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Debris

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kagomori

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Debris

 わたしがあの御方に出会ったのはまったくの偶然でした。
 そのころ、わたしは今から考えると下賎で俗物な男の元で働いていました。仕事は都市の外、誰のものでもないような土地や誰かの土地ではあるけれど完全に放置されていて勝手に人が住み着いているような場所に赴いて害虫駆除をすることでした。
 普段ならば都市部に近付かない限り、そこで虫の百匹や二百匹が生きていても何の問題もありません。ですが、何か有事の際に奴らが暴れ出すと色々と面倒なことになります。だから、紛争前後には掃除が必要なのです。
 確か、あの御方にお会いしたのは前掃除のためにどこかの虫の巣に赴いたときのことです。いつもの通り仕事を始めようとしたら奇妙な一団が乗り込んできたのです。敵が雇った治安維持部隊だと、当時私にいつも命令していた男は言いました。それが彼の最後の言葉でした。おそろしく精密に計算されて飛んできた弾丸が奴の額に穴をあけたからです。脳漿が飛び散って、私はとても恐ろしくなりました。
 今までも戦闘がなかったわけではありません。虫が反撃してきたり、掃除中に敵が来たり、敵の送りこんできた傭兵団をぶつかったりしました。でも、わたしたちもプロです。いつも容易く――――とまではいかなくても撃退し、鎮圧していました。
 でも彼らは違ったのです。今でも覚えています。恐竜のエンブレムを掲げたその一団はすべて私より年下の少年少女で結成されていました。中には十代にやっとなったばかりの子どももいたと思います。彼らの動きは洗練されていました。力がなくても速さがあり、速さがなくても無駄な動きを避けることでそれを補い、あるいは力づくで突き進んで彼らはわたしたちを倒して行きました。
 わたしはすぐに隠れました。そもそもその仕事自体、特に愛着があったわけではないのです。ただ、それくらいしか仕事がなかっただけで。
 戦場が落ち着いたころ、隠れた建物の中からそっと外を伺うと恐竜のエンブレムの旗の下に黒い人影がいるのが分かりました。他の兵士とはあきらかに違うその姿に、わたしはそれが司令官だと思いました。狙撃銃は壊れてしまっていましたが、わたしはそっとスコープを覗き込みました。
 そこには黒い少女がいました。
 つまらなさそうな顔で黒い塊を食べています。ぐちゃりとそれが赤い唇と舌に押しつぶされました。一瞬、血の塊を食べているのかと思いましたが、良く見るとそれはチョコレートでした。レーションの定番です。
 髪の毛は一目で東洋系と分かる黒髪なのに、彼女の瞳は血の色をしていました。そして、ふいに彼女はこちらを向きました。そして、スコープ越しに微笑んだのです。戦慄するえその笑みに私は死を覚悟しながらも必死で逃げだしました。
 それが彼女と私の出会いでした。
 魂が震える思いがしました。この世にこんなに美しい人がいるのかと思いました。いえ、肉の美しさではありません。テレビや雑誌の中ではあの御方よりもっと美しい顔立ちの男女が笑っています。わたしが彼女に見たものはもっと違う魂の気高さです。一つなにか芯が通っていて倒れることのない直線美。そんなものです。
 あの方はきっと美しく生きる。そして美しく死ぬ。他の凡百のように醜く生きることなどない。誇りとともに生まれ、気品とともに育ち、花が散るように儚く、しかし麗しく死ぬでしょう。そう思いました。いえ、そうでなくてはいけないと思いました。
 だってその姿を見てわたしはその人がどなたかすぐに分かったのです。あのような艶やかな出で立ちを戦場でなさるお方はきっと他にはいませんから。
 篭森珠月様。
 イノセントカルバニア。
 死者の降り積もる戦場で、両脇に忠臣を随え、銃を持ち、死者のような白骨を操る魔女。この世で最高最狂の狂人であるという篭森壬無月様のただ一人の娘。あの方を見れば、あの方の御両親がいかにすばらしい人物だったか容易く予想できます。
 なんて強い方。なんて強い目をした方。なんて生きる意志に溢れた方。
 あれを見てしまえば、ほかのものなんて目に入らない。だから、私はあの日心に決めたのです。わたしはあの人を知ろう。あの人に見てもらおう。あの人に殺してもらおう。それはきっと世界で一番美しい死――――


