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Infancy(揺籃期)Ⅱ

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kagomori

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InfancyⅡ(揺籃期)

「入れ替わりだったね」
 久しぶりの長期休暇の後、初めて会ったときから一回引っ越した現在の篭森家に更衣昴が戻ると、家中もので溢れていた。その中で、平然とした顔で珠月はモノの整理をしている。
「……何これ?」
「ん。昨日、久しぶりに両親がそろって帰ってきてね。私の誕生日がこの前だったから、プレゼント置いて帰ったの」
 家中に溢れるようなこれは、すでに誕生日のプレゼントなどという可愛らしい領域にはない。だが、珠月はなれた手つきで選別していく。
「置き切れないから、使わないものは売りに出すよ。仕舞っておくのも勿体ないし」
「捨てるじゃなくて売りに出すってところが君だよね」
「何言ってるの?」
 くるりと珠月は振り返った。うすいガーベラの花をかたどったレースが揺れる。
「お金は大事だよ」
 びしりと珠月は昴の前に人差し指をつきだした。昴は苦笑する。
「大金持ちの家でこれだけものを与えられてもなお、その発言が出るってすごいよね」
「おかげ様で。自己管理のできる子どもになりました」
 二年前、死ぬほどムカつくくそガキだった篭森珠月はますます小癪で小賢しい子どもに成長した。むしろ知恵が付いて成長した分、性質は悪くなったといえるかもしれない。それに比例して、襲撃者や逆に両親が連れてくる教師やボディガードの数は増えている。もっとも、いなくなる使用人や教員の多さのせいで最終的な人数自体はあまり変わっていないが。
「毎年誕生日が近付くと、死ぬほど贈り物を送ってくるんだよね」
「そこに紛れて危険物を送り込んでくるやからも後を絶たず、我々は大忙しの時期です」
 珠月の指示で荷物わけつつ、メイドが呟いた。ころころと珠月は完璧なるお嬢様の顔で笑う。
「私の危険物解体の授業になるよ」
「たくましいですわ、お嬢様。流石は壬無月様と葵様の娘様。私たちの珠月様」
 感激したようにメイドの一人が指を祈りのかたちに組む。たしかナターシャと言っただろうか。メイドの中では珍しく珠月本人に心酔している女性だ。騙されているのか、都合のよい部分しか見ていないのか。おそらくは後者だろう。
「……珠月はツボに入るひとには入る可愛らしさがあるから、将来変質者にモテて苦労しそうだよね」
「昴さん? 帰宅早々なんでそういう縁起の悪い予言してくるかな」
 本当に心底嫌そうに珠月は呟いた。そして高そうな食器や服を次々とメイドに手渡す。
「価値のあるものは売るかオークションに出して。服とかは――ん、普通に売っても需要ないから、お母様の名前でチャリティオークションに出してくれる? 食品はみんなで消費しましょ」
「はい、お嬢様」
「そうだ。ナターシャ」
 声をかけられてメイドの顔がぱっと輝く。逆にアンは嫌そうな顔をした。珠月は振り返らずに手招きする。ナターシャがいそいそと近づくと仕草でかがむように示した。その通りにナターシャが絨毯の上に膝をつくと、ナターシャの頭の位置が珠月の背より低くなる。そこで珠月は手を伸ばすと、ぱちんと細工物の髪留めをナターシャの髪に止めた。
「よし、似会う。やっぱりプラチナブランドには濃い色が生えるね。似会うから上げる」
 感激で声も出ないと言わんばかりのナターシャが返事をする前に、珠月は選別作業に戻った。我に帰ったナターシャがひっくりかえった声を上げる。
「あああ、ありがとう御座います! なんとも勿体ない至上のお言葉……あわわ」「落ち着きなさいな。言葉がおかしいわ」
 額を抑えたアンがナターシャの肩に手を置く。しかし、相手は俯いてふるふると震えているだけで、返事もしない。
「ちょっと、大丈夫なの?」
「すみません。少し席をはずします」
 言うが早いか、ナターシャは鼻を押さえてダッシュで走り去った。一瞬だけメイドと警備たちは遠い目をして、そしてすぐに自分の仕事に戻る。
「…………ねえ、珠月」
 そっと近づいて、昴は小声で話しかけた。珠月も視線だけを昴に向けて小声で返す。
「なに、昴さん?」
「可哀想じゃないか。僕は人心を掴めとは言ったけど、心を弄べとは教えてないよ?」
「弄んでないよ。幸せそうだから、あれはアレでいいんじゃない?」
 けろりとした顔で珠月は答えた。昴が教えたポーカーフェイスのせいで、昴にすらその真意は完全には見えない。なんでもないふりをしているようにも、本当にどうでもいいと思っているようにも見える。だが、おそらくは前者だろう。無駄に情緒的な篭森珠月という人物が、自分の認識の中にしっかり入っている人間を完全に無視したり者扱いすることなどできるわけがない。
「…………できたほうが策士としての策は広がるんだけどね」
「何か言った?」
 珠月が振り向く。昴は首を横に振った。
「君、将来――あと十年後くらいには女と男のストーカーに悩まされるよ。その外向きのツンケンした態度と中身の甘さが、人によっては堪らないから」
「だから、そういう予言やめてよ。本当になりそうだから」
 半ば以上本気で珠月は昴をにらんだ。昴は苦笑して、何となく近くにあった木箱の山に手を伸ばす。気配を察したのか珠月が振り返った。
