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太刀花悠香は強者だ。それを疑う者は世界に誰ひとりとしていないであろう。
世界に存在するあらゆる企業と渡り合い、厳重な防衛をかいくぐって機密を盗み、執拗な攻勢から逃れ切って命を繋ぐ。十二宮どころか、噂では『在りえざる黄宮』の秘密さえ握っているとさえ言われている。
勿論、在りえざる黄宮なるものが本当に存在しているのかどうかさえ多くの人間は知らない。それでも、太刀花悠香という女性の名の前にあっては、彼女を引き立てる為に実在を認識させられる。それほどの人間だ。
今まで命を狙われた回数は三桁でも足りず、名のあるハンターとも名もなき正義とも名を伏せられた超人とも戦い、その上での生存だ。
悠香自身、自分の力量と努力に対する自信によって、常の生存を確信している。勝利を掴めない時は多くとも、決して敗北を喫さない。
そんな太刀花悠香をして、今の状況は非常に厳しいものだった。初めて死を意識する程に、危険な状態に置かれている。
「あはははは、隠れようとも無駄だよ。君の命は私が握っている。いやいや申し訳ない、それは言い過ぎだった。私のような常識人にそんな事ができるはずはない。私は握らずに殺すしかしない、安心だろう?」
安心できる訳がないでしょう。悠香は内心毒づきながら、逃げるタイミングを伺う。

事の始まりは一時間程前だ。自分の隠れ家の一つであるビルが倒壊させられた。
本能的に危険を察知して崩落に巻き込まれる事は避けたが、それすら相手の狙い通りだったらしい。逃げ出したその先に、その男はいた。
男は悠香がその存在を認めるより早く、奇襲をかけた。窓から飛び出した瞬間、一撃必殺、セラミックソードよりも鋭い手刀が悠香の首を捉えていた。
それを回避できたのは、正しく奇跡と言う他ない。100回のうちで1回でも成功したら良い程度。避けるタイミング、危険に気付く為の直感、窓から飛び出した位置、一つ一つの行動にひとつずつ正解があり、全問正解しないと零点になるテストで満点を取る、しかもその問題の難易度は全てポアンカレ予想を解くようなレベルだ。悠香の実力を持ってしても、奇跡としか呼べないレベルだった。
「おやおや驚いた。一撃で仕留められなかったのは久しぶりだよ、驚くね。いやいや、称賛すると共に遺憾だと言わせて貰うよ。私は生殺与奪の天上位にいる身として、粛々と職務を遂行しなければならないのだから」
だが、どうやら太刀花悠香は神に嫌われているらしい。
奇跡によって危地を逃れたはいいが、逃れた事自体が危地だった。
「仕事は大事だ。君もそう思うだろう? 私はそう思う。真面目なものでね。だから粛々と粛々と粛々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々と、何に対しても誰に対しても文句も言わずに言わせずに仕事に励むんだ。だから、あまり逃げられると、その、何だよ、困る」
言葉が終わるのを待ったりせず、悠香は全力で逃げていた。
(……最悪、最低最悪……! よりにもよって地獄の最下!)
