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 Infancy(揺籃期)


 思ったより小さな屋敷だった。
 彼は咎められない程度に視線を巡らせた。先導する女性は視線だけをこちらに向けたが何も言わない。
「思ったより狭いと思っていらっしゃるでしょうね。けれど、仮住まいなのでこれで十分なのです。今はお嬢様しか住んでいらっしゃいませんし、これ以上では警備が行きとどきません」
「使用人は?」
「家庭教師の皆さま方は皆本職があるので時間のある時に通いです。住み込み使用人は二人だけ。あとは毎日違うシフトで隣の建物で寝泊まりしている使用人が通います。人によって入れるエリアは限定され、外からものを持ちこむことも持ちだすことも基本的に禁止です」
 ひらひらと時代錯誤なメイド服が揺れる。足元には毛の短い絨毯。足音が吸収されにくい素材をあえて選んでいる。
「重警備ですね。なのに僕なんかを入れていいんですか?」
「壬無月様がお呼びになった方です。問題は御座いません。それと普段はこんなのでは御座いませんよ。あの方たちは子育てを他人任せになどしません。ただ、今は少し忙しくて面倒をみられないのでこのように家庭教師と使用人に任せているだけです。以前住んでいた家が焼失しまして、私塾も訳あって閉鎖されてしまいましたので」
 壁際に影のように立つ男をすれ違う。メイドも男も互いに挨拶すらしないただ一瞬だけ視線を合わせて通り過ぎる。
「まあ、壬無月様と葵様にはすぐに会うことになるとは思います。隙を見ては帰宅なさいますので。他に貴方がこの屋敷で会うのは使用人と他の家庭教師です。トラブルさえ起こさないなら、どのような関係を築かれてもかまいません」
「分かりました」
 ひどく機械的なメイドの言い草にも気を悪くした様子もなく彼は頷いた。初めに屋敷に持ってきた鞄は別の人間が持っていったので、なんとなく手持無沙汰になる。
「勉強に必要そうなものは用意されています。必要なものがあればこちらで用意いたします。それからここで生活するためのルールですが」
 淡々と一定のリズムで響く声。感情を完全に排除し機械的に動くのは慎重で臆病な人間の特徴だ。自分を殺し、頭を低くすることですべてが過ぎ去るのを待つ。たとえ報酬を持ちかけられても現状の変化を抑え、首を縦にはふらない。たしかにこの人間なら、何があっても”最狂の十干蒐”に歯向かうことはないだろう。ぼんやりと彼は思った。
「――――です。そして、あなたのお仕事は分かっていると思いますが、お嬢様の家庭教師です。戦術の教師とうかがっていますが、現在、語学の教師が欠けているのでそちらも兼任していただきます。数学、歴史社会学、礼儀作法の教師は他におります。その他にも不定期に講義に来る教員もいらっしゃいます」
「学校には通わせないんですか?」
「準備ができたら通わせる予定です」
 淡々とメイドは答える。窓枠の向こうで枝が揺れた。その先には敷地を覆う壁が見える。
「――――鳥かごというのはですね」
 心を読んだようにぼそりとメイドは呟いた。
「鳥を外に出さないための残酷なものと思う人が多いのですが、実は弱い鳥を逃がさないためのものでもあるんですよ。その一方で危険なものを閉じ込めて外にいる人を守るための役目も果たします」
「そうですね」
 一瞬だけメイドの顔が曇った。
「あまり甘くみないほうがいいと思いますよ。あと、注意点がいくつか」
ちらりと彼を振りむきながら、メイドは続ける。それを見ながら、彼は昨日のことを思い出していた。



「人にものを教えるにはその相手の倍から三倍の技量が必要らしい」
 師であり養父である人間の言葉に、彼は顔を上げた。瞬時に彼の言葉からいくつかの未来予想図を描きだすが、どれもろくなものではなかったので少し嫌な気分になる。当たり前のように椅子にゆったりと座った養父は、のんびりと続ける。
「無知な人間にものを教えようとすると、意外と自分が分かっていないことが分かって面白いし、出来のいい生徒を持つと自分の分身を育てているようで面白いものだ。人を育てるというのは、時に人生の結果を自分の目で確認するような行為でもある。人に教えるのは面白い。ただし、たまにイライラする」
「ありがとう御座います」
 かすかに自画自賛が含まれているのを感じながら、彼は素直に頭を下げた。養父は柔和に笑う。
「だから、ちょっと行って来い」
 少し予想外台詞が続いて、彼は目を瞬かせた。
「かしこまりました。どこに行けばよろしいでしょうか」
「倫敦。十干蒐の水天宮葵と篭森壬無月は知っているだろう? その夫婦が住んでいる」
 沈黙が下りた。じっと彼は養父を見つめる。彼の頭脳をもってしても、目の前の養父が何を考えているかだけはまったく分からない。
「勿論、存じています。どちらも十干蒐の中でも特に目立つ御方ですから」
「地味な俺とは違うからな」
 十干蒐。
 古代中国にルーツを持つと言われる、十人の人間からなる組織。国家体制が消滅し、大企業と各種組織の力によって復興した世界において、十干蒐は『九つの組織』と呼ばれる世界を牽引する組織のひとつとしてカウントされている。しかし、それら世界の裏を牛耳る『九つの組織』と表を牽引する『黄道十二企業』の中でももっとも組織としての体制がないことでも知られる。
 たった十人の人間。それだけでも組織として成り立つとは思えないのに、その十人すら互いの所在も所属も名前も顔も知らない。交流があるものもいるがないほうが多い。代替わりしても誰も連絡などしないので、戦った相手が後から同じ十干蒐だと判明することも多い。その中で数少ない外部にも知られている十干蒐構成員が水天宮葵と篭森壬無月だ。特に壬無月は、最狂の十干として内外から恐れられている。ちなみにこの二人は夫婦でもある。
 そして養父もまた十干蒐に席を置く人間だ。
「その十干蒐の夫婦と貴方の間に交流があるとは存じませんでした」
 十干蒐は組織であって組織ではない。故に巨大な権力をもつわけでもない。しかし、一つの事実がすべての人間の心に引っ掛かかるため侮られることも少ない。
 たった十人の団結しているわけでもない人間が世界の一角を担っている。つまり十干蒐はすべてが一騎当万の超人なのだ。
「あることはある。互いにどこで何をしているかも知らないがね。互いに信用はしてるけど、信頼はしていない。そういうものだ」
