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1、ひとりぼっちの兎は死ぬか

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kagomori

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1、 一人ぼっちの兎は死ぬか


 世界の始まりは神話である。
 それは民族地域を問わずに同じだ。どういう神話かは諸説どころではないくらい分かれるが、それでも世界の始まりが神話であることに異論がある人は少ないだろう。歴史書というものを信用するならば、人類史は神話から始まる。
 けれど、その神話に事実が隠されていると知る人は少ない。当たり前だ。地球の歴史は科学的に証明されつつあるし、それが当たり前と思っている。けれど――けれど、考えても見てほしい。その証拠が本物だという証明は誰がするのだろう。
 例えば、その歴史と歴史があったという証拠を含めて世界が創造されたとしたらどうだろう。それが可能ならば、世界はほんの五分前に生まれたのかもしれず、あるいは一兆年くらい前から人類はいたかもしれないのだ。
 だから、オズはとりあえず自分の記憶を信じることにしている。どうせ当てにできるものなどないのだ。だから、自分の記憶――――すなわち、世界は神話から始まり、そして今も神話の中にいる――――は彼女にとっては真実である。
 オズはおそらくはこの世で唯一に近い、死ねない人間だ。どれだけ身体が傷を負っても、死んでも、時間をかければ傷はふさがり彼女は動き出す。こんな身体になったのは、かれこれ二億年ほど前だっただろうか。この惑星と同じではないが別でもない世界で彼女は生まれ、どういう理由か自分でもよく分からなくなりながら生き続けている。
 その彼女は遥か過去に思いをはせる。
 妄想でなければ、遥か昔には人間や天使や悪魔や死神、それに神様なんかが同じ世界に住んでいた。オズが生まれたのはそういう場所だった。けれど、そこはあらかじめ定められた『運命』に支配されていて、歴史は作られる前からおよそ決まっていた。それに反抗し、すべての未来を人間の手に取り戻そうとした英雄が、真夜中と呼ばれた青年だったとオズは記憶している。オズもまた彼に賛同し、一応は真夜中の側が勝ちを求めた。けれど、運命を倒しきることはできず、また真夜中も帰らぬ人になった。
 まるで出来の悪いファンタジー小説のような出来事をオズはその目で見ていた。その後、いつしか復活するであろう運命律を今度こそ倒すため、『英雄』を復活させようとする試みが起こった。その組織こそ、オズが所属する十三夜騎士会である。
 十三夜騎士会の支配する組織《ユグドラシルユニット》は、世界の調停人・完全なる中立者を自称し、各地で起こる企業間の様々なトラブルの仲裁、時にはあきらかに企業法に抵触する行為を行う企業への制裁活動を行う民間調停機関である。表に出てからの歴史は浅いが、遥か昔から存在していた秘密結社であるとされる。色々と噂があるものの、この世界の人間なら誰もが知る組織だ。
 だが、その裏にある《十三夜騎士会》は違う。ユグドラシルユニットのトップすらメンバーの一人とする十四人の人間からなるこの組織は、表向きも裏向きも存在しないことになっている。ごく一部の人間以外は噂を知ることすらなく、近付き過ぎれば消されてしまう。そういう意味で、正真正銘の秘密結社である。
 十三といっているが、番外であるオズを含め14のメンバーからなり、盟主の座は空席となっている。事実上のトップは、オズと同じく神話から生きている巫女・イガである。一応はこの騎士会に名を連ねているオズにとっては、形式上は上司ということになるのかもしれない。だが、オズの認識では古い知人で友人だった。
 そう、友人『だった』人だ。
 囚人となった日に、その関係は終わった。



「………………」
 不意に意識が戻る。オズはゆっくりと瞳を開いた。
 目を開けると飛び込んでくるのは灰色の天井と殺風景な部屋だ。望めばもう少しくらい部屋にものを増やすことはできるかもしれないし、この環境であってもほしいものを手に入れる方法くらい知っている。ほしいものがほとんどないだけで。
