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 風が吹いている。
 複雑な形をした建物が立ちならぶこの都市は、ビル風が強い。
 帰ってきた。ニムロッド本社ビル屋上ヘリポートに降り立った織子はそう思った。自分が生まれ育った都市。父が死んで逃げ出すまではずっと暮らしていた街並みだ。見慣れたものだ。だが、今はそれが自分に敵意を持っているのが分かる。
「……警戒しなくとも今更何かをしたりしません」
 むすっとした口調で出迎えた社員が言った。あきらかにこちらを歓迎していないのが分かる。雫は相手が怯むほどの迫力でにらみ返し、ジェイルはそもそも相手を眼中に入れていない。ヘリポート全体に視線を彷徨わせている。どうせ、今ここで銃撃戦が起こった場合の脱出ルートの計算でもしているのだろう。
 これくらい心が強くなれればなんでもできるんだろうな。織子は思った。
「事故なくて何よりですねぇ、黒雫殿たち」
「ええ。事故が起こらないか心配するあまり、昨夜飛行場に忍び込んで安全点検までしてきたかいがありました」
 どこから突っ込んだらいいのか分からない会話が聞こえた。忍び込んだんかいとか、なんで飛行機なんて精密機器の塊を点検する技術を持ってるのかとか、色々と突っ込みたいところがあったが、織子はあきらめる。どうせ、学校で習ったとかそういうところだろう。あの学園の知的レベルの高さと異常性はそれこそ折り紙つきだ。
 ちらちらとこちらを警戒するような視線が飛んでくる。織子はそれから逃れるように顔を伏せた。
「堂々としていればいい。開き直れ」
 囁かれて顔を上げると、憮然とした表情で社員だか護衛だか分からない男たちとにらみ合っていた雫が一瞬だけ視線をこちらに向けた。ジェイルの方はすでに注目すらされていない。あれだけ目立つ人間が注目を集めていないというのは妙な光景だ。
 屋上から入った社内はやけに人気がない。人払いをしてあるのだろう。織子は背筋を伸ばした。人払いの意味までは分からないが、ここが最後の踏ん張りどころだというのは分かる。ここで何か失敗したら、今までかけた苦労をそれこそ台無しにしてしまう。
「どこに行くんですか?」
「社長室です」
 先導する社員に声をかけるとそっけない返事が返ってきた。萎縮する織子に代わって、雫が口を開く。
「そんな場所に金庫? 分かりやすすぎませんか?」
「分かっても開かないなら意味がありません」
 互いに探り合うような会話が続く。早くも空気は最悪だ。視線だけであまり喧嘩を売らないでほしいと訴えてみるが、雫はこちらを見ていないので視線が合わず、ジェイルはにっり微笑んでスルーした。織子はがっくりとうつむく。この味方は、味方だが織子のお願いは半分くらいしか聞いてくれない。こちらに差し出せるものがない以上、半分でも多いくらいなのかもしれないが。
 人気がない、そのくせ物々しい空気の廊下を通って、見覚えのある場所に出る。父の生前は何度もきた社長室だ。その奥に金庫があることも知っている。自分が鍵として登録されていることまでは知らなかったが、開け方もなんとなく予想がつく。
 扉を開けると、嫌味になる寸前まで飾り立てられた部屋が飛び込んでくる。
「悪趣味」
 ぼそりと雫が呟いたのが聞こえた。同意見だったので、織子は黙っておく。社長室とか会長室というものは、質実剛健を貫くか飾り立てるかの二者択一が多い。権威や会社の方針を示す場所でもあるのだから仕方ないのかもしれないが、それでも好きになれそうな空間ではない。
 今どき珍しい紙の本や電子媒体が詰まった書棚と大きな机。高級品と一目で分かる応接セット。それらと反対側の壁にかけられた大きな絵が外されていて、そこに金属製の扉が露出していた。一見すると金庫というより緊急脱出口に見える。
「おや、ミヒャエル君ところの作品だ」
 ぼそりとジェイルが呟いた。織子は振り向く?
