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Infancy(揺籃期)前日譚

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kagomori

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Infancy sideStory
・前日譚

 鹿脅しの音が聞こえる。闇に半分沈んだ日本庭園を流れる川のせせらぎに混ざって、どこかの酒宴の席からこぼれる雅楽の音が空気を揺らしていた。
 十干蒐が一人更衣令月は、ゆるりと視線を動かした。案内の店員は強い紅の衣を纏っている。完璧に演出された美しい酒楼だ。
 ゆっくりと部屋に案内されながら巡らす風流な風景に、ふいに見覚えのある赤が見えた。思わず足を止める。半分程度開かれた障子から身を乗り出し、水面に浮かぶ花弁に手を伸ばす男がいる。その髪は最上級の紅玉の色。鳩血色の宝石のようだ。
「……壬無月」
 名を呼ぶと、ゆるりと相手は顔をあげた。その瞳もまた宝石の色。すでに三十路を越えているはずだが実年齢より十は若く見える顔が、にいと笑った。
 篭森壬無月。やや不本意ながら、一応は同じ組織――十干蒐に身を置く人間の一人で古い知己だ。関係がとても良好かはともかくとして。
「やあ、更衣の」
 名前は呼ばない。令月が名前を呼ばれるのをよしとしないことを知っているからだ。彼は立ち上がると手まねきした。令月はすぐに渡り廊下を渡ってそちらに向かう。案内をしていた店員が驚いた声をあげたが、無視した。
「久しぶりだ。何年ぶりか?」
「まだ一年と三カ月十五日八時間五十二分ぶりだ。それほどでもない」
 答えると壬無月は楽しげに笑った。笑う姿はまだ十代の子どもにも見える。
「一人なら混ざれよ。依頼人はさっさと帰って退屈していたんだ。久しぶりに一献どうだ?」
「お前のおごりなら悪くない」
 令月は唇を釣り上げた。そして、後ろから近づいてきた店員を振りかえる。
「すみません。古い友人にあったので、席をこちらに移していただけませんか」
 がらりと口調が変わる。人の良い初老の男性といったようなおっとりとした口調で令月は言った。その笑みに、店員はあっさりと頷く。
「承りました。こちらのお客様もそれでかまいませんか?」
「ああ、後は杯とお勧めの酒を」
「すぐにご用意いたします」
 深々と店員は頭を下げた。そしてすぐに戻ってくる。あっという間に机の上に令月の分の食事が用意されていく。壬無月は元より食事の最中だったので、用意する必要はない。
「ここは肉もうまいぞ。いや、ご老体には毒か?」
「そこまで老いてはいないな。なんだ、せっかくの宴席なのに芸女の一人もいないのか。相変わらず、風流のなんたるかを分かっていない無粋な男だ」
 互いに軽口をたたきながら、杯を重ね、食を勧める。
「あいにくとどこかの根無し草と違って、俺は妻一筋でね」
「逃げられて何年立つんだ?」
「逃げようが嫌われようが、俺の方が嫌いにならないといけない理屈はないだろう。君こそ、残り少ない余生を過ごす伴侶でも見つけたらどうだ?」
「俺についてこれる女が少なくてね」
「一人称をころころ変えるな。ホント、二重人格だな。こういう性格だって分かったらついてくる女も減るよ?」
「あいにくだが、『そういうところが愛しくて放っておけない』という奇特なご婦人は意外と多いもんだぜ」
「最低だな。はやく煉獄に落ちろ」「お前もな」
 一通りの悪口合戦が終わった時にはかなりの数の銚子が転がる羽目になっていた。しかし、両者の顔に酔いの色は見えない。
「相変わらず強いな」
「お前が言うな。老けないし、お前こそ化け物だろう」
「褒め言葉と思っておく。そういえば息子は元気かい?」
「殺しても死なないほどに。お前の娘は?」
「日に日に愛くるしく育っているよ」「聞くんじゃなかった」
 きっぱりと令月は言い捨てた。そして、さらに杯を重ねる。それを見ていた壬無月の唇がふいに歪む。
「そろそろやめておけ。明日に響くぞ」
「あいにくだが、俺はお前のように生き急いでいない。明日は明日で時間がある」
「俺が生き急いでいるように見えるとは意外だ。老人をいたわってやってるんだから、有りがたく受け取れ」
「そちらも若いと思って油断していると痛い目を見るぞ」
 再び活性化する悪口とともに杯を重ねるスピードもあがる。まるで水が砂にしみ込むように、大量の酒がどんどん二人の口の中へと消えていく。
「なら、飲むか。潰れたほうが負けだ」
「それはお前に分があるな」
 令月は難色を示すように顔をしかめた。壬無月は小首を傾げる。
「じゃあ、お前が勝ったら一回だけただ働きしてやるよ。令月」
 一度の依頼でかるく億の金が動く十干蒐である。しかも依頼を受ける受けないは個人の力量と気まぐれで激しく左右される。それを動かせるというのは金銭以上の価値がある。令月は顎に手をあてる。
「お前が勝って俺が負けたらどうするんだ?」
「そうだな。お前に作戦指揮させるのは俺の好みじゃない。俺がほしいものを用意してもらうことにしよう」
「お前が手に入れられないもの?」
 怪訝そうな声を令月は出した。同時に思考を巡らせる。金銭的に高価なものや非売品、希少価値のあるもの。どれであっても手段さえ択ばなければ壬無月に手に入れられないものはない。それ以外となると、手を出してはいけない人物の所有物か単純に探すのが面倒な物体だ。どちらにしても関わりたくない。
「俺のメリットが半減しそうだ」
「そんな難しいものは要求しないさ。ただお前のところにできる若いのが何人かいるだろう? それから策士を一人貸してほしい。多少能力は劣ってもいいが人格がしっかりしているやつ。できれば女」
「お前に嫁を紹介する義理はない」
 そういう意味ではないと分かっていて茶化すと、壬無月は不快そうに顔をしかめた。基本的に傍若無人唯我独尊にも関わらず妙なところで潔癖だ。ある日突然別れを告げられた妻がそこまで愛おしいのだろうか。
「俺のための女じゃない。娘のためだ」
「…………そういう趣味だったか? 君の娘」
「違う。娘を私塾と家庭教師に面倒見させていたんだが、私塾は事故で閉鎖されて家庭教師はちょっとした事故で死んだから、今、教師が足りないんだ。誰か貸せ」
「おや」
 令月は目を細めた。
「なら」「お前以外の人間だ。お前のことは信用しているが、娘を任せるほど信頼したくない。それに、残念だが歳が離れすぎだ」
 早口で壬無月は令月の言葉を遮った。
「……娘っていくつだった?」
「まだ四歳。可愛い盛りだ。手は出すな。一生出すな。むしろ死んでも出すな。もう半世紀生きたんだからちょっとは落ち着け」
 不穏なものを感じたのか壬無月の声に棘が混ざる。珍しいものを見て、令月は喉を鳴らした。慌てる壬無月などまず滅多に見られるものではない。
「出さないよ。俺からは、な」
「…………ここで逝っておくか?」
 表情は笑顔だが少しも笑っていない。答える代わりに、令月は一升瓶を机の上においた。
「俺の懐が痛むことのない勝負ならやらない義理はねえな。凹ませてやるぜ、壬無月」
「娘に何かしたら、五臓六腑を引きずりだして焼き殺す」
 壬無月も杯を机に叩き置く。両者はしずかに見つめ合った。