**


「三日前辺りからストーカーがいるらしいんだ」
 真面目な声で言われて、ミヒャエル・バッハは思わずしげしげと家主を見つめた。真面目な声とは裏腹に、その身体は全力でだるそうにソファに沈んでいる。
「ストーカー。だから、家から出るな。ミヒャエル。どうしても出たいなら、誰か護衛を呼ぶように」
「珠月さん、それは私へのストーカーではないと思います。というか、ジェイルではないんですか?」
 ジェイル・クロムウェル。常に彼女の身辺をうろうろしている知人を思い出して、ミヒャエルは眉をひそめた。若いうちというのものは往々にして恋心が暴走するものであるが、彼のあれは流石にやり過ぎだとミヒャエルは常々思っている。だが、珠月は首を横に振った。
「違うよ。私は人気者だからね。いつでもファンの訪問が後を絶たないんだ。東西南北の王様ほどじゃないし、私というより私の名前に浮かれたお馬鹿さんばかりだけどね。だけど、三日も捕まえられないのは珍しい」
 学園都市トランキライザー。イーストヤードに篭森珠月は堂々と自宅を構えている。彼女に限らず、基本的に学園の有名人の多くは堂々と住んでいる。流石に住所を名刺にかくような奴はあまりいないが、それでも調べればすぐに分かるし近隣住人なら誰でも知っている程度は堂々と彼らは住んでいる。なぜなら、襲撃されても家宅捜査されても平気だという自負があるからだ。北の名物建築になりつつある不夜城など、下手な軍事要塞よりも攻略に手間取る作りであることは間違いない。
「ご両親がらみでは?」
「心当たりはないけれどね。いや、あり過ぎるのかな。恨みはそれなりに買いまくってるし、篭森ってだけで狙われるにも十分だ。だけど、ここ最近は真面目にお仕事してたからストーカーが発生する心当たりはないんだけどなぁ」
 普段の生活環境について激しく問いただしたい気持ちに襲われたが、ミヒャエルはかろうじて自分を制した。ただの家主にすぎない相手の生活態度や健康や生命の安全を気遣う義務はミヒャエルにはないし、相手も望まないだろう。
「有名人は大変だよ。私のイメージ戦略が功を奏しすぎて、勝手な思い込みで勝手に心酔する馬鹿もいるし」
「子どものように残虐で娼婦のように色気があって貴族のように気品ある女性だと思われてますからね」
 ミヒャエルは鼻で笑った。
「こんなダルダルの人間をどうやったらそこまで勘違いできるのやら。どれだけネコ被ってるんですか、珠月さん」
 侮辱とも取れる言葉だが、珠月は気にしない。それどころか平然と返事をする。
「大名行列できるくらいは」
「最低でも五十匹いるじゃないですか!!」
「人間なんてそんなものだよ」
「自分一人の常識をあたかも人類の常識のように語るのはやめてください」
 適当に返事をしながらミヒャエルは一つひとつ銀食器を磨いていく。単純作業をしていると心が安らかになる気がする。
 珠月はぐったりとソファに身を沈めている。本格的にだるそうにしている仕草は、この世で二人しかいない篭森の家の血筋とは思えない。世間的には華やかな活躍のみが知れ渡っているが、この篭森珠月という人物は実際のところかなりの部分をはったりで生きているとミヒャエルは思う。
「ストーカーも実物を見たら、さぞかしら不本意でしょう」
 しみじみとミヒャエルは言った。珠月も頷く。
「そうだよね。きっと私、能力値でも精神面でも学園内ではトップクラスだけど、トップランカー内では最底辺に近いと思うんだ」
「自分で言いますか」
「だって私の自慢できるところなんて家柄くらいだよ。親の七光を最大活用して底上げしてるからこそ、この地位にいるんだと本気で思う。持つべきものは素敵な親だ」
 そこははかとなくほの暗いことを、臆面もなく珠月は言った。ミヒャエルは顔をしかめる。
「ですが、あなたは権力の活用方法を心得ていらっしゃるし、努力家です。卑下するほど能力に劣ったところは御座いませんよ」
「そうでもないよ。単に気が小さいのさ」
 珠月は気だるそうに寝がえりをうった。隣で他人が働いているというに気にも留めない。それが気の小さい人間の態度か。ミヒャエルは思ったが、心の中だけにとどめておいた。そこで彼女が静かになっているのに気づいた。振り返ると、珠月はぼんやりと空中をみつめて動きを止めている。
「珠月さん? どうしました?」
「ん…………ひょっとして、あれかな。一月くらい前にさ、中央アジアのほうの作戦に参加したじゃん」
「はあ……お土産と称して不思議な色合いの糸を色々買ってきてくださいましたね。インテリア用の織物の材料として活用させていただきました」
 唐突に変わった話の方角に戸惑いながらも、ミヒャエルは答えた。珠月は指先でソファの肘掛をとんとんと叩く。
「その時に男を取り逃がしたんだよね。逃げるそいつと目が合って、嫌な眼をしていると思ったものだ」
 思いがけない告白にミヒャエルは目を見張った。
 珠月は基本的に老若男女差別しない。良い意味でも悪い意味でもだ。自分を攻撃してくる相手は、赤子連れの母親だろうが、銃をもった子どもだろうが容赦しない。そして殺すと決めれば生き残らせない。例外は相手に有用性を認めた場合だが、どちらにしても放置したり取り逃がすことは滅多にない。本人が敵地から取り逃げてくることはわりとよくあるが。
「珍しいですね」
「新人研修と思ってね、新人に追撃させたんだ。そしたら逃がしてしまって。末端の兵士一人だから、逃がしても仕事に支障はなかったから忘れていたよ。うちは殲滅屋じゃないからね。そういうこともある。けど、ひょっとして復讐に来たのかなぁ。一月のブランクは気になるけど、怪我の治療やら身体の強化やらしてたとしたら短いくらいか」
 他人事のように珠月は言った。実際、他人事だと思っているのだろう。
「やっぱ駄目だねぇ。たまに真面目に仕事をするとすぐこれだ」
「それは仕事がダメなんじゃなくて、貴方がダメ人間なんですよ、珠月さん」
 ミヒャエルは容赦なく釘を刺した。それにと続ける。
「それに貴女の事ですから、仕事は不真面目でも手は抜いていないでしょう? つまり、その相手は要注意人物です」
「洞察力が優れてきたねぇ。流石はうちの執事だ」
「勝手に執事認定しないでください! ただの居候です! 譲っても住み込み建築家です!」
 ミヒャエルは怒鳴った。珠月はどこ吹く風とばかりに明後日の方角を見つめる。
「住み込みの建築家とか……どこの貴族よ?」
「お前が言うな!! ああ……ストレスがたまるこの会話!!」
 ミヒャエルは乱暴に銀食器を置いた。かつんと食器が悲鳴を上げる。珠月は楽しげに喉を鳴らした。けれど、やはり気だるそうだ。
「ああ、テンションが上がらない。外に出てストーカーを倒してこないといけないんだけど、だるい。眠い。もう何もしたくない。水底に沈むようにゆっくりと死んでいきたい」
「その鬱期になると唐突に死にたがるくせやめてください。いい歳なんですから、もっと心に安定とゆとりを持ってくださいよ」
「それは無茶というものだよ、ミヒャエル。人間、何歳になっても心のどこかには十五歳の夏を引きずってるものだ」
「やめてください。十五歳の夏って人生で一番頭悪くて黒歴史起こしやすい時期じゃないですか。そんな時期とか、マジでやめてください」
「それが人の業だよ」
 いつもにもましてやる気のない返答に、ミヒャエルはようやく家主が今度こそ本気でやる気がないのだと気づいた。
「…………珠月様、本当にかったるいんですね」「うん」
 珠月は即答した。そしてごろりと転がる。
「篭森やってるとたまに電池切れ起こすんだよ。やっぱ、寝る。ミヒャエルは言った通りに外に出ないように。どうしても用事があるなら、緋葬架か緋月呼び出すこと。来客は無視しろ」
 そのまま目を閉じて珠月は動かなくなった。赤い瞳が閉じられる。今時、どんな色の瞳であっても珍しくはないが、ここまでどろりとした赤色でしかも天然は珍しい部類にはいるのではなかろうか。まるで人の腸のような胎盤のような経血のようなどろりとした黒を帯びた赤色。瞼でそれが隠れると、ミヒャエルはかすかに肩の力を抜いた。
「そんな場所で寝ると風邪を引きますよ?」
 返事はない。まるでふてくされたように眠る珠月を見て、ミヒャエルは小さく息を吐いた。何故不機嫌なのか、テンションが低いのか、まるで理由が分からない。あるいは理由などないのかもしれないが。
「…………おやすみなさいませ」
 やはり、返事はなかった。