普段の余裕と傲岸不遜な態度はなりを潜め、代わりに危険を告げるセンサーだけが煌々と自己主張している。
【嶽屋】の長、嶽夜叉汚嶽。≪真言宗山階派十三家≫が一家の長で、世界でも最上位、いや、天上位の殺し屋。すなわち、世界一の殺し屋。言葉にすれば、たった"それだけ”だった。
歴代当主はその生き様から早死する事が通例だが、嶽夜叉汚嶽は現在で二十年目、三十歳まで逝きそびれて男。言葉にすれば、たった"それだけ”だった。
言葉にすればたった"それだけの事”が、対峙した瞬間に"それほどの事”にシフトする。
実際に出会って見れば分かる、嶽夜叉汚嶽、【生殺与奪の天上位】の意味が。
「―――‐ッ!?」
背中から巨大な手が襲ってくるような感覚。いや、感覚というわけではない。実際に、叉汚嶽の手が悠香の背後に伸びている。
一体どうやって。間に合う筈が無い。そんな考えが彼女の頭を掠めたが、すぐに掻き消す。どうやってだろうがそこまで魔手は伸びているのだ。事実として、そこにある。どんな魔法を使ったのか知らないが、何らかの技があるのだろう。その事を追求するより、まずはどう避けるかが重要。
「……遠慮は不要ね!」
避けるより攻める方が早い。
自らのチャームポイントであり、最大の武器である日傘を開く。一見して変哲のない日傘なのだが、その中身はオーバーテクノロジーの集合体だ。各所から盗み解析した情報、その集大成の一つが彼女のパラソル。それを開き、柄のコンソールを操作。
その瞬間、僅かに大気が揺らいだかと思えば、空間が一気に沸騰した。
高周波誘導加熱装置(マイクロウェーブハイブリッドシステム)。現代科学で再現は可能だが、一瞬で空気を沸騰させるような熱伝導など在りえない。
間違いなく殺った。悠香は安堵の息を吐き、
「ッツゥ!?」
二度目の奇跡を起こした。
完全に油断していた背後からの一撃。体内から血液という血液を熱に変えて殺した筈の相手が、まだ自分の背後にいて、腸をバラそうと右腕を突き出していたのだ。
悠香は、叉汚嶽の手が伸びた事によって起こった風で存在に気づき、気づいたと頭が理解する前に体がよけていた。
それでも開かれた五指のうちの小指が僅かに脇腹をかすり、彼女の肉をケプラー繊維のブラウスごと削っていった。ただ軽く小指が撫ぜただけだというのに、その箇所は完全に消失した。
もしも回避が遅れていたら、腹部が完全に失われていただろう。その予感がある。
「あははははははは、驚いた。二度も損なったのは久しぶりだ。久方ぶり、散らからない相手は珍しい。貴重だ。死蝶が舞って死鳥が歌った。山茶花に達せないとは美しいね。その血、その理、その陽、その音、その利を乱れ散ろうか」
ゾクリ、と悠香の背に悪寒が走る。叉汚嶽の口調が、変わった。
やけに落ち着いたテンポは変わらない。ただ、その言葉の意味が消えた。それが、一種の合図だと、悠香は本能的に察する。
「羅利に骨灰に羅刹に荒廃。殺そう、生切よう。居切り慰気り生き切ったろう。あはははははははは、ふふふふふふふふふ。どうだい、君は生忌て変えれるかどうか、私の、嶽夜叉汚嶽の名において、【生殺与奪の天上位】として決定しよう。恐れることはないよ、私は至って常識人だからね。そうだろう? 誰でも何でもどんな相手でも平等に殺す。神も虫も等しく殺す。非常に平等なんだ。でも勘違いしないで欲しいのは、私にも好悪の感情はある。好きな相手もいるし嫌いな相手もいる。だけどほら、大人としては好悪はともかくとして平等に接するのがルールだろう? 私はそれを弁えて、日々粛々と業務に励んでいるんだ。どこかの連中みたいに、自分の欲望を全面に押し出したりはしない。きちんと平等に、一歩下がった上で殺しているんだ。どうだい、至極真面目だろう?  ふふふふふふ、あはははははははははははは」
狂っている。嶽夜叉汚嶽は、ひどく冷静に狂っている。
表情も雰囲気も、静かで冷たいままだ。冬を思わせる冷たさ、そこに温かみなど残っていない。