 飄々とした好々爺の態度を崩さないままに、師匠は答えた。
「この前、飲み屋でものすごく久しぶりに再会してな。ちょっと勝負をした」
 続く言葉が予想できて、彼は項垂れた。
「負けた罰金として誰か頭のいい人間を貸してほしいそうだ。娘さんの通っていた私塾が事故で閉鎖されたらしい。だから、ちょっと住み込み家庭教師してこい。長期休みには帰れるから。なに、ほんの数年だ」
 頭が痛くなった。飲み屋でしかも勝負ということは、大方、酒を飲んで酔い潰れたほうが負けとかそういう類の遊びをしていたであろうことは想像に難くない。
「お師匠様、僕は子どもが得意でないのですがそれでもよろしいのでしょうか」
「大丈夫。アレの娘が普通に子どもらしい子どもな訳ないから。四歳の娘で名前は珠月。壬無月と葵さんの娘ならまあ普通以上には可愛いだろう。うまく気に入れられた逆玉の輿だ」
「幼女に何をしようとしているんですか、貴方は」
「おや、育ったらいいのか?」
「…………」
「いい女に育ったら俺がほしいくらいだな」
「…………」
 彼が黙ると養父はけたけたと笑った。
「冗談じょうだん。手を出したら壬無月に骨も拾えないほど粉砕されるぞ。真面目に先生してこい。あの親馬鹿どもは冗談も通じん」
 どこまでもいい加減に養父は行って荷物の入った鞄と紹介状を放り投げた。



 そして今に至る。と、そこまで振り返ったところで、メイドは前を向いた。まだ数秒も経過していない。普通の人間なら一分以上は考え込む時間が、彼には必要ない。何もしないでも脳のどこかが動いて思考している部分とは別に色々な問いと回答を出力する。そういう風にできている。
「まずお嬢様は他人に触れられるのが嫌いです。必要以上に接触しないように。それから現在のこの屋敷の主人格はお嬢様とはいえ、まだお嬢様は年少です。悪いことをした場合は、教師として叱ってくださって構いません。ただし――――」
 あきらかに十代前半の人間をみて難色を示されるかと思ったが、メイドも護衛も何も言わなかった。家庭教師というよりは、学友の類として認識したのかもしれない。
「というわけです。では、着きました」
 言い終わると同時にメイドは足を止めた。
「失礼いたします」
 メイドは見本のような完璧な仕草でノックをした。中から男性の声が返ってくる。扉を開けると書類をまとめて帰り仕度をしている男性がいた。スクリーンがあり、ノートや筆記用具、ノートPCがつい先ほどまで授業をしていたことを思わせる。部屋にその男性と警備らしい男性しかいないのを見て、メイドは顔をしかめた。
「ディオ博士。珠月様はどこに?」
 呼ばれた初老の男性はおっとりを答える。
「お嬢様なら授業が終わられたのでどこかに行ってしまいましたよ。いやはや、老いぼれの教えなどは若いお嬢さんには退屈なのでしょうな」
 彼は答えた。予想通り、家庭教師の一人だったらしい。
「お嬢様でしたら、お道具部屋に居らっしゃると思います。先ほど、ナターシャがおやつを持って行きました」
護衛か警護の男性が答えた。彼も感情を隠した話方をする。じっと観察する。真面目そうな人間だ。声や仕草から規律を大事にするタイプだと分かる。切り崩しやすいが、きちんと周囲を囲っている限りは扱いやすく裏切りにくいタイプだ。
考えながら視線がテーブルの上の勉強道具を捉える。かなり使いこまれたそれから、その持ち主が勉強熱心な努力型の人間であることがうかがえる。しかし、そのデザインはあまり子ども向きではない。むしろ中年の男性が持っていそうなシンプルだが長い使用に耐えるタイプのものだ。
さらに視線は動いて自動的に推論をはじき出す。おっとりとした男性の表情からは生徒に対する嫌悪がまったく感じられない。金持ちの子弟への出張講義など、高確率でろくなことがないものだが、彼はひどく穏やかに見える。それが人格的なものである可能性も捨てきれないが、おそらくはこの生徒は比較的真面目で飲み込みがいいのだと推測できる。出来の良い生徒に教えるのは、学者としての喜びだろう。
目と耳はメイドの動きも捉えている。『お道具部屋』という言葉が出た瞬間、一瞬だけ彼女の眉間にしわが寄る。そこには行きたくないと表情が語るが、それは一秒も立たずに消え、すぐにもとの笑顔に戻る。
『お道具部屋』が何かはわからないが、そこはお嬢様と何か強い関係がある場所なのだろう。ならば、見ておきたい。
「では、私が呼んで」「いいえ、僕が行きます」
 メイドの言葉を遮って彼は答えた。彼女が振り向く瞬間に、にこりと人畜無害の顔で笑う。
「私が雇い主のお嬢さんを呼び付けても様にならないでしょう? それに家庭教師として雇われたといってもどうせ初日は雑談ですし、呼び付けて嫌われると困りますから」
「…………分かりました。けれど、珠月様はお道具部屋に人が入ることをあまり好みません」
 メイドの顔に思案の色がよぎる。考えるすきを与えないように彼は続けた。
「怒られたら出て行きますよ。そうなったら僕の責任です」
 メイドは少し考えてあっさりと頷いた。
「分かりました。壬無月様から信用してよいと聞かされておりますので、問題ないでしょう」「おや、紹介状が信用できても実は僕は偽物とすり替わっているのかもしれませんよ?」
 ふるふるとメイドは首を横に振った。
「調査済です」
「そうですか」
 彼は肩をすくめてみせた。メイドは淡々としたまま、再び廊下に出る。なんとなくその服装を観察して、それがかなりいい生地を使っていることに気づく。そういえば家の備品もやたらといいものだ。持ち主の趣味なのか、あるいは娘の美的感覚の訓練なのかもしれない。暇つぶしにこの部屋でドミノ倒しを行う場合、どのようにすれば確実にドミノが倒せるか試算してみる。無駄な脳力を使った気がした。その間に、メイドは目的の部屋の前で立ち止まった。
「お嬢様。アンです。新しい家庭教師の方が参りました」
「聞いてないよ」
 別の部屋の前に立って扉を叩く。間入れず声が返ってきた。年相応の幼い声。だが、なんとなく年相応ではないとろりと沈んだ感じがする。こういう声は知っている。子どもでいるべき時期に、子どもでいることを許されなかった人間の声だ。背伸びして、何でもないふりをしている人間の声だ。
「予定よりはやくつきました。お父様がお選びになった方です」
 少し間が合った。そして、思い出したように返事が返ってくる。
「…………ああ、明日着くんだと思ってた。準備します」