 子どもの頃から私は取り立てて優秀なほうではなかった。平均値よりは上でも、素材の良さを考えると底辺にもほどがある。別にそれで私を責めるような両親ではなかったし、むしろできの悪い娘を少しは心配しろよとこちらが心配するほど私を可愛がった。だからこそ、私は私が嫌いになった。私は愛する両親にも愛する友人たちにも何もしてあげられない。こんな弱い存在、足を引っ張り名誉を傷つけてしまうだけだ。
 なぜ私のようなできそこないが生まれてしまったのだろう。何度悔いたか分からない。私がもっと強かったなら、胸を張って生きられただろうに。もっと弱かったならあっさりと終われただろうに。もっと賢かったなら弱さを補えただろうに。もっと愚かなら弱さになど気づかなかっただろうに。
 何もできない私に価値などない。無能な私など死んでしまえばいい。愚かな私を私は許せない。無価値であるくらいなら存在しないほうがいい。生きていたくない。死んでしまいたい。けれど、死ねば本当に自分が無価値だったのだと確定してしまうようで怖い。死にたくない。生きたくない。死にたい。生きたい。
 足元が崩れていく感覚がする。逃げ続けているイメージ。誰に強制されたわけでもないのに、離れない不安感。生まれた時からずっと感じている。でもそれを外に出してしまえばますます足元が崩れていく。
 誰かが言う。『実らなくても努力することに意味がある』『努力が実るとは限らないけれど、努力は尊いし、成功したやつはみんな努力している』と。でも彼らは知らないのだ。努力して、頑張ってできなかったときのことをなんていうか。それが『頑張っていない』というのだ。そう、言われてしまうのだ。才能で、家柄で、人徳で、体格で、組織力でどれだけ差があろうとそんなことは関係ない。その差を補うことができなかった時点で、補う努力が足りなかった自分は『頑張っていない』ことになってしまうのだ。
 立ち止まると不安になる。常に走っていないと追いつかれてしまう。中身が虚無だと周りに気づかれてしまう。がらがらと崩れる音がする気がして、一生懸命もので部屋を埋める。姿を着飾る。人を集める。誰か私を好きになってほしい。好意を向けられるとそれがどんなものでもほんの少しだけ安心する。自分がここにいていいような気がする。
 賛美されると少しだけ心が上向く。まだ追ってくる闇に追いつかれないと確信する。
 飾る。偽る。嗤う。
 そして私は少しだけ、ほんの一瞬だけ不安を忘れる。まるで周りに関心などないようなふりをして、残虐に敵を切り刻んで、美しく着飾って、好きなものを集めて、私の事を好きになってもらえて、時々嫌いになってもらえて、憎んでもらって、愛してもらって、少しだけ自分の輪郭がはっきりする。目をそらして、やっと安定する。私は私だと錯覚する。弱い自分を全部箱に押し込んで、一安心。
 他人に頼らなくては自分が揺らぐなんて、なんていう弱さだろう。怖くて立ち止まることすらできないなんて何という弱さだろう。自分を恐れ、他人を恐れ、責務を恐れ、忘却を恐れ、世界を恐れ――――――ああ、私はこんなにも弱い。けれど、もし。もしも最弱が最強に通じるというのなら、弱さであっても極めれば強さになるという戯言が本当だとするのなら、私は弱さゆえに強いものになろう。最強にも最優にも最狂にもなれはしないけれど、最弱にすらなれはしないけれど――――それでも貫くならば嘘は誠になるという。だから私は弱さを強さにしよう。それしか私には生き残る道がない。
 まだ私は無価値じゃない。
 それを証明するために私は今日も走り続ける。生き続ける。必死になって手を伸ばす。泣きながら絶望しながら死に向かってひた走る。いつか、前のめりに倒れて動けなくなった時、這いずってもがき苦しんで惨めに死ぬために。
 なのに。あいつは来るたびに箱をこじ開ける。こじ開けて、血に光る内臓と汚物を並べて一つ一つそれが何であるかを説明した上で、それを讃え、言葉で飾り、自分がいかにそれを愛しているかをカタるのだ。途端に私は不安になる。積み上げたものが一瞬で書き消えて、掴みどころのないぼんやりとした不安に変わる。そして死にたくて仕方なくなる。
 死にたい。生きたい。死にたくない。生きたくない。逃げたい。見たくない。隠したい。やっぱり死にたい。





 風が強い。四十物谷宗谷は、ずり落ちそうになる肩のベルトをしっかりと固定し直した。背中に背負った巨大な戦斧がずしりと肩に食い込む。だが、彼は重そうなそぶりを見せず、むしろ鼻歌でも歌いそうな様子で石畳の道をゆっくりと進んでいく。すれ違う通行人が特徴的な彼の武器に時折視線を向けるが、宗谷は気にしない。