「全く、ハードな日……!」
そうして立ち向うことを諦め、逃げに徹し、今に至っている。
逃げに逃げ、隠れに隠れても、叉汚嶽は追ってくる。ひどく静かに、冷静に。時に豪快に、騒々しく。
狙われている事が分かっているのに、奇襲よりも音無く忍び寄り。諦めたかと思っていたら、隠れた竪穴ごと爆発させる。しかもその全てが一撃必殺、太刀花悠香でなければ100は軽く死んでいる。太刀花悠香であっても、死を覚悟したのは10回を越す。恐るべきは、それがたった一時間で行われたと言う事だ。
「間に合うかどうか、は半々ね……」
無論、悠香もただ逃げ回っていた訳ではない。
逃げ回りながら、この場を切り抜ける為のあらゆる手段を講じていた。成功するかどうかは微妙な所だが、取りうる手は取っている。
後は、それが花を咲かすまで逃げ切れるかどうか、という問題のみ。
「あはははははははは、隠恋慕も悪くない。いやいや私は大人だけれどね? 全く片付けられない子供だと邪推する人が多いんだ。そのおかげでこんなちょっとした事にも反応してしまうんだよ。困った事だ、そしてそんな邪推をする人もいつの間にか散らばってしまう。これは大人とか子供とかじゃないんだよ、そう、私が生殺与奪の天上位にいる限りの定めなのさ、人は死ねば綺麗だけれど、殺すと散らばってしまうんだ。決して私が片付けられないという訳じゃないんだよ」
朗々と語る言葉に乱れはなく、一見して和やかにすら感じる。勿論、油断すれば一瞬で殺される事は間違いない。
だから油断も何もせず、いつくるか分からないタイムリミットまで逃げ続ける。そのつもりだった。それだけに全身全霊を傾け、逃げ切るつもりだった。
「……え? これは、一体どういう事……ですの?」
だから、注意を払いきれなかった。自分でも相手でもない誰かが入ってこないようにする、という配慮をしそこねていた。
シティからは大分距離がある。難民がいるような区域でもない。だから入ってくるはずがない、という予想だけで、それ以上の注意をしていなかった。
見た所10を超えたか超えていないかといった年齢だ。身なりはしっかりしている。シティ市民、或いは年齢的に学園都市の可能性が高い。噂に聞く学園都市トランキライザーの生徒であれば、様々な依頼によってこんな僻地に来る事もあるだろう。フィールドワークか何かという可能性もある。
そうしていたら近くで轟音が聞こえたので来てみたが、企業間戦争でもあったのかと錯覚する程に予想外の惨状を見て呆然とした、といった所か。その反応は人として正常ではあるが、それではダメなのだ。
「うん? おやおや、良くないね。子どもが大人の仕事場に来るものじゃないよ。ああ、それとも職業体験という奴かな。それはいいね、実にいい。どんな事でも貪欲に経験してこそ私のように常識的な大人になれるんだからね。私も昔から、どんな仕事も文句も言わずにやってきたからこそ、今のように居切る事が出来ているんだから」
悠香には、この目の前の男が少女を見逃すとは思えない。
彼女は己のポリシーとして、できるだけ不要な被害を出す事を望まない。巻き込むこと自体に躊躇いはないが、その結果として誰かが傷つくのは好きではない。それが全く無関係であればなおさらだ。
対し、叉汚嶽は己のポリシーとして、誰でも殺す。殺人鬼とは違い、理由さえあれば何でも殺す。
彼はこう語る。
『私は誰でも殺すし何でも殺す。趣味嗜好なんてない。変態的なカニバリズムやネクロフィリアなんか考えただけで怖気がするよ。理由もなく人を殺すマーダーや殺しに主義主張を交えて悦に浸る変質には虫酸が走る。その点、私は冷静だ。沈着だろう? 理由がなければ何も殺さないし、理由があれば何でも殺す。ほら、常識的だろう。あはははは、ふふふふふふ』
事実、彼も本当に無関係な相手は殺さない。ただ、"殺しに居切る”嶽夜叉汚嶽は、効率良く仕事をこなすという理由によっても容易く殺す。説得より、交渉より、利用より、尤も簡単な手段として殺しを選ぶ。
