を持たない珍しい品にしかなり得ない。     ・ その希少性ゆえの高価な品として流通させるには、それに価値を感じる人間を一定数以上に増やす必要がある。      しかしそれは、いわゆるトレンドを生み出す、広い影響力を持った人間・機関、      またはそれに影響を与えることの出来る人間・機関でなければ不可能なことである。      上記のAIが結局個人レベルの少量生産しか出来ないのと同様の理由により、      これもおじいさんとおばあさんには不可能なことである。 等といった問題があるのです。 長いために要約すると、勢いで書いてる思い付きSSなんだからそんなにツッコむんじゃない、ということです。  さて、そんなわけで、おじいさんとおばあさんは自律思考型AIを6個こしらえ、 おじいさんが町まで出かけて売ってくることになりました。 購入者に対するサービスのため、自律思考型AIの取り付けを補助するロボットをつれて、おじいさんは出かけました。 「いやこの時代設定から言って『取り付けてくれ』とか言う奴いるはずねーだろ」 とおっしゃられるのは当然のことですが、 おじいさんとおばあさんは自律思考型AIを売ろうとしている、 すなわち購入者が存在しているということを暗黙の前提としているのです。 「その前提がそもそも間違ってんじゃねーか」 と思われるのは当然なのですが、「需要があるから供給する」のではなく、「供給するために需要を設定する」というのは、 よくあることなのです。 実はこれは、生活に必要な物品が既に十分にあり、供給が飽和状態にあるが、 市場経済というものは大前提として経済的成長、すなわち供給側の得る利益の継続的増大を必要としている、 という現代社会においてこそ重要な課題かもしれません。 このため、様々な方法で需要を喚起しようと企業は血道を上げ、政府は新たな経済分野の開拓に躍起になっているのです。 つまり、ここでおじいさんとおばあさんについて言えば、 「『供給のために需要を設定しようと発想していること自体』が問題なのではなく、  『供給のために需要を設定し、その需要を実際に作り出すことが出来ていないこと』が問題なのだ」 とすることも可能です。 「供給のために需要を作り出す」ためには、やはり広範な影響力を必要としますが、 しかし、個人レベルにおける消費意欲というものには様々な揺らぎが存在しているため、 「一つの小世帯(おじいさんとおばあさん)が年始に必要な金銭を得る」程度であれば、 運により可能であるかもしれません。 ここまでで既に繰り返し述べているとおり、おじいさんとおばあさんには、経済構造に影響を与えるような能力は無いのであり、 そのような運にかけるのは、実際的な行動として理解されるべきです。 「自律思考型AIはいりませんかー、  限定的ではありますが自己解体・修復能力があり、さらにそれと自己学習能力と合わせて自己改修・改良まで可能な  自律思考型AIですよー」  町に着いたおじいさんは、早速声を張り上げ、通りを歩きます。  でも、おじいさんを呼びとめる人は誰もいません。  それでもおじいさんは声を張り上げるのをやめません。 家ではおばあさんが、おじいさんが上手いこと、どこかの馬鹿がどぶに捨てた金を持ってくるのを待っているのです。 しかし、おじいさんを呼びとめる人は誰もいません。  自律思考型AIを誰にも買ってもらえないまま、とうとう日が暮れてしまいました。 「ああ、おばあさんはがっかりするだろうな」  おじいさんはとぼとぼと、暗い道を家へと向かって歩きます。 途中で降り出した雪の中、おじいさんの進んでいく先に、おじぞうさまが並んでいるのが見えました。 おじぞうさまは吹きさらしの中、笠もつけずに立っています。 「おお おじぞうさま。こんな寒空の下おかわいそうに」  おじいさんは、おじぞうさまに積もっている雪を払い落してあげました。でも、雪はどんどん降ってきます。 これでは、また雪が積もってしまいます。しかし、おじいさんがずっとここにいて雪を払い落しているわけにもいきません。 「困ってしまったなあ…… おじぞうさまが、自分で雪を払い落すことが出来ればいいんだが……  そんなことが出来るわけもない…… いや、いいことがあるぞ」  おじいさんは、自律思考型AIを、おじぞうさまに組み込み始めました。 そして、おじぞうさまの体にセンサーや駆動機器などをつくっていきます。 そう、おじぞうさまを自らの意志を持つロボットにしようというのです。 優秀な作業補助ロボットが手伝ってくれるので、作業はどんどん進みます。  ところが、困ったことがありました。おじぞうさまは、7体いるのです。でも、自律思考型AIは6個しかありません。 1体のおじぞうさまに自律思考型AIを組み込めないことは、確定的に明らかです。 「ああ困ってしまった、どうしよう。……そうだ、わたしの脳がある」  本当に困ったものなのはおじいさんの頭ですが、 おじいさんは、作業補助ロボットに命じ、自らの脳を残りのおじぞうさまに移植しました。  これでおじぞうさまはぜんぶ、自らの意志を持ち、思考し、判断するロボットになりました。 「ああ よいことをした。さて、うちにかえろう」  おじいさんは、家に帰ろうとしました。 しかし、いまやおじいさんの脳はおじぞうさまの中です。体はじぞう、頭脳は老人と言っても過言ではありません。 「ううむ、どうしよう。しかたがない、このまま帰っておばあさんにわけを話そう」 「ただいま、いま帰ったよ」  おじいさんの技術により、いかにも人工音声といった不自然さは無いが、おじいさんでは無い人の声のため、 いささかの不審とともに戸を開けたおばあさんはびっくりしました。 そこに立っていたのはまるで人間のようにふるまうおじぞうさまなのですから、むりもありません。  おじいさんは、腰を抜かしてしまったおばあさんをひっぱりおこすと、史上初の地蔵人間になってしまったわけを説明しました。 「それはいいことをしましたね。おもちがつけないのはざんねんですが、いいことをして新年を迎えるというのはよいことです」  おばあさんはそういいました。  さて、おじいさんは、地蔵の体でしばらく暮らしていましたが、むしろこの方が前よりいいことに気がつきました。 おじいさんは、動力源に高効率太陽電池と大容量バッテリーの組み合わせを採用していたので、燃料費はタダです。 さらに、貧乏なおじいさんとおばあさんでも無理なく購入出来る材料でつくられているので、維持・管理もリーズナブルです。 その上、病気やけがにおびえることも無く、 そして、おじいさんは人類のつかめないはずだった夢、不老不死に手の届く存在となったのです。  そのことに気が付いたおじいさんは、おばあさんもロボじぞうにしてあげました。 おばあさんは最初こそ抵抗しましたが、ロボじぞうになってしまうと、すっかり満足し、おじいさんに感謝しました。  そしておじいさんとおばあさんは、周りの人間も次々とロボじぞうにして、みんなから感謝され、 お金もたくさんもらって大金持ちになり、人類史に燦然と輝く足跡を残しました。 もしかすると、これはおじぞうさまの恩返しだったのかも知れませんね。  だがしかし、本当にそうなのだろうか。 困難や危機を通じてこそ得られる生きているという実感を感じることも無く、 永遠に生き続けることが、果たして本当に幸福なのだろうか。  あるいは、これは、人間の卑小な考えで勝手につくりかえられたことに対して、地蔵が下した罰なのかも知れない。                            めでたしめでたし。 #back(left,text=一つ前に戻る)  ↓ 感想をどうぞ(クリックすると開きます) #region #pcomment(reply) #endregion

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