「ミヒャエル? 篭森さんところの給仕さん?」
「彼の本業は、給仕ではなく建築家です。特に隠し金庫に定評があります」
 雫が呆れた顔で説明した。
「もっともこれは本人の作品ではなく、事務所の作品のようですが」
「ミヒャエルご本人が神々が大地を作るように無から作り上げた唯一のものなら、かるく億はいきますからね」
 すごい金額が聞こえて、織子は青ざめた。今更ながら、とんでもない人にお茶を入れてもらってとんでもない相手とお茶会をしていたのだと気付く。
「なるほど。これはそう簡単にはこじ開けられませんね」
 うんうんと雫は頷いた。織子には良く分からない感覚だが、彼の中では何かが合点したらしい。
 咳ばらいがして、慌てて織子は視線を正した。ぼそぼそと私語をしている織子たちに、苛立った視線が向けられる。金庫のわきに仁王立ちになっている取締役たちだ。全員ではないが、三分の一くらいはいる。
「よろしいかな。これ以上の話し合いは時間の無駄。まずは金庫を開けて貰いましょう。これが開かないせいで進まない仕事がいくつもある」
「それもそうですね」
 雫はちらりと織子を見た。視線だけで前に出るように告げる。織子がおそるおそる踏み出すと、人がきが割れて金庫への道が出来た。
「認証は簡単です。鍵を差し入れてから、指定の場所に手をおいてじっとすればいいですから」
「鍵?」
 無言で護衛らしい格好の男がカードキーを差し出す。織子はそれを受け取ると金庫に近付いた。背中に視線が突き刺さる。近くで見た鉄の扉は本当に頑丈に見えた。難の金属でできているのかまったくわからない。
 つるりとした表面にはほとんど突起がない。監視カメラを気にしながら、織子はカードを差し込む場所を探した。そして、自分の胸よりやや低い位置に細い隙間があるのに気付く。気をつけないと見落としそうな隙間だ。丁度、カードをと同じくらいのそれに、そっとカードキーを滑り込ませる。改札の機械のようにあっさりと、金庫はカードを飲みこんだ。次の瞬間、平らだった金属の扉が左右に割れ、膨大な量のレンズが飛び出す。ぎょっとしたように周囲の人垣が引いたのが分かった。織子も驚いたが、驚き過ぎて逃げるという発想すら出てこない。その間によくわからない機器が稼働して電子音を立てる。
『お名前をどうぞ』
 電子音で呼ばれて、織子は跳び上がった。ワンテンポ遅れてそれがセキュリティシステムだと気付く。大きく息を吸うと、織子は答えた。
『織子。神立織子』
『了解。認識しました』
 甲高い電子音とともにカメラのレンズが収納されていく。ややあって、あっけない音とともに扉が観音開きに開いた。驚いたことに人間が通れるくらいの通路が現れ、奥は普通の部屋になっている。
「へ? 開いた?」
「開いたぞ!」
 叫び声を上げて真っ先に飛び込もうとした取締役の首根っこを黒雫が捕まえた。驚いた取締役は悲鳴を上げる。
「何をする? 私を誰だと」「危ないですよ」
 面倒くさそうに雫は答えた。やたらと通りのいい声に、部屋は静まり返る。
「ミヒャエル・バッハの凝り性はよく知ってる。過去に作った商品には、鍵が開いたからといって鍵役の人間より先に飛び込むと、強盗と判断して撃退する機能がついているものもあった。不用意に飛び込むな」
 今度こそ部屋の空気が凍りつく。そして、視線がゆっくりと織子に向いた。嫌な期待を感じた。
「……私が入るのね?」
「大丈夫ですよ、七夕の姫君。貴女に危害が及ぶことはありません」
 自信満々にジェイルが言う。織子は疑惑の視線を向けるが、いつも通りかえってくるのはあいまいな笑みだけだ。
「平気ですよ。何かあったら助けてくれます。ジェイル先輩が」「雫さんは!?」
「…………僕よりジェイル先輩のほうが確実ですよ。きっと」
「面倒くさいのね……」