 しばらく歩いて、ふと目の前に立ちふさがる人影が現れたので宗谷はごく自然に歩みを止めた。ややあって、何故自分が歩みを止めなくてはいけないのかと首をかしげる。そして、最後にしげしげと目の前の人物を見て、ようやく脳内の回路が繋がった。
「どうも。学園に戻っていたんだね。ジェイルさん」
 ふっと目の前の人物は微笑んだ。金色の髪が日光に透け、その容姿は冗談のように美しい。そして、まるで画面越しに見えているかのように存在感が希薄だ。向かい合っていて、それが知人であると認識しているのになんとなくそらぬ他人とたまたま言葉を交わしているような、あるいはとても親しい誰かとのんびり会話しているような奇妙な感覚に囚われる。油断すると誰と話しているのかを忘れてしまいそうだ。
「ジェイル君、セーブ。もうちょっと能力セーブできないのかい? 脳がイカレそうだよ」
 重大なことをさほど重大でもなさそうな顔で宗谷は言った。同じようにジェイルも日常会話の延長と言わんばかりに普通に頷く。
「申し訳ありません。気づきませんでした。聡明なる宗谷君の吹きわたる風のように深遠でありがたい警告に感謝を」
 芝居がかった仕草でジェイルは腰を折った。ひどく貴族的な仕草は、彼によく似合う。宗谷はにこにこと笑う。基本的に誰に会っても彼は同じように人好きのする笑みを浮かべる。
「ここのところ見てなかったけど、お仕事?」
「ええ。久々に霧の中に浮かぶ古き妖精と祈りと機械の国に帰ってきました」
 一瞬、沈黙の幕が下りた。謎の単語の羅列から、宗谷はおそらく彼が旧時代のイギリスに当たる地域に行ってきたのだろうと予想をつけた。倫敦はいまだに霧のロンドンと呼ばれる場所だし、ドームシティになってからも古き良きイメージを保つためにわざと悪天候を再現したりしている。またイギリスは古い民話や妖精譚が数多く残る国であり、産業革命発祥の地でもある。
「ご実家にでも帰ったのかい?」
 ジェイルは笑みで答えた。明確な返答は避ける。さして興味もないのか、宗谷も追及しない。
「今、時間あるかい? よかったら、折角会えたんだしお茶でも。十五分くらい歩くことになるけど、美味しいあんみつを出す店が出来たんだ」
「それは素敵ですね。蜜も砂糖も甘いものと言うのは地にある生き物の最大の娯楽の一つです。ですが、残念ながら私の時計の針は早く進んでおりまして」
「忙しいんだね。それは残念。それとも僕に割く時間はないかな?」
 ふふと宗谷は笑った。人畜無害の笑みに見えるのに、踏み込むとどろりと飲み込まれそうな気がする。自分からは決して動かず、けれど来るものは決して拒まない。彼はどことなく底のない沼地に似ている。
「時の砂は人の小さな手で救うにはあまりにも細かいのですよ」
「無理しなくていいよ。君、本当は僕になんて欠片も興味ないだろう? 君が好きなのはもっと人間らしい人間だ。糠に釘打つような僕の事なんて、好きでもなんでもないはずだよ。ああ、怖い顔しないでほしいな」
 宗谷は笑顔のまま、両手をあげて見せた。その笑みには裏はない。嫌味でも悪意でもなく、ごくごく当たり前のただの事実として宗谷はジェイルに告げる。それが相手にどのような印象を与えるか分からないわけがないのに、気にしない。なぜなら宗谷はジェイルに興味はあるが好意はないからだ。
「珠月なら家だと思うよ。ここのところ真面目に仕事していたから疲れてるだろうし、最近天気が悪いからね。彼女、雨や雪が嫌いだから。これが聞きたかったんだろ?」
「礼は」「お金は取らないよ。うちは情報屋じゃない。調査会社だ。調べろと言われたわけでもない雑談でお金は取れないし――――君に情報を売ったなんてばれたら、僕は珠月に殺されてしまうよ」
「そんなことは」「殺されてしまうよ」
 重ねて宗谷は言った。言葉とは裏腹に、その声には一切の負の感情がない。
「珠月は君が大嫌いなんだ。それこそ、君の事になると我を忘れてしまうほどにね。だから、お金はいらない。僕は君の味方じゃないから」
「嫌われてしまったようですね」
 ジェイルは俯いた。日の加減で彼の表情が隠れる。宗谷は笑みを崩さない。どこか面白がるような顔で笑う。
「僕は誰かを嫌いになったりしないよ。ぶっ殺すって思うことはたまにあるけれど。それに万一僕に嫌われていたとしても、君はほんの少しだって気にしないだろ? なら、どちらでも同じことだ」
 爽やかにえぐいことを宗谷は言った。ジェイルは芝居がかった様子で肩をすくめる。
「では、私は早々に退散することにいたしましょう。親切なる御方に太陽と月の加護を」
 目を閉じて開くとそこにはもう誰もいない。宗谷はゆっくりと歩き出す。そして、歩き出しながら気づく。
「あー…………そういやぁ、最近、新規のストーカーが出たらしいっていうの伝え忘れたな。顔合わせたらまずいんじゃないだろうか」
 不吉な言葉を呟いて、宗谷は雑踏の中に消えていった。