 即答せずに返事をするのは失敗を恐れる人間の特徴だ。怖いので発言が少なくなり、よく考え込む。爪を噛んだりするくせのあるものも多い。
「もう来てるよ。入っていいかな?」
 メイドをすっ飛ばして声をかける。一瞬の沈黙の後、返事が返ってきた。
「ここはとても散らかっていて、勉強をする空間じゃありませんから」
 声には拒絶が込められている。彼はあえてそれを無視する。
「今日はまだ勉強はしないよ。僕は住み込みだから、初めにちゃんと自己紹介をしておきたいだけだから、ちょっと入っていいかな」
 また間があった。そして、小さくため息が聞こえる。
「どうぞ」
 メイドが扉を開けた。そして自分は横に行く。
「どうぞ。私たちは用事がない限り入室できませんので」
「二人きりにしていいんですか?」
 メイドは背筋を伸ばして答えた。
「私はここにいます。何かなさった場合、生きて帰れないことを覚悟ください」
「そう」
 本当に生きては帰さないのだろうなということを確認しつつ彼は部屋の中に足を踏み入れた。足元の感触が変わる。毛の長い柔らかな絨毯の感触だ。カーテンをすべて下ろした部屋は薄暗い。だが、目が慣れるとすぐにその部屋の異常さが分かった。
 物モノもの――――溢れかえる物で部屋のほとんどが埋め尽くされている。天井からは作りものの鳥が入った鳥かごや糸で吊るされたマリオネット、動物や天使のオーナメントがつり下がり、壁際にはまるで死体の山のようにぬいぐるみが積み重なっている。崩れかけた積み木の城と開かれたままの仕掛け絵本。ぎょろりと目を向いた機械仕掛けの人形の横では、木馬の上に藍色のテディベアが座っている。天井まである棚もびっしりと人形が座っている。
「…………珠月、さん……?」
ブリザードフラワーの赤い薔薇が花瓶から溢れて床に血のように散っている。転がっている硝子玉は良く見ると精巧なとんぼ玉だ。地球儀と天球儀が仲良くならび、古い地図のレプリカが壁にナイフで止められている。ダーツの的には笑みを浮かべたピエロが串刺しになっている。
 圧倒的だった。あまりにもその空間はおかしかった。
 ほのかに甘い香りが漂う。それを辿って視線を巡らせると、置くに猫足の大きなテーブルがあるのが目に入った。向かい合わせに二脚の肘掛椅子があり、その間あたりにガラスケースと食器が置かれている。その横にはポットとティセット。香りはガラスケースの中からしていた。四歳の少女が食べる量とはとても思えない色とりどりのケーキやタルトがびっしりと詰まっている。
 しかしこの空間の主の姿は見えない。
視線を巡らせると、遺跡のような本の山と死体のような人形の山に囲まれてこちらに背を向けた肘掛椅子があった。その肘置きに藍色の服を着た腕が見える。
「珠月さん?」
 返事はない。彼はゆっくりと瞬きをした。気を抜くと空間に圧倒されそうになる。過剰に演出された幼児性は恐怖に近い。一つ一つを見れば可愛くて品のいいものなのに、ここまで集まるとそれらはひどく暴力的だ。だが、よくよく観察すると違うものも見えてくる。
 ゆっくりと彼は歩き出した。足元にも沢山のものが転がっていて、気を抜くと踏みそうになる。あと少しで椅子に手が届く距離になったところで、彼はおもむろに立ち止った。ゆっくりと周囲へ意識を集中させる。部屋にある物体の位置が立体的に脳内で組み立てられ、答えを導き出す。そして、
彼はくるりと向きを変えると、近くにあったぬいぐるみをかきわけた。そして目的のものを見つけるとどうにか抱き上げる。
「見つけた。かくれんぼ?」
「へえ」
 臙脂色のワンピースがひらりと揺れる。そのドレスより深い色の瞳をした少女は目を丸くした。
「どうして分かったの? ちゃんと隠れたつもりだったのに」
 腰まであるみつあみにした黒髪と血色の瞳、同年代の子供とくらべてもやや小柄な少女はことんと首を傾げた。
「だって君は篭森さんの娘さんだろ? そんな初対面の敵かもしれない人間がいるのに、背を向けたまま声も出さないなんておかしいと思って」
 彼は少女を床に下ろした。そして、改めて椅子を引き寄せる。くるりと肘掛椅子を回転させると、そこには少女と同じくらいの大きさの少女にそっくりの人形が座っていた。間近でみると作りものと分かるが、遠目ならば十二分に誤魔化せる精巧さだ。
「よくできてるね」
 自分人形。ナルシストのたまものではなく、自分の身代りにするためにつくられる人形。それほど珍しいものでもないが、安いものでは決してない。
「お母様が買ってくれたの」
 少女は笑った。少女らしくないひどくそこの見えない顔で。そしてことんともう一度首をかしげる。可愛らしい仕草なのに、彼女がやるとひどく陰鬱に見える。何よりその姿は奇妙なほどにこの頭のおかしくなるような空間に合っている。
「でも、なんであそこにいるってすぐに分かってしまったの? 私、隠れるの、そんなに下手だった?」
 完璧だな。ぼんやりと彼は思った。この空間はあまりにも圧倒的だ。ここを訪れた人間のうち十人に八人は納得するだろう。この少女は普通ではない。この子は狂っている。そう納得させるだけのものがこの空間にはある。残り二人のうち一人は狂っているかどうかすら考えないか興味がない。そして最後の一人は――――
「簡単だよ。僕が人形の顔を見ようとしたとき、確実に僕の死角になる場所で人が隠れそうな場所を割り出しただけだ」
「ああ、そういうのもあるんだね。参考になった。ありがとう」
 子供らしくない口調で彼女は答えた。
 普通でない部屋。普通でない人間の子ども。普通ではない態度。どうみても完璧なまでに普通ではない幼い少女。だが、
「中々素敵なステージだね。とても良い。君とは仲良くなれる気がするよ」
 少女は目を見開いた。数秒間じっと彼を見つめる。彼もまた少女を見つめた。
 篭森壬無月とも水天宮葵とも似ていない。瞳の色こそ父親に少し似ているが、同じ赤色でも系統がまったく違う。白い肌や細い手足はまあ悪くはないが、母親のような誰もが納得する華やぎや愛らしさはない。異常な空間の装飾を取り除いてみれば、ごくごく普通の女の子だ。だが、その態度と異常な空間、そしてあの両親の子どもであるという先入観が眼を曇らせる。
 この子は狂っていない。だが、狂って見える。そして何より本人がそれに気付いている。
「……貴方は、私の家庭教師」
 子供らしくないどこか呪うようなうらみがましい色をのぞかせる目で、少女は確かめるように尋ねた。
「そうだよ。僕は今日から君の家庭教師になる」
