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恐竜機関

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kagomori

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恐竜機関

 世界最高峰にして最大級の学園都市・トランキライザーのイーストヤードに、警備保障会社であるダイナソアオーガンの本社はある。警備会社とはいえ、中身は民間軍事会社と大差ない。そのため、そのビル周辺は分かりにくいが並みの要塞よりよほど厳重に警備されている。たとえ航空機で突っ込んでも、ビルが倒壊するようなことはないだろう。
 その正面に黒塗りの車が横付けされたのは正午過ぎのことだった。そこはゲストの送迎と特別急いでいる幹部の出勤、退社をのぞいて駐車は禁じられている。何事かと正面門の前に立つ警備員は勿論、通行人すら振り返った。だが、そこから黒スーツの護衛と高級そうな服を着た初老の男性が現れると、途端に興味を失ったように視線をそらす。いささか失礼な態度だが、仕方がない。そんな周囲の視線に気づいているのかいないのか、ずんずんと男性は歩いていく。先行して歩く黒服の一人が、警備に声をかけた。
「会長に会いたい」



 その少し前、ダイナソアオーガン取締役社長、篭森珠月は昼食時だった。忙しい時期以外は弁当を持参している(ついでにデザートまで手作りで持参している)彼女は、時間がある時は適当な部下か上司のところに現れる。よって、本日はダイナソアオーガンの部署の一つ、内部調査室で食事を取っていた。
 ここは内部監査や表ざたにしにくい諸々のことを秘密裏に処理するための組織であり、当然入れる人間は限られている。ゆっくり昼食を取るには不適当な場所に思われるが、珠月は入れる人間が限られているのを逆手にとって、ここでよく食事をしていた。
「……社長、社長は社長なんだから、もっといいもん食えよ。出前取るとかさぁ」
 犬ならへたりと耳を垂れているような顔で、珠月直属の部下の一人【スカイブルー(希望の青)】星谷遠は、文句を言った。
「何を食べるかは珠月様が決めることだ。余計な口をはさむな」
 答えたのは珠月ではなく、お茶を入れていた青年だった。同じく珠月直属の部下【クリムゾンレッド(赤い月)】戦原緋月。物音一つ立てずに三人分の湯呑にお茶を注ぐ。
「そうだよ、私の料理が下手な出前よりもおいしいのは知ってるでしょ? 遠」
 珠月は笑った。傍から見ていても上機嫌なのが分かる。
「悔しかったら、貴方も料理ができるようになりなさい」「遠はできなくてもいいんだ」
 珠月の言葉にかぶせるように、緋月は苦々しい顔で言った。
「世の中にはセンスと才能というものがある」
「だよな。料理は緋月が作ったほうが美味いよな」
「遠、すごく見下されていることに気づきなさい」
 遠まわしにあきらめろと言っているのだが、遠は気付かない。不思議そうに首をかしげる。
「だって緋月は料理うまいんだぜ。社長と同じくらい」
「知ってるよ。緋月は和食派。私は洋食エスニック。緋月のご飯は美味しいけど、ヘルシーでしょ。たまには肉食べたくならないの?」
 意地の悪い顔で珠月は言った。どことなく楽しそうだ。
「いい。俺、緋月みたいに飯作れないから、緋月がいないときは外食だし、その時に食う」
「…………」
「心配は不要。短い留守期間なら、料理を冷凍保存して食わせている」
 珠月は、何か言いたげな視線を緋月に向けた。緋月はそれを遠の食生活を心配していると判断して、返事をする。しかし、違う。
「いや、そうじゃなくて、何で緋月が家事を全部してるのよ? 同居してるのは知ってるけど」
 わんこのような遠に料理が出来るようにはとても見えないが、無表情で口数が少ない緋月も料理が出来るようには見えない。だが、実際のところ緋月のほうは一通り以上に家事ができる。