 囚われているか自ら籠っているかの差こそあれ、オズとイガの環境はそれほど変わらない。イガもまた、『神殿』と呼ばれる場所からほとんど出ず、ひたすらかつての主の復活だけを望んでいる。オズは望みすらなく、ひたすら敬愛する義父のことだけを思いながら無限に近い時間のほとんどをまどろんで過ごす。
 どちらも、自身の『愛』に囚われている。
「分かっていますよ。私が悪いんです。けれど」
 誰もいない部屋に声が響く。人間という生き物は一日十五分以上は人間と会話した方がいいというが、オズの環境では中々それも叶わない。オズでなくても一人ぐらしの人間だとそうなりがちなのではないかと思う。だからきっと、それを補うために一人でいると独り言が増えるのだ。
「でもねぇ、親切なんて結局は自分のエゴじゃないですか。私は私なりに結論を出したんですよ。その結果がこれだとしても」
 オズは目を閉じた。自分ではみえないが、閉ざされた瞳は濁った灰色をしているはずだ。直前に見えた髪は銀髪ですらない白髪。これも長い時の中でオズが失ったものの一つだ。かつては、闇でも夜でも影でもない奇妙な黒色と称された瞳も今は濁っている。
 きっとこの色は魂の濁りだ。ぼんやりと考えながら、オズは再び過去の夢に堕ちた。
 ……………………


 真夜中はもう復活しない。
 オズがそう確信を抱いたのはいつごろからだったか。失敗で何人もの命が失われた頃だろうか。それともイガが悠久の時の中で少しずつ消耗していく姿を見たからだろうか。あるいは、義父がイガと決裂の道を選んだ時だろうか。
 いつの間にか、オズは真夜中の復活を信じなくなっていった。
 失ってしまったものが、そのままの形で蘇ることなんてありえない。蘇ったとしても、それは元と同じだけの何かであって、そのものではない。待ち続ける行為にも、作り出そうとする努力にも意味はない。
 一度気付けば、子どもでも分かる。自分たちは間違ったのだ。努力は報われなかったのだ。そう思った瞬間から、仲間たちとの間にどうしようもない隔たりを感じるようになった。それはイガに対しても例外ではなかった。
 イガは毎日、真なる真夜中の復活を渇望する。昨日もそうであったし、今日もそう。きっと明日も明後日もそうなのだろう。
 自分にとって永遠は苦痛だけではない。大好きな人とずっと一緒にいられる時間は苦痛より重い。けれど、大好きな人を待つ時間はどれだけ苦しい時間だろう。まして二度と戻らない人を待っているとしたら、その時間に意味などあるのだろうか。
『イガ、調子はどう?』
 オズは、毎日イガの様子を見に行った。いつ見ても彼女は彼女のままだった。なのに、気のせいだと分かっていても、彼女が目に見えて欠けていくような気がする。
 その日もイガは眠っていた。いつもと同じように、嘘みたいに綺麗に。
『…………イガ? また眠っているの?』
 話しかけても返事が返ってくることはここ数千年で随分と減った。イガは多くの時間を眠るようにして過ごす。時おり言葉を発しているが、多くは意味のない呟きだ。その中に、まれに真夜中に関係する言葉をみつけて、その度に悲しくなる。
 この世の終わりまで、彼女はこうして彼を待ち続けるのだろうか。
『永遠に待ち人の来ない時間なんて苦痛でしかないのかもしれないね』
 真夜中と呼ばれる彼は消滅した。輪廻というものは一応あることにはあるらしいが、消えてしまったものはもう戻ってこない。輪廻にしたところで、その人を構成していたエネルギーその他が色々とめぐって再び生物を形成するという意味合いであり、別に本人が返ってくるわけではない。
 輪廻という意味でなら、かつての知人は次々と転生してはいるらしい。けれど、構成要素が同じだけの他人に興味などない。あるとすれば、妹である篭森珠月くらいだ。あれは間違いなく、オズ自身の生まれ変わりだ。長い時を経て欠けた魂がどこかでエネルギー循環にのって次の生命を構成する要素の一部になったのだろう。
 魂は巡る。でも存在も心も巡らない。消えるだけだ。
『イガ、あの人はもういないんだ』
 触れた髪はさらさらしていて、生き物の手触りがする。肌もはりがあって美しい。身体の劣化は最低限に食い止められている。下手をするとオズ以上に。けれど、心はそうではない。心と魂は日々擦り減っているはずだ。
それでも彼女は待っている。
『…………いないんだよ』
 死んでも、天国でも地獄でもまして現世で彼に会えることはない。けれど、死によって人は終わる。すべてはリセットされ身体も魂も分解される。そして分解されたそれらは未来でまた、世界をめぐって形をなす。生まれ変わったとすれば、すべてをリセットして普通の人生を送れるかもしれない。
