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ties 8

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kagomori

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 暗い本物の空の下、いくつもの明かりがともっている。夜景と呼ぶには華やぎに欠ける光を見下ろして、織子はため息をついた。部屋にはジェイルだけがいる。雫はどこかへ出かけていった。明日の準備をしているのかもしれない。
「明日金庫を開けて、もろもろの手続きを行って……それで終わりなのね」
「身柄は保障します。向こうも外聞が悪い真似はしないでしょう。明日、無事に過ごせば貴女は自由ですよ、七夕の姫君」
 にこりと硝子に移ったジェイルが微笑む。織子はゆっくりと振り向いた。離れた場所でジェイルが椅子に座っている。紳士らしく、いつも部屋で二人きりの時は距離をとって座っている。
「僕たちともさようならですね」
「寂しいわ。なにもお礼をできていないのに」
 織子は呟いた。別れても会おうと思えば会える。けれど、会うほどの理由も縁も織子と彼らの間にはない。離れてしまえばたちまち疎遠になるだろう。そう考えると寂しい。
「寂しいですね。巡る歯車と回る螺旋は世の常とはいえ、交わった道が離れるときはつらく寂しいものです」
 予想外の返事が返ってきた。振り向くとジェイルは笑っていなかった。どこか遠い目をして呟く。
「迷惑でなければ、貴女の歩む道が穏やかになりましたら、黒雫殿たちに言霊を文字に刻んで送って差し上げてください。喜びます」
 メールを出せということだろう。織子は頷いた。そして、首をかしげてみせる。
「それはいいけど、ジェイルさんは?」
 そこは普通、自分が手紙を書くとかメールを送るとかいうものではないだろうか。織子が尋ねると彼はあいまいに笑みらしきものを浮かべて見せた。
「僕は結構です」
 そう言って首を横に振る。織子は小首を傾げた。
「なぜ?」
「どうせ貴女は、僕のことを覚えていられません。時の砂が伝い落ちるのに合わせて、僕の面影も記憶の小箱から消え失せてしまうでしょう」
 さらりとジェイルは言った。予想の斜め下をいく返答に、織子は目を丸くする。
「失礼なこと言わないで。私、恩人を忘れるほど恩知らずじゃないわよ?」
 次に湧いてきたのは怒りだった。迷惑かけ同士で友人ですらないとはいえ、あんまりな良い方だ。顔を赤くして怒る織子を見て、今度はジェイルのほうが目を丸くした。そして、何かに気づいたように頷く。
「貴女の記憶力や礼儀を疑っているわけではありません」
 苦笑を滲ませてジェイルは答えた。奇妙に穏やかな声に不吉に近いなにかを覚えて、知らず鼓動が速くなる。
「記憶、できないんです。僕と道が交わった人間であっても、誰も僕のことは覚えていられません。定期的に接触している人や十数年以上付き合いのある人はともかく、そうでない人は離れると数日から数週間で僕の存在を忘れるか、あるいはそもそも思い出そうとしなくなる。僕はそういう存在なんです。夜明け前に見た夢のように、たちまちまぎれて消えてしまう」
 秘密の話をするかのように声をひそめてジェイルは言った。口調はいたずらを教えてる子どものようだが、言っている内容はあまりにも突拍子もない。
「それって……能力の……?」
 思い当たることはただ一つ。
 現代の魔術師、この世に残った唯一の魔術と呼ばれるミスティック能力は、お伽噺のように便利な代物ではない。まず、意味のない能力が多い。次に能力自体に条件やリスクが多く、使い手自身が代償を払わなくてはいけない場合もある。
 織子は過去、『草を元気にする』とか『周囲にいる猫を集める』など、意味が分からない能力を持つミスティックに会ったことがある。その程度の能力でも、媒体となる物体などが必要であったり、使った後ひどく疲れたり、回数制限があるなどの条件とリスクがあった。ならば、『自分を視界に収めたあらゆる人間の認識に割り込む』などという規定外の能力には、どれほどのリスクが必要とされるのだろう。