「遠に包丁や鍋を持たせたあとの後始末を考えれば、合理的」
 憂いを帯びた顔で、ぼそりと緋月は答えた。色々なものが籠った笑みに、珠月は力なく顔を引きつらせる。
「まったく、よく懐かれてるねぇ。餌づけ効果かな? でも、それならもっと私に懐いてもいいよね。遠、遠。こっちおいで」
「え……ヤダ……」
 ずりずりと遠は後ずさりをした。珠月は彼女には珍しい笑顔で手を伸ばすが、その分だけ遠は逃げる。
「社長嫌いじゃない……けど、すげえ嫌な感じする。なんか、安心できない」
 遠が逃げるほど、珠月の笑みは深くなる。完全に遊ばれているが、遠はそれに気付かない。
「ああ、心配しないで。それは私が貴方に害意を持っているわけじゃなくて、私に害意があるひとがいつも周辺に潜んでいるから、貴方の本能がそれをキャッチしてるだけ」
「笑顔でそんなことカミングアウト出来ちゃう時点で十分怖いよ!」
「遠」
 低い声がした。ぴたりと遠は動きを止める。
「…………ハイ」「珠月様を怖いとか言うな」
 命令系だった。遠は目に見えて椅子の上で小さくなる。珠月は肩をすくめた。
「緋月。悪気はないんだ。怒ってやるな」
「はい、珠月様」
「緋月……お前、なんでそんなに社長大好きなんだよ? 何で社長の言うことほいほいと聞いちゃうんだよ?」「珠月様だから」
 緋月は即答した。迷いない答えだった。そして、言ってから言葉が足りないと感じたのか、緋月は続ける。
「だが、何でも聞くわけではない。ためにならないことはしない」
「例えば?」
「…………お前を切り刻めと言われたら、考える」
「いや、断われよ。そこは断れ。嘘でもいいから断れ」
「そんな残虐な命令出さないよ。もう、お昼にしよ。遠もクッキーあげるからこっち戻っておいで」
 壁際まで批難した遠に向かって、珠月は花柄の袋に入ったクッキーを差し出した。焼き菓子の甘い香りにつられて、じりじりと遠は一歩前に出た。珠月の菓子の美味しさは本人の性格とは関係ない。珠月がお菓子を上下に振ると、それに惹かれたようにじりじりと近づいてくる。完全に動物の餌づけ状態である。
「そうだ。遠。お弁当交換しない? 自分の料理には飽きてるから、そっち食べたい」
 遠がクッキーを受け取ったのを確認して、珠月は言った。途端、遠は弁当とクッキーを抱えて先ほどより遠くまで逃げる。
「お前……俺の飯を狙ってたのか!?」
「狙ったのはたった今だけどね。ほら、交換しよ」
 黒い漆塗りの弁当箱を開けて、珠月は中身を見せた。細工の美しい弁当箱の中に、みっしりと色鮮やかなおかずが詰まっている。
「今日のメニューは、鶏肉の竜田揚げ大根と紫蘇の和風ソース和えと、ピリ辛韓国風肉じゃが、野菜と白身魚の煮つけにソーセージ入り厚焼き卵、お漬物。ご飯は炊き込み麦ごはん。デザートに焼き菓子と手作りプリンが付いてきます。プリンは給湯室の冷蔵庫ね」
「プリン…………」
 ちょっとだけ遠は珠月に近付いた。だが、はっとしたように立ち止る。
「駄目だ駄目だ!! 今日の弁当には、緋月に頼んで入れてもらった鳥のセセリのから揚げと鰻巻き卵焼きが入ってるんだ!!」
 ぎゅっと弁当箱を胸に抱いて、遠は叫んだ。緋月は淡々とお茶とおてふきの準備をしている。
「遠、プリンが冷蔵庫で冷えてるよ。無添加だよ」
「俺はから揚げを食うんだ! 去れ、悪魔!!」
 必死な遠とどこまでも楽しそうな珠月。完全に弄ばれている。しばらくその様子を無表情で見守っていた緋月は、おもむろに手を伸ばすと、珠月の弁当を取りあげた。代わりに自分の弁当を渡す。珠月はきょとんとした顔で、弁当箱を受け取った。
「僕の弁当でも遠の弁当でも中身は同じだ。だから、僕のを食べればいい。必要ならば、明日から三人分作るが、どうする?」
 珠月は目を丸くした。そして、苦笑する。
「あらら、貴方から奪う気はなかったのよ。ごめんね。ありがたいけど、私は出社してこないこともあるから、気持ちだけ受け取っておく。今日だけは交換しよう」