 いっそのことすべてを終わらせることができたのなら――――彼女の心は救われるのではないだろうか。
『――――ごめんね、してやれることが思いつかないんだ』
 イガは眠っているようにみえた。周囲を見渡して、室内に人がいないことを確認すると、オズはゆっくりとイガに近付いた。現在では組織の最高峰であり、過去にあり今にあり未来にあるとされる巫女。その首に手を伸ばす。
 これくらいで死ぬだろうか。彼女は死ねるだろうか。少しだけ疑問が過る。オズは死ねない。首をくくっても、腹を割いても、電気を流しても、水に沈めても、死なない。死ねない。
 彼女はどうだろう。死ぬだろうか。死ねばいい。
 首に手が触れる。躊躇わず、血管を押さえて絞めあげた。普通なら数分もあれば完全に殺せる。イガの顔が眠ったまま苦悶の表情を浮かべた。オズは力を強める。うっすらとイガの目が開いて、オズは動揺した。
『ごめんね。すぐに済むから。彼のところに送ることはできないけれど――もう、全部終わりにしよう。貴女はもう眠るべきだよ』
 言いわけするように、オズは言った。状況を理解したイガが激しく抵抗する。オズは慌てて力を強めた。けれど、イガが暴れるせいでうまくできない。
『オズ』
 オズの手を引きはがそうともがきながら、イガはまっすぐにオズをにらんだ。その眼光にオズはかすかに怯む。
『貴女は――――私だけを諦めさせるおつもりですか?』
『……どういう意味?』
 罵られるのは覚悟していた。泣き叫ばれるのも覚悟していた。けれど、イガの唇からこぼれたのは予想とまったく違う言葉だった。オズは戸惑う。
『意味が……分からないわ』
『いきなり何に絶望したのかは知りませんが、貴女の絶望に私を巻き込まないでください。盟主守護ともあろうものが何たる失態。絶望して死にたいなら、一人で死になさい』
 この期に及んでも、イガは凛とした美しさを持っていた。頭ごなしに怒られて、オズは反射的に身をすくめる。
『…………真夜中への敬意と忠誠が揺らいだ訳じゃない』
『どうだか。貴女は昔から、何より自分と父親が大好きでした。初めに裏切るなら貴女だと思っていましたよ』
 友だと思っていた相手の言葉は容赦なくオズに突き刺さる。けれど、考えて決めたことを簡単に撤回するほど、オズも単純ではない。
『イガ、私は彼が好きだったよ。敬意を持っていたし、好感も持っていた。彼以上の英雄は存在しない。今ここに彼が現れたとしたら、彼のために私は何だってするだろう。けれどね、イガ。彼は死んだ。私にとって彼は偉大な人ではあったけれど、すべてではなかった。けれど、貴女にとって――――彼はすべてだったじゃないか』
 途方にくれたようにオズは呟いた。正しいと決めたことのはずなのに、イガを見ていると何かが揺らぐ。
『すべてだったものが永遠に失われた世界で――貴女は何を願うというの? 私はもう貴女を見ていられない。彼はもういない。いないんだよ……』
 オズの顔は泣きそうな顔をした。
『だって――――彼は死んでしまった』
『関係ありませんよ』
 激昂すると思ったイガは、驚くほど穏やかな声で答えた。オズは目を見開く。イガは微笑んでいた。
『貴女は何も分かっていません。彼に会えないことなんて、私が一番よく知っています』
 オズは目を見開いた。手が震える。
『そんな……なら、何故……?』
 理解できない。いないと分かっていて、戻らないと理解していてそれでも待つなんて――――そんなものは希望ですらない。ただの拷問だ。だが、彼女はそれを望むという。
『そんなの悲しいだけじゃないか!』
『ええ。彼が復活する望みは薄い。けれど、私が死ねばそれこそあの人に会うチャンスは永遠に失われてしまいます。私はそれが怖いのです。彼に会えずに死に、しかも死ねば私は彼のことを忘れてしまう。永遠に彼は手の届かない存在になり記憶としてさえ消え去ってしまう。貴女は――――そんな絶望に私を落すつもりですか?』
『気付かないなら、それは喪失にはならない。忘れることの何が悪いの?』
 喪失が苦しいのは失ったことに気づくからだ。初めからなかったようなふりをしていれば傷つくことはあまりない。だから人は死んでリセットしたがるのだ。だが、オズの幼稚な考えを嘲笑うようにイガは微笑んだ。