ならば今はどうか。今は仕事の真っ最中で、少女は小石程度の、一匹の蟻程度の障害には成り得る。それで、叉汚嶽には殺す理由が出来上がる。
「ひっ……!」
少女は、目の前の男が悪名高い嶽夜叉汚嶽だとは気づいていないだろう。それでも、その異質な雰囲気だけで恐怖するには充分だ。
「……っ、スナッチ(奪え)!」
叉汚嶽の魔手が少女に伸びるのを見て、悠香は咄嗟に折り畳み傘を抜いていた。その中には、青線の二本ラインが刻まれた魔弾。四等級第二位、六番カートリッジが装填されている。
つまり、この折り畳み傘にしか見えないものは、ウィザードなのだ。自作ウィザードなどという規格外のアイテムを、悠香は構えていた。
悠香は聖人の類ではない。滅多にはしないが、人を殺した事もあるし、人殺しを見逃した事は多数だ。巻き込まないというポリシーも、自分が助かる事以上に優先させることなど滅多に無い。
それならば何故、彼女はウィザードを抜いたのか。しかも、言葉はウィザードのリミッター解除コードだ。精神、下手をすれば生命力さえ食っていくものまで使って。
「弾けなさい!」
柄先の砲身から青の稲光が輝き、寸分違わず叉汚嶽を捉える。
もし危険を承知で動いた理由を聞かれれば、悠香はこう答えるだろう。『お宝を奪われる訳にはいかない』と。
要は、自分が助かる事以上に優先させるポリシーがあった、という事だ。
『ペルソナノングラータ(世界の敵)』、またのエイリアスを『盗の帝釈』。彼女の何よりのポリシーは、『全ての財は私のもの』というもの。人材知財、財と名のつくあらゆるものは自分のものだと豪語する彼女にとって、叉汚嶽に殺されようとしている少女は財と判断された。
一体どういう判断をしたのか分からない。そもそも判断出来るほどの要素があったのかも不明。それでも太刀花悠香は少女を財に値すると判断し、それを奪わせない為に動いた。
死ぬ気はない。死ぬ気はないが、彼女の信念に基づき。多々の危険程度に怯んでいる場合ではない、と判断したのだ。
「砕けろっ」
弾丸は高速回転しながら竜巻状に飛び、直線衝撃を与える。
一点突破の完全破砕の六番カートリッジとはいえ、普通ならば数人は巻き込む威力だ。それを見事に叉汚嶽一人に狙いを定め、少女は衝撃で少し吹き飛んだ程度に抑えたのは神業と言える。それも、吹き飛んだ事さえ、叉汚嶽から少しでも離すという配慮からだ。
「こっちへ! 今のうちに、早く!」
少女は悠香の声に従い、慌てて動く。
悠香を信頼したとかそういう訳ではない。出会ったばかりで、そもそも隠れていて今までその存在にさえ気づいていなかっただろう。言葉に従った理由は、軽いパニック状態で指向性のある言葉を与えられたから、考えるより先に体が動いただけのこと。勿論、悠香はそれを狙っていた。
「あの、これはどういう事ですの?」
「説明は後、逃げるわよ」
やや体力を持っていかれ、少し足元がふらついた。が、問題ないとすぐに立て直す。
「え、逃げるって」
少女が首を傾げる。あれだけの威力だ、普通は生きていないと考える。
それでも動き出した悠香に従ったのは、言葉の途中で、仲間がいるという可能性に辿り着いたからだ。
その予想は本来なら褒められるべき推論だが、現実、この場における非常識に過ぎる現実はそんな答えを軽く凌駕する。
「この程度で死んだら、逃げたりしてないわよ!」
叫び、同時に倒れ伏して地面を転がる悠香。一見して無様だが、その行動は正しい。
何故なら、嶽夜叉汚嶽の投げたナイフと銃弾が、彼女の上半身を雨霰と襲っていたから。もしもこの行動がなければ、間違いなく悠香は蜂の巣だったろう。
「いや、驚いた。本当に驚いた。さすがの私も驚いたよ。これだけ骨のある相手はほうせん以外でははじめてだ。敬意を評するよ。敬意を評して、ここから先は地獄への直下降ルートだ」
そう言って、叉汚嶽は両手を構えた。まるで構えに見えない構え、しかしそれが嶽夜叉汚嶽の"地獄”。等活地獄の世界。
「落花狼藉」