「ちょ、社長、俺に対するときと全然態度が違う!! 差別!」
 うって変わって穏やか口調になった珠月に、遠が不満の声をあげる。ふふんと珠月は鼻で笑った。
「緋月は私のためになんでもしてくれるもん。弁当一つくれないわんことは違うもん。餌づけされたりしないし」
「餌づけ……俺は動物じゃねえ!!」
 そうやって向きになるところが動物っぽいのだが、本人は多分気付いていない。緋月はうるさそうに、遠に近い方の耳を手でふさいだ。
「遠、食事中に吠えるな。唾が飛ぶ。飛沫感染は病原体のもっとも一般的な感染ルートの一つだ」
「お前はお前で、淡々と俺を病原体扱いかよ!?」
「遠」
 きゃんきゃんとそれこそ犬のように吠える遠の鼻先に、緋月は焼き菓子の入った袋をつきだした。遠は静かになる。
「僕は今度健康診断があるから、甘いものは食べたくない。お前が食べろ」
 きらりと遠の目が光った。そして顔全体に喜色が浮かぶ。
「マジで!? わぁ、お前ってほんっとうにいい奴だよな!」
「単純」
 ころりと機嫌を直した遠を見て、珠月は呟いた。遠は頬を膨らませる。
「悪かったな。社長!」
「…………冷蔵庫のプリンもお前が食べるといい。後は……少し食欲がない。この鶏肉の竜田揚げも少し食べていい」
「こら、緋月。遠を甘やかすな。弁当全部取られるぞ」
 サクサクのから揚げを咀嚼しながら、珠月は言った。遠慮の欠片もない。
「すまない。珠月様からもらったものを本人の前に他人に譲渡するのは、配慮が欠けていた。だが、遠は腹をすかせているらしい」
「いや、そうじゃなくて。あんたが食えよって話。細いんだから、もうちょっとくらい肉ついても平気だよ?」
 呆れたように珠月は言った。付き合いだけならば珠月と緋月は、遠より長い。故に色々と過去の事も知っているし、性格も熟知している。
「僕の身体は、武器をふるう時に最も適した筋肉と脂肪量を保つように心掛けているので、太ることはできれば避けたい。それに僕が食べる喜びより、遠が食べる喜びのが大きい以上、遠に食べられるのがその食物にとっての最大幸福だと」「食物の気持ちまで考えないでよろしい。たまに長文喋ったと思ったら、この子は……」
 珠月は頭を抱えた。遠は軽快に笑う。
「あはは、緋月ってたまに喋ると面白いよな。普段は全然喋らねえ奴だけど。ま、いっか。普段は緋月が喋らねえから、その分俺が喋ってるわけだし」
「遠はもうちょっと黙っていいと思うって、もう食べ終わったの!?」
 空になった弁当箱を見て、珠月は唖然とした顔をする。それをしり目に、楽しそうに遠は二つの焼き菓子の袋に手を伸ばす。
「ん? おお、緋月、御馳走さん。チキンもちょっともらったぜ」
「…………ああ」
「ちょっとって……半分無くなってるじゃない! この食欲馬鹿!! 緋月が可哀想でしょう」
 見かねて珠月は叫んだ。遠は不満そうな顔をする。
「社長は緋月を贔屓する。緋月に関してだけ過保護だ」
「それは緋月が喋らないのをいいことに、貴方達が根こそぎ色々なものを持ち去ってくからでしょう!? 流石の私も見ていられないのよ。緋月、嫌なことは嫌っていいなさいよ」
「問題ない」
 だいぶ減った弁当を静かにつつきながら、緋月は頷いた。
「生命や生活、仕事などに支障があることには、適切な対応をしている」
「…………緋月、生命や生活以外にも人間には奪われてはならないものが色々とあると思うんだ。貴方本当に大丈夫なの? 生きてて辛くないの?」
 緋月は箸を止めてことんと首を傾げた。不思議そうに珠月を見やる。
「珠月様と遠がいて、他にどんな不満があるのだろうか」
 さらりと言って緋月は食事に戻る。一瞬の間をおいて珠月はその場で机に伏し、遠は緋月に抱きついた。
「ありがとう! 俺たち、一生友達だよな!?」
「ああ、お前は食事と家事をしてやらないと死にそうだ。嫁が見つかるまでは面倒みよう」
