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 外は薄い夜の色に染まっている。西区の雑多な街並みを見下ろす一室で、ジェイルは上着の隠しポケットに手を突っ込むと、メモリースティックのようなものを取り出した。同時にブラインドを下ろす。夜の色に染まり始めた街並みが視界から消えた。
「狙撃対策はしているようですが――――硝子越しにどこからのぞかれるか分かりませんので」
 織子の視線に気づいて雫が説明した。
 三人がいるのは、設立してそれほど時間が立っていないにも関わらず世界最高峰の呼び声も高いホテルグループ、タイラントホテルの一室だ。防犯とたとえ相手がどんな素性の人間であってもホテル内にいる間は守り抜く一貫した態度で、裏表関わらず世界の実力者から定評がある。軍隊が攻めてきたとしても、そう簡単には落ちないだろう。
 織子は知らなかったが、タイラントホテルもまたトランキ学園の生徒が作った企業らしい。
「……ここで籠城するつもり?」
「まさか。近々、向こうが交渉テーブルを用意するでしょうから、それまでの仮宿です」
 そっけなく雫は答えた。そしてジェイルに視線を向ける。ジェイルはメモリーを掲げてにこりと笑って見せた。
「スナッチで買ってきました。七夕の姫君を追っているニムロッドに関する資料です」
「……武器を買ってくるんじゃなかったの?」
 最後に分かれた時に、ジェイルはそう言っていたはずだ。織子の疑問にジェイルは苦笑する。
「これが武器です。ニムロッドの、それでも黒に近いグレーゾーンの仕事や、インサイダー取引の証拠です。これを交渉材料に、姫の身の安全と正当な財産分与の交渉を持ちかけてみましょう」
「交渉?」
 予想外の言葉に、織子は目を丸くした。これだけ暴れておいて交渉もくそもない。だが、ジェイルは任せておけとばかりに口元を釣り上げる。
「平気です。校内で襲ってきたのは雇われたチンピラにすぎません。あちら本体は、要員もプライドも傷ついていませんから、交渉の余地はまだ十分にあります」
「威嚇は重要」
「威嚇…………」
 生まれて初めての紛争で何度も泣きそうになったのに、それが威嚇。本気で目眩がして、織子は頭を押さえた。
「ただ、不安点はありますね」
 メモリーを唇に押し当てて、憂いを帯びた表情でジェイルは呟いた。そんなところまで絵になるのが、何だか憎らしく、中身を思うと残念でならない。人類の損失だと思う。
「奇妙な言い方になりますが、弱みがやや弱いんです。雑草と同じくらいありきたりな弱みでは大輪の花と引き換える材料には足りません。幹部個人の恥ずかしい秘密と組み合わせれば、交渉自体は成り立つでしょうが、こちらも譲歩が必要でしょう」
 さらりと怖い話が聞こえた気がしたが、織子は全力で聞き流した。
「先輩でも駄目ですか」
「無理を通しているのは、どちらかというとこちらですから。白羊の公女しかり、闇山羊卿しかり、権力争いで追い出されたり殺されることは草木から花が落ちるように当たり前に起きることです。そこに関係のない僕たちが横やりをいれて落ちかけた花を支えている状態ですから――人道的に正しくとも、資本主義という点では正しくありません」
「殺されるのも追い出されるのも嫌なら、それなりの対策をしろってことですよね」
「ごめんなさい」
 反射的に織子は謝った。雫は無表情で、ジェイルは笑って見せる。いつも通りの反応だ。
「まあ、心配しなくても貴方が暮らしていけるだけの金銭と家くらいは確保できるでしょう。ただ、権利書とか企業秘密とかに関わる書類も行方不明だそうです。おそらく、貴女の金庫の中に。流石にそういうものまではちょっと、ね。おそらく、こちらの取り分は貴女の身柄以外は、社長宅と個人名義の預金、本人が使用していた私物くらいでしょうね。他の権利が不明確な金銭や権利書、特許、その他情報はあちらに渡す。というのが、一般的な落とし所ですね」
「でも約束守ってくれるのかしら?」
「交渉を守らぬ商人はいずれ駆逐される。そこまで馬鹿ではないだろう。それに権利書さえ確保できれば、向こうとしてもあなた一人程度自由にするくらい大したリスクではない」
「少なくとも今学園内を探るよりリスクは小さいでしょうね」
 意味ありげにジェイルは微笑んだ。雫は肩をすくめる。
「この学園には、『疑わしきは撃ち落とせ』が方針の人間が多すぎる」
「おやおや、何のために月の姫に御前にて騒ぎを起こしていただいたと思っているのですか? 学園の権力者の付近で煙が立てば区画の治安維持システムと各組織および個人の私兵が動きます。今の学園で動くのは、気の立ったトラの間を走りぬけるより愚かな行為です」「手遅れでしょうね」