「貴方は――――私に何を教えにきたのかな?」
 少女はまた小首を傾げた。上目遣いで首をかしげる可愛らしい仕草なのに、どこか挑むようにも見える。彼はくすりと笑った。
「駄目だよ」
 そして手を伸ばして、少女の頬に手を添える。
「直球で挑むならば、そういう態度は駄目だ。挑む姿勢が見えてしまっては相手は警戒する。せっかく子どもなんだ。もし真正面から行きたいなら、もっと無邪気に無知になにも考えていないような顔をして尋ねなさい」
 少女は唖然とした顔をした。だが、それはほんの一秒にも満たない時間で、すぐさまその顔は消えてもとの無表情に近い薄い笑みに戻る。この歳でここまで感情をコントロールできる人間は珍しい。彼は口元を綻ばせた。
 師の言葉が頭をよぎる。人を育てるのは楽しい。自分の分身を育てるようなものだからだ。それがよい更地であるほどできるものが楽しみになる。
「僕は昴。更衣昴だ」
「スバル? 和名?」
 少女はいぶかしげな顔をした。彼――昴は苦笑する。確かに干し草色の髪と青玉色の瞳の人間がそれを名乗るは違和感があるだろう。
「前の名前は、スバル・ロマノフ。半分露人だよ。今は養子に入った」
 納得したように少女は頷いた。そして何度か小さく名前を繰り返す。
「…………如月。『策謀奇術』の如月。十干蒐の康。表向きは高名な学者だと聞いている。関係は?」
「彼が聞いたら喜ぶよ」
 少女は目を細めた。威嚇するような仕草だが、昴には微笑ましいものに見える。
「それが私に何かを教えてくれる? 戦闘訓練さえまだ初心者を抜けていない私に? よくも引き受けたものだね。この一瞬でだいたいのことは分かったはず。さぞかしらがっかりしたでしょう? 私がこんなただの子どもで」
 子どもとは思えない自虐的な口調で少女は呟いた。圧迫され、自己を抑圧することに慣れた人間の目だ。昴は笑う。
「いいや。むしろやる気が出てきた。本当は、犬猫のように貸しだされて少しは機嫌が斜めになっていたんだけどね。確かにこれならやりがいがある」
 少女は怪訝そうな顔をした。まるい大きな瞳が意図をさぐるように、じっと昴を見つめる。
「ホラー映画は好きかな?」「興味がない。だけど、嫌いな人に見せるのは好き。あと、無表情で見てると周囲のおとながどん引きするのが面白い」「そっか。いいと思うよ」
 即答で返事が返ってきた。対おとな用の態度をとることに飽きたのか、少女はふてくされた表情で人形と一緒に大きな肘掛椅子に座った。まるで双子が座っているように見えて、部屋と少女の外見の異様さがさらに際立つが、昴は無視した。少女はさらに面白くなさそうな顔になるが、これも無視する。
「僕も座っていいかな?」
「どうぞ。勝手に」
 少女はケーキの入ったガラスケースの乗っているテーブルの前の椅子を指した。礼を言って昴は座る。
「食べないのかい? 美味しいそうだよ」
「うちのメイドも両親も私に何をしたいのか分からない。全部食べろと? 身体を壊せと? なんでまだ五歳にもなってない私が自分でセルフコントロールしないといけないの? 世の中一般の子どもはまだ躾の途上の年齢だよ?」
「別の躾が必要そうだけどねぇ……どういう英才教育でこういう人格が四歳にして出来上がるのか。僕も子どもは割と色々見たけど、ここまで口達者なのは珍しく……もないか。君が食べないなら、食べてもいいかな?」
「勝手に食べれば?」
 ふいと少女はそっぽを向いた。宣言通り、昴はガラスケースを開けて中身に手を伸ばす。
「駄目だよ。嫌いな相手だろうと、演技と見破られようと、一度始めた演技は貫きとおさないと。嘘だって貫けば何より強い本当になるんだから。これくらいで諦めて演技放棄なんて女優失格だ」
「目指してないし」
「君が目指す道には必要なものだろうね。あ、美味しいよ」
 甘すぎないクリームと赤いイチゴが魅惑的なショートケーキを食べて、昴は簡単の声を上げた。少女は明後日の方向を見ている。
「うちの料理人、腕は良いからね」
「君は作らないの?」
 今時、趣味人か専門職でもなくては料理などしない。
「練習中。毎回味が違うものになるのが悩みどころ。で、家庭教師の先生。授業しないの?」
 猫を完全に脱ぎ捨てて、子どもとは思えない酷く達観した気だるそうな顔で、少女は言った。昴は黙々とケーキを食べすすめ、二つ目に手を伸ばす。
「興味のない相手に教えても仕方ないからね。話、戻るよ。ホラー映画を見たことがあるなら分かると思うけど、ああいうのに出てくる怪物ってとても強いと思わないかい?」
「強くなかったら話にならないじゃん」
 少女は気がなさそうに返事をした。しかし、ちらちらと視線が昴に突き刺さる。
「そうだね。強いのは強いだけで意味がある。強いものは強いだけで怖い。強いというだけで完成している。だからモンスターは知恵を働かせて一生懸命になる必要がない。だって強いんだからね」
 話しながらシュークリームに手を伸ばす。カスタードがなめらかだ。少女は顔をしかめた。
「強さというのはそれだけ大切だ。強さの種類はあっても、強いものというのはそれだけで意味があり価値がある。けれど、どれだけ努力をしたとしても強くなれるひともいればなれないひともいる。努力しない人間は問題外だけどね。努力家は天才よりは強いかもしれないけれど、同じだけの努力をした天才には才能の分だけ劣るし、そもそもどんなに努力しても埋められないほどの才能の差がある場合だってある」
 そこで昴は言葉を切った。いつの間にか、少女はまっすぐに昴に向き直っている。赤い瞳が無感動に彼を見上げた。少女は何もいわない。黙って続きを待つ。
「僕は強くない。身体があまり丈夫でないから激しい運動はできないし、異能にも恵まれなかった。ドアの外にいるメイドさんあたりなら多分、一秒かからずに惨殺できるんじゃないかな?」
「確かに貴方は力がありそうには見えないけど」
 同じ年頃の人間と比べて随分と線の細い昴の身体のラインを視線で辿って、少女は口を開いた。
「私には貴方が弱いようには見えないよ? 暴力的な分かりやすい強さはぜんぜんないのにね」
「いや、僕は強くないよ。多少は頭が回るけれど、僕は僕一人では何もできない」
 このケーキの一つ、カップの一つも一人じゃ作れないね。そう笑って昴はベリーのタルトを切り分けて口に放り込んだ。少女は嫌そうな顔をした。
「僕が一人で出来ることなんて何もないに等しい。君はもう少しばかり成長すれば少しはましかもしれないけれど、それでも今の君に出来ることはないに等しい。違うかい?」