叉汚嶽が迫る。悠香は少女を背に庇い、日傘を最大に開く。
このパラソルは武器であり、同時に防具でもある。エアメタルジャケットクラスなら厳しいが、この世に存在する攻撃らしい攻撃の半数は防ぐ事が可能だ。核兵器にすら耐えられる日傘とは悠香の弁だが、それをハッタリと思わせない程度の強度が実際に存在する。
更に、これで攻撃を受けるという事は、防いだ後の反撃がほぼ確定すると言う事だ。特にグラップラーを相手にした時、パラソルを盾として使えば6割の確率でゼロ距離射撃によって相手を圧倒できる。攻撃を防げなかった事なら一度もない。だから、傘で叉汚嶽の攻撃に対応したのは正解のはずだった。
「……そ、んな!?」
叉汚嶽の攻撃は、攻撃と言えるかどうかも怪しかった。音もなく悠香の正面から、パラソルを薙いだ。軽く右腕を横薙ぎに振るい、撫ぜた。
たったそれだけ。たったそれだけの事で、世界でも最硬度であり最強度でありあらゆる耐性を備えたパラソルが、粒子となって消えていく。微細な粒子レベルにまで細かく刻まれた結果、ぶわぁと風が生まれ、粒子が悠香の視界を埋めた。
だが驚愕している暇はない。まだ、叉汚嶽には左腕が残っている。
逃げる、という選択肢が真っ先に浮かび上がる。今なら、横に飛び込めば一撃は避けられる。
けれど、その選択はノー。もしそんな事をすれば、叉汚嶽は躊躇なく後ろの少女を刻むだろう。叉汚嶽の言った落花狼藉なる技、悠香のパラソルさえ撫でただけで等割したその技を人の身で受ければ、粒子が血風となって吹く事だろう。それを受けて生き延びられる筈が無く、また防ぎきれる筈もない。
ならばどうするか。己の矜持に従って、自分の財は命の危険があろうとも奪われる訳にはいかない。
ならば、ならばどうするか。何もしなければ死、かといって逃げる訳にはいかない。答えは一つ、凌ぎきる、だ。
――‐私の名は太刀花悠香、私の名は『盗の帝釈』!
彼女は誰か。太刀花悠香だ。
彼女は誰か。世界の敵だ。
彼女は誰か。盗の帝釈だ。
財と相対し、彼女は己の力を意識して自覚する。
太刀花悠香の強さとは何か?
グラップラーとしての能力。ノーだ。超一流には達しているが、目の前の嶽夜叉汚嶽のような極地には達していない。
スカラーとしての発明力。ノーだ。凡百の天才と比べるべくもないが、彼女は自分の力で新しいものを"開発”する事はない。理解する力と改良する力は凄まじいが、企業のように新技術を開発する事が出来ない。
彼女の一番の強みは、その通り名が示す通り。
『盗の帝釈』。この世にあってあらゆる財を無条件で奪うと言う神性。その名乗りこそが、彼女を強者たらしめる理由を示している。
『この世において財と名のつくものはすべからく私の所有物。知財人財金銀財宝、何であろうと私の手から逃れはしない。万物悉く奪い取る私こそがそう、盗の帝釈』
その信念を思い返して悠香は窮地に微笑み、攻め込むという選択をした。
暴挙にしか見えない行為。自ら相手の射程へ飛び込み、叉汚嶽の懐に入る。
グラップラーとしての格が違う以上、悠香がイニシアチブを取ることはない。不意打ちならともかく、正面からであれば先に動いたということが決して有利に働くことはない。
叉汚嶽は悠香の行為を怪訝に思いながらも、必殺の左腕を繰り出して。
「…………ほう」
はじめて、驚愕した。
高周波誘導加熱装置(マイクロウェーブハイブリッドシステム)を受けても動じなかった男が。
六番カートリッジをまともに受けても表情ひとつ変えなかった男が。
"生殺与奪の天上位”嶽夜叉汚嶽が、はじめて驚愕の表情を浮かべたのだ。
「痛ぅ……」
悠香の左手は、粉々になって吹き飛んでいる。粉々に砕かれ、肉片が粒子となって血が粒子となってどす黒い血風になって吹き飛ばされている。
しかし、同時に。叉汚嶽の指先、爪の部分までと言うほんの僅かであるが、彼もまた同じように吹き飛ばされていた。指先を、血風に変えて風に散らされた。
「この経験は、流石に私もはじめてだ」