 雫は断言した。「でしょうね」と他人事のようにジェイルは同意する。短い言葉でも会話が成立している。
「……ジェイルさんと雫さんって仲がいいんですね」
 今更ながら織子は聞いてみた。ジェイルと雫は顔を見合わせる。
「そうですねぇ、運命の歯車の導くままに出会ったのは黒雫殿たちが本科に入ってしばらくのころでしょうか。あの日も僕は、月の影だけを投げかけてするりと逃げていく可憐な月の姫と、じゃれ合いながら鬼ごっこをしていました」
 おそらくは、いつものように賛美の言葉を投げかけて泣きながら逃げられたのだろう。短い付き合いでも容易に想像が出来て、織子は顔を引きつらせた。
「俺の職業詩人なんで」
 やや乱暴な口調で雫が言った。また人格が入れ替わっている。
「『凍れる詩人』ってエイリアスの人がいるって聞いて、同業者かと思って会いに行ったんです。文を職業にする人間は比較的珍しいですから」
「期待はずれで申し訳ありません。僕にはミューズの寵愛もアポロンの庇護も御座いませんので。恋い慕う月の女神すら、なかなかこちらを向いてはくれません」
 だが、確実に何かの神には愛されている。
 落ち着かなくて織子は手元のカップを無駄に揺らした。水面が揺れて、そこに移った織子の顔も揺れる。
「当時から先輩は比較的成績が良くて――入学制限ぎりぎりの歳で入学したのに伸び率がいいって言うんで、どういう人かと期待してたんですけど。けど、半泣きの女の子を……」
「可愛らしいでしょう? 僕の月の姫は」
 何があったかは分かったが、知りたくなかった事実に織子は顔を引きつらせた。
「でもまあ……悪い人ではないんですよ。悪い人では。すごく頭がいいんです」
「黒雫殿たちは面白いですよ。一人で五人で五人で一人。一つが割れた五つですから、五つで一つ。五つの役割は異なりますので、一つで五つ。孤独であり孤独でなく、流浪であり停滞でもある。異なるものを封じ込めたヒトガタ。とても興味深い」
「ああ――うん、複雑な関係性だってことは分かった」
 とりあえず、相手への複雑な感情は見え隠れ――いや隠れていない。せめて隠せと織子は思った。この学園の人間は自分に正直すぎる。
「……嫌いではないんだよね」
「崇拝しています」「信頼しています」
 雫とジェイルは即答した。即答すぎて胡散臭かったが、織子は考えないことにした。
「じゃあ、好き?」
「才能については認めざるを得ません」
「彼の望みが花開くことを、僕はいつでも願っています。大事な後輩ですから」
 二人とも明言を避けた。そこに関係性を見た気がして、織子はそれ以上の追及を諦めた。
「……せっかく近くにいるんだから、もっと仲良くしようよ。人間は繋がり合う生き物なんだよ?」
「毎度のことだけど、君は本当に良い子だ」
 雫は呟いた。今はいったい誰になっているんだろう。織子は心のすみで思う。
「良い子じゃないですよ?」
「発想が善良だと言っているんですよ。良いことです。発想というものは変えようと思って変えられるものではありませんし……この学園には邪悪な思考回路の人間が多いですから。誰とは言いませんが」
 含むものを感じて、織子は顔をしかめた。雫は口元を釣り上げる。嫌な感じの表情から、少なくとも今の彼が『黒雫』でないことは分かった。
「人間が繋がり合う生き物であることは否定しません。でも、相手を傷つけることも拒絶することも殺し合いすら、繋がりの一部には変わりないんですよ。だって関係ないひとを傷つけたり拒絶することなんてできませんからね。繋がるっていうのは良いことばかりとは限りません。距離があったほうがいい関係性だってある」
「でも、寂しいじゃない」
 織子はミュールを脱いで椅子の上で膝を抱えた。落ち着いたせいか、どっと疲れが押し寄せてくる。
「寂しい。周りに人がいっぱいいるのに一人の感覚、優しくされても距離のある感覚。一人は嫌。距離があるなら縮めたい。縮めたいなら距離を詰めなきゃ。その人がどうしようもなく遠いところにいってからじゃ遅いんだから」
 眠気が襲ってくる。瞼が重くなる。意識が低下しているせいが、織子は饒舌になっていた。
「いつまでも繋がるチャンスがあるわけじゃないんだからさ」
「お父上のことですか」
 暗くなり始めた視界の向こうで苦笑する気配がした。
「ええ。とても寂しい。人間というものは他人に観測されてこそ自己を確立できる生き物です。誰にも観測されない、触れあえない。それは寂しいですね。マジックミラーの向こうから通りを見ている感覚、絵本の中の風景に指で触れる感覚。そこにあるのに、みえているのに関われない。寂しいですね」
 装飾のない彼の言葉は、本当に寂しげに聞こえた。だが、返事をする前に急激に襲ってきた眠気で織子の意識は途絶えた。