 大勢でいるときに感じる孤独というのはこういうものだろうか。織子は遠い目をした。
「危なくなったら」「助ける」
 こっくりと雫は頷いた。それを確認して織子は歩き出した。その後ろから距離を置きつつ、取締役がついてくる。
「…………カルガモの御散歩ですね」
 絶妙なタイミングで、ジェイルが感心したように呟く声が聞こえて、織子は足を止めた。続く取り締まり役も足を止める。振り返ると、雫が明後日の方向をむいて肩を震わせていた。
「……私、真剣なんだけど」
「ジェイル先輩も真剣だと思います」
 口元を引きつらせたまま、雫は答えた。ため息をついて、織子はまた一歩前に出る。金庫の中に入ると足元の質感が変わった。あまり踏んだことのない妙に柔らかい感触だ。金庫全体の大きさは6畳ほどだろうか。正面と右手に棚があり、そこには本やディスクが仕舞いこまれている。左手にはガラスケースがあり、高そうな貴金属がおかれている。中央には背の低いテーブルがぽつんと置かれていて、封筒が乗っている。
「権利書は!?」「新たな遺言の類は!?」
 出口から織子を伺いながら、取締役たちが叫ぶ。織子はぐるりと部屋を見渡した。そして、中央のテーブルから封筒を持ちあげる。
「……織子へ」
 そう書いてあった。それを聞いた何人かが金庫に踏み込んでくる。全員が封筒に手を伸ばしたが、指先が触れる前に雫に金庫から叩きだされた。神がかったすばやさだった。
「ありがと」
「開ければどうですか?」
 ふいと雫はそっぽを向いた。織子は頷いて、慎重に封筒を破る。予想に反して中に入っていたのは遺言でも権利書でもなかった。
 直筆の手紙だった。そこにはもし自分が死んだらという胸と織子を気遣う言葉、それから遠縁の親戚への連絡方法が書かれていた。
「……それだけ?」
 織子が手紙を読み上げると、拍子抜けしたような声が返ってきた。織子はうなづく。
「金庫内のものは会社のものだそうです。権利書はここにはありません。私へ父の個人資産の相続が終了したら、私の代理人から返還されるそうです」
「…………あのくそ爺」
 取締役は唸った。ジェイルと雫は顔を見合わせる。
 つまり、杞憂だったのだ。織子の父親に、娘に跡を継がせるとか会社の金をかすめるつもりはなく、ただ後ろ盾のない娘にちゃんと遺産相続が渡るように保険として会社の権利書類を質にしたのだろう。織子が無事に保護されなくては金庫は開かず、金庫が開かなければ書類は見つからず、そして織子が無事に相続を済ませればまるくおさまるように。それを取締役たちが勘違いしたのだ。
 だが、これで勘違いしないほうがおかしい。
「……くそ親父」
 こんなことで死にかけたり他人様を巻き込んだのかと思うと、ふつふつと怒りがわいてきた。織子は手紙を真っ二つに引き裂こうとして、両側から腕を押さえられた。
 右手は雫が握っている。左手はジェイルが掴んでいる。
「駄目だ」
 宥めるように言われて、頭が急速に冷える。織子は皺がよった手紙を見下ろした。
「この世には、伝えられない言葉があふれている。その一部を届けて伝えてくれるのが文字だ。文字は大事にしなくては駄目だ。誰かの言霊が残した遺言なのだから」
 言い含めるように雫が囁いた。奇妙に落ち着いた瞳の色に織子は落ち着かなくなる。今は、誰が出てきているのだろう。
「濁流がぶつかれば飛沫を上げて飛び散るように、感情だけで動いてしまえば相手も自分もばらばらに壊してしまいます。どうか心を凪のように沈めて、思う人の心を空のように穏やかに受け止めてください。お父様は、貴女に何がしたかったのか」
 たたみかけるようにジェイルが続ける。織子の手から力が抜けた。右手で手紙を掴んで、織子はぶらりと手を下ろす。