**


 道端で子どもが蝶を捕まえていた。綺麗な蝶々はばたばたと羽をはばたかせていた。次の瞬間、子どもは楽しそうに蝶の羽を毟った。ばらばと蝶の破片が落ちた。毟った羽を子どもは嬉しそうに見つめる。けれど、すぐに興味をなくして捨ててしまった。後には蝶の残骸。酷いことをする。けれど、子どもは楽しそう。あまりにも自然であまりにも楽しそうなので誰も止めない。
 視線を下に向けると潰れた虫が落ちている。みんな嫌そうな顔で虫の死骸を避けて歩く。
飛んでいるときはあんなに綺麗に見えたのに。


**


 ぐちゃりと音がした。赤い唇がお菓子を飲み込む。どろりと口の中で溶けるチョコレートはどこか不吉な気がする。どろり、どろり。見た目だけならとても食べ物には見えない。どろりと溶けたそれが似ているのは何だろう。泥だろうか、固まりかけた血だろうか。
 手を伸ばす。お腹は空いていない。けれど、手を伸ばす。不安を押し込めるように口に詰め込む。でも、中々飲み込めない。無理に嚥下すると喉にべとりとチョコレートが張り付く感覚がした。
 苛々する。原因は分かっている。見られているのに捕まえられない。苛々する。思考が乱れた。意識的に分断しそうになる思考を止めていく。完全にすべての回路が止まったら、次は再起動。やるべきことを確認する。できる。難しいことじゃない。けれど、心は落ち着かない。揺れる。こぼれる。砕ける。
「…………遅い」
 呟きが誰もいない室内に広がった。室内どころかこの屋敷のどこにも生きている人間はいない。ここにいる珠月以外。動物すら息をひそめて隠れている。すべての鍵は明け放たれ、特に珠月のかけた椅子の向こう、裏庭に通じる窓はすべてあけ放たれている。
 迎える準備はある。そういう意志表示。分かっているはずなのに、相手は誘いに乗ってこない。苛々する。いつまで待たせるつもりなのか。かといって探しにいくのもだるい。
「――――――貴婦人が開いて良い扉は、心の扉くらいですよ。月の姫。屋敷の門はしめておくものです」
 指先からまるいトリュフが転がり落ちた。ふわふわした絨毯に着地したそれは音もなくころころと転がっていく。ああ、美味しいのにもったいないとか場違いな言葉が一瞬頭をよぎった。
 身体が緊張する。予定と違う来客に、手が震えた。
「何で…………」
 何故ここにいるのか。疑問が形になるよりも先に、ジェイルは答える。
「予定より仕事がはやく終わりまして。七つの曜日が巡るよりも少しだけ早く、この正邪入り混じる学び舎に戻ることができました」
「帰れ。ついでに死ね」
「貴女はいつもそれですね」
 振り向かない珠月の背後から手が伸びる。首にかかるかと思ったが、それよりは少し上――――顎を掴んで手は止まった。固定される。
「お久しぶりです。変わらぬ貴女のこと、嬉しく思いますよ」
「私に触るな」
 嫌悪感の滲む声にジェイルは小さな笑い声で答えた。勿論、そんな命令は右から左に聞き流す。
「外――人の業のように深い闇のわだかまりの中に、どなたか自分の闇に絡めとられた愚かな方がいらっしゃるようでしたよ。貴方が招く予定のお客人でしょうか。彼はどうやら、貴方に恋をしてしまったようだ」
 楽しそうにジェイルは喉を鳴らした。珠月にはそれが獰猛な肉食獣の唸り声に聞こえた。しかもひどく腹を減らしている。
「愚かにもほどがあると思いませんか? 月の姫。相手のことを知りもしないでつがいの鳩のように恋い焦がれ、自分の恋心というお伽噺に恋をする。結局、相手のことなんて自分の姿を映すよい鏡くらいにしか思っていないのです。彼らが恋しているのは相手じゃない。自分自身なのです」
「それは貴方だって同じこと」
 振り向かなくてはいけない。手を振り払わなくてはいけない。なのに身がすくむ。全身の力を集中させてやっと指先が動いた。我に返って珠月はジェイルの手を振り払い立ち上がる。転がるように距離を取ると、彼は寂しげに笑った。
「僕が貴方に危害を加えるわけがないでしょう?」
「加える」
 呻くように珠月は言った。他では絶対に出さない不安げな声が唇からこぼれる。
「貴方は貴方が思っているよりずっと狂っているよ。けれど、誰もそれを正さない。正せない。なぜなら、貴方の能力は貴方のすべてをただの背景に変えてしまう。どれだけ不自然でもそれをごく当たり前の気に留める価値もないものと誤解させる。だから、それだけの異常でも誰も気づかない。周りが気づかないから気付けない」
「そんなに僕がおかしいというのなら、北天を示す星のように貴女が私の導き手になってくださればよかったのに」
「私にそんな器はないよ。それは誰か他の人に頼めばいい」
 珠月は言い捨てた。ジェイルは肩をすくめる。
「それが出来ないのは、貴女が一番ご存知でしょう? 僕を教え諭すのは天が巡らす網でもなければ無理なこと。風を見るように皆の視線は僕をすり抜ける。水を掴むように僕の記憶は皆の思い出から抜け落ちる。虫の羽音のように僕の声は誰の心にも届かない。誰も僕を覚えない、愛さない、憎まない、思い出さない、僕が何をしようと誰も関心を払えない。何人も僕を覚えていられない」
「まめに会い続ければ一応記憶には残る。話しかければ気づくし、普通に会話をすることも遊ぶことも学ぶことだってできる。心がしっかりしている人ならより強く覚えていてくれるだろうし、そもそも盲目の人には効果がないでしょう? あなたが勝手に壁を作っているだけで貴方が思っているほど、世界は貴方から遠くない。それは言いわけだよ。そうでないなら、やっぱり貴方は狂っているんだ」
「うつし浮世において、何人が心惑うことなく生きられるものでしょう」
 ゆっくりとジェイルは珠月の目の前に立った。物理的に見下ろされる形になるが、それ以上に精神的に押さえつけられている感覚がする。
「あなたもまた同じ。貴方は弱い。一人では自我を支えることができないほどに弱い。こんなに弱い人間を僕は他に知りません。僕を狂気というならば、貴女もまた狂気でしょう」
「やめろ」
 伸ばされた手を珠月はぴしゃりと叩いた。薄く笑ってジェイルは手を引っ込める。だが、言葉は止めない。
「可哀想ですね。周囲から期待されてずっと圧力をかけられて、それに負けないように必死で努力してしがみついて、でも絶対に弱みは見せられない。本当は引きこもりたいのにプライドが許さない。真面目で優しいから逃げ切ることもできず、半端に賢いからこそそうしている自分の矛盾とも向き合うことになる」
「貴様が私を語るな。騙るな。私の不安を言葉にするな」
「怖いですか? 僕が? それとも真実という猛毒が?」
 ジェイルは距離を詰める。珠月は離れる。だが、背を向けて逃げ出すことはない。じりじりと下がり間合いを計る。
「恐ろしいですか?」
「だとしたら?」
 ジェイルは口元を綻ばせた。花が咲くような艶やかな笑みだが、どこかほの暗い。珠月の噛みしめた唇にうっすらと血が滲んで、歪な紅を引く。
