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序章 『上海暗躍』

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 西暦二〇五六年七月、民族間、宗教間で端を発した戦争の火種は、一気に国家間の本格的武力衝突へと発展した。世に云う〝第三次世界大戦〟の勃発である。
 その背景には、当時において、すでに世界の先頭に立ち、独裁的ともとれる思想と理念により、世界の政治経済の方針を指揮していたアメリカ合衆国に反旗を翻した形でもあった。
 同年十二月、ロシア連邦共和国は、核兵器妨害装置(NuclearJammerSystem)の開発に成功し、これによって世界が核の脅威にさらされる事態を未然に回避する。
 その行為は、地球という星にとって有益なものであり、賞賛に値する功績でもあったが、同時に人々が営む世界に在っては、止まることのない戦争という存在の愚かさをまざまざと見せ付ける結果となった。これより、〝第三次世界大戦〟は、次なるステージ、〝第一次非核大戦〟へと移行した。
 アルティメットウェポンとまで称された核兵器を封じられた各国は、泥沼の闘争期を向かえ、ある国は消滅し、ある国は解体された。
 核兵器妨害装置は、兵器のみならず、生活の基盤を担っていた原子力発電施設の稼動をも不可能としたことで、戦時に在って世界の人口は緩やかに、だが確実に減少する。
 人々の生活基盤が脅かされる最中、体よく前線基地の役割を押し付けられた国が存在した。東の洋上に浮ぶ小さな島国の名を日本と云う。
 日本国には、アメリカ海軍の主力、第七艦隊が停泊し、そこをロシアとの主戦場に選んだのだ。
 各国から敵味方入り乱れた流入が続き、数年の後に島国は解体され、後にはスラム街のみが残された。
 それでも戦争が止まることを知らなかったのは、結局のところ、戦争という背景で目覚しい発展を続けた軍需産業、ひいては、それを下地とした後の世に活きる科学技術の進展を各国の上層部が目の当たりにし、一部の利権に凝り固まった面々が、この戦争を盤面上のチェスかなにかと勘違いし始めた愚鈍さに他ならない。
 戦時に在って、世界は確かに凄まじい発展を見せた。大気に満ちるマナの存在解明、本来活動することのない脳の七割を解放する術、動物と人の因子を使った融合実験、機械技術の発展、数え上げればきりなどない。
 しかし、各国の中枢が、この期に及んで暗君ぶりを発揮していた事実は、今更言うまでもないだろう。
 西暦二〇六二年七月、〝第一次非核対戦〟開戦から六年が経過し、世界は完全に疲弊した。高い技術力が培われ、後の世を愁う心配などない。だが、国という枠組みが生きられる時代も、また終焉を迎えたのだ。
 国家は、信頼性、財政などあらゆる面において見放され、人々の帰属意識は薄れていった。
 同年十月、戦争を生き延びた諸国は休戦条約を締結、勝者のない。いや、一部の選民思想家たちのみが甘い汁を吸い上げた戦争が、一端の終わりを告げた。

 その後も、技術より安全、そして経済復興を求める人々の叫びは、開発競争に突入した各国の上層部の前に踏み躙られる。他国に遅れることを恐れ、国々が技術躍進に邁進した時代であった。
 事ここに至って、民衆の怒りは限界に達そうとしていたが、ついに彼らの願いを聞き届ける者たちが現れる。
 それこそが、当時、自国家解体や国内情勢の悪化を鑑みて、国という枠組みに早々の見切りを付け始めてた〝企業〟という存在であった。
 各国に存在した巨大企業は、未だ世界に残る中小企業を統合し、戦後の経済復興の立役者となる。
 これより四年の後、企業体は国家体制を旧暦の体制とし、国という存在自体の排斥を決定した。
 国とは果たしてなにか。それは人の集合体のことだ。企業と国、どちらに帰属するかを選択できるのなら、この時代の人間たちは、確実に企業を選ぶだろう。
 間違っても、各々の利権のために六年も世界大戦を継続するような暗君に従う者など存在しない。
 そして更に二年、最後の国家アメリカ合衆国が七月に解体、開戦も七月、休戦も七月なら、国家消滅も七月だった。皮肉な話だ。
 世界は黎明を向かえ、旧暦最後の夜が開ける。新暦元年を迎えたのだ。
 その後、各地の企業は、秩序回復と経済復興に尽力した十二の企業体を世界の頂点とした〝黄道十二宮協会(ゾディアックソサエティ)〟を発足し、人々が望み続けた安全を世界に約束した。
 協会主導の下、新たに建設されたドームシティが、人々の生活環境の場となり、創り上げられた安寧に人々は涙した。
 それから五十六年が過ぎ、ときは、黄道暦五十六年となる――。


   序章 『上海暗躍』



 天上の夜空に勝るとも劣らない地上の星々、大都会の夜景を惜しげもなく輝かせる大地は、現代に一般的となった企業が運営するドームシティの中でも、黄道十二宮協会(ゾディアックソサエティ)の一つである中華系最大の企業体、九龍公司(クーロンコンス)が治める巨大都市〝上海シティ〟だ。
 その形状は半球形をした透明な丸屋根を持つまさしくドームであり、アーチを旋回した構造をしている。球形をしていることから屋根の構造自体が自重を支えるため、他の支柱などは存在しない。
 ドーム内では、気温や湿度が常に一定に保たれ、病原菌を始めとする悪性の物質を自動滅菌するシステムが設置されるなど、一年をとおして快適な環境が約束されている。
 町並みが夜空を背負う現在の時刻は、深夜の二時を回ろうとしていた。
 そんな巨大ドームシティの一角、天を衝く高層建造物が立ち並び、街中に輝くネオンを吐き出している上海の中心商業地黄浦区(こうほくく)は、未だ眠らぬ街の様相を呈している。旧暦にはイギリス租界が存在したこともあり、西洋風の町並みが混在する乱雑した雰囲気を併せ持っていた。