「!? それ触ったらだめ!!」
 悲鳴のような声が上がるのと、その木箱がぐらりと傾いて昴のほうに崩れ落ちてきたのはほぼ同時だった。メイドたちが小さく声を上げる。咄嗟に昴は手で頭をかばった。だが、その目の前で箱は動きを止める。箱には無数の糸が絡みついていた。
「それ、陶器入ってるの。危ないから触っちゃだめだよ」
 ぱたぱたと珠月が走り寄ってくる。糸に押し戻されて木箱は元通りに積み上がる。それを見上げて、昴は微笑んだ。
「上達したね」
「……ごめんなさい。異能使ったの。普通だと間に合わなくて」
 しゅんと珠月は顔を伏せた。昴が策謀術とともに教えた操糸の技は、不完全ながらも珠月のものとなっている。しかし、今だに異能を使わない操作の場合、実際に思い通りに糸を動かすまでの間にタイムラグが発生する。
「そっか。でも異能なら直接箱を動かしたほうが良かったんじゃないかな?」
「これだけの質量があって相性がいいかも分からないもの操作するより、慣れている鋼糸を動かすほうが確実」
「よくできました。咄嗟の判断も様になってきたね」
 昴は珠月の頭を撫でた。子ども扱いに珠月は面白くなさそうな顔をする。
「ともかく、昴さんは触らないで。絶対怪我するから」
「そうです」「その通りです」「すべて私どもにお任せくださいませ」
 続々とメイドや護衛たちから賛同の声が上がる。うんうんと頷いて珠月もしわけに戻ろうとしたが、
「お嬢様も服が汚れます」
「一通りのチェックはすみましたので、お洋服は衣装部屋に、処分品は空き部屋に、食品は厨房に、玩具と書籍はお道具部屋に運んでおきます。お部屋にお戻りください」
 本来、主人というものは働かないものだ。分かってはいるが、珠月はちょっとだけ不満そうな顔をする。だが、すぐに諦めたように軽く手をはたいて持ちあげていた大きな熊のぬいぐるみを段ボール箱の上に置いた。
「分かった、わかったよ。じゃあ、こっちの服やら装飾品やらは任せる。けど、もっとも仕分けしないといけないものがまだ残ってるでしょ? そっちはやらせてね」
「はい、お任せします」
 しずしずとメイドが頭を下げる。たかが6歳の少女への態度ではないが、珠月は顔一つ変えない。そもそもその態度は通常の6歳児とは程遠い。上流階級にはこの手の子どもが一定数存在するが、それでもよくあるほどのものではない。
「何か変なものでも届いたのかい? 武器とか」
「重火器一式ならあっちにあるよ。射撃も目隠し分解も危険物処理もまあ普通に授業の中にはあるからね」
 あっさりと珠月は答えた。幼児に与えるには過激すぎる玩具だが、メイドたちはさも当然という顔をしている。
「個人的には銃火器より刃物や暗器が好きだけど。命の重みを感じる。重みを知るのは良いことだよ。業の重さを知ることになるから」
「え? 君、この前訓練相手を本気で殺そうとしてなかった?」
「え? 本気でやらないと危ないじゃない」
「……そういうドメスティックでアグレッシブな言葉と慈悲深い言葉が同時に出てくるのって、すごいよね」
「珠月様は多面性のある御方ですから」
 にこやかにメイドがフォローを入れる。しかし、裏を返せばすぐに態度と方針が変わる気まぐれな多重人格者という悪口でもある。珠月は気づいているのかいないのか、まったく否定しない。
「わりと何でもあるよ。とにかく目についたものを片っ端から与えてみるんだ。あの親は。親以外も、うちの親と仲良くなりたい人が無理やり贈り物もってきたりするし」
 困ったものだね、と珠月は肩をすくめた。
 古書の山やら最新機種の機械類がつまった箱やらを見やって、昴は嘆息した。家からあまり出ない娘にデジカメを買い与えて何をさせたいのかさっぱり分からない。
「ある意味では周囲からの圧力に感謝してるよ。容赦ない僻みと罵倒と侮辱の嵐のおかげで、自分の立場を容赦なく思い知らされて天狗になる暇もない。これだけモノと人が積み上がっても勘違いをしないで済む」
「正面から悪口言ってくる人間にはわりと寛大ですわよね、珠月様は」
「ですわね。正直者好きですものね、お嬢様」
 なんとなく引っ掛かる言葉を残して、アンは茶葉のつまった箱を持って昴とすれ違った。有名ブランドの缶がぶつかり合って音を立てる。
「悪口に限らず真正面から来る人間は嫌いじゃないよ。でもね」
 部屋のすみのほうに分けられた奇妙に大きな箱の前で、珠月はため息をついた。それに手をかけた瞬間、控えるメイドと護衛たちが一斉に武器を構える。それだけでその荷物の中身は容易に想像できた。
「こういうのは真正面なんだか変化球なんだか。いずれにしても、贈る方も贈られる方も正気の沙汰とは思えない。まあ、好きで贈られてきたとは限らないけど」
「まあ、世の中賢者より愚者が多く、聖人より変態が多いものです」
「嫌な世だ」
 木でできた蓋がスライドする。その中には正座をした成人男性が青白い顔をして鎮座していた。まぶしさに数回瞬きしたのち、男性はいきなり土下座した。
「お、お初お目にかかります。私は貴方様にお仕えするために」
 最後まで聞かずに珠月は蓋を閉めた。そして振り返る。
「返却可能だと思う?」
「今の御方は態度からして無理やり贈りつけられてきただけで悪意はなさそうで御座いますが、返却した場合、死にはせずともあまり愉快な目に合わないのではないかと」
 淡々とアンは返事をする。だよねぇ、と珠月は遠い目をした。
「贈り主は?」
「レイン様です」
「あのド変態か。最近息子を紹介するとうるさいのを断った腹いせの嫌がらせかな?」