「嫌味?」
 少女は椅子から飛び降りた。とことこと窓辺に近付き、カーテンを開ける。日差しが強化硝子ごしに差し込む。その窓には侵入者避けの鉄格子が付いていた。屋敷に合うような優美なデザインだが、それでも格子は格子に違いない。
「一人でここから出れば私は死ぬ」
 少女は確信をこめて断言した。
「屋敷の中では私はなにでもできるし、させてもらえる。けれど、それだけでそこには意味も価値もない。ここでの私の行動で先に繋がるものがあるとすれば学ぶことだけ。此処から出ても死なないように強くなることしかない。理解しているよ。しているとも。私は子どもで無力だ。けれど、それは世界に対して何の言いわけにもならない。他の多くの子供が今この瞬間に同じ空の下のどこかでしているように、私が私として存在し続けるためには子どもでいることをあきらめて強くなるしかない。知っている。あきらめている。理解している。だけど分かっていても、あらためて言われて嬉しい気持ちになる事実じゃないんだよ。センセイ」
 少女は振り返った。逆光で表情が見えなくなる。それすら計算された行動だ。したたかな子どもの見本のような姿に、昴は苦笑する。かつて詩や物語で子どもは小さな天使が妖精のように描かれていた時代があった。しかし、今の時代ではそうではないことを彼ら自身も含めたすべてが知っている。天使は羽がある。羽がある生き物は地上を走って生きることはできない。馬が生まれた瞬間から立ち上がろうとするのと同じだ。子どもらしい愛らしさなど今の時代は意味がない。
「君は本当に、子どもらしさの欠片もないね。まあ、僕からみればそういうところが返って子どもっぽいのかもしれないけれど。本物のおとなというものは、総じて頭のどこかは子どもなものだからね」
「センセイも世間一般ではまだまだ子どもだと思うんだけど」
「君よりは七、八年は長生きしてるよ。先人の教えは聞いておくものだよ」
 少女はカーテンを閉めた。格子で小さく切り刻まれた風景が見えなくなる。部屋は再び薄暗くなった。昴は急激な明かりの変化に目を瞬かせた。
「さて、ここで問題だ。カップ一つも作れない、ケーキを焼くこともできない僕が今こうしてケーキを食べてお茶を飲めるのは何故でしょうか?」
「そりゃあ、カップを生産してる人がいて、それをうちの使用人が購入して、使うためにここに置いてあって、ケーキの原料を作ってる人がいて、それを使ってケーキを焼いて、さらにそれがここに運ばれてきてるからじゃないの?」
 怪訝そうにそれでも真面目に少女は答えた。どんな雑談でも真面目に返答をしてくる辺りに、根の真面目さと善良さが滲んでいる。良い環境で育っているんだなと昴は思った。
「正解。僕じゃない誰か他の人が働いてくれたから、僕は何もしなくてもここでケーキが食べられる」
 ガトーショコラのチョコレートが口の端に着いた。指先ですくって食べる。少し行儀が悪いがそれを咎めるような人はここにはいない。
「君が生きているのも同じ。養ってくれる人がいて、守ってくれる人がいて、助けてくれる人がいるから君は弱くても何も困らない。じゃあさ」
 昴は声を小さくして身を乗り出した。つられて少女もかすかに身を乗り出す。
「誰かがしてくれることなら、自分がやる必要はないんじゃないかな?」
「……ヒモ宣言?」
 目が真面目だった。予想の斜め下をいく返答に、昴は苦笑する。ややあって少女は肩をすくめた。
「冗談のつもりだったんだけど、私が冗談をいうと空気が凍るのよ」
「そうだね。もう言わないほうがいいと思うよ」
 さらりとひどいことを言って昴は流した。
「社会っていうのはどうせ役割分担だ。一人ですべてが出来る必要なんてない。自分が強くないなら強い誰かにどうにかしてもらえばいい。自分で動くのはとても大変だし、力がいる。なにより疲れる。だからね、自分が舞台の中心で踊る必要なんてどこにもない。自分でやるのは面倒だし限界があるから、他の誰かにやってもらいなさい」
「簡単に言うね。つまり、あなたは私に帝王学を教えに来たっていうわけかな?」
 納得したという顔で、少女は椅子に持たれた。一緒に椅子に座った等身大の人形が追いやられて変な方向に首を曲げる。なんとなく禍々しい。
「一人の超人より千の一般人が強い。一人のすごい人より一つの組織のトップのほうが強いのは当たり前。そういう話をしているんだよね? でも一つだけ問題があるよ。確かに一人であらゆることをできる必要はない。けれど何もできない人間に人は付いてこない。人を引き付けるカリスマ性とある程度の能力、なにより指導力と流れを見る観察眼、周囲の意見を取り入れて調節する頭脳が必要だ。一流の経営者とはそういうものだよ。それは一つの強さであり才能であり能力じゃないの?」
 くすりと昴は笑った。少女は昴の態度に顔をしかめる。
 綺麗な渦巻きを描くモンブランにフォークを突き刺して、昴は少女を見やった。
「違うよ。誰かに命じて動かすのは勿論とても合理的だと思うよ。足りないものを補ってくれる部下はただの道具とは全然違う価値があるし、部下の一人もいない人間というのはできることはかなり限られる。けれど逆にいうと、部下や組織を持つって言うのは縛りでもあるし、何かを持てば情もわく。そして何より君が言うようにそれが出来るのはある程度強い人間に限られてしまう。だからね、僕は人を動かすすべなんて君には教えられない。それに人に命じることなら僕より君のほうが慣れているだろうね。僕が君に教えるのは、人を動かす術だ」
「同じでしょう?」
「違うよ」
 皿に残ったケーキを綺麗に食べて、昴はさらに別のケーキに手を伸ばす。とろとろのカスタードが添えられたアップルパイが美しい。フォークをつきたてるとさくさくと音がする。
「例えば、ある人が偶然窓辺にグラスを置いたとして、そこを昼寝スポットにしている猫がそれを落して、運悪く落下したグラスが運悪く何にも引っ掛かることなく落下して、たまたまその建物の前の道路に落ちたとする。運よくその時間帯は人通りが少なくて誰にも当たらなかったけれど、グラスは粉々に砕けて、そこにたまたま待ち合わせで近くの場所に移動中の車が来て、運悪くその車の持ち主はアンティークカーの収集家だったせいでその車はパンク対策がされていなくて、運悪く硝子の欠片を踏んでしまって車はパンクし、そのまま事故を起こしたせいでその人は大怪我。おかげで仕事にも大きな影響が出たとする。元を正せば、ある人がグラスを窓辺に置いたせいだけど、人はそれを偶然と呼ぶ」