**


 月は天高く上がっている。
 柔らかな青草の香りがする畳の上に、二人の人間が転がっていた。周囲にはおよそ人体の限界を超える量の酒瓶が転がっている。
「…………ギブアップする」
「いやにあっさりしているな、令月」
 流石につらそうな顔で明後日の方向を見つめながら、壬無月は答えた。令月も答える。
「二日酔いと不詳の息子の貸出じゃバランスが取れない。息子は貸し出す。俺の負けでいい」
「ちょっと待て。できれば女って言ったのを聞いていなかったのか?」
 壬無月は上半身を起こした。令月は視線だけを向ける。
「あいにくとうちは男所帯でな」
「貴様の息子など信用できるか」
「安心しろ。血は繋がっていない」
「なおさら危ういな」
 壬無月は乱れた髪を書きあげた。鮮烈な赤色の髪の毛がぱらぱらと指の間からこぼれ落ちる。まるで血が流れたようだ。
「あーあ、なんか損した気分だ」
「そういうな。俺の息子は頭のほうはなかなか優秀だ。それに脆弱この上ないから、お前の娘を手込めにするような腕力はないさ。安心したか?」
「お前の発想に危機感を覚えた。やっぱり逝っておけ」
「酒飲んだ直後の運動は寿命縮めるぜ。止めとけ。俺も動くのはダルイ。酒飲んでからする運動は寝台の上だって嫌だね」
 壬無月は無言で箸を投げつけた。令月はごろりと転がってそれを避けた。
「あー……でも葵さんの娘ならあと数年すればさぞかしら」「その舌から引き抜くか」「お前、さっきまでご老体を敬うとか散々言ってたくせに」「娘に近付くやつはご老体じゃない。害虫だ」「その鉄壁の防壁、将来娘の邪魔になるぜ」
 畳に転がったまま、世界最高峰は互いに罵り合った。


おわり
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