「いえ。心底純粋な行為からかと」
 珠月は頭痛をこらえるように頭を抱えた。
「あの変質者…………」
「最近は幼女に罵倒されるという新しいブームが来てるようですから、お嬢様が怒るほど喜びます。怒るだけ無駄です。では、これはこちらで処分しておきましょう」
「殺しちゃだめだよ?」
「承知しております。事情を説明して丁重にお返しします」
「頼んだ」
 珠月がひらひらと手をふると箱はゆっくりと運び出されていく。
「珠月、これ、何?」
 人間入りの箱という不穏なものに、昴は顔をしかめた。人間を貨物にしてはいけないという法律はこの辺りにはないはずだが、それでもやっていいこととそうでないことがある。珠月は面倒くさそうに頷いた。
「ああ、昴さんは見るの初めてかな? たまにいるんだよ。お父様やお母様の知人とかで人間を贈り物として贈ってくる人が。使用人や教師を頼んでもいないのに紹介してくるのは序の口で、こういう風に丸めこんだり買い取った人間を学友やペットとして送ってきたり」
 下手をすると自分もこういう風に輸送されていたのだろうか。昴は分からない程度に青ざめた。あの養父ならばやりかねない。普通に自分の足で来られたのは運が良かったのかもしれない。
「しかもその中の数パーセントは贈り物のふりをした刺客ですわ」
「使用人もペットも刺客も間に合ってるっていうのにね。返却できそうな奴は返すけど、行く先のない子も多いから結局うちが面倒みる羽目になるんだよ。これはうちを財政難に陥らせようとする作戦なのかな? だとするととても気が長いことで」
 面倒くさそうに珠月はぼやいた。護衛やメイドの数人が明後日の方向に視線をそらす。
「まあまあ、悪いことばかりでもありませんわ。珠月様の素晴らしさに敬服して忠実な召使になってくださるひともそれなりにいるでしょう? ナターシャのように。流石は壬無月様の娘ですわ。人を随える才能がおありです」
 取り繕うようにメイドの一人がいう。口々にメイドや護衛は賛同の言葉を重ねる。
「そうですよね。流石はお嬢様」
「篭森のお嬢様にお仕えできるなんて、私たちとしても鼻が高いですわ」
「あー……はいはい、もういいでしょ。次開けるよ」
珠月は小さくため息をついた。
「…………まったくもってくだらない」
「え?」
「何でもない。開けるよ」
 キョトンとするメイドをしり目に、珠月は箱に手をかけた。動物のケージのようなプラスチックの入れ物を開けると、まだ十代にみえる少女がちょこんと座っていた。黒いアジア系の瞳はどこか虚ろで、表情が読めない。
「はじめまして。篭森珠月様」
 ぺこりと少女は頭を下げた。虚ろな瞳がうつろに風景を映し出す。少女の瞳に映るものは人間も背景もぺたりと一体化していて、酷く不気味だ。
「私はあなたの飼い犬です。名前はありません。必要ならば犬と及びください。どうぞよろしくお願いします」
「いらねえ」
 ほとんど脊髄反射で珠月は返事を返した。しかし少女のほうは何の反応もない。
「どうぞ、お使いください」
「聞けよ、馬鹿犬。どこの誰? こんな阿呆な物体を送りつけてきた馬鹿は」
「大泉化学の取締役のお一人です」
「誰、それ!?」
「珠月様が先月葵様と参加したパーティで合った、髭の紳士です」
 表情を変えないまま、淡々とアンは説明する。珠月は心の底からのため息をついた。
「あれか……」
「流石は珠月様。特殊趣味の御方に大人気で御座いますね」
「貴方、褒めてるふりして私の立場を貶めていることに気づいてお願い」
 珠月は嘆くように頭を振った。そして気を取り直したように箱の中の少女に向き直る。
「……どこの何方か知らないけど」「私は貴方の犬です」
 無表情のまま少女は繰り返した。珠月は額に手を当てる。
「いや、いらないから。それに貴方は人間でしょ?」
「いいえ」
 淡々と少女は言い切った。
「この世の中には二つの人間がいます。上に立つ人間と下で支える人間です。篭森様は篭森なのですから当然上にいなくてはいけません。それを最底辺で支えるのが犬である私です。どうぞ、お使いください」
 一瞬、珠月の表情が完全に凍りついた。だが、周囲が異常に気付くよりも早くその顔には不敵な笑みが浮かぶ。
「そう」
 余裕のある笑みで珠月は微笑んだ。
「じゃあ期待外れだね。まったくどいつもこいつも長いものに巻かれるのが好きすぎて嫌になる。そんなにブランドが好きなら、自分をブランドに引き上げることくらいしてみせろ。他人にすがるな。耳触りのよい呼称と気分の良い地位にいる人間に仕えれば、自分にも意味があるとでも思っているの?」
 言葉は毒舌だが、いやに淡々としている。本気の怒気が混ざる声に、使用人たちは気配を殺す。
「家柄がほしいならもっといい旧家にいきなさい。私は私だ。他のものしか見ていない人間など、土台にする価値もない」
「土台がないと」
 ことんと少女は首を傾げた。
「土台がないとどんな人でも家にはいけませんよ? 引き上げてもらわない限り」
「腐った土を土台にすれば、いずれ柱も傾くでしょう。見くびるな」
 少女はことんと首を傾げた。そして深々と頭を下げる。一瞬だけその表情が笑みを浮かべた。
「申し訳ございません」
 頭をこすりつけるように少女は平伏した。珠月は答えない。嫌な間が空いた。何とも言えない顔で数秒間少女を見つめた後、乱暴に珠月は蓋を閉めた。すばやく使用人がそれを運んでいく。
「どうなさいますか?」