 さりげなく酷いことを言われているが、感激している遠はまったく気づいていない。一方の珠月は、食べかけの弁当を机に置いたまま、項垂れている。
「緋月、貴方を見ているとたまに、自分がとても穢れた人間になったような気がするよ……」
「僕は珠月様の手ごまだから、あなたの穢れが穢れているとするなら、その穢れは僕が引き受けるものだろう。珠月様が気に病む必要はない」
「ストップ。自己嫌悪で死にたくなるから、それ以上喋らないで」
 ほほえましいとさえいえる、主従のスキンシップ。だが、それは唐突にぶち壊された。
 音を立ててインターフォンが鳴る。場所が場所であるため、重要なものが保管されている部屋の前部屋に当たるこの部屋も、用事のないものは入れない。だから、要件のある人はインターフォンで連絡を取るのだ。
「はい」
 一番ドアに近い位置にいた遠が電話を取る。途端、切羽詰まった女性の声が聞こえてきた。
「こ、こっちに社長いますか!? 今、アポなしのお客さんが来ていて、それで『会長を出せ』って言ってるんですけど、会長に通していいですか?」
「アポなし? 追い返しなさいよ。なぜ、しないの?」
 弁当に未練の視線を向けながら、珠月は立ちあがった。泣きそうな声が返ってくる。その声が上の中程度の企業の名前を告げる。
「そ、そこの会長がいらしてるんです! 追い返せません!! 今、どうにか言いくるめて応接室で待ってもらっています」
「よりにもよって昼時に」
 珠月は盛大に舌打ちした。その理由の大部分が食べかけのから揚げにあるとは知らない女性部下は、小さく悲鳴を上げる。珠月はやや声のトーンを変えた。
「ああ、悪い。ちょっとあってね。分かった。宿彌にはこのことを伝えた上で、居留守を使うように言って。対応には私が出る。貴方はもう自分の仕事場に戻っていい。代わりにアルシアに、私が行くことを先ぶれで伝えるように言って。今すぐ。後は、社内のセキュリティレベルをツーランク引き上げ。いい? 客人に社内で傷一つ負わせないように」
「はい!」
 気配が遠ざかる。珠月は振り返った。残ったから揚げを狙っていた遠の頭を手刀で殴る。
「後で食べるの。お前はもう十分食べただろう?」
「人間は食べないと動かないんだぜ」
「黙れ、犬っころ。お前には腹八分目という言葉を贈ってやろう。食後の運動がわりに、ちょっとついて来い。緋月、食事中なのに申し訳ないけど、一応付いてきてくれる?」
「無論だ」
「……扱いが違いすぎる」
 一瞬の迷いもなく緋月は立ち上がり、文句を言いながらも遠も続く。珠月は扉を押しあけた。外に出ると空気がわずかにピリピリしているのが分かる。
「でも社長、会長を出せって言ってるのに社長が出ていいのか?」
「いいのよ。そういう地位や立場でごり押しするようなタイプには、私のほうが有効なの。それに、わざわざこんな発展途上企業まで足を運ぶなんて、よほど追い詰められているんだろうしね。話くらい聞いて上げないと可哀想」
 可哀想などとは少しも思っていないであろう顔で珠月は言った。
「きな臭い噂も聞くしねぇ。会長派と社長派で仲が悪いとか。大方、内部紛争で持ち駒が足りなくなったのだけれど、あまりにも大きいところから人を借りると騒ぎが拡大するから、そこそこのうちを選んだんでしょう。学生だから、普通のところよりはおかしなことをする可能性は少ないし」
「そこまで分かってるなら、どうするんだ?」「追い返す」
 珠月は即答した。
「この手の仕事は実入りが悪い上に、トラブルに巻き込まれやすい。冗談じゃない」
「社長が仕事選んでも平気なんて、うちの会社って景気いいんだな」
「あら。私は割のいい仕事を率先して探しに行ってるおかげよ」
「マジで!?」
 どこまでが本当か分からない顔で珠月は笑った。だが、すぐにその顔から表情が消える。
「入ったら、私の一歩後ろで待機ね。指示があるまで喋らず、何があっても動揺を出さないように。自分たちは機械だと思いなさい」
「はい」「はいよ」