悠香が取った行動は、叉汚嶽の振るう左腕に、自分の左腕を合わせた。それだけだ。
叉汚嶽の速度に合わせられるかどうかが肝だったが、どうにか離されることはなく。左腕で防ぐ事に成功した。
狙ったのは対消滅。同じ技を繰り出すことで、相手の攻撃を無効化する。或いは、同等の被害を与えて引き分けに持ち込む。
結果として、悠香は左手を失い、叉汚嶽は左手の指先を失った。そこを見れば完全な失敗で、狙いは果たされなかった事になる。しかし、驚愕するべきはそこではない。
叉汚嶽と五分の勝負をして五体満足である裏沫鵬閃曰く、叉汚嶽の技は「嶽夜の“地獄”」。しかしその真相は彼をして語られておらず、叉汚嶽と戦って"生存する”という驚愕すべき結果を残したほんの僅か、10に満たないとさえ言われる生存者達をして秘せられる。地獄の真相を目撃して生還した者がそもそも少数過ぎるので、彼の"地獄”の真実は世界的にも定かでない。
当然、悠香とてこんな恐るべき"地獄”だとは知らなかった。おかげで貴重な、下手な企業ならその総資産と匹敵する価値のあるパラソルを砕かれてしまった。
「まさか、私以外にこれを使われるなんて」
太刀花悠香は、その今はじめて見た筈の技を。見るもの全てを血風で散らす地獄を、模倣して使ってみせたのだ。本家たる叉汚嶽の威力とは比べるべくもないが、そういう問題ではない。嶽夜叉汚嶽、嶽夜の長のみが使える筈の技を、何の繋がりもない彼女が使ってみせた。それだけで、充分に驚嘆に値する。
『盗の帝釈』。この世にあってあらゆる財を無条件で奪うと言う神性。
知財、人財、財宝。彼女にとって、技もかけがえのない"財”だ。
彼女は、嶽夜叉汚嶽の技を"奪った”。それこそが、彼女を強者たらしめる本当の理由。
ミスティックやサイキックの特殊例を除き、彼女に今まで奪えなかったものはない。物も、人も、知識も、そして技術も。
決して創造主には成り得ない。いつだって彼女は後を追い、奪い、追い越していく。技術が、知識が、人が。世界が際限なく進化していく度に、太刀花悠香は際限なく進化する。
「だけど、次はない。そうだろう?」
けれど、その太刀花悠香を持ってしても、嶽夜叉汚嶽には勝てない。
彼女に奪えないものはないが、それをどこまで高められるかは別問題だ。スカラーとしては超一流、並の科学者が彼女の知識を全て手に入れたとしても、同じように改良出来るかどうかは怪しい。けれど、もし彼女と同じ知識を手にいれれば、悠香以上の改良を施す事のできる発明家は多くはないが存在する。グラップラーとしても同様だ。
太刀花悠香はその天性から、如何なる分野においても超一流。しかし、どの分野でも、極限に達する事が出来ない。
それでも並の天才、一つにおいて悠香よりも優れた相手であろうとも、普段はそうそう負けはしない。一つの事で負けていようと、他の分野で圧倒していれば、総合的に悠香が勝る。
例えば、悠香のグラップラーとしての実力が80としよう。そして相手がグラップラーとして100の実力を持っていた。
その場合、もしもグラップラーとして決闘すれば、十中八九相手が勝つ。けれど、勝負はそう単純ではない。
グラップラーとして80。しかし、スカラーとして他の誰も持っていないような兵器を有し、ソルジャーとしての戦術眼を有していれば? 単純に、80に他の要素がプラスされる。戦いとはそういった総合に運を加えて決まるものだ。だからこそ、全てにおいて世界で最上位の実力を持つ悠香は、例え自分より優れた超人相手に対しても平然と勝って魅せる。
けれど、叉汚嶽のような。超人の中にあって超人と呼ばれる化物相手には勝てる気がしない。言ってしまえば、叉汚嶽は1000の力を持っているようなものだ。幾つの要素を悠香が持っていようが圧倒される。そんな相手だ。
「そうね。でも、これで私の勝ちよ」
だからといって、負ける事もない。
悠香は一つの事においては頂点に立てないが、その幅広さでは右に出るものはいない。それゆえにいつだって、勝利パターンは複数選択できる。