「副作用ではありませんよ? ミスティック能力の強さとリスクは必ずしも正比例はしません。これは元々能力に含まれている作用の一つなんです」
 きっと青い顔をしていたのだろう。気遣うようにジェイルは言った。
「能力……セーブできないの?」
「しています。が、完全に抑えることは僕自身にもできないんです。似た能力の持ち主の中には、完全に自分を『どこかの誰か』にしてしまい己の存在を絶対に感知させないような人もいるらしいですが、僕は能力をセーブしているのでそこまではいきません。僕がいる、いたということはみんな覚えていますよ。けれど――――」
ジェイルは言葉を切った。寂しげな笑みがその顔に浮かぶ。
「ねえ、貴女は楽しい旅行に行ったとしてそこの宿の畳の枚数なんて覚えていますか? いないでしょう? 僕はそういう人なんです。いるときは容易く馴染み、いなくなると忘れられてしまう」
「私は忘れない」
 ジェイルはゆっくりと立ち上がった。そして、織子の前まで移動して立ち止まる。ジェイルが手を持ちあげたので織子は身構えたが、その手は織子の頭の上に置かれた。
「ありがとう御座います」
 短い言葉の中に拒絶を読みとって、織子は目を伏せた。離れようとする手を咄嗟に掴む。
「……忘れたとしても、きっと心では覚える。助けてくれて、本当にありがとう」
 寂しげにジェイルは微笑んだ。なんとなく気付く。彼は真剣に話そうとする時、言葉に装飾が少なくなる。そうすると、まともな人に見える。
「同情しないでください。仕方がないことです」
 泣きそうな顔をしていたのだろう。慰めるようにジェイルは言った。手がもう一度頭に伸びて、髪をすく。
「仕方のないことです。もうとっくの昔に諦めはついていますし、孤独というわけではないんですよ。良き友人たちはきちんと僕を覚えていてくださいますしね」
「私は忘れたくないよ?」
 困ったような顔でジェイルは微笑んだ。つらいのはそちらのくせに、気遣うような顔をしているのがムカつく。
「申し訳ありません。忘れて寂しいのは、忘れてしまう方でもあるのに……僕ばかり心配をおかけして」
「忘れない」
 織子は叫んだ。不安になる。たった数日一緒にいただけなのに。
「ほら、写真を取るとか、手紙を書こう。メールじゃなくて手紙。あとは……なにか記念になるものを買うとか」
「無駄ですよ。いずれそれも、なぜ買ったのか誰との写真なのか分からなくなってすぐにどうでもよくなります。それに覚えておいて楽しい出来事でもないでしょう」
 柔らかな口調で、だがきっぱりとジェイルは拒絶した。
「どうぞお父上の思い出を大事に、僕のことなんて忘れてしまって幸せに生きてください」
 ジェイルの手が織子の頭から離れた。織子はジェイルを見上げる。綺麗な顔だ。だが、こうして見つめていても油断すると意識がどこか別の方向を向いてしまう。
「ジェイルさんも幸せになりますよね?」
「僕は幸せですよ。友人がいて、仕事があって、好きな人がいて、幸せです」
 ジェイルは本当に幸せそうに笑った。そのことが返って織子の胸を締め付ける。
 きっとこの人は、不幸や孤独を知らないんだ。知らないから、気付けない。
「泣かないでくださいね。同情というものは、毒です。知らないうちに身の奥に染みわたる。同情しないでください。僕は不幸じゃありませんよ」
「それが寂しいのよ」
 織子は呟いた。ジェイルは困ったような顔をする。
「……雫さんも忘れてしまうの?」
「千里の馬でも駆け抜けることができないほど遠く離れてしまえば、12の月が残らず巡る間には必ず」
「篭森さんもご両親もみんな?」
 だとしたら、なんて寂しい人生なのだろう。けれど、ジェイルはくすりと笑った。大丈夫だと顔が言っている。
「両親はちょっとよく分かりませんが、月の姫は忘れずにいてくださっていましたよ」
 織子は目を見開いた。ジェイルは照れたように笑う。
「諸事情で二年近く顔を合せなかったことがあったのですが……顔を合わせた瞬間、歓声を上げて出迎えてくださいました」
「うん……悲鳴を上げられたんだね」
 シリアスな空気がぶち壊しになった。本気で嫌がる珠月の姿が目に浮かぶようで、織子は誰に同情すればいいのか分からなくなる。