 珠月は重厚な扉を叩いた。中から返事があり、扉が開きかかるがそれより先に珠月は扉を押しあけた。あきらかなマナー違反だか、悪びれた風もなく部屋に入る。唐突に現れたゴスロリ衣装の少女に、部屋の中にいた初老の男性は腰を浮かせる。
「お待たせしました」
 珠月は微笑んだ。老人は眉間にしわを寄せる。
「…………ダイナソアオーガン会長は、少年だと聞いているが」
「はい」
 珠月は微笑んだ。ただ笑みを浮かべただけなのに、見る者を震え上がらせるほど迫力がある。だが、老人はひるむことなく渋い顔で珠月を睨みつけた。代わりに周囲を守る黒服の男たちが臨戦態勢に入る。だが、珠月の背後に立つ緋月と遠が身構えたのを見て戦闘態勢を解いた。珠月は少し笑って表情を消す。
「昼休みで出払っておりまして、遅くなりました。私は、当社社長で篭森珠月と申します」
 篭森の名前に、一瞬黒服のSPたちに動揺が走る。だが、腐ってもプロ。すぐにそれを隠した。代わりに、椅子に座った老人は難しい顔をする。
「カルバニアか」
「はい。あいにくと会長の狗刀はただいま外回りに出ておりまして、代わりに私が御話を伺います。よろしければ、次回よりアポイントメントをお取りください」
「電話はした」「ああ」
 珠月はとびきりの笑顔で微笑んだ。彼女を知るものなら、誰もが背筋が寒くなるような笑みだ。機嫌が悪い時に彼女が浮かべる笑みである
「そういえば先日、今日の昼ごろに来るという一方的なお電話があったようですね。唐突に高名な企業の名前で来る時間だけを告げられたので、いたずら電話と思って処理してしまっていました。うちの受付がうっかりで申し訳ありません。あまりにも斬新なアポイントメントの取り方だったので、理解が追い付かなかったようです。差し支えなければ、今度からは愚民にも分かる程度の、ごく一般的なアポイントメントの取り方を採用していただけると、大変助かります」
 口調こそ丁寧だが、中身は皮肉の嵐だ。再び周囲が殺気立つが、珠月は気にしない。
「して、本日は護衛派遣を依頼だということですが」
 珠月の言葉は途中で止まった。目を見開いたと思った次の瞬間、一瞬で机に飛び乗り老人に掴みかかる。
 誰も反応出来なかった。嫌な音を立てて、赤い液体が老人の頬に飛び散る。
「……随分と情熱的なアプローチを受けていらっしゃるようですね」
 老人の「服の襟から生えた」刃を素手で受け止めて、珠月は呟いた。受け止めきれなかったせいで指と掌の皮膚が一部裂け、血が飛び散る。珠月が手を振ると、途中から切断されたような刃物が床に落ちた。
「――――」
 老人は声も出ない。自分の頬に手をやって、そこに血が飛び散っているのを確認すると顔を引きつらせた。珠月はたおやかな笑みを崩さない。だが、その手からは血が流れ、袖を赤く汚している。
「失礼を。注意が足りず、襟とお顔を汚してしまいました。ただいま拭くものをお持ちします」
 視線を受けて慌てて遠が部屋を走り出る。それを見送って、珠月は老人を振り返った。いまだに起こったことが理解できていないのか、彼は茫然としている。
「今のは……なんだ……?」
「闇を媒介に空間をつなげるミスティックのようですね。襟の影を媒介にして、貴方様に向かって刃物を差し込んできました。が、ご心配なく。すでに絶命しています。追撃の心配は御座いません」
 刃が出た瞬間は、闇を通じて空間が繋がっている。珠月は刃を素手で掴むと同時に、能力を発動して自分の武器を相手の繋げた空間を伝ってねじ込み、遠隔操作で相手の首を切り裂いていた。珠月の能力は物体や一部の生物への意識移送とそれに伴う物体操作である。故に、空間を越えたとしても武器は自分の手足の一部のように感じられ、操ることができる。今も意識を分けた武器を通じて、どこぞの部屋の一室で死んでいる男の姿が伝わってくる。
「私の目の前で、いい度胸です」
「た、倒したのか?」
「はい」
