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First contact ミヒャエル・バッハ&篭森珠月


 茶葉の香りが空気に広がる。
 甘いような、それでいて芯のある香り。そしてたっぷりのミルクの香り。ウバ茶をベースにしたブレンドミルクティの香りだ。そしてかすかな人工の花の香り。窓辺に座った黒い服の少女が身動きをする度に、肌に浸みこんだ香水がふわりと薫る。
 【イノセントカルバニア(純白髑髏)】篭森珠月、人によっては東の魔女、黒服などと呼ばれることもある少女はゆったりと肘掛椅子に体重を預けていた。その隣では、取り立てて特徴のない白人男性がお茶を入れている。
「…………優雅な御身分ですね」
 そんな映画の一コマのような穏やかな空間に、ぴりぴりした声が割り込んだ。しかし、少女は動揺しない。気だるそうに、だが隙は見せずに、ゆっくりと視線を窓から部屋へと移す。部屋の入り口によりかかっていた青年は、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「悔しかったら、貴方もやってみたら? 陽狩」
 平然と答えると、珠月は青年の名前をよんで首だけ振り返った。青年はますます不機嫌な顔になる。
「そんな非生産的な趣味はありませんよ。まるで昔の貴族のようです。悪趣味な。貴方も文句を言ったらどうですか? ミヒャエル」
 部屋にゆっくりと入ってきた青年――不死川陽狩は、冷たい声で言い捨てた。珠月の背後に控えた男性――【マジックボックス(驚異的空間)】ミヒャエル・バッハは、肩をすくめる。
「慣れました」
「世界的な建築家が情けない」
「貴方が思ってるほどこき使ってないよ。必要もないしね。家にいる時に給仕をしてもらうだけ。いないときはアーサーがやるし、着替えを手伝わせたり、家事をさせたりはしてないもの」
「それは一般的に、侍女か執事の仕事です」
 珠月はにこりと笑っただけで答えなかった。代わりに話題を変える。
「そんなことより、私のことが嫌いな貴方が私を訪ねてくるなんて、何用かな?」
 喋りながら、珠月は身体全体を振り向かせる。その隣ではスーツを着込んだ白骨標本――珠月が能力で操作する白骨のアーサーが一人でに動いて、珠月の向かいの席の椅子をひく。座れという意志表示だが、陽狩は無視した。
「……その態度ではこちらにあれは来ていないんですね」
「あれ? ああ、夏羽なら今日は来てないね。四十物谷のところじゃないかな? その辺を当てもなくふらふらしているんじゃない限り、彼がいるところなんてたかが知れてる」
「ええ、馬鹿ですからね」
 陽狩は相棒の不死原夏羽のことを馬鹿の一言で切り捨てた。珠月は肯定も否定もしない。
「珍しいねぇ。貴方が彼を探しているなんて」
「ええ。今日こそ奴の息の根を止めなくてはならない理由が発生しまして」
「いつものことじゃん」
 陽狩と夏羽は、不死コンビと呼ばれるように常に二人一組で行動している。だが、はっきり言って仲は最悪に悪い。ちょっとでも理由があれば、場合によっては理由がなくとも二人は殺し合う。だから、この台詞を聞くのも珍しいことではない。不死コンビがまだコンビを解消していないのは、ただ単に、互いに諦める気がないのと実力が拮抗しているため殺し合いに決着がつかないからだ。
「また何かあったの?」
「理由などなくてもいつでも殺したいですがね.……人が折角手に入れた秘蔵のブランデーを勝手に飲んだ件に関しては、血を見ないことには我慢できません」
 この場合の血を見るとは、息の根を止めるという意味である。