「…………お父さんはどうしようもない。こんなに迷惑かけて、死者まで出して、大騒ぎにして。それが何? 目的はただ私に遺産を残したいだけ? 身勝手にもほどがあるわ」
「はい」
 穏やかな声が返ってくる。肯定の言葉も否定の言葉もない。
「最悪。何でこんなことになったのかしら」
「何故でしょうね」
 周囲ではすでに別の動きが起きている。あわただしく倉庫内を調べるもの、別紙に記載されていた代理人とやらへ連絡を入れる者、茫然とする取締役と織子をしり目に沢山の人間が駆けまわる。
「…………私、どうなるの?」
「どうしたいですか?」
 織子の疑問に、疑問が返ってくる。織子は首を横に振った。
「分からないわ」
「とりあえず、財産は当初の通り。頑張れば今日中には家財道具の輸送と相続の手続きが終わるでしょう。ここは企業都市。無理は通ります。後は、好きなように」
「好きに?」
 織子が顔を上げると、雫は肩をすくめて見せた。ジェイルは黙って微笑む。
「俺たちが用意した亡命先へいくか、流浪の民になるか、自分で行き先を探すか――――親父さんの望み通り、遠縁とやらに連絡を取ってみるか」
 織子は手紙に視線を落した。見たことのない名前と住所が丁寧に書かれている。知らない名前。知らない土地。でも、名字は同じだ。織子と父の名字だ。
「……こんな手紙」
「僕には」
 小さいが通る声で、ジェイルは呟いた。
「僕には“こんな手紙”ではなく、不器用な父親が何よりも愛しい娘に当てた思いやりと愛情の痕跡に見えますけれどね。血のつながりというものが、動物としての人間の本能と遺伝子の働きにすぎないのだとしても、やはり断ち切ることのできない繋がりはあるのだと思いますよ」
「私は……」
 思い出すのは眉間にしわを寄せた顔と机に向かう背中。関わらなかった。関わろうとしなかった。父というものは織子にとって『そういうもの』であって、それ以外ではなかった。父親もきっと織子をそう思っていると思っていた。けれど、けれど――――
「今すべきは怒ることなのか? 確かにお前の父親は相当なあほで、しかもやることが完全に裏目に出ている。下手すら父親の余計な御世話のせいで死んでいたかもしれない。けれど、父親はお前のことを思っていたはずだ」
 思っていたのかどうかなんて、こんなちっぽけな部屋と短い手紙からは分からない。きっと生きて今目の前にいたとしたって分からないだろう。そして、死んでしまった以上、私が死んでも答えは出ない。
「お前がするべきことは悲しむことだ。もう、悲しんでいいんだ」
「……悲しい」
 父が死んだ時悲しくなかった。私の世界を構成していた糸がぶつりと断ち切られたという大事件なのに、浮かんだのは悲しみより戸惑いだった。悲しくなんてない。私は父の死を悲しまなかったはずだ。
「悲しい……ない。悲しいわけがない」
「じゃあ、何でお前は泣きそうな顔をしてるんだ?」
 自分の顔は自分ではみえない。織子は開いている手で自分の顔を触った。酷い顔をしているのだろうか。触っても分からない。
「………………私は」
 ふいに涙があふれた。悲しみではない、けれどそれ以外の何かでもない言葉にできない思いがせり上がってくる。父が死んで、逃げ出して、捕まって、助けられて、世界が広がって、殺し合いに巻き込まれて、交渉して、戻って、そして今ここにいる。短い間に経験したすべてが湧きあがってくる。織子はその場に崩れ落ちた。
「お父さん…………」
 父はもういない。その縁はもう繋がらない。けれど、父がいなくなったことで織子の世界は大きく動いた。沢山のものと繋がり合った。
「お父さん!」
 父はいない。雫がいる。ジェイルがいる。父の残した何かがある。織子がいる。
 産まれて初めて、何かと繋がった気がした。
「本当に……馬鹿よ」
 無言で雫が頭を撫でてくれた。無表情な仕草が妙に優しくて、織子はますます泣き崩れた。