 戻ってきた遠がタオルを差し出す。ぎこちない動きで老人はそれを受け取った。感慨もなくそれを見つめる珠月の手を緋月が勝手に手当てし始めるが、そちらを見ようともしない。怪我をしているのに変わらない態度と、手当をされていても反応しない様子が、ただでさえ得体がしれない珠月をさらに不気味なものに見せている。
「助かった。礼を言う」
「わが社の敷地内における社員およびお客様の安全確保は、会社としての義務で御座います。どうぞ、お気づかいなく。お汚しした服に関しては、後日商品券を贈らせていただいてよろしいでしょうか?」
 あくまでも借りは作らないと言わんばかりの態度に、老人は苦々しい顔で頷いた。珠月も頷く。その間に手当てが済んだ右手は解放される。珠月は振り向きもしない。
「では早速商談を、と言いたいところなのですが、申し訳御座いません。現在、ダイナソアオーガンが保有する護衛および傭兵はほぼすべて任務についておりまして、お客様のご要望を満たすことができるレベルの者がおりません。大変申し訳御座いませんが、次に予約を入れられるのは2ヶ月後になります」
「何だと!?」
 目がこぼれ落ちるのではないかと思うほど目を見開いて、老人は珠月を睨んだ。
「それでは意味がない。すべて出払うなどということがあるわけないだろう? 普通、万一のために一部は残しておくはずだ。そのバックアップ用の要員や他の――――例えば、お前や後ろに控えている男はどうなのだ!? そちらを回せばいいだけの話だろう?」
「こちらの二人は内部監査担当でして、現場には出ておりませんし、戦闘要員でもありません」
 珠月は背後に立つ緋月と遠を指示して、いった。勿論嘘である。ダイナソアオーガン社員は、会計士などのごくごく一部の専門職を除きほぼ全員が戦闘員でもある。総務や営業であってもいざというときは戦闘に回るし、人手が足りなくなれば部署を越えて手伝いに行く。だからダイナソアオーガンは待機戦闘員がいなくても平気なのだ。だが、そんなことを説明してやる気はない。
「私も現在の事務仕事が片付いたら、警備の仕事が決まっております。そもそも、私は社長ですから現場に行く立場にはありません」
 淡々と正論を言われて、老人は言葉に詰まる。さらに珠月は続ける。
「私どもの会社は、軍事会社ではなく警備保障です。紛争が起こっておらずとも、防犯や警備、自然災害への対策などで仕事は常に山積みです。人手が足りず、仕事をお受けできないことも珍しくはありません。そもそも急な自体ですし」
 ことんと珠月は首を傾けて見せた。
「失礼でなれば、代わりに学園内の生徒を紹介してくれる仲介屋を御紹介いたしましょうか。我が校の生徒がよろしいのでしたら、そこそこの護衛を紹介出来ると思います」
「そこそこでは駄目なのだ!」
 唸るように老人は言った。その目は珠月を睨みつけているが、珠月は明後日の方向を向いていて、彼の方を見ようともしない。立場はあきらかに老人の方が上だというのに、珠月がいるとまるで珠月のほうが偉いかのような錯覚を覚える。
「先ほどのような動きができる人間がほしい。金なら出す」
「ですから、出払っております。差し支えなければ余所を御紹介しますので、そちらに問い合わせてはいかがでしょうか。例えば、ミスティックキャッスルや荒覇吐でも、そう言った類の仕事は引き受けてくれますし、フリーでよろしければ【ミスターM】や【ワンダフルポエマー】も手が空いているかもしれません。もっとマイナーでもよろしければ四十物谷調査事務所を紹介しましょう。あそこは仲介業者でもあります」
 流れるように珠月は喋る。すでに引き受けないこと前提の流れになっている。怒涛の勢いで説明されて、老人はおされぎみに頷いた。
「だ、だが、こちらとしても誰でもよい訳ではないのだ」
「エイリアス持ちを御紹介いたしましょう」
「いや……素性が」
「素性の確かさなら、わが社と同レベルです」
「そこまで嫌がるなら、二度とこちらに仕事は回さないぞ? 子会社も退きあげる」
「顧客リストを調査致しましたが、お客様の関係会社および四親等以内の血縁者は御座いませんでした。新規顧客を逃すのはこちらとしても痛手です」