「でも、篭森さんが記憶できるなら私だって……」
「僕の能力は視覚と結びつきが強いようです。月の姫はどうやら自身の視覚以外の感覚でも周囲を見ることができるようで、それに加え僕に関して特別な感情を抱いていること、関係性が子どものころから続いていることなど諸々の事情がうまく組み合って、奇跡的に能力が効きにくいようです。他にも二名ほど能力がほとんど聞かない相手に出会ったことがあります。そもそも視力が一切ない人間には能力が通用しません。けれど、普通は無理です。精神力の強い方ならまだましなんですが……」
 言外に織子では無理だと伝えてくる。食い下がろうとして、織子はあきらめた。なんとなく何を言っても無駄な気がする。彼はもうすっかりあきらめているのだ。
「……あなたが何と言っても、私は忘れる気はないわ。忘れても、忘れない」
「ありがとう御座います」
 空虚にジェイルは礼を言った。笑顔がまぶしくて、織子は苛立つ。礼を言われることなんて少しもしていないのに。
「……ジェイルさんは、篭森さんがあなたのことを忘れないから、あなたを見つけてくれるから好きなの?」
 長い疑問が解けた気がして、織子は尋ねた。しかし、帰ってきた返事は織子をさらなる疑問と混乱へ突き落とした。
「それがあることも否定はしません」
 あっさりとジェイルは認めた。しかし、と彼は続ける。
「本当のところは一目ぼれです。古の都・倫敦で雪の精がダンスを踊る中、凛とした花のような表情で凍った池を見つめる小さな魔女。その瞳の美しさと気品あふれる」「ああ、うん、そうなんだ」
 聞かなきゃ良かった。
 織子は思った。雫が戻ってこないかと視線を巡らせるが、彼が戻る気配はない。その間もいかに月の姫が素晴らしいかについて、ジェイルはかたる。そんな惚気は聞きたくない。
「……………………幸せそうで安心しました。本当に好きなんですね」
「恋い焦がれているという方が正しいでしょう。鳩は求愛から引き裂かれたとき悲しみのあまり死ぬという人がいますが、僕も彼女と引き裂かれるようなことがあれば胸張り裂けて死んでしまうでしょう」
 ひきさくも何も元よりくっ付いていない。だが、それを指摘してやったところで聞く相手ではない。
「まあ、篭森さんは…………美人で賢そうですよね。ほれちゃいますよね」
 棒読みで織子は適当なことを言った。実際の感想としては、割と普通に見えて無駄に小賢しいなのだが、流石にそれは言わない。が、
「そうですか? 僕は姫を美しいと思いますが、いわゆる美女や美少女ではありませんね、あの人は。それなら中央の小女王や北の死者の女王のほうが美人でしょう」
 大真面目な顔でジェイルに否定された。仮にも好きだという相手にその評価はないと思う。織子は動きを止める。
「美しくて可愛らしいってあれだけ連呼しておいて!?」
「僕にとっては至高天におわす女神も叶わぬほどの最高の姫君です。が、客観的にみてそうとは限りません。世界というのは色水晶。見方によって形が変わります」
 悪びれた様子もなくジェイルは言う。
「彼女は資産家で、名家の良い血筋の生まれで、御両親は高名で、彼女自身も賢く、美しく強い。ですが、血筋や権力では姫宮の双子姫には敵いません。賢さでは漆黒の夜の王や闇山羊卿にははるかに敵わず、人望では中央の小女王の足元にも及ばない。戦闘能力では狼の王に負け、指揮能力では西の指揮者殿に劣ります。名声や知名度でも群を抜いているとは言い難い。最強にも最優にも最狂にも最悪や最低にすら、なる才能が彼女にはないんです。通常の賛辞なんて、彼女には嫌味にしかならないでしょう」
「……実はジェイルさんって篭森さん嫌いでしょう?」
 織子は確信した。ジェイルの好意はおかしい。そうでないなら、好きな相手を『宝石に慣れない偽物の宝石』『硝子細工』『才能がない』などと酷評するわけがない。しかも本人は褒めているつもりだというのだから性質が悪い。
「好きですよ。彼女は諦めない。自分がもてないものを他人で補い、足りないものを虚勢と虚像で埋め、欠けたものをモノで贖う。無駄と知っていてあがく姿がとても好ましい。僕はもてないものですから。同じくらい、僕と同じようにあきらめ絶望すればいいのにとも思いますけど」