「芯があるように見えて、真はない。貴女はすべて虚構でできている。すべて偽物。借り物。作りもの。本物など一つもない。親の名を借りて、友人知人の力を借りて、虚構で飾って、虚像で固めて、語って騙ってやっとそれらしいものを作り上げる。そして、それに虚しさを覚えながらも虚像の何が悪いと胸を張ってみせる。震える拳を背中に隠して。可哀想だ。貴女は決して救われない。そして救われない自分に絶望しながらも安堵している。なぜなら貴女は自分の事が殺したいほど憎いからだ。だから、憎い自分が苦しむことで少しだけ安心する」
 うっとりとジェイルは手を伸ばした。慈しむように珠月の頬を撫で、顎を掴んで俯きそうになる顔を無理やり上向かせる。
「なんて弱くて醜い生き物。できそこないの贋作。天才の虚像。支配者の模倣。案山子だって、もっとちゃんと自分のかたちというものを持っていますよ」
「黙れ」
「仕方がないじゃありませんか。貴女は弱い。そしてそれがすべて。貴女のすべては弱さに起因している。だから、仕方ないんですよ。貴女の魂はそういう形をしている。それだけです。考えようによっては素敵な形ではありませんか。僕は好きですよ」
「黙れと言ってる!」
「そんな歪んだ精神構造で生きていけるはずがない。魂が生まれたときから致命傷なんです。けれど、貴女は生きている。僕は好きですよ。貴女を見ていると僕ようなものでも生きていていいと思う」
「黙れ!!」
 乾いた銃声が響いた。弾は大きく外れ、細かい模様の壁紙と壁を穿った。ジェイルは眉ひとつ動かさない。完璧な笑みを浮かべ、囁く。
「貴女には初めから傷があった。むしろ、貴女は傷しかなかった。それを押し広げたのは確かに僕ですよ。いかに弱いか、いかに醜いか、貴女に自覚させることで僕は貴女の傷を悪化させた。けれど、初めに傷を作ったのは貴女自身」
「黙れ黙れだまれだまれぇええええええ!!」
 慟哭に似た叫びをあげて珠月は頭をかきむしった。濡れたような黒髪がからまり乱れる。普段の悠然とした支配者の姿など欠片も感じさせない仕草で、珠月は駄々をこねるように頭を振った。
「嫌い嫌いきらい! 大嫌い!! わざわざそんな酷いことを言いに来たの!? 帰って! ジェイルなんて嫌い。私に聞きたくないことを教えるから嫌い! 嘘と本当をごちゃ混ぜにするから嫌い!!」
「そうですね。貴女は昔から、僕を嫌っている」
 ジェイルは苦笑交じりに言った。でも、と続ける。
「仕方ないじゃないですか。僕は貴女を愛しているんですよ」
「嘘つき!!」
 ドレスの袖から銀色の拳銃が滑り出てくる。だが、それが手に収まるよりも前にジェイルは動いている。すばやく手を伸ばして銃を弾く。それは珠月の手におさまらずに大きくはじけ飛んで壁にぶつかって落ちた。
「嘘ではありませんよ。愛していますよ。貴女の弱さも悲しさも醜さも」
 奥歯がくだけそうなほど歯をかみしめて、珠月はジェイルを睨んだ。だが、ジェイルはやはり頓着しない。
「本当にそのありようが可愛らしくて愛おしい。貴女は無価値で虚ろでただの虚栄と虚像の入れ物にすぎない。けれど、その嘘を真として貫こうとするあり方はとても素敵ですよ。無様で貪欲であまりにも脆弱だ」
「黙れ!!」
「貴女は救われない。貴女の進む道に未来はない。貴女はただ生きて生きて、這いずって泣き叫んでのたうち回り死ぬ。だって貴女は無能なんですから。無能なら無能らしい生き方もあるのに、貴女はそれを望まなかった。当たり前のことでしょう?」
「うるさいうるさい! 黙れと言っている」
「でも、僕が好きでしょう?」
 虚をつかれたような顔で珠月はジェイルを見上げた。ジェイルは微笑む。
「貴女を一番に思う人間は世界で僕しかしません。貴女のすべてに存在価値を見出す人間は僕しかしません。貴方が篭森でなくなってもすべてを失ったとしても、絶対に何があっても他の誰よりも優先して助けてくれるのは僕だけです。貴女はそれを知っている。だから、僕が好きでしょう? 僕を拒めないでしょう? だって貴女はいつだって一人ぼっちなんですから。誰も貴女自身に価値なんて感じてくれないんですからね」
「うるさい…………」
「そう。貴女は無価値で、しかも自分自身がそうであることを知っている矛盾する贋作にすぎない。周囲の評価がないと自分の輪郭すら保てず、そのためなら僕にだってすがるでしょう。貴女はただの俗物ですよ。それでも好きですが」
「いやああああああああああああ!!」
 叫ぶ声がやがて悲鳴に変わる。顎を押さえていた手を離すと、珠月はずるずると床に座り込んだ。薄く開いた唇からはか細い悲鳴が漏れ続けている。
「悲鳴は上げてくださらないと困りますが、あまり騒がれても余計な人が来てしまいますね」
 ジェイルは珠月の向かいに片膝をつくと左手を伸ばした。再び珠月の顎をとらえて上向かせると、口の中に指を突っ込む。舌を指で強引に掴んで無理やり悲鳴を止める。暴れて逃げようとする珠月の髪を掴んで固定し、悲鳴が完全に消えたところで舌を離す。髪を掴んでいた手も離すと、また小さく悲鳴が上がって珠月は這いずるように距離を取った。
「もうすぐ来ますね。悲鳴が聞こえたでしょうから。彼はね、きっと貴女を愛しているんですよ。愛する貴女を他に取られたくなんてないでしょうから、きっと来ますよ」
 返答はない。小さな子供のようにぺたりと床に座り込んで珠月は泣いている。硝子玉のように何も映していない瞳を覗き込んで、ジェイルはくすりと笑った。
「脆い人だ。都合が悪くなったらあっさりと狂う。でも、貴女は狂って死ぬほどの強さはないからすぐにまた自分で自分を修理して、復活してくれますよね?」
 無邪気にジェイルは笑って珠月の頭を撫でた。子どもが戯れて蝶の羽を毟るような残虐さが見えかくれする。
 涙を流し続けながら、珠月は虚ろな顔で何もない場所を見つめている。誰が見ても精神障害か心的外傷による発作と分かる症状だが、ジェイルは一切考慮しない。
「貴女はとても優しいでしょう? 月の姫。貴女は自分に価値がないと思っている。だから、自分に価値があると思わせてくれる人間、つまりは自分に好意を持っている人間を邪険にできない。それがどんなに嫌いな相手でも鬱陶しくても、好意的であるというそれだけでつい許してしまう。そしてそれを排除するのに酷い精神的苦痛を感じる」
 言い聞かせるようにジェイルは囁く。何も見ていない人間に向けて愛しげに囁くその姿は、人形に対して話しかけているようで滑稽だ。同時に相手に対して、相手の人格や人間性を完全に無視している空恐ろしさを感じる。
「だから貴女は僕ですら拒絶しきれない。壊されても傷つけられても愛されているから許してしまう。その悪い癖はどうにかしたほうがいいですよ。聞こえてないでしょうけど」
 子どもか犬にするように、ジェイルは珠月の頭を撫でた。
「だから、貴女はそこでちょっと壊れていてください。その間に僕がどうにかしますから。あんなもの、貴女に手を下してもらうなんて図々しいにもほどがあります」
 完璧な笑顔でジェイルは同意を求める。当然、返事はない。それを気にした様子もなく、ジェイルは立ち上がった。暗闇からかすかな足音が近づいてくる。ゆっくりとジェイルの唇がつり上がった。
「初めまして、どこかの誰か。僕はジェイル・クロムウェルと申します」