 笑顔で珠月はごり押しした。いまだにふさがらない傷口からは血が滲んでいる。傷と表情のアンバランスさと、名前自体が持つ不気味さのせいで老人も強くは出にくいのか、苦々しい顔で自分の娘より若い少女を睨みつけている。
 それを眺めつつ、遠は視線だけを緋月に向けた。緋月は表情一つ変えずに直立不動で立っている。
『…………おい』
 唇だけ動かして、遠は声をかけた。聞こえずとも見えてはいるはずだ。視線で緋月は答える。
『これ、いつまで続くんだ?』
 少し考えて、緋月は後ろで組んだ手の指を一本立てた。



「…………もう、いい」
 一時間経過。とうとう老人が折れた。手を変え品を変え続く珠月のトークに、ぐったりしたように老人はソファに沈み込む。この一時間で、百戦錬磨の商人であるはずの老人は娘以下の年齢の少女に完全敗北していた。そもそも、異能による死角&至近距離からの攻撃を素手で防ぐような女に勝てるわけがないのだ。
「ありがとう御座います。では、仲介会社を御紹介するということで。紹介料は御依頼がまとまった場合、仲介会社からいただきますのでこちらへのご連絡は不要です。勿論、交渉が不成立だった場合は一切お金はいただきません」
 笑顔のまま、珠月はてきぱきとまとめに入る。だが、珠月が紹介した仲介会社の性質を考えると、言葉巧みにサービスレベルは高いがいい値段をする商品を売りつけられるのが目に見えている。遠の脳裏を、ネギを背負って売られていく鴨の姿がよぎった。やがて交渉成立で老人が立ち上がり、すぐに大豆生田桜夜楽が案内をして老人は退出する。珠月は頭を下げながらそれを見送った。そして、姿が完全に消えてから十秒後、盛大に舌打ちした。
「ちっ、手間かけさせやがって」
「お疲れ様です。珠月様」
「社長、その態度の落差にがっかりするよ、俺」
 同時に緋月と遠も肩の力を抜いた。
「社長、そんなにから揚げ食うの邪魔されたの怒ってたのかよ?」
「それもある」
 遠はがっくりと項垂れた。珠月は窓に近づくと下を見下ろす。車が走り去るのを確認して、携帯電話を取り出す。
「どうしたんだ?」
「本当のお仕事はこれからなんだよね」
 親指で携帯電話のボタンを叩いて珠月はうっすらと笑った。
「物理的な衝突が起きているってことは、これから本格的な紛争になる可能性が高い。あれは客じゃないから守る義理もないことだし、せいぜい色々と間接的に売りつけてやろう。ああ、心配しなくてもいいのよ、遠。殺したりしないし、ちゃんと勝たせてあげるつもり。ただし、相応の金銭は吐き出してもらうけどね」
「凶悪」
 ぼそりと遠はつぶやいた。
「礼には礼を返し、非礼にはそれ相応の報いを持って返す。私は気が長い方だけれど、馬鹿にされるのは嫌い。きちんとしたアポイントメントも取らずに乗り込んでくるなんて、私たちには払う礼儀はないし、格下のこちらが合わせるのが当然という意志表示に他ならない。あんな状態で一度でも仕事を受ければ、それからずっと格下扱いだ」
 淡々と珠月は「判決理由」を述べる。
「馬鹿にするにもほどがある。餌になるのはお前のほうだ」
 ぞっとするほど妖艶に、珠月は微笑んだ。学園最大級にして最高峰の企業の一つダイナソアオーガンの闇の部分を引き受ける人間の笑みに、緋月は静かに礼をし、遠は怯えてその後ろに隠れる。
「あ、遠は餌になんてしないから大丈夫だよ。おいでおいで」
「犬扱いするな!」
「遠。珠月様は身内以外は基本的に犬以下の扱いだ。それを思えば、十分可愛がられている。むしろ、ただの知り合いの男より地位は高い」
「それはそれで嫌だっ!!」
 遠は緋月の後ろに隠れると、威嚇するように身構えた。珠月は黒い笑みを引っ込めると肩をすくめる。
「ま、いいか。お昼も食べかけだったし戻ろう。お腹空いた。午後業務は本来取るはずだった休憩の後からでいいよ」
「あ、俺、プリンが……」
「僕はもう業務に」「食事は取りなさい」