「訂正、このナチュラルサドめ」
 同情はどこかへ吹き飛んでいった。
 それが良かったのか悪かったのかは分からないが、力が抜けて、織子は倒れ込むように近くのソファに座った。良い意味でも悪い意味でも気力が根こそぎもぎ取られていく。
「何故? 努力する人間の美しさは、古代の哲学者を引きあいに出すまでもなく、人類とともに歴史の女神が駆け巡った数千年、耐えることなく続く伝統的な美の感覚でしょう?」
「頑張る人は、助けてあげたいって思うのが人間だと思うんだけど」
 織子はため息とともに答えた。ジェイルはますます首をかしげる。
「助けてあげたいですよ。彼女のためなら、この身を道の敷石にしてくれても構わない。けれど、彼女が行く道は茨の道です。死ぬまで真の意味では報われず、嘆き叫び傷つきながらひたすら逃げるように走り続けるしかない道です」
 ふっとジェイルの表情が陰った。初めて見る表情に、織子は返事も忘れて呆ける。表情を消したジェイルは――ひどく近寄りがたかった。
「可哀想じゃないですか。乗り越える術も、到達点すら彼女には容易されていない。ただ自分の両親の影を追って上を目指すしかない。ぼろぼろになって。けれど、もしも全部あきらめて僕のものになってくれるなら、それこそ真綿で包むようにして、世界も他人も関われない場所で保護して差し上げることができる。二度と傷つかないように、もう頑張らなくていいように。だから僕は、残虐な願いと知っていてもそれを望む」
「――――――」
 歪んでいる。織子は思った。
 満たされない。完成できない。それを分かっていてあがく姿が美しいなんて、なんて趣味が悪いのだろう。愛しいならばその夢がかなうことを願いこそすれ、諦めるかあがき続けるかを望むなんておかしい。
 けれど、分からなくもない。いつか夢が叶うなんて無邪気に信じられるほど、この人たちは自分に優しくないんだ。
 何も言えずに織子は黙る。これほど強い結びつきを織子は見たことがない。それが愛であれ、他の何かであれ。
「…………可哀想な人」
 一言だけ、織子は言った。ジェイルはいつものあいまいな笑みを浮かべる。
 なんて可哀想な人だろう。自分自身すら客観的に見つめることでしか、繋がれない。
「よく言われます」
 ジェイルは答えた。
 世界から遠い人。可哀想な人だ。この人は世界に関われない。世界は彼の存在に気づかない。すべてが彼の横をすり抜けていく。だから彼は、関わることができる人を通じて世界に関わろうとする。たまたま顔を合わせただけの織子に肩入れするのも、自分を見ることができる珠月を狂的に愛するのも根は同じだ。けれど、この人はそれにすら気付かない。自分の行動すら客観的に分析しようとする。そして、世界に近づこうと世界を観察し分析するほどに、世界は彼から遠ざかる。
「近づくほどに遠ざかる」
 ぽつりと声が聞こえて、織子は心の中を読まれた気がした。顔を上げるとジェイルは微笑む。
「月の姫はいつも言っています。完璧になりたい。すべての人に誇れる自分でありたい。けれどそれを目指して学び取得するたびに、それになれる可能性がないことに気づいていく。賢くなるほど、強くなるほど、理想は遠くなる。だからそれに追いつくためには、どんどん加速していかないといけないんだ、と」
「案外努力家ですね」
「ええ。なぜ彼女は怖くないのでしょうね。自分がやっていることが無駄と分かっていて全力で跳び込むなんて、普通の人間にはできません」
 ジェイルは俯いた。髪と光の加減で表情が見えなくなる。
「僕は逆です。近づきたいと望み、そのために相手のことを知ろうとするほどに遠くなる。知るほど理解できなくなり、己を磨くほど世界は遠ざかる。だから僕は近付かないことにしたんです。そうすれば、少なくとも遠くはならない」
 ジェイルの手が自分の服の襟に触れる。そこにトランキ学園の校章がついている。色と形がその生徒の習熟度を示しているらしい。
「マスタークラス。中堅生徒のクラスです。普通はここを折り返し地点にさらに上を目指します。けれど僕は、よほどのことがない限りはこれからずっとこれより上にはいかないでしょう。遠いのは嫌ですから」