『貴女は私が死ぬことに希望を見出している。だから、そんな残酷なことができるんです。貴女にとっての希望が、私にとっての絶望になることを分かっていない。自ら死ぬ人間というのは、希望があるから死ねるのです。死んで逃げられる、死んで誇りを守れる、誰かのために死ねるという希望が。それすらない私は、生きて生きて生きて――――生き続けることでしか、希望できません』
『そんな希望ならないほうがいい……貴女はまだ死ねるのだから』
 うめくようにオズは答えた。だが、指からは完全に力が抜けている。それでも手を離すことはしないのはただの意地だ。途方に暮れたようなオズに、イガは語りかける。
『貴女にもいつか分かる日が来ます。それなくしてはいられないものが手元から転がり落ちた時、人は喪失に耐えきれなくなる。それに再び触れるチャンスがあるならば、何があってもそれを手に入れようとする。その手段がいかに非合理的で、滑稽で、残虐であっても、それに望みがある気がしてしまった瞬間、やらずにはいられなくなってしまう』
 首を絞められているのは自分のほうだというのに、イガは憐れむような顔をしていた。
『貴女はまだ、満ちてはいなくとも足りている。いつか貴女も足りなくなる時が来る。その時に意味が分かりますよ』
『そんな姿になって何を言っているの?』
 オズは叫んだ。再び指に力を込める。頬を何かが滑り落ちて、オズは自分が泣いていることに気付いた。悲しいのか、悔しいのか、自分でもよくわからない。
『巫女としてこの場所でしか生きていられない。それでも魂の欠片は日々こぼれおちていく。彼が復活する見込みなんてない。気付いているの? 私たちが何をしているのか』
 金色の瞳がオズを見る。自分はこんなに色あせた色になってしまったのに、イガはまだ美しい瞳の色を保っている。
『怨嗟の声が聞こえるでしょう? 私たちは今や世界を影から支配している。支配する気があるわけではないかもしれないけれど、絶えず世界に干渉し、どこかの誰かの運命に影響を与え続けている』
『それが?』
 イガの目は穏やかだ。オズは泣きそうになる。目の前にいるのに、遠い。
『ねえ、私たちはかつて私たちが倒した「神様」たちと同じことをしているんじゃないの? あれほど他人に人生を左右されることを拒み戦争まで起こした私たちが、いまやかつての敵と同じことをしている。そう、今では私たちこそが運命を操る“世界の敵”だ!!』
 組織の根幹に関わりかねない問いかけ。しかし、穏やかにイガは答えた。
『だから、諦めてしまうのですか?』
 自分の首を締めようとするオズの手をイガは必至で掴んでいる。諦める気はまったく見られない。
『それくらいのことで諦めましたか? 貴女は』
 逆に問い返される。オズは言葉に詰まった。
『諦めなかったでしょう? 蔑まれても疎まれても忌まれても貴女は諦めなかったから今の場所にいる。私が彼とともにあった頃にも批難は色々ありましたよ。道を見失いそうになったことも数回ではありません。けれど、諦めることはできないのです』
『得るものがないと分かっていても?』
『ないと何故貴女に言い切れるのですか? 仮になかったとしてもそれは諦める理由にはなりません』
 イガは自分の首を締めようとする手を押さえていた手を伸ばして、逆にオズの首を軽く締めた。
『貴女は私よりはるかに偏執的で禁忌の垣根が低い。予言して差し上げます。貴女もまた、私と同じように他人が見たら「狂っている」と思うような所業に手を染めて、お節介な他人に首を絞められることになりますよ』
 その時、背後で大きな音がした。驚いてオズ振り向くと、いつの間に部屋に入ってきたのか騎士の一人が茫然と立ちすくんでいた。
『オズ? 何をしているんだ、オズ!?』
 オズの手はいまだにイガの喉元にかかっている。
『裏切り者!!』
 批難の声が響き渡った。立ちつくすオズの前で複数の刃物が交差する。
『人間は絶望では死ねないのです』
 予言のようにイガの声が響く。自分より少なくとも数百年は年下のはずの少女――の姿をしたものを振りかえって、今度こそオズは途方にくれた顔で項垂れた。
『私は――――少しだけ、死にたいよ。イガ』
『人は絶望では死なない』
 言い聞かせるように声が響く。
『けれど、希望のためなら喜んで死んでしまう。そういう生き物です。希望のために、人はどこまでの醜悪に、残酷になれる。貴方はまだ、それを知らない。すべてであるなにかを失ってはいないから、知らない。まだ、ね』
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