「私とは気が合いそうにない。正直なんとなく不愉快な性格をしているけれど、来てしまったものは仕方ないよ。行き先がありそうなら放りだして。どうにもなりそうになかったら、仕方ない。しばらく使って見てその間に引きとり手を探すよ。いつも通りに。でも私のそばには寄らせないで。私はもう部屋に戻る。後の仕分けは適当に頼むよ」
「畏まりました」
 深々とメイドたちが頭を下げる。自然と扉に向かって花道が出来た。珠月は昴の腕を引いて歩き出す。昴は小さく嘆息した。耳ざとく、珠月は昴を見上げる。
「どうしたの? 昴さん、お腹すいたの?」
「君の僕に関する認識がどうなってるのか気になるね。確かにそろそろおやつの時間だけど」
 昴は苦笑した。珠月は無邪気な子供らしい笑みを浮かべる。
「分かった。お道具部屋はごたごたしてるから、講義室におやつを運んでもらおう。今日は私が作った洋ナシのムースとチョコレートケーキのアイス添えだよ。どっちがいい?」
「両方」
「だよね」
 珠月は首をすくめた。アンにおやつを頼むと、昴の腕を引いてテトテトと歩き出す。荷物を持ったまま、昴はおとなしく引きずられていく。
「実はね、僕もちょっとお土産を持って来たんだけど、あれだけものがあったら何をあげても被ってしまいそうだなって思って」
「あらあら、昴さんは知らないの?」
 昴が見下ろすと、珠月はふふんと笑って見せた。子どもらしい嫌みのない高慢な笑みが可愛らしいが、その笑い方は昴が教えたものだ。自分仕込みの愛らしい見事な作り笑顔に、複雑な気分になる。
「女の子はとっても強欲なの。好ましい相手からの贈り物なら、なんでも嬉しいものなんだよ。さ、頂戴」
「たくましいなぁ」
 昴は指で珠月の髪をすいた。するするとした重たい絹糸のような手触りがする。ふわりとやわらかい香りが鼻をくすぐる。
「トリートメント変えたんだね」
「お母様がどこからか買ってきたの。いい香りでしょ? 昴さんは前のとどっちが好き?」
 自分の髪をひと房掴んで、珠月は無邪気に笑った。子供の無邪気さとおとな顔負けのしたたかさが同居し、独特の雰囲気を生み出している。だが、おそらくはそれは意図されたものだ。昴が教えた通りのもっとも魅力的に見える仕草だ。
「よく分からない」
「うわ、最悪。すごくがっかりする返事だよ、それ」
「でも、どっちでも珠月には合ってるよ」
「それを先に言おうよ。余計なこと言わないで」
 珠月は大げさにため息をついて見せた。昴の歩幅に合わせて小走りで歩いて、先回りして扉を開ける。過去数回、ぼんやりした昴が扉にぶつかるまたは扉の間に挟まるという事故に見舞われてからは、一緒にいるときは珠月が率先して扉を開けるのが習慣になった。冷静に考えると雇われ家庭教師のためにお嬢様が扉を開けるというのはかなり変な話だが、実態をよく知っている使用人は何も言わない。
 いつも通り異様なほどに片付いた空間には必要最低限のものが揃っている。珠月と昴が入室すると入れ替わりに中にいた警備の二人組が外に出る。すでにいつでも授業ができる準備が整っている。
「お土産は?」
「はい」
 紙袋を渡すと嬉しそうに珠月は受け取った。あれだけのものを贈られた後だというのにあきないものだ。大きな椅子によじ登るように座って、机の上で紙袋から箱を取り出す。
「…………あの贈り物はないよねぇ」
 先ほどの事を思い出しながら、昴は尋ねた。一瞬、珠月の手が止まる。だが、すぐにまた白い指が包みをほどき始める。
「珠月を馬鹿にするにもほどがあるよ」
「別に馬鹿にしようと思ってるわけじゃないと思うよ」
 しゅるしゅると音を立てて赤い紐がほどける。丁寧な包装のせいで中々中身が見えてこない。
「馬鹿にしてるよ、皆。あの言い方じゃ、まるで珠月が篭森の付属品みたいじゃないか。前々から気に食わなかったんだよね」
 珠月はキョトンとした顔をした。何を言われたのか分からないという顔で、昴を見つめる。そして意味を飲みこんで、何とも言えない顔をした。
「仕方ないよ。私の本体は名前のようなものだから。篭森らしい少女でありさえすれば、きっと入れ替わったとしても両親以外は誰も困らないよ。そういうものだ」
 もし耳が生えていたらぺたんと伏せているであろう顔で珠月は呟いた。慰めてあげたくなるような笑みだが、昴の目には違うものに移る。分かりやすい落ち込んだ仕草はすべて無意識のうちに作られたものだ。心の安定と相手をうまく取り込むために、昴が教えた。
「珠月」
 血色の瞳が昴を見上げる。小さく珠月は小首を傾げた。昴は手を伸ばして――――

 容赦なくその側頭部を張りとばした。

「きゃうん!?」
 尻尾を踏まれた犬のような悲鳴をあげて珠月は椅子から転がり落ちる。一応は戦闘訓練を受けている珠月が、操糸術を使わなければ一般人以下の戦力にしかならない昴の攻撃を受けること自体が完全なる油断だ。しかし流石に床に落ちるまでには体勢を立て直す。
「何の訓練!?」
 叫びながらも珠月は昴の手が届かない位置まで撤退する。すばやい動きに昴は一瞬感心した。腐っても英才教育を受けたエリート候補生なだけはある。物陰に隠れないのは、昴がものを投げたとしても必ずそれが明後日の方向に跳んでいくか、本人を直撃することを経験上分かっているからだ。
「珠月、こっちに来なさい」
 珠月は迷わず首を横に振った。わざわざ子どもっぽい仕草仏頂面をする。
「珠月」
「…………」
「来なさい」
 数秒間が空いた。一瞬だけ嫌そうな顔をするが、もう一度名前を呼ぶとしぶしぶと近づいてくる。まるで猫だ。警戒のために逆立てた毛が見える気がする。やや距離を置きながら、珠月は元通りに昴の向かいの椅子に座った。