 理解できないという顔で、少女はじっと話を聞いている。顔に似合わず辛抱強い。昴は相手に見えないように微笑んだ。弱くて賢くてそして自己の制御と抑圧に慣れている人間。すべてを客観的に割り切ろうとする人間。こういう人間は策士に向いている。精神状態の歪みは少し気になるが、何事も理想通りにはいかないものだ。少なくとも素材としては悪くない。話しながら頭の片隅で、昴は冷静に計算する。
「ある人が仕事でミスをした。その人はずっと沢山の仕事を割り当てられていてくたくたに疲れ切っていた。だからうっかり大きなミスをしてしまった。みんなは何も言わなかったけれど、無言でその人を責め続けた。その視線は見えない手となってその人をビルの屋上から突き落とした。その人が死んだのは間違いなく、過剰な仕事を与え続けた上司と誰も助けなかった同僚のせいだ。けれど人はそれを自殺と呼ぶ。そこには加害者はいないとされる」
「婉曲すぎる。そろそろ結論言ってよ」
 話に飽きたのか、再び少女は椅子に深く座りなおした。集中力が切れたところを見計らって、昴は本題に踏み込む。
「バタフライ効果でもカオス理論でもいい。いずれにしてもすべての出来事はおこるべくして起きている。起きることは起きる理由があって起きるし、起こらないことは可能性に関係なく起こらない。だけど、もし流れを計算して沢山の人たちをほんの少しずつ動かしたり、あらかじめ決まった位置に配置することができれば? 自分が指一本動かさなくとも、誰にも気づかれることなく目的通りの成果を生み出すことが可能なんじゃないかな」
「流れを計算する……」
「それが策。役者にそうと気づかせず舞台の上で踊らせ続け、自分は決して舞台に上がらない。陰謀のプロデューサーで立役者。それが策士」
 再び少女の興味を強く引いたところで、畳みかけるように昴は言う。
「操り人形を操るのに力はいらない。ただ糸がどのように繋がっていて、それをどう動かせばどう動くかを熟知していればいい。観客が見るのは人形だけ。その裏に誰がいようが劇が成功しているならば観客は気にしない。ただし、失敗すればすべての責務を負うのもまた策士。ねえ?」
 昴は完全に話に飲み込まれている少女にそっと手を差し出す。
「最弱でも世界を動かせる方法、知りたくないかい?」
 反射的に頷きかかったところで、少女は動きを止めた。数秒間硬直した後、いきなり顔上げる。
「ちょっと待て」
「そこで待てって言葉が出てくる辺りが、かなり将来有望だよね。色々問題点はあるけど」
 艶々したラズベリーと真っ赤なラズベリーソースが魅惑のレアチーズケーキを手に取って、昴はふむと唸った。少女は額に手をやって考え込む。
「……私にそれを教えるメリットがよく分からない。それは家庭教師の仕事なの?」
「やっぱり目の付けどころは悪くないよね。正解。僕の担当科目は語学と戦術戦略学。つまり、戦闘指揮や軍議の知識を与える役目ね。でもぶっちゃけ、今時ソルジャーなんて流行らないでしょ。指揮が必要なほどの大きな戦争は激減してるし、今の主役は市街戦と頭脳戦、互いに工作員や暗殺者を送り込んでの水面下での合戦だ。それなら策士の知識を与えたほうがずっと有用だ」
「理由になってない」
「じゃあ、君が気に入ったから」
 少女は目を丸くした。その隙に、三口で昴はケーキを食べ終わる。
「師匠がね、言うんだ。弟子を育てるのは面白いって。自分の知識の集大成だからって。今までその面白みなんて欠片も感じたことないから弟子なんているかって思っていたんだけど、なんとく君は面白そうだし教えてあげてもいい。君がどういう策を作るか興味がある」
「酔狂」
「そうでもないよ」
 フルフルと震えるプリンの容器に口をつけて傾ける。ゆるく作られたそれは飲み物のように飲み干せる。
「この部屋を見て思ったんだ。独学でこれだけの演出技術があるなら、策を仕込めばきっと面白いって。最強でも最弱でもない存在でも、君は華になれる才能はある」
「メイドは気味悪がるけどね。モノがあり過ぎて怖いって」
 乱雑にもので溢れかえった部屋を見渡して、少女は皮肉な笑みを浮かべた。昴は笑ってそれを否定する。
「確かに一見すると散らかっているし、過剰なまでの幼児性と溢れかえる物量は威圧感を感じる。でもよく見れば分かるはずだよ。ここは君の勉強部屋だろう? 誰にも見せない秘密の勉強部屋」
 足元に積み上がった絵本の山に昴は視線を向けた。
「この大きな本は童話じゃなくてもう絶版になっている論述書、あちらは読みかけの絵本の山だけど、すべて違う国の言葉で書かれたもので子どもでも――その国の語学に造詣が深くないものでも読める初心者の勉強向きの本だ。棚に並んだ人形は本物とレプリカが入り乱れていて、真贋を見分ける勉強に使う。チェスや碁は頭を使うし、ポーカーと麻雀は社交のためにも覚えておいたほうがいい。転がっている飴玉やゼリービーンの半分は毒入りと見た。耐性をつけるために摂取しているんだろう? 臭いが少しだけ違う。ダーツの的はナイフ投げの練習だろうし、等身大の人形は人体の動きの勉強に役立つ。何よりこの部屋にこもっていたとしても誰も勉強しているなんて夢にも思わない。玩具だらけの部屋に何時間も籠るなんて気味の悪い子どもだと思うだけだ」
 視線を少女に戻すと彼女はふてくされた顔をしていた。
「…………サイアク」
 ずるずると椅子に持たれて、少女はいじけたように膝を抱えて顔を伏せた。
「それ、だれかに言ったらぶっ殺す」
「女の子がそういう言い方するものじゃないよ」
 ふるふると震える抹茶のババロアを切り分けながら、昴は少女を窘めた。怨念がこもっていそうな視線が返ってくる。
「うるさい! そんだけ分かってるなら、私の立場もわかるでしょう? 私は頭のおかしい天才児じゃないといけないの! 誰もなにもいわなくてもそれを望まれてるし、そうでないことなんて許してもらえないの!」
「壬無月さんや葵さんはそういうタイプとは聞いてないけどねぇ」
「お父さんやお母さんは何も言わない。私がどんなに出来が悪くてもニコニコしながら、一生懸命何度でも教えてくれる。だけど、他の人はそうじゃない。私はもっともっと強くて優秀にならないといけないの。死ぬほど努力をしないと他人に追いつけないようじゃだめなの。分かる?」
「立場は分かるよ。だからね」