 ぎゃあぎゃあ騒ぎながら、三人は部屋に戻った。すると、
「あ」
 内部調査室の社員の一人がプリンを食べていた。
 空気が凍った。
「あーーーーーーーーーーー!! 俺のプリン!!」
「あらら」
「未空、冷蔵庫に入っているものを勝手に食べるなといつも言っている」
「なんてことするんだ! 楽しみにしていたのに!!」
 取っ組み合いの喧嘩を始めた遠をよそに、珠月は放りだしていた弁当を改めて食べ始める。
「うん。油ものは時間が経過すると味が落ちがちだけれど、緋月のはさっくり上がっているわ」
「珠月様、今度この煮つけのレシピがほしいのだが」「週末家においでよ。アップルティのいいのが入ったの」「よろこんで」
 遠が机に突っ込んだ。巻き起こる埃に顔をしかめて、緋月は付け足す。
「時間がある時にプリンを作ってほしい」
「……ああ」
 いまだプリンを嘆き続ける遠を見やって、珠月は顔をしかめた。
「緋月は遠に甘い」
「彼は、僕に足りないものを補う。だから、僕は彼に足りないものを与える」
 完結に緋月は答えた。緋月の過去を知っている珠月は何も言わない。ただ、肩をすくめてみせる。
「プリンは時間かかるんだよね。蒸すのが命だから……遠! 帰りにブルーローズがル・クルーゼでプリン作ってもらえるように連絡しておくから、おとなしくしなさい」
 校内屈指の洋菓子店とフランス料理店。どちらの店主も珠月の友人である。予約をしなければまず口にできない店の名前に、遠は勢いよく振り向く。
「ほ、本当か!?」
「食べさせてあげるから、おとなしくしなさい」
「やった!」
 小躍りしそうな遠に、珠月は苦笑する。そして、ふと気付いた。
「ちょっと待て。美味しいものを食べさせてくれる緋月は『大好き』なのに、私は違うと? 感謝の言葉すらないと?」
「へ?」
 遠は目を瞬かせた。そして、自分の失敗に気づいて青ざめる。
「え、いや、そういう訳じゃなくて」
 じりじり近付く珠月に対し、同じだけの速度で離れた遠は壁にぶつかって止まった。
「じゃあ、好き?」
「…………」
「あはは、正直だな、遠は。頭撫でてあげるからこっちにおいで」
「いや、無理。ごめんなさい。マジですみません。許してください」
「何を怯えているの? おいでおいで」
 壁に沿って逃げようとした遠は、いつの間にか背後から近付いてきた緋月にあっさりと捕獲された。本気で逃げようと思えば逃げられないこともないが、怪我をさせる恐れがある。遠は一瞬動きを止めた。その隙に前に回った珠月が抱きついてきた。背中に細い腕が回って、遠は命の危機を感じる。グラップラーでもトランスジェニックでもサイボークでもない生身の人間に、本物の脅威を感じる。
「猫っ毛だなぁ。わんこなのに」
 わしゃわしゃと遠の髪を撫でて、珠月は不満そうに呟く。うっすらと浮かんだ口元の笑みに、遠の嫌な予感は最高潮に達した。
「ご、ごめんさい……」
「ふふ、ふふふふふふ」
 珠月は本当に、ひどく――――酷く嬉しそうに笑った。
「そういう馬鹿正直で媚びないところ、大好きよ。私は」
 直後、泣いて許しを請う声が防音の壁を越えて響き渡った。



 ダイナソアオーガン会長室。
 会長である狗刀宿彌を向き合っていたアルシア・ヒルは、かすかにもの音が聞こえた気がして顔をあげた。
「…………会長、何だかさわがしいですよ」
「珠月だろ。放っておいていいよ」
「会長は社長を放置し過ぎだと思うのですよ。もう少し手綱を引き締めるべきではないのです?」
「ひきしめたりしたら」
 宿彌は書類から顔をあげた。
「うちの場合、引き締めたりしたら手綱をふり切って暴れるような奴ばかりだろう?」
「それでもそうです。ごめんなさいですよ。無駄な質問でしたです」
 あっさりとアルシアは納得して仕事に戻った。まだ、騒ぎは聞こえてきていた。


おわり
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