「珠月」
「はい」
「君は馬鹿だ」
 重いものでも乗せられたかのように珠月の頭が前のめりに傾いだ。そこに昴は自分の手を乗せる。
「本当に馬鹿だ」
「――――そりゃあ、私はたしかに賢くないですよ。出来が悪いから普通の何倍もかげでこっそり勉強してやっと頑張る天才どもと足並みそろえられるくらいだし、血統以外に何も取りえないし、あの美男美女の両親の子どもの割には普通の見た目だし、カリスマ性もアイドル性もないから虚勢張らないとやっていけないし、でもわざわざ口に出すことないじゃないですか。気にしてるんですよ?」
 じいじとした恨み節が聞こえ始める。俯いたままの珠月だ。同一人物の口から出てくるとは思えないくらいに根が暗い。昴はため息をついた。
「やっぱり馬鹿だ」
「……三度も言った」
「だって本当だろう?」
 言いながら頭に置いた手に力を込める。
「自分の本体は血統と家柄なんて本気で思っているのかい? それは確かに君のことをまったくしらない人間からすればそうかもしれない。食べたことのない瓶詰を見つけたとして、初めに人が見るのはそのラベルだからね」
 珠月が顔を上げようとするのを手で押さえる。振り払える力だが、珠月は頭を抑えられるとおとなしく俯いた。
「でも僕は知っている。君は家の付属品なんかじゃない」
「付属品だよ。一般評価では」
「それは評価するほうが馬鹿なんだ」
 昴は鼻で笑った。珠月が唖然としたのが分かったが、それもまとめて笑い飛ばす。
「才能があろうと家柄があろうとカリスマ性があろうとそれに甘えて努力しないのは馬鹿だし、才能の影の努力に気づかないのも馬鹿だ。努力家に気づかないのはもっと馬鹿だ。そんな大馬鹿にけなされて何が悲しいんだい?」
「…………馬鹿」
「そう。使いようのないお馬鹿さん。せいぜい物量作戦の一山いくらの価値だよねぇ」
 ぐりぐりと昴は珠月の頭を撫でる。
「珠月は空っぽなうつわだと自分を思っている。けれど、本当に空ならそんなものとっくに壊れているはずだ。珠月はいつだってその器に中身を注ぎこもうとしているじゃないか。たしかにまだまだ足りない量かもしれないけれど、君はちゃんと意味も価値もある存在だ。むしろ篭森の名前が君についているおまけみたいなものだと思えばいい」
「おまけが主体のお菓子というものも結構ありますけどね」
「でもお菓子の価値がなくなるわけじゃない。不可分の一つなんだから」
 それに僕は玩具よりお菓子がほしいな。そう言って昴はまた笑った。
「僕は珠月が頑張っていることを知っている。それだけ頑張れるのも、頑張って結果が出せているのもちゃんと才能だよ。だから胸を張りなさい。そのうち、家の方が君のおまけにも飾りにもなるよ」
「私はそこまで立派じゃないよ」
 珠月は首を横に振った。
「前に進んでいるんじゃない。頑張って上を目指しているんじゃない。私は逃げている。生まれた瞬間から逃げ続けているイメージがある。止まると奈落に落ちる気がする」
「それはすごいね」
 昴は手を離した。目を丸くした珠月が昴を見上げる。
「とってもすごいよ。それだけ逃げても誰にも追いつかれないなんて、珠月は追いかけっこが得意らしい。僕にはとてもできない。十メートルで息切れして倒れる」
「せめて一キロは頑張ろうよ!?」
 かつてに比べて生体兵器や遺伝子治療が進み、また異能者のように人の使われざる力を活性化させる技術が一般的になった現在、過去の人類とは比べ物にならないスピードで人間という生き物の性能は向上している。より強く、より早く、より賢く、より美しく。その現代において、十メートル走れないというのは病弱を通り越してなぜ生きているのか首をかしげなくてはならない事態である。
「無理だね。一キロも移動したら死ぬ。きっと死ぬ。必ず死ぬ。だからもしそういう事態になったら助けてね」
「いっそ今すぐ此処で死ねぇええええええ!!」
 珠月がキレたタイミングで扉が空いた。気まずそうな顔をしたアンと室内の二人の視線がクロスする。
「………………………………お茶をお持ちしました」
 アンはプロだった。何事もなかったかのような顔でティセットとケーキの皿を並べていく。そして疑問の一つもはさまずに退出した。アンがいなくなった瞬間、珠月は机の上に崩れ落ちる。
「私のイメージ戦略が……」
「そういうとこ、爪が甘いんだよ。ほら、そのお土産どかして。早く食べないとアイスが溶けるよ?」
 包みをほどきかけたままの箱をちらりと見やって、珠月は言われた通りに箱を隣の書類置きのミニテーブルに移した。珠月の前にはムースが、昴の前にはムースとチョコレートケーキのアイス添えが置かれる。ティポットを手に取ると珠月はお茶を入れた。当然のように昴はそれを受け取る。
「いただきます!」
「…………いただきます」
 昴が手を合わせると、珠月も慌てて手を合わせる。しかし、スプーンをつけようとはしない。じっと黙りこんでムースと見つめ合う。昴だけがもくもくとフォークを動かす音が響く。
「また腕を上げたね。これはお金を十分に取れるレベルだ」
「…………ありがとうございます」
「勿論、全体的な技巧や技術はここのシェフがはるかに上だ。味も安定してるしね」
「もし負けていたら首だよ」
「はは、それはそうだね」
 けらけらと昴は笑った。そして続ける。
「だけど不思議だね。僕は珠月が作るもののほうが好みだよ」「当たり前」
 珠月は即答した。昴は目を丸くする。褒められても適当に流すか謙遜を言うことが多い珠月が、昴に対して言い切ったことは今までほとんどない。だが、珠月は俯いたまま親の敵のような顔でムースを見つめている。