「……篭森さんや雫さんとは色が違うのね」
「月姫はロード。黒雫殿たちはマエストロ。いずれもマスターより上のクラスです。雫君は能力の制御さえできればほっといても上がるでしょうし、月姫はさらに上を目指しています。走り続けるために。でも僕は目指しません。あきらめてしまったから。だから僕はあきらめない彼女がまぶしい。触れたいものにけして手が届かないという、同じ絶望を僕たちは味わっているのに」
 短い言葉に決意のようなものを感じて、織子は黙って頷いた。あえてジェイルの顔を見ようとはしない。電気もついていない部屋の中、沈黙が重くなっていく。
「……貴方はすがりたいの? 引きずり下ろしたいの?」
 織子は尋ねた。ジェイルの意図が分からない。何がしたいのか、何を愛しているのか。
 彼はごく自然に答える。
「どちらでも。僕はただ彼女を愛しているんです。彼女だけが僕の見る遠い世界の中で輝いていて、そしていつでもこちらを振り返ってくださるから。彼女のすべてが好きだから、彼女がどんな道を行っても僕になにをしても、僕は彼女を愛します。それが僕の選んだ選択です」
 どこか懐かしげな表情でジェイルは言った。
「本当に努力したならば、世界の最高峰の一つから世の中を観察できるかもしれない。けれど、それに意味があるのでしょうか。だって、僕は誰にも気づいてもらえないんです。そこにいるのが当たり前で、いつでもそこにいて、そして忘れられる。僕にとって現実も他人も硝子の向こうで笑っているだけの存在です。触れられない。触れてもすり抜ける。繋がることもできないのに、ただ影響だけを一方的に与える。僕はそんなことに意味があるとは思わない。僕はなりたい自分には絶対になれない。無駄、なにをしても無駄です。だから僕はあきらめることにしたんです」
 ジェイルは大きく息を吐きだした。
「僕らは鏡映しなんです。僕も月の姫も互いの姿に自分の中にあったかもしれない可能性を見る。僕はあきらめない不屈の意志を尊敬し、月の姫は高みに駆け上がることができるかもしれない才能を羨む。おかしいですよね。どちらも行きついた先は最高にも最低にもなれない、ただの最高峰の一つでしかなかったというのに。それでも僕たちは互いに互いの持ち物を羨んでいる」
「ないものねだりは人間の真理よ」
 そうかもしれませんね、とジェイルは小さく笑った。ひどく寂しい笑みだった。いっそのこと泣けばいいのにと織子は思う。
「羨ましくて愛しくて目が離せない。気付いたら僕は彼女を好きになっていました。彼女と向かい合うとき、僕は自分のあったかもしれない可能性に焦がれます。同時に、僕は自分が普通の人間になったような気がするんです。会話して、喧嘩して、触れあって、おしゃべりして、久しぶりにあってもまた話ができて、好きな人がいて、その人を愛しいと思って、その人との将来を夢想できて――――馬鹿な話ですね。あきらめてしまった人間に何かができるわけがないのに」
「惚気だわ。どうして私にそんな話をしたの?」
「縁があったのでしょう」
 誤魔化しには聞こえなかった。どうせ忘れてしまうということも、もう会うこともなくなる人間だということもあるのだろう。けれど、教えてくれたことは嬉しい。
 ややあって、また自己嫌悪に陥りかけていた織子の気をそらすために自分の話をしてくれたのだと気付く。
「ありがとうございます」
 今度は織子が礼を言った。ジェイルは不思議そうな顔をする。
「貴方に会えてよかったです」
 頭を下げるとジェイルはにっこり笑った。
「ありがとう御座います。こちらこそ、不思議なめぐり合わせでした。本当に人生というのは運命の女神が紡ぐ糸ですね」
 美しい言葉はどこか虚ろ。今の織子にはその虚ろがとりわけ良く分かる。だが、深いとは思わない。かすかに湧く憐れみは意識的に押しつぶす。代わりに感謝を伝える。
「ありがとう」
 縁が結ばれて形を作っていく音が聞こえた気がした。くるくると三人の運命の女神が糸を紡ぐ。それが結んで形になって――――ほどけていく音が聞こえる。小さな声で、織子は何度も感謝を呟いた。
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