 珠月は表情を変えないまま首をすくめて見せた。ミヒャエルは聞こえなかったふりをして聞き流す。
「まあいいや。夏羽は来ていないけど、せっかく来たのだからお茶でも飲んでいく? 貴方は私が嫌いみたいだけど、私は貴方が嫌いじゃないから、貴方が望むなら客としてもてなす用意はあるよ」
「その用意をするのは私であるわけですが」
 そう言いながら、慣れた手つきでミヒャエルとアーサーは席を整え始める。陽狩が承諾することを疑っていない態度に、陽狩は眉をしかめた。
「その余裕綽々な態度が気に食わないんですよ、カルバニア」
「私は貴方の飄々としたところが好きだよ、陽狩」
 けろりとさりげなく恥ずかしい台詞を吐いて、珠月は紅茶に口をつけた。ゆっくりと飲み干す。
「今日のミルクティはミヒャエルがブレンドしたものだよ。悪くない出来だ。私のブレンドじゃないから、毒の心配はしなくていい」
「それを聞いてお茶を飲む人間がいると思いますか?」
「いるよ。この家は客が多いんだ。東王も西王も南王だってお茶を飲みに来る。北王だけは絶対に来ないけどね。何度も誘っているのだけれど、意図的に避けられているみたい」
 楽しげに珠月は喉を鳴らした。だが、その楽しげな態度すらもそう見せているものだ。食えない態度に、陽狩は不快そうな顔をする。
「嫌われているんですよ。きっと」
「残念だねぇ。私は彼にどちらかというと好意をもっているんだけど」
 珠月は小首を傾げた。
「あれかな? 亡き雨月氏は宿彌が嫌いだったらしいから、同じ宿彌陣営の私が気に食わないのかも」
「貴方の性格が嫌いなんじゃないですか?」
「どうかな? 私の背景を警戒されているのか、私に毒殺されるとでも思っているのか、はたまた私を見ると嫌なことでも思い出すのか。私自身が大嫌いというような感じではなかったけれど、何なんだろうね」
 本当に残念そうに珠月は呟いた。コネクションを大事にする珠月にとって、会食やお茶会に招いても来てもらえないというのは相当残念な事態なのだろうと陽狩は推測する。
「案外、貴女とコネを作りたくないのかもしれませんね。貴女に関わるとろくなことがない」
「それは偏見というものだよ。ねえ、ミヒャエル」
 くすりと笑って珠月は斜め後ろを振り返った。真面目な顔でミヒャエルは頷く。
「根は良い方ですよ」
「おやおやすっかり手懐けられているようですね」
「良い方ですよ。機嫌を損ねるような真似をしなければ」
「誰だって、機嫌を損ねないうちは良い人ですよ」
 馬鹿にしたように陽狩は笑った。
「ふふ、跪けと言われれば、跪きそうだ。従者は大変ですね」
「私にそういう趣味はないけど、陽狩は好きそうだよね。跪かせるの」
「這い蹲らせるのなら、好きですね」
 罪悪感の欠片もない表情で陽狩は答えた。珠月は大仰に肩をすくめて見せる。
「サディストねぇ」
「貴女に言われたくありません」
 憮然とした顔で陽狩は答えた。顔にははっきりと不満が浮かんでいる。
「私は人を無意味に傷つけて喜ぶ趣味はないよ。ねえ?」
 珠月はミヒャエルを見上げた。こくりとミヒャエルは頷く。
「身内には寛大で温厚で穏健です。身内には」
「ん? まだ初対面のことを根に持ってるのかな? 言葉に棘があるよ」
 あくまでもゆったりとした様子で珠月は尋ねた。言葉は咎めるようにも聞こえるが、声は笑っている。
「…………客がいる時に身内ネタで盛り上がらないでくれませんか? 不快です」
「悪かったよ、お客様」
 茶目っ毛たっぷりに言って、珠月は三度席を勧める。
「そうだね。たいして面白い話でもないけど、昔話、聞く?」