「万人にとって美味しいものというのはない。だから美味しいものを作ろうとした場合、より多くの人にとってそこそこ美味しいと感じられるものを作るのが普通。究極に美味しいものっていうのは、それを美味しいと思う人と同じ数それをとてもまずいと思う人もいるものだから。だからここの家のひと全員の料理を作るシェフは万人向けにお菓子を作るはず。でもそれは違う」
 昴が食べているケーキを視線だけでさして珠月は言った。
「それは私が昴さんのために作ったケーキ。つまりは昴さんの味覚のみを考慮して作られている。みんなのためにプロが作った料理と、一人のためにそこそこの上でのアマチュアが作った料理でアマチュアのほうがいいと感じることがあるのはそういうわけ。不特定多数の誰かのための味より、自分や我が家の味がいいのは道理でしょ? そのチョコレートケーキも普通よりチョコを重たくしてあるし、甘ったるいのが好きな昴さんのためにそこの部分のクッキー層には黒蜜を練り込んである。普通に食べるには甘すぎるよ。その分バニラアイスをさっぱりさせているけど、ブラック珈琲や日本茶と一緒じゃないと美味しく食べられはしないね。甘くて重たすぎる」
 ちらりと珠月は昴を見た。
「少なくともミルクティと一緒に食べるものじゃないよ」
「なるほど。なるほど」
 にこにこと昴は笑ってチョコレートケーキを大きく切り分けた。
「つまり、この味は珠月の愛の味なんだね。しっかりと受け取ったよ」
「何を聞いていたんだ、貴様」
 銀のスプーンが曲がりそうなほど強く、珠月はスプーンを握りしめた。耐えかねて昴は笑いだす。
「やっと口調が素に戻った。珠月って素だとほんとにキレやすくて余裕ないよね」
「…………………………日頃の戦闘訓練の進み具合について実戦でご報告申し上げましょうか?」
 半眼で珠月は昴をにらんだ。戦闘訓練といっても、この歳で無駄な訓練をすると身体を痛める。おそらくは理論と力学を利用した護身術が中心だろう。ほとんど卓上の理論だ。だが、まったくもって安心はできないのがこの家の英才教育の怖いところである。
「からかい過ぎた。ごめんね。珠月、お茶を入れてくれないかい?」
 悪意のない笑顔で昴はあっさり謝った。本当に悪意はない。珠月は心の底からため息をつく。
「死ねばいいのに」
「もし死んだら、葬式の場では粛々としていて私的な場では軽口叩いて、周囲に人が誰もいなくなったところで大泣きした上に月命日のたびに秘かに献花するんだよね」
「見てきたように言わないでください、くそ師匠」
「あははは、珠月は懐いた相手には毒舌だよね。それを知っているのがご両親以外は僕だけだと思うと、なんとなく勝った気分になるよ」
「何に勝ってるんだよ?」
「すべてに、だよ。そういう珠月も可愛いと僕は思うんだけどね。ロボロフスキーハムスターみたいで」
 ロボロフスキーハムスター。ペットとして一般的なハムスターの中で最少の体格。神経質な性格ととてもすばやく軽いことが特徴。人に慣れにくく、小さいくせによく噛みついてくる。二頭身。頭は悪い(重要)。
「……………………」
「? 褒めてるよ?」
 ケーキを口いっぱいに入れながら、昴は器用に喋った。どちらかという彼の仕草のほうが小動物っぽい。珠月は不満絶頂といった顔で黙りこむ。
「食べないなら僕が食べるよ?」
 一口も口をつけていないムースを指差して昴は言った。珠月は無言でムースの入った器を渡す。嬉しそうに昴はそれを受け取った。
「うん、美味しい。困ったな。こんなに美味しいお菓子とお茶を用意されて、色々と身の回りの事もしてもらって……僕が先生として来ているのに、このままだと珠月がいないと生きていけなくなりそうだ」
「大げさな」
「僕の自活能力のなさは君がよく知っているだろう?」
「胸を張るな!!」
「珠月」
 急に真剣な声になった昴に、珠月は口を閉ざす。どこか諦めたような血色の瞳が、昴の次の言葉を待ってゆれる。
「君に出来ることは高が知れている。君はご両親ほど強くないし、賢くもない」
「はい」
「けれど、君は優しい。人を取り込む能力には秀でている」
「ありがとう御座います」
「珠月、君は君ができることをすればいい。足りなくても構わない。完璧にできなくてもいい。できていることが大切だ。君は努力しているし、それは評価されるべきものだよ。だから」
 軽く昴は珠月の頭を叩いた。そのまま頬に手を滑らせる。
「頑張りたいなら頑張りなさい。僕は君が頑張ってることを知っているし、君の能力も知っている。才能はあまりないけどね。だから君が頑張りたいなら、斜め後ろからそれを応援するよ。引っ張っては上げないし、転ぶのも勝手だけど、ちゃんと見ていてはあげるから」
 沈黙が落ちた。ぽかんと口を開けて珠月は昴を見つめる。そしてため息を吐いた。
「いや、そこは『君はもう十分に頑張ってるからもう頑張らなくてもいいんだよ』とか素敵な口説き文句を吐くところじゃないの?」
「え? 甘やかされたいのかい?」
 珠月は激しく首を横に振った。昴は笑って手を離す。
「隙を見せると私を堕落させようとするストーカーが一匹いるから、それはもういい。むしろ止めてほしい。心底死んでほしい」
「じゃあいいじゃないか。僕は君を甘やかす。でも君の可能性を制限したりしない。僕は君を評価する。けれど君がどういうものであろうと別にその方向性は気にしない。僕は君の努力と実力を認めている。でもそれを賛美も卑下もしない。好きにすればいい」