**

 ここにいるのはきっと気づかれているのでしょう。
 重厚な御屋敷から明かりと人の気配が消えてからもずっと私はそこを動きませんでした。これがあの方の考えであることはすぐに分かりました。屋敷から余計なものを遠ざけ、私に会おうとしてくださっているのです。ですが、私はすぐには動けませんでした。
 行ってもよいものだろうか。千載一遇のチャンスということは分かっておりました。あの方がまさか私に会ってくださろうとするなんて。けれど、私は決断できませんでした。会うのか気恥かしい気がしたのかもしれません。
 ですが、私はそれをすぐに後悔することになりました。ふいに悲鳴が聞こえたのです。それはもう小さな声で、普通なら聞き逃してしまうほどの音です。ですが、あれは悲鳴でした。人間の悲鳴でした。
 まさかあの方に何かあったのだろうか。いてもたってもいられなくなり、私は動き始めました。その間も嫌な予感が頭を巡ります。あの方は美しい強いお方です。ですが、最強ではないと思います。あの方に何かあって、私を殺してくれることができなくなったとしたら――――そう考えると私の胸は抉られたように痛みました。私の今ある望みは、あの御方に手にかけてもらうことだというのに。
 きっとあの瞬間、銃で撃ち抜くように視線で撃ち抜かれたとき、私はあの方に恋をしたのです。完璧に強いあの御方に。ああ、でももし、もしあの方が負けてしまうことがあれば私は――――
 高い煉瓦の塀を乗り越え、私は敷地内に侵入しました。セキュリティシステムはすべて止まっています。ただの煉瓦に見えた塀もかすかな反響から内部の部分は他の素材でできていることが分かりました。きっと車で突っ込んでも壊れないような何かが仕込んであるのでしょう。流石は篭森の唯一の跡取り。抜かりはありません。
 屋敷内は静まり返っていました。私はそっと裏手に回りました。そこのサンルームでよくあの方がぼんやりと空を見上げているところを見たことがあったからです。裏手に回ると窓とガラス戸がすべて開け放たれているところがあり、私にはすぐにそこがサンルームだと分かりました。あの方はそこにいました。けれど、なんということでしょうか。あの方は床に座り込み、しくしくと泣いていらっしゃいました。その前には男が――私は目をこすりました。男がいました。ですが、私にはその男の印象がひどくあいまいに思えました。どこかで見たような気もすれば完全に初対面な気もします。私が混乱すると、彼はにこりと笑みを浮かべました。
「初めまして、どこかの誰か。僕はジェイル・クロムウェルと申します」
 その言葉で私は彼と初対面であることを確信できました。友好的とすらいえる笑みを浮かべて、彼は続けます。
「覚えておいてくださいね。貴方を屠る人間の名前です」
 私はそれを聞いて激怒しました。私を殺すのはあの方だけに決まっています。ですが、あの方は床に座り込んだまま子どものように泣き続けています。いえ、嗚咽の声すらありません。茫洋と涙を流しながら空中を睨んでいます。いったい、どうしたことでしょう。
「珠月ならしばらくは役に立たないと思いますよ?」
 くすりと馬鹿にしらように奴は私を笑いました。そして、あの方の艶やかな髪を乱暴に撫でます。
「こうなると数時間は壊れたままです。心がね、脆いんですよ。絶妙なタイミングで言葉を囁いてトラウマ誘導さえしてあげればわりと簡単に壊れます。でも生汚いからしばらくすると自力でバラバラになった心を継ぎはぎして立ち上がってくるから、心配はいりません」
 いい加減なことをいう男に、私は腹が立ちました。あの方の何が弱いというのでしょうか。あの方は強い人です。大方、あの様子だって薬でも飲まされたに決まっています。
 私はナイフを構えました。銃撃も得意ですが、私が一番うまいと自負しているのはこれです。それを見て相手もナイフを構えました。随分と長い作りの軍用ナイフです。レイピアでも出てくるのではないかと予想していた私は、無骨なナイフに驚きました。
「君も彼女が好きなんでしょうね」
 本当はすぐにでも切りかかりたいのですが、あいつがあの御方の横にいるためすぐには動けません。私はじっと相手を見つめてすきを探ります。
「愚かしい話です。こんな弱い人間に何を期待するのか。貴方が神を信じようと鰯の頭を信じようと僕の知ったことじゃありませんが、こんなものにすがってどうするんです? 自分自身も救えない弱い人間に」
 あの方は何の反応も返しません。まるで人形のようです。呼吸音が聞こえなければ死んでいるようにしか見えません。
「その方に…………何をした?」
 それは口の端を釣り上げました。深くなる笑みに吐き気がします。
「心的外傷っていうのはね、あっさりとできるものなんです。あとはそれが癒されないように注意を払えばどんどん人は自滅してその穴を深くしていく。自分に自信がない内向的で弱い心の持ち主ならなおさらです。何も難しくはないんですよ」
 さらさらと奴の手からあの御方の黒髪がこぼれ落ちます。
「普通ならそのまま自滅するんですが、珠月は弱すぎるから自滅して死ぬほどの強さもないんですよ。可愛らしいでしょう? 弱くて壊れやすいものは可愛らしい。壊れていく様も壊れないでいるのもどちらも愛らしいものだから、ついつい迷ってしまいます」
 気持ちの悪いことを言って奴はにこにこと笑っています。苛々しました。そいつはそんな理由であの御方にきっとひどいことをしたのでしょう。
「していませんよ?」
 私の心を読んだように奴はいいました。
「僕からは何もしていません。時々、ふらついている背中を軽く押したことは認めますが、それも愛しい故の意地悪です。好きな人に絶対に僕を忘れないようにしてほしいとかそう願うのはごく自然なことでしょう?」
 私は返事をしませんでした。あんまりな良いように反論する気すら起きません。
「彼女は強くないし美しくもない。彼女が強くて美しいなんて、貴方の思いこみですよ。彼女は弱いんです。どうしようもなく矮小で脆弱で醜悪だ。そういう風な人間なんです。なのに貴方がたのような人間が勝手にイメージをつくりあげるものだから、彼女はいつだってそれにこたえようと一生懸命になっている。貴方がたはどこまで彼女を苦しめれば気が済むんでしょうね」
「何を言っている……?」
 私は憤慨しました。あの方を傷つけているのはあきらかに目の前の男です。なのに、よりにもよって私に責任転嫁するなんて。
「周囲の囁きというのは見えない手となり人の背中を押す。それが希望の追い風となることもあれば、奈落への案内人となることもあります。なのに、貴方たちは弱者のふりをしてネズミよりも深く考えずに動く。まったく愚かしい」
 もう我慢できません。私は切りかかりました。ところがどうしたことでしょう。確かに切りつけたはずなのに急に頭がぼんやりして、私は一瞬動きを止めてしまいました。見えているはずの相手の姿がかすんだような気がします。どこを攻撃すればいいのか分からなくなって私の切っ先は迷いました。嫌な感じがして、咄嗟に私は身をかがめました。頬に激痛が走ります。咄嗟にかがまなければ喉をやられていたでしょう。
「あれ?」
 不思議そうな声が響きました。無視して私は刃を大きくふるいます。位置がはっきりとは掴めない敵が距離をとったことだけは分かりました。そのまま、流れ作業のように動いて弧をえがくように腕を振ります。どちらにいるか分からないならすべてを攻撃するしかありません。
「悪くないですね。僕のような類の人間を戦うには無差別攻撃が一番です」
 音を立てて硝子が割れる。一瞬だけ、あの方が嫌がるだろうと私は考えた。けれど、あの方は硝子が自分のすぐ近くに飛び散ってもぴくりとも動きませんでした。悲しくて涙が滲みました。あの気高いお方が、強い方が、床に座ったまま置物のように動かない。思わずそちらに駆け寄ろうとして、私はまた嫌な感じがして飛び退きました。肩先を刃がかすめます。咄嗟に刃の方角に自分の刃物を向けますが、手ごたえはありません。
 次の瞬間、重たい音がして胸に違和感を覚えました。見下ろすと、胸から刃物が生えていました。遅れて痛みが襲ってきます。
「あ…………」
「悪くはないですが、全然力不足です」
 金色の髪が悪魔のように揺れます。私は膝をつきました。すぐ近くにあの方がいます。漆黒の髪と臓物色の瞳に向かって私は手を伸ばしました。
「篭森……様…………」
 初めて私はあの御方の名前を口にしました。茫洋とした瞳が少しだけ動いて私を見ました。そう、私をはっきりと視界にとらえてくださったのです。目が合いました。私はそれで満足でした。
「私は貴女に…………」
 そして、そして――――