叉汚嶽を倒す意外にも、いくらでも勝利条件を満たす方法はあるのだ。悠香は、そういった方法の殆どを選択できる応用性を持っている。
「タイムリミット、ってところかしら?」
笑みとともに告げられた言葉。同時に叉汚嶽の携帯が鳴る。
「おっと、失礼。もしもし? ……ああ、分かりました。そのように」
短く会話して携帯を切る。電話は依頼主からだった。殺し屋『嶽屋』に太刀花悠香の抹殺を依頼した相手が、キャンセルを入れてきたのだ。
「ではお嬢さんがた、私はこれで」
何の説明もせず、未練がましい事もなく、あまりにあっさりと叉汚嶽は去っていった。
その気配が完全に消えたのを見計らってから、悠香はその場にヘナヘナと崩れ落ちる。緊張の糸が切れたのだ。
依頼主から引かせるように仕向けたのは、何を隠そう悠香だ。工作を依頼し、搦手から攻めていた。
ただし時間的に間に合うかと、何よりも依頼が消えた後にどうなるかが賭けだった。殺戮集団『嶽屋』、”殺し屋”嶽夜、理由があれば誰でも何でもいつでも殺す"生殺与奪の天上位”嶽夜叉汚嶽。彼が、依頼がなくなったという程度で殺す理由を失ってくれるかどうか。勝率の低い賭けではあったが、今回は幸運にもジャックポットが出たらしい。恐らく、次はないだろう。
寧ろ、次に出会えば『嶽夜叉汚嶽の技を使える』という堂々たる理由で殺されるかもしれない。叉汚嶽が自分の技に誇りや伝統、隠蔽の意思を持っているなら十分な理由になる。叉汚嶽でなくとも、秘伝の技を盗まれるくらいなら、というのは意外と多いものだ。
見た所、あまりそういうのを気にするタイプにも見えないが。何にせよ、二度と出会いたくはない相手だ。
「あ、あのっ! 危ないところを助けて頂いてありがとうございましたわ!」
「ん? ああ、気にしないで。元はこっちが巻き込んじゃったようなものだしね」
深々と頭を下げる少女の眼には、尊敬の色が混じっている。これだけの超越者と渡り合って、しかもその理由は少女を守るため、と見えてもおかしくはなかった。そういう感情を抱くのはおかしいことでもない。
「いえ、それでも助けて頂いた事は確かですわ。お礼をさせてくださいませ!」
言うと、少女は悠香の左腕、その断面に手を翳す。するとその部分から虹色の光彩が生まれた。ミスティックだ。
見れば、みるみるうちに左手が再生していく。グチュグチュと断面から手が生えてくる図はシュールだが、数分で完全に再生したのを見るに、かなり強力な能力だ。
「凄いわね、助かったわ……?」
完全に元の状態に戻った事に礼を言おうとしたが、その瞬間に少女が意識を失って倒れた。慌てて抱きとめて息を確認。鼓動も続いている、気を失っただけのようだ。タイミングを見るに、ミスティック行使の代償だろう。
悠香は柔和な微笑を浮かべ、少女をそっと背に負う。落ちないようにしっかりと体をホールドし、近くの無事なアジトへ向かった。


「ええ、間に合ったわ。急な事だったのにありがとうね、助かったわ」
『イエイエ、アナタには幾つも借りがアリマスカラネ。この程度で少しでも返せたナラ安いものですヨ』
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。じゃあ今後もいろいろ頼んじゃおうかしら?」
『お任せクダサイ。ソレでは、またイツカお会いしまショウ』
「うん、またね。それじゃ、バーイ」
少女は簡易ベッドで眼を覚ました。起きてすぐは少し記憶が混乱したが問題ない。すぐに戻る。
それよりも、ここはどこだろうか、と視線を巡らせる。広いが簡素な部屋で、中にはコンピューターが一台と自分が寝ている簡易ベッド、それと二人掛けのソファーが一つだけ。
「あら、起きた? 具合はどうかしら」
悠香の姿を見て、少女は覚醒度合いを高める。
「はい、大丈夫ですわ。それで、その、ここは……?」