「…………何それ」
 珠月はこれ以上ないくらい不満そうな顔をした。
「全然甘やかしてくれないじゃん!」
「そりゃあそうだよ。これくらいご両親に溺愛されてるなら、僕はちょっとビターなくらいで丁度いいだろ。だいたい、頑張ってる人間に『頑張れ』というのも『頑張るな』っていうのも失礼だ。僕はそういうの嫌いだね。珠月は普通に優秀なんだから、頑張りたいならもっと頑張ればもっとすごくなるし、もういいやって思うならそれはそれで愉快に生きられるんじゃないの?」
「それ、篭森の娘に言う?」
「関係あるの?」
 綺麗にムースをすくい取って、昴は名残惜しそうなため息をついた。そしてスプーンを置く。
「どこの誰だろうと自分の力の及ぶ限り好き勝手する権利はあるよ。好きにすればいいと思うよ。僕は珠月が好きだし、珠月が非道なことは理由がない限りしないって知ってるから、君が行く道がどういう道だろうと応援するよ。応援するだけだけど」
「呆れた。それが師匠の台詞?」
「師匠とは弟子に教え導くもので、弟子はかいがいしく師匠の世話をするものだよ。僕はちゃんと導いてるよ。無限の選択肢が広がる未来に導いてる」
「迷宮に誘い込んでるのと変わらんわ!!」
 珠月は机を叩いた。カタカタと食器が揺れる。すばやく昴は食器から手を離した。
「危ないな、珠月。やっぱりすべての食器を割れない素材に変えたほうがいい。割りそうだ」
「晩餐にわざわざ銀食器を使ってるのは、誰のためだと思ってるの? 可能なものは木製に変えたりしてる。でも陶器が一番食器としては一般的かつ品がいいの! って違う。こんな話をしたいんじゃない!」
 珠月は頭をかきむしった。このままだと自分の存在意義について延々と悩みだしそうな珠月を見下ろして、昴はため息をつく。そして、よこに避けられていた紙袋を引き寄せた。
「珠月、開けかけだろ。とりあえず、これでも見て機嫌直して」
「…………」
 拗ねた視線が返ってきた。昴は苦笑する。
「珠月は本当に根が暗いな。そこが可愛いんだけど」
「……うるさい」
「あの天真爛漫天衣無縫傍若無人唯我独尊の御両親から、なんで君が生まれるか本当に謎だよ。鷹が鶴を生むような不思議だよね」
「…………そのたとえはあらゆるものに対して失礼です」
「そうかな?」
 俯いて鬱モードに入った珠月の代わりに昴が中身を取り出す。
「……何これ?」
 珠月の目の前に大きな硝子玉がぶら下がった。ボールよりやや大きいその入れ物の中をひらひらと赤と黒の生き物が泳いでいる。
「出目金っていうんだよ。見るのは初めて?」
「…………いいえ、日系人の知人の家で見たことがあるよ。それはもっと大きくて、装飾がいっぱいある水槽に入っていたけど。金魚の一種だよね」
「そうだよ。日本では縁起物とされる。元は中国から伝わったらしいけど。赤い金魚は幸運を運んで黒い金魚は邪気を避けるってね」
 ひらひらと水の中を鰭が舞う。ぞろりと長い装束のような尾と奇妙に膨れた身体。本体からこぼれ落ちそうな目玉。生き物としては奇形といってもいいはずなのに、人間は喜んでそれを飼う。
「こんな狭いところじゃ可哀想」
 少し泳いでは硝子にぶつかって方向を変える金魚を見て珠月は呟いた。だが、昴は首を横に振る。
「平気だよ、珠月。金魚はそういう生き物だ。壁にぶつかっても次の瞬間には壁にぶつかったことを忘れてしまう。餌をちゃんと上げて水を綺麗に保つなら、こんな狭い場所でも文句は言わないよ。どんな場所でもたくましく生きていく」
 狭い球体の入れ物の中を赤と黒の金魚は泳ぎ回る。冷静に考えれば残虐な鑑賞物ともいえるのに、どうしても涼しげで楽しそうに見えてしまう。珠月はゆっくりと瞬きをした。
「――――綺麗」
 ひらひらと、ひらひらと尾が揺れる。だらりと長い鰭が水をかく。まるで豪奢な着物を着ているようだ。
「間に合わなかったんだけどね、金魚のような着物もあるんだよ。まだ注文中だけど数日中には届く」
 心を読まれた気がして、珠月は驚いて顔を上げた。昴は珠月ではなく金魚を見ながらニコニコと笑っている。よく見ると硝子玉の上部に組みひもが取り付けてあり、昴はそれで玉を珠月の視線の高さにぶら下げている。
「赤と黒の多振り袖。ゆったりした袖や裾を引きずるような着物、だらりとした帯なんかは金魚にとても似てると思わないかい? 幸運の使いなんていうけれど、僕が金魚を見る時に思い出すのは遊女だよ。囲いの中の至上の美」
 罪深いね、と冗談めかしていって昴は金魚の入った硝子玉を差し出した。次の瞬間、手が滑って硝子玉を取り落とす。間一髪のところで珠月はそれを受け止めた。そして、ここまで彼が無事にガラス製品を持って来られた奇跡に感謝する。
「っと、危ない。強化硝子だから滅多なことでは割れないけど、金魚がビックリしてしまう」
「もう手遅れだと思う」
 言いながら珠月は硝子玉を覗き込んだ。しかし、そこには意外にもゆったりと泳ぐ金魚の姿があった。
「……呑気な生き物なのね」
「金魚はそういうものだよ。常にマイペースなんだ。大事に飼ってね。着物が来たら、写真取ろう」
「呆れた。遊女なんて悪いイメージを呟いておいて、私に金魚に見立てた着物を着せようなんていい趣味してるよ」
 珠月は大げさに首をすくめた。
「おや。気分を害してしまったかな。そういうつもりじゃなかったんだけど」
「じゃあ、どういうつもりなの」
 腕を組んで珠月はじろりと昴を睨んだ。昴は珠月が机の上に置いた硝子玉を指でつつく。