 口の端についたクリームを舌で舐めとって、昴は言った。
「僕の生徒になりなさい」
 少女はやはり首を縦には降らなかった。じっと昴を見つめる。まるでそうすれば真実が見えるとでも思っているかのように。小さく息を吐いて、昴はフォークを置いた。
「見てもらうのは早いね。たとえばあそこにある人形」
 部屋の反対側のはしのほうを、昴は指差した。木でできた魔女の人形が低いテーブルの上に立ちすくんでいる。
「あれをここから動かずに倒すには、君ならどうする?」
 返事の変わりに、少女は足元に転がっていた王冠をかぶったカエルの人形を掴むとぶん投げた。見事なコントロールで人形は中を舞い、勢いよく魔女にタックルをくらわせる。カエルと魔女は絡み合ってテーブルから落ちた。
「…………よくできました。ところで」
 どうだと言わんばかりに視線を向けてくる少女をしげしげと見つめて、昴は尋ねた。
「君は異能者? それも物体操作系の。サイキック……ってことはないか。壬無月さんと葵さんの娘だから当然ミスティックだよね。あれは遺伝しやすいし」
「操作なんかできない」
 妙にきっぱりと少女は言った。子どもっぽい言いわけに昴は噴き出す。
「無理無理。子どもの腕力であそこまでモノを投げられるだけでもおかしいのに、途中で人形が少しだけ浮上したよ」
「そんなの分かるわけない。どういう動体視力?」
 分かるわけないと言ってる時点ですでに異能者であることを認めているようなものだが、少女は気づいていない。昴は苦笑を深める。
「そういうのの計算は得意なんだよ。いいじゃないか、異能。操作系っていうことはますます策の枠が広がるよ」
 少女は憮然とした顔をした。しばらくの間、頭を抱えてううとかああとかぶつぶつと呟き続けていたが、考えすぎて何かが吹っ切れたのか、いきなり顔を上げた。
「地味な能力で悪かったな!」
 何故かキレた後、少女は片手で人形を指差した。落ちたカエルの人形がぎこちない動きで歩き出し、少女のところに戻ってくる。それを見ながら、昴は両手を伸ばした。不自然な仕草に、少女は不思議そうな顔をする。その視線の先で落下した魔女人形が何かに引き上げられたかのように浮き上がり、テーブルの上に戻った。少女はぎょっとした顔をする。
「サイキック?」
「違うよ」
 昴は微笑んだ。視線を凝らした少女の顔が、また別の驚きで歪む。
「細い……糸?」
「鋼糸術、操糸法、あるいは曲絃術なんていい方をするね。細い糸を狭い空間のあちこちにひっかけて、滑車の要領で引いて操作する。それによって同じ空間にいる人間を多角的に攻撃する技だ。昔からあっちこっちにある糸を操る戦闘術だよ。捕縛として使う人と人を縛ってバラバラにするために使う人がいる。僕は中間かな。あっちこっちに糸を張ってそこを通る人の動きを調べるのによく使う」
「異能じゃ」「ないよ。純粋なる技術だ」
 指を引くとあっちこっちに引っ掛かっていた糸がくるくるとまとまって昴の手元に戻ってくる。適当な少女の操作能力よりよほど見目がいい。
「君は……異能の操作精度、もうちょっと上げたほうがいいよ?」
「一々うるせえ!!」
 プライドが傷ついたのか、少女は乱暴にいいはなった。昴はそっと自分の唇に指をあててみせる。
「大声出すと、外に聞こえるよ?」
 少女は小さく唸って黙った。初めのお嬢様然とした空気も、余裕もすでに微塵もない。
「で、センセイならどう動かすわけ?」
 投げやりに少女は尋ねた。足元に戻ってきたカエルの人形を鷲掴みにして持ちあげる。それを見ながら、昴は足元に転がったチェスのポーンを拾い上げた。チェス盤と他の駒は古びた百科事典の上に積み上がっている。
「こうするね」
 そして、昴はそれを投げ捨てた。落ちたポーンは床の上に散らばったミニチュアのままごと道具の上に落下する。落ちてきたポーンに弾かれて、小さな椅子や食器が勢いよく飛び上がる。そして、飛び上がった小さなフライパンは観覧車の形をしたオルゴールにぶつかった。衝撃で観覧車が少しだけ回転する。その拍子にその上に引っ掛かっていたレースを編んだ髪飾りが落下する。落下した髪飾りは、斜めになった硝子のペンの上に着地する。微妙なバランスで転がっていたそれは、髪飾りの重さと衝撃で梃子の原理で跳ねあがる。跳ねあがったペン先が触れて、危ういバランスで積み上がっていた本のタワーがバラバラと崩れた。崩れた本の一部は壁際に並ぶ棚にぶち当たる。かすかに棚が揺れた。その揺れは密着した隣の棚にも及ぶ。しかし、ぬいぐるみや小箱が落ちるほどではない。そのまま終わるかと思った瞬間、隣の棚にあった横倒しの瓶の間から衝撃で硝子玉が転がり出た。ばらばらと棚から真っ赤なビー玉が落ちる。少女は小さく声を上げた。雨のように降り注ぐビー玉は次々と絨毯に飛び込み、そのうちいくつかは背の低いテーブルとそこに乗った魔女の人形にぶつかる。ぐらりと人形が揺れ、倒れた。
「ほら、動いた」
 昴はにこりと笑って振り向いた。少女はぽかんと口を開けて人形を見つめていた。
「人形を動かすなら自分で出向いて動かすのが一番確実だけど、それだと他の人から見ても動かそうとする意志が透けて見えてしまうし、何より自分が動くのは体力を使うし、動いている間は別のことができなくなる。けれど、こういうドミノ倒しならどっちの手間も省けるだろ? 君はただ初めのひと押しをするだけでいい。あとは勝手に思う通りに動いてくれる。もちろん誤差は出るけれど、その誤差も含めておよその方向性と流れさえ操れれば、こちらの勝ちだ」
 少女は返事をしない。何度もポーンが落ちた場所から魔女人形へ辿る道筋を目で追っては、ぽかんと口を開けて何か呟いている。しばらくこっちの話など聞いてくれそうになかったので、昴はガラスケースを開けてフロマージュを取り出す。
「君にもできるようになるよ。僕と同じとはいかないだろうけれど、僕とはまったく違うタイプの策士に君はなれる」
「…………すごい」
 ぽつりと少女は呟いた。ぽろりとこぼれた言葉は漠然とした感想で、それゆえに本心がつまっている。
「すごいね…………」
 瞬時にモノの位置とその動きを予測してドミノ倒し的な連鎖を起こす。思いついたとしてもすぐにできるものではない。やろうと思ってものを配置したとしても普通は失敗する確立のほうが高い。
「すごいけど…………こんなことができる人が何で私の家庭教師にくるの?」
 理解できないという顔で、少女は昴を見上げた。自己を嫌悪するような蔑むような表情に、昴は顔を曇らせる。