 喧騒に賑わう深夜の繁華街を外れた裏路地で、見目も麗しい少女が人気のない夜道を颯爽と歩んでいた。
 人工着色では決して叶わない金糸の髪を結わうことなく腰元まで伸ばし、緩やかに縦巻きカールしたロールヘアが夜気に晒されて揺れ、白磁の肌に吸い付くような瑞々しい輝きを放っていた。わずかに気位の高さが窺えるきつめの瞳は、白人として一般的な碧眼でありながら高貴なサファイアを想わせる。
 身に纏った膝までの長さを持つ黒のドレスは、袖、裾、胸元にレースをあしらったシンプルなデザインであり、ゆとりのあるスリーブが二の腕まで伸びていた。脚を包む黒のストッキングと併せて、防刀防弾に特化した特殊繊維製だ。
 動き易さと実用性を重視しながらも、フォーマルな装いを崩さない着こなしである。
「まったく、よりにもよって上海まで追い立てられるなんて」
 裏路地の最奥にある安アパートメントに至ったところで周囲を見回す。人気がないことを確認すると、おとがいに手を当てて思考に没頭し始めた。
「迂闊でしたわ。こんなに早く手が回るなんて……。しばらくは上海を動けませんわね」
 そう結論付けて正面のアパートメントを眺める。彼女にとっては耐えられないほどにぼろぼろだが、今は上等なホテルに泊まって無駄に目立つような事態は避けたい。
 諦めの溜息と共に借家へ戻ろうとした刹那、路地裏に強烈なサーチライトが射し込んだ。
 鋭い光線が一瞬にして少女を囲い込む。
「くっ」
 唐突に降った光を遮る細腕の先で、軽装甲車両サクソンに搭載されたサーチライトが輝くのを見た。
 ――GKNサンキー社製のAT155 Saxon6。
 GKNサンキーはヨーロッパ系の軍産企業、そこの製品を配備しているということは、明らかに追手だ。
「動くな! レイチェル・フローライト。周辺は完全に包囲した」
 車両の前方に現れた黒服の男が一声を発した。路地の四方から延びる光線が、脅しではないことを如実に物語っている。
「あら、随分と徹底した念の入れようですこと。このような歓待はいつ以来でしょう」
 光を遮って細めた瞳と身構えた姿勢はそのままに、危機的状況を忘れさせる透き通った優雅な声音が少女――レイチェル・フローライトの唇から紡がれた。
「減らず口を……」
 どれほど優雅に振舞おうとも現状は最悪だ。サクソンには7.62mm機関銃L77がサーチライトの隣に設置されている。光線が強すぎてレイチェルの側から車上を視認することは不可能だが、あんな物で掃射されたら少女の細身など一瞬で肉片に変じるだろう。
 しかし、絶体絶命の最中に在って、それでも慌てることなく自身の内界に共存する力の象徴と、外界のエーテルへ意識を集中させた。
 レイチェルの力は逃げることに特化し、それにかけて右に出る者はいない。焦る必要など微塵もないのだ。
「残念だが、ミスティックは使えんよ」
 焦る必要などない、筈だった。
 路地裏へ歩み出た男の嘲笑を含んだ言葉とサクソンの上部でわずかに聞こえる駆動音。吸い込まれるように消えていく虹色の光彩に気づき、レイチェルは表情を驚愕に歪める。
「アンチイーサシステムッ」
「そういうことだ。周囲六メートルのエーテルは完全に遮断されている。君たちミスティックにとっては天敵だろう?」
「おのれっ……。貴方がたは、どこまでその威光を失墜させれば気がすむのかっ!」
 押さえ込んできた感情が爆発した。光を遮るために翳した腕を振りぬき、厳しい面持ちで黒服に詰め寄る。
「こんなことでは先代もお嘆きに」
「黙っていろ!」
 背後に忍び寄っていた男が、ワイヤー針のスタンガンを射ち込んで高電圧を流し込んだ。
「いっ」
 突然の衝撃に女性の身で意識を保てる筈もなく、何が起こったのか理解した頃には、膝から脱力してアスファルトの冷気を頬が感じ取っていた。
 最後の力を振り絞り、射殺すような視線を眼前の黒服へ向けると、レイチェルの意識は抵抗も空しく霧散した。
「手間を掛けさせてくれる。――運べ」
 彼女を収容したサクソンが、六台編制で上海の夜に溶けてゆく。
 人気の失せた路地裏では、少女の纏った芳香だけが荒事の痕跡を主張し、誰にも気づかれることなく刹那に香って儚く散った。

                       ◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇

 一部始終を監視するように上海の映像を捉えていた存在が、わずかに唇を噛んだ。
 モニターを見つめるスーツ姿の男が、口元を歪めて呟く。
「厄介な……」
 考え込むようにして視線を落としたのも束の間、素早い動作で電源を落とし、男が部屋を立ち去った。
 後には深い闇だけが残り、上海の裏で静かに勃発した事件は一時の閉幕を見た。名探偵が介入するのは、もう少し先の話である。
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