「生き物としては歪で、自然界ではとても生きられない魚だよ。金魚は。けれど、水槽の中では金魚はまれに至上の魚となる。ここまで多くの人間に飼育され愛でられる魚は少ないだろうね。そういう意味ではどんな高級魚よりも価値がある」
「確かにね。食べられるわけでもないのに」
 珠月は硝子玉の表面に指を滑らせる。
「桜と金魚は日本のどこにでもあったらしいね。戦争の前、まだ国というものが世界の中心だった時代には。この廃墟と密林と奇妙な都市しかない現代からは想像もつかない呑気な時代だったらしい」
「それだけ愛されていたんだろうね。それらは」
 くすくすと昴は笑った。
「君はこういう風になればいい」
「飼われろと?」
「まさか」
 昴は笑みを深くする。
「弱くていい。歪でいい。脆弱でいい。生き物として間違ったあり方で構わない。だが、金魚は多くの人に愛される至上の魚だ。遊女がその下賎の身分とは裏腹に、至高天の人間にすら時に匹敵する地位を持つ。それらは単体ではただの奇形の魚と下賎な女だが、己の舞台では至高の花。策士も同じだ。僕が教えているのは君が至上の強さを手に入れる方法でも、ない才能を補う方法でもない。故に策士は最強でも最高でも最上でもなければ、最善でも最悪でも最狂でも最優でもない。そうである必要はない。だが、己の策の舞台の上では気づかぬうちに誰もを魅了する花になれ。そういう意味だったんだけどね」
「――――――――回りくどいにもほどがある故に、理由がこじ付けすぎる。それに」
 珠月は机を蹴りとばした。
「金魚や遊女なんて生ぬるい。私はもっとすごい華になってみせるよ」
「たくましいなぁ」
 昴は笑った。




 十三年後。アジア某所の学園都市。
 ノミ市が立っていた。あちこちに行商人が店を広げ、様々な品を並べている。個人商店のお蔵出しもあれば、メーカーや商社の臨時店舗、個人がいらないものを出品するフリーマーケットもある。この学園の生徒は一般的な都市の人間とは違い、あちこちを旅行する機会が多く、また人脈の関係で妙なものを手に入れることも多い。そういう掘り出し物を狙って沢山の人が集まっている。さらにそこに集まる人を狙って、いくつもの企業が店を構える。
 人ごみでごった返す市をひらひらと軽やかな身のこなしで歩いていた少女はふと足を止めた。少女に置いてきぼりを食らっていた連れの数人が慌てて追いつく。
「珠月様、そんなに急いで歩くとみんな置いてきぼりになってしまう」
「そうだよ、珠月。僕らを置いていかないでくれよ」
 追いついた数名の男性が口々に文句を言う。少女は肩をすくめた。
「貴方達こそ、人ごみの流れをもっと読まないと流されちゃうよ?」
「いっそのこと別行動でもいいんじゃないか」
 ぼそりと一人が呟いたが、別の青年がその口を塞ぐ。
「ダメダメ。折角みんなで来た意味がなくなるだろ。君だって興味しんしんだったくせに」
「確かに興味深くはある。流石は学園都市トランキライザーだ。化学薬品や機械製品の質が並みじゃない。確かに興味深い市だとは思う。お前らさえいなければ」
「酷いな。イジメだ」
「お二方とも喧嘩はやめてください。珠月様も止めてくれ……って聞いてないな」
 古い道具が無造作に積まれた店の前で珠月は膝を追った。地面に置かれた木箱の中にずらりと並べられた木の彫り物から一つを手に取る。追いついた男性たちも、その手元を覗き込んだ。
「木彫り? 中国の置きものか何かか?」
 ことんと首を傾げた青年に、少女ではなく別の青年が返事を返す。
「これは根付だよ。日本の古いストラップさ。それは金魚かな。すごく精巧だ。名のある職人のものというわけではないようだけれど、今にも動き出しそうじゃないか。これだけものがある中から一瞬で見つけ出すなんて、流石は珠月。目利きだね」
「金に汚いの間違いだろ」
 それは五センチほどの木彫りだった。木を削って今にも泳ぎだしそうな金魚が作られている。瞳には何か黒い石がはまっているようだが、それ以外はただの木彫りで何の加工もされていない。珠月は目を細めた。
「――――赤い金魚かな、黒い金魚かな?」
「…………………………木彫りなので木の色をしていると思うが」
 正直な感想を呟いた青年を、残りの二人が無言でぶったたく。少女は聞こえなかったふりをしてじっとそれを見つめている。
「それ欲しいの? 君が金魚好きなんて知らなかったよ。君、こういう東洋系のアイテムには興味ないんだと思ってた。今度、何か贈らせてくれよ」
「……そういうのが好きなら作ってやろうか? 注文するならな」
「ううん。いらない」
 妙にきっぱりと言って、少女は首を振った。そして金魚を元の木箱に戻す。
「いらないよ。金魚はもうもらったから」
 きょとんとした顔で青年たちは顔を見合わせる。それには答えずに少女は歩き出した。慌てて青年たちもそれを追う。
「もうもらったって、いつもらったんだ?」
「それとも金魚、嫌いだったのか?」
 不思議そうな顔をする青年に少女は振り向いて視線を投げかけた。ふいにその表情が歪む。過去を懐かしむように。
「いいえ。でも、もういらないの。だって金魚はいるもの」
「? あの屋敷、金魚なんていたか?」
 青年たちは顔を見合わせるが、互いに思い当たるものがなかったのか首をかしげる。
「いつ誰にそんなものもらったんだ?」
 少女は返事の代わりに微笑んだ。
 彼女のあまり見ない表情に、青年たちは目を丸くした。


おわり
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