**


 ざくりと音がした。斬撃とも打撃とも違う胸が悪くなるような嫌な音。びちゃりと重たい水音がする。ジェイルは目を見開いた。珠月が立っている。手に持っているのは侵入者が持っていたナイフだ。それがジェイルの刺したナイフとすれ違うように男の胸に沈んでいる。
「私は私なんて嫌い」
 抑揚のない合成音のような声が響く。誰にともなく、虚ろに声は言う。
「だから好きって言ってもらえるのは大好き。だって嬉しいもの。自分が価値あるなにかになったような気がするもの。崇められるのも、幻想を抱かれるのも、妬まれるにも、憎まれるのも嫌いじゃない。だってそれは私が優れていると認められる証だから。貴方の言う通りだよ。私は自分だけでは自我を保てない」
 嫌な水音を立てて赤い液体が流れる。暗くて見えないが、きっと足元の絨毯は綺麗に赤く染まっているだろう。
「だからこそ、この痛みは私が背負うものなの。私が好きだって言ってくれているんだもの。私に殺して欲しがっているんだもの。殺してあげるよ。痛くても悲しくても苦しくても殺してあげるよ。貴方は苦痛を忌むけれど、私はそれがないと私でいられない。意味がなくなっちゃう。価値がなくなっちゃう。初めからないのに本当になくなってしまう。私がどんなにそれを恐れているか知っているくせに、私の役目を横取りしないで。称えられるから、恐れられるから、愛されるから、憎まれるから、私はここにいられるの。痛くても苦しくても私が私で居られないよりずっとずっと嬉しいの」
 どろりとした血と腸の色の瞳が男を見た。そして数回の痙攣を経て男が絶命したのを確認するとナイフを引き抜く。びちゃびちゃと水音を立てて血が飛び散った。
「――――驚きました。あと数時間は壊れたままだと思」
 ジェイルの言葉は途中で途切れた。腹部に刃物が沈んでいる。人の肉と骨を切ったばかりのそれはもうぼろぼろで内臓にも届かない。だが、軽傷といっていいほどの傷でもない。ジェイルは珠月を見た。
「嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い――――死んじゃえ」
 泣いているような笑っているような顔で、珠月はナイフを引き抜こうとしたが、それはすぐに折れた。男を刺す時に骨に当たっていたのだ。けれど、それにも気づかない様子で珠月は壊れた玩具のような緩慢な動きでナイフを振りあげた。片手を伸ばして、ジェイルは珠月の手ごとナイフを握った。
「珠月?」
「嫌……嫌い、大嫌い…………何で……放っておいてくれないの……嫌い死ね」
 光のない瞳で珠月は刃物をジェイルの腹部に押し込もうとする。正気とも狂気とも言い難い行動を見て、ジェイルは肩をすくめた。こまったなとでも言いたげに。
「なるほど。歪でゆがんで壊れていても種が花になるように苗木が大樹になるように月日を経れば魂は成長する。多少は壊れにくくなっていてもおかしくはありませんね。まさか、正気でないまま攻撃してくるとは思いませんでした。いえ、正気でないからこそ」
 愛しげにジェイルは手を伸ばした。いまだ半分は逃避の海に意識を沈ませている珠月の首を掴む。
「正気なら、こんなに貴女を愛している僕を刺すことなんてできませんものね。優しい愚かな月の姫」
 片手で珠月の身体を軽々と持ち上げると、ジェイルは乱暴にソファの上に放り投げた。立ち上がる前にその喉元を抑え、腹を殴った。普通なら一撃で気絶するというのに、半分正気でないためか珠月の身体はまだ暴れる。子どもが泣き叫ぶような言葉にならない声が喉から吐き出される。口を塞いでもそれは止まらない。結局、頸動脈をしめて強制的に意識を落したところで初めからこうするべきだったと後悔する。
「でも気絶させてしまうと、面白くないですからねぇ」
 腹からはじくじくと血が滲んでいる。傷自体は浅いが放っておけば出血多量を引き起こす。
 本当は悲鳴を上げさせて身の程知らずを呼び寄せた後、壊れた珠月の前でそれを始末して万事解決のはずだったのに。ジェイルはため息をつく。珠月の事を知りもしないで憧れるような奴をがっかりさせてやりたかった。珠月に手を下してほしくなかった。言葉にすれば一言で済むが、言葉にすると嘘になる。
 ジェイルは珠月の首に手をかけた。力は込めず、指先で動脈をなぞる。
「相変わらず愚直で脆弱な。まあいいです。貴女はきっとそういうものなのだから。理想を抱いて、奇跡に取り憑かれて、希望の中で溺れ死ねばいい」
 足元にはごろりと死肉が転がっている。足に引っ掛かったそれを、ジェイルは無表情で蹴飛ばした。手早く血まみれの絨毯でくるんで簀巻きにすると、部屋のすみに初めから放置しておいた鞄を引きずってくる。出てきた死体袋に乱暴に死体を押し込み、飛び散った血は特殊な洗剤と布でふき取る。割れた窓は仕方がない。血に汚染された布類はすべてゴミ袋に詰め込み、消臭剤を振り撒く。血臭は残りやすい。
 振り返ると珠月がいる。意識が戻る気配がないのを確認して、ジェイルは窓を閉じた。屋敷のすべての鍵をかけて回る。二階だけは初めから施錠がしてあるようだったので無視した。セキュリティシステムの起動方法は流石に分からない。しかし珠月が起きるまで待つには怪我は軽くない。少し悩んでジェイルは携帯電話の通話ボタンを押した。数回のコールの後、目当ての人物が電話に出る。
「…………はい、戦原です」
 感情をすべてオフにしたような機械じみた声が電話に出た。心なしか緊張しているのが電話越しでも感じられる。もの電話ごしでなかったのなら問答無用で襲いかかってきそうだ。
「こんばんは。忠実なる猟犬君。良い満月ですよ」
 戦原緋月。珠月の忠実なる所有物。少なくともジェイルはそう認識している。珠月の命をうけ、何度もジェイルに挑戦しているがいつも引き分けに終わらせている。
「君の主人ですが、ちょっと今気絶しています。起きたら正気になっていると思いますが、万一途中で目を覚まして暴れるとまずいので、様子を見に来てあげてください。君ならば、主人の不利益になることを吹聴することもないでしょう?」
「貴様」
 唸り声に似た声が電話越しに聞こえる。獣の威嚇音のようだとジェイルは思った。
「くれぐれも人は連れてこないように。錯乱するかもしれないので」
「何をした?」
 その疑問は無視して電話を切る。十分もすれば来るだろう。電話を切るとジェイルは腹を押さえながら重たい荷物を担いだ。
「ではまた来ますよ。月の姫」
 返事はない。死体のように珠月は動かない。意識がないのだから当たり前なのに、何故かひどくさびしい。
「――――きっと人の心は硝子でできている。人の心は重たいくせに壊れ物。自分も他人も容易く壊せる。壊れた硝子は戻らない」
 古い作家が言った言葉をぼんやりとジェイルは呟く。
「骸骨のハートを持っている人の心は壊せない。なぜなら初めから骸骨には心臓などないのだから。その代わり、喜ばないし悲しまない」
 別の作家の言葉をつづけて、ジェイルは視線をあげた。満月が見える。
「僕はどちらでしょうね。硝子の心か骸骨の心か」
 返答はない。
「多分どちらも違うでしょうね。僕の心臓がただの肉のようにきっと心もただの――――なのに僕は――――」
 ゆっくりとジェイルの顔から表情が抜け落ち、呟きは溶けて消える。だが、次の瞬間にはまたジェイルは笑みを浮かべている。
「では、御機嫌よう」
 今度こそ振り向きもせずに立ち去る。転々と血の跡が庭にできるが気にしない。死体と荷物を担いで彼の姿は驚くほど自然に闇に消えた。まるで初めからだれもいなかったかのように。闇を見透かす猫の目すら、彼を追うことはなかった。


END
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