「ここ? アジト、っていうよりは仮宿ってトコね。一番近くがここだったのよ、ちょっと殺風景だけど我慢してね?」
茶目っ気たっぷりにウィンク。
「そう言えば名乗ってなかったわね。私は悠香、太刀花悠香よ」
「太刀花悠香……ですのって太刀花悠香!? ペルソナノングラータ!?」
「知ってるの? 私も有名になったものねぇ」
本気でそう言っているから性質が悪い。少し自覚が足りないようだ。
「勿論、存じておりますわ! ですが、その……」
言葉を濁す少女。その内心を容易く読み取り、悠香は苦笑。
「遠慮しなくていいわよ。もっと残虐で危険な奴だと思ってた、ってとこかしら?」
少女は躊躇いがちに首を縦に振った。やっぱりね、と悠香はいっそ楽しげだ。
「筆は敵の手に握られているからね。大なり小なり歪むのは普通の事よ。別に全部が全部違うって訳でもないし、違ってても私は困らない。私を知っている人が知っていればそれでいいわよ」
あっけらかんとした態度に嘘は感じられない。
以前、夜色の少年と旅をしていた時、見ただけで卒倒する醜女などと噂されていた事を知ってブチギレした人物と同一人物とは思えない反応だ。
「……あの、悠香様」
「悠香でいいわよ? それで何かしら?」
問い返しに少女は逡巡する。顔を上げ、口を開き、そして閉じて俯く。それを数回繰り返す。
悠香は急かしたりせずに、じっと少女の言葉を待つ。
一分か二分か、そのくらいの時間が経ってから、少女は意を決して叫ぶ。
「私を弟子にしてくださいましぇっ!」
噛んだ。緊張からだろう、最後の最後に噛んでしまった。顔を真赤にして俯く少女。
けれど悠香は笑わない。少女の言葉が真剣だと分かっているから、その程度では笑わない。
「弟子って言われてもねぇ。危険よ?」
「承知の上ですわ。その上で、私は悠香様のお力になりたいんですの」
「悠香、ね。恩とか礼とかそんなのならいらないわよ? 邪魔だもの」
「そうではありませんわ。いえ、勿論全くない訳ではございませんけれど……それよりも、私は憧れたのですの。悠香……様に」
「悠香。憧れるのは自由だから仕方が無いけどね。でも、そもそも弟子とかそんなものを取る気はないわよ?」
「でしたらメイドでも何でも構いませんわ! 悠香………………悠香様のお役に立ちたい、お側にいたいんですの!」
「ゆ・う・が。まぁ、暫くついてきたいって言うのなら止めないわよ。止める権利もないし。その代わり、ついてくるのなら今回みたいに助けたりはしないけど、それでもいいの?」
「はい。足手まといになるなら切り捨てていただいても結構ですわ」
暫く二人は視線を交し合う。少女は意思を伝えるため、悠香はそれを見るために。
「……うん、いいわよ」
「本当ですの!?」
喜色満面になって立ち上がる少女。その鼻先に人差し指をビッと突きつけ、
「ただし、『悠香様』はNGよー」
「……ですけど、呼び捨ては不遜すぎて私にはできませんわ……」
少女はシュンと俯いてしまった。流石にこれだけ好意、尊敬を向けている相手に対して呼び捨てというのは思うところがあるのだろう。
「……で、では、あの、……お姉様、とお呼びしても……宜しい、でしょうか……?」
おずおずと問うてくる少女。悠香は少し考え、
「ま、いっか。いいわよー、お姉様でもお姉ちゃんでも」
「あ、ありがとうございますわ、お姉様!」
どこに感極まる要素があったのか、少女は悠香に抱きついてきた。よしよしと子供をあやすように(実際子供なのだが)頭を撫でて落ち着かせる。
「そういえば、まだ名前聞いてなかったわね?」
少女を剥がして尋ねる。
「私の名は、設楽佳代ですが……お姉様、新しく私に名をくださいませんこと?」
「え? 何で?」
「お姉様から名が欲しいんですの。……自分でつけた記号ではなく、お姉様から戴く『名前』が」
本人が納得しているのなら、特に断るような理由もない。
「――‐よしっ」
折角、お姉様と呼ばれる事になったんだし、いっそ姉妹っぽい名前にしようと考え、
「多智花風香。これにしましょう」