「何かいけなかったかな?」
「いけなくない、けど。私が相手である意味が分からない。普通に担当科目だけを教えればいいのに」「本当に君って疑り深いね。今までどれだけ騙されてきたんだい?」「なっ、そういうわけじゃ」
 少女の呟きは盛大な破壊音にかき消された。
「…………ごめん、落した」
 昴の足元でばらばらに砕けたティカップが無残な姿をさらしている。さあと少女の顔色が変わる。
「ま、マイセン陶磁器の1900年代のアンティークが」
「ごめん。すぐに片づけるよ」
 慌てて昴は欠片に手を伸ばした。計ったかのように指先に破片が突き刺さる。ざっくりと指先から掌にかけてが切れて血が流れ出す。少女は驚いたように立ち上がった。
「センセイ、大丈夫?」
「平気へいき。よくやるんだ。おかしいよね。こういうの苦手で。メイドさんに箒と救急箱借りないと」
 さっそうと立ち上がった昴は、扉の方に行こうとして自分が撒き散らかした硝子のビー玉を踏みつけた。そのままバランスを崩して盛大に倒れ込む。幸いにも大きな熊の人形がクッションになって床への激突は免れた。
「せんせ……」
 手を伸ばしかけた姿勢のまま、少女は固まる。しかし数秒で我にかえると大慌てで机の上のベルを鳴らした。
「アン! センセイが怪我をしたの。救急箱を持ってきて」




 妙にてきぱきした少女とメイドによってただちに落ちたカップは掃除され、傷の手当てがされた。主人然とした態度で堂々とメイドを使った少女は、彼女らが退室した瞬間、がっくりと肩の力を抜いた。
「センセイ、硝子や陶器と相性が悪いならそうと言って」
「相性が悪いわけじゃないよ。ただちょっと、僕は運が悪くて。不思議だね。策をめぐらすときはそうじゃないのに、策の時に運を使いきってるのか普通の生活だと運が悪くて」
 慎重に茶葉の量を計って、昴はポットにお茶とお湯を入れる。無意識のうちに頭のどこかでお茶の量と湯の量を計算してしまう。
「理論的には転ぶはずないんだけどね。どこに何かあるかなんて、ざっと見れば頭に入るのに」
「嘘言わないでよ。入るわけないよ」
「いや、覚えられるよ。例えばこの部屋にある人形の数は全部で三百二体。そのうちわけは、人型が三十四、熊が二十、兎が十八、鳥が」
 少女の顔色が変わる。すらすらと昴は続ける。
「そこのオルゴールのサイズは縦が八センチ横が二十四高さは六と三。製作年代は1981年ごろのスイスだ」
「……もういいよ」「そうかい?」
 首を傾げた瞬間に手から茶葉の缶が転げ落ちた。間一髪のところで少女はそれをキャッチする。
「…………センセイってさ」
「何かな?」
「そういう計算ばっかりしてるから注意力散漫で実生活でミスが増えるんじゃないかな?」
 思っても見なかった指摘に昴はことんと首を傾げた。そして、その可能性を冷静に計算する。
「……その可能性は十分に考えられるね」
「その脳力はもっと均等に日常生活にも使われるべきだと思う」
 呆れたように少女は言った。うーんと唸りながら昴はお茶を入れる。
「僕は使ってるつもりなんだけどね」
 言いながら少女にカップを差し出す。しかし、それを受け取った少女はぎゃっと悲鳴を上げた。
「ん? カップ、熱かった?」
「いやいや、これ何?」
 少女はカップをつきだした。中には濁った赤茶色のお湯が入っている。
「……紅茶」
「紅茶をなめるな」
 半ば本気でキレながら少女はいった。そういえば彼女も一応は紅茶の国の人間だったと、昴は思いだす。
「ちょっと見た目は悪いけど」
「自分で飲みなよ」
 言われた通り、素直に昴はお茶を飲んだ。そして盛大にむせかえる。ほらみたことかと少女は腕を組んでそれを見やった。
「……げほ、ちょっと失敗したみたいだ」
「どうしてお茶を入れるのには失敗するのよ?」
 呆れながら少女はポットを取り上げる。そして何故か用意されている予備のポットを保温器から取り出すと丁寧に茶葉を計って入れる。そして電気ポットのお湯の温度を確認して、お茶を入れ始める。
「紅茶は熱いお湯でこうして人数分とポットのための一杯茶葉を入れて」
 重たいポットに悪戦苦闘しながら、少女は説明する。そして注がれたお茶は綺麗な紅茶色をしていた。一口飲んで、昴は顔をほころばせる。
「美味しい」
「そりゃあ、英人の貴婦人だもの」
 ふふんと少女は胸を張った。昴はその頭に手を置く。
「すごいねぇ。僕はとてもできないよ。じゃあ、次はお菓子も作ってよ」
「だからまだまずいって言ったじゃん」
「じゃあ、頑張って美味しくなったら食べさせてよ」
「どんだけ図々しいの?」
 少女は半眼で昴をにらんだ。メイドがいるときとは天と地ほども違う、その子どもっぽくて品のない態度に昴は笑いだす。
「うわぁ、ムカつく」
「うん、でも本当に入れるのうまいよ。僕は自分じゃお茶も入れられないからねぇ」
 嬉しそうに昴はお茶を飲んだ。そして再びケーキに手を伸ばす。少女の顔が引きつった。
「…………まだ食べるの?」
「ん? 美味しいよ?」
 胃もたれしそう、と呟いて少女は明後日の方向を向いた。
「――――そうだ。色々ごたごたしてちょっと返事を聞き忘れたね」
「何が?」
 出来るだけ昴の、正確には昴の食べている甘味をみないようにして少女は返事をした。にこりと昴は笑う。
「僕の生徒になりなさい。君はきっと面白い華を咲かせると思うよ」
「でも」「その代わり」
 少女の肩から力が抜けた。どこかほっとした顔になったのを見て昴は笑みを深くする。
「君は僕にお茶を入れるんだよ。君の家庭教師が終わるまで僕は基本的に家には帰れない。休みの日以外はね。だから、誰かがいてくれないとお茶の一杯も飲めないし、カップを壊したら片づけられない」
「……生徒をこき使うの?」
 少女は肩をすくめた。しかし、表情は緩んでいる。形だけでも交換条件を出されたほうが安心するのだろう。それは今までどういう人生を歩んできたかを反映している。
「弟子を使うのは師の特権」
「ふうん。まあ、いいや。その分、センセイがしっかり教えてくれるんなら」
 懐かない猫のように距離を取りながら少女は言った。昴はフォークと皿をテーブルに置く。こつんと音がした。
「センセイ、じゃない。僕は如月昴。君は?」
 少女は小生意気な顔で昴を見上げた。そして、やっと自己紹介をしていなかったことに気づいたような顔をする。
「ミヅキ。篭森、珠月だよ。昴さん」
 血色の瞳が初めてにこりと笑った。

おわり