 **


 部屋に足を踏み入れた珠月は、ぐるりと室内を見渡した。
 あまり来ない部屋だ。チェッカー模様の床の上には、木馬や人形やカードやガラス玉が転がっている。まるで子供部屋だ。壁に並んだぬいぐるみが過剰な幼児性を示していて、足を踏み入れた人の多くはうすら寒いものを覚える。
 彷徨う珠月の視線が一つのドールハウスの前に止まる。背の低い木製テーブルの上に乗ったそれは、実際ある宮殿の一部のミニチュアだ。ミニチュアの人形や家具が散らばっていて、まるでついさきほどまで誰かがそれで遊んでいたかのような配置になっている。
 それ自体はおかしいことではない。この部屋はそういうコンセプトで作られた子供部屋なのだ。いつみても完璧な子供部屋。だからこそ、気づいた。完全に計算しつくされた乱雑さの中で、一つだけおかしいところがある。
「人形が……」
 ミニチュアの貴族の人形がこちらを向いて立っている。真正面に。これはあまり綺麗ではない。珠月はこの人形をわざとわきを向いて立たせていたはずだ。きっと、うっかりこれを動かしてしまった誰かさんは、この乱雑さがインテリアとしてわざと演出しているものだとは思わなかったのだろう。
 やはり家の中に誰かがいる。珠月は眉をひそめた。
 最近はトラブルもなくセキュリティレベルを引き下げていたとはいえ、家の中に侵入できたことは称賛に値する。しかし、意図が分からない。いつも通りの刺客ならすでに何かを仕掛けてきているだろう。そうではなくただ家の中をうろつきまわっているとすると、可能性は二つ。
 一つは両親のどちらかから送りこまれた監視役。
 親馬鹿である珠月の両親は、愛しい娘を心配するあまり、まれに様子を報告させるためだけに人を送り込んでくる。これならば、ただちに見つけ出して意図を問いただす必要がある。
 もう一つは単純な変質者。
 残念ながら、心当たりがないこともない。こちらの場合、すぐに息の根を止める必要がある。
 少し考えながら、珠月はゆっくりと歩を進める。同時に周囲へアンテナを張り巡らし、違和感を探す。いるはずだ。どこかに息をひそめて。
 子供部屋と続きになっている部屋に足を踏み入れて、ふと何も変化がないはずの部屋に違和感を覚えた。珠月は壁に触れた。押して見るが変化はない。しかし、珠月の鍛え上げられた空間把握能力と記憶力が違和感を訴えてくる。この部屋はこんなに狭くはなかったはずだ。軽く見積もって50センチくらいの空間が消えている。
「空間の占拠……なんて高度なものじゃないね。錯覚を利用した隠し部屋か、通路? でもこの短期間で、屋敷に手を加えて拠点を作るなんてできるのかな」
 珠月は壁に触れた。自ら見て回って選んだ壁紙だ。だが、違和感がある。
 そろそろと壁に沿って移動する。指先で壁に継ぎ目がないかを調べるが、それらしきものは見当たらない。ならばと壁にかかった大きな額を外して見る。すると、あった。
「…………本当に誰よ」
 ドアがあった。良く見ないと分からないが、壁と同じ色の扉がある。取っ手はなく、代わりに釘が出ていてそこを掴めるようになっている。いったいいつの間に工事したのだろう。
 珠月はためらわず扉を開けた。意外なことに鍵はかかっておらず、あっさり扉は空く。同時に、中に潜んでいた人間が飛び出してくる。
 普通の人間であれば驚いて逃してしまったかもしれないが、珠月はそうではない。手を伸ばして逃げようとする男の腕を掴むと、無言で引き倒した。支点力点を利用して、あっさりと自分より体格のいい相手を抑え込み、馬乗りになる。
「誰に頼まれた?」
 袖の中からナイフが滑り出て右手に収まる。左手は飛び出してきた少年の首を押さえつけている。少年は目を見開いたまま返事をしない。
「答えたくないならいい」
 冷淡に答えて、珠月はナイフを振りおろそうとした。が、それより少しだけ早く、少年は叫んだ。

「い、家が好きなんだ!!」

「…………は?」
 それが後に世界的建築家となるミヒャエル・バッハと”人類最狂”篭森壬無月の一人娘である篭森珠月の出会いであった。
「………………何が好きだって?」
 聞き間違いかと思い、珠月は尋ね直した。しかし、少年はためらうことなく同じセリフを吐く。
「家だ。俺はこの家が好きなんだ! だから、つい」
 珠月は冷たい視線で組み敷いた少年を見下ろした。非常に残念なことに嘘をついている気配がない。頭が痛い。一気に闘志が削がれて、無感動に珠月は少年を見やる。一方の少年は何かが切れたのか堰を切ったように喋り出す。
「この家は基本的には近世のブルジョアの邸宅を模した造りになっているが、日本の湿度の高い環境に合わせて風の流れを視野に入れた設計がなされているところがすばらしい。例えば外壁を這う蔦の――――」
「……………………」
 長くなりそうだ。珠月は思った。




「というわけで、この家の建築は素晴らしい!!」
 言いたいことを叫び終わったミヒャエルは、自分が立ちあがって天高くこぶしを突き上げていることに気づいた。初めは確か床の上に押し倒されて刃物を突き付けられていたはずだが、それをしていたはずの相手の姿はそこにはない。
 視線を巡らせると、扉がない続きの部屋――確かドールハウスが置かれていたはずのテーブルの上にアフタヌーンティのセット一式を用意してお茶を飲んでいる彼女の姿を見つけた。ひどく冷めた表情で、こちらを見つめている。
「話は終わった?」
「……はい、おかげさまで」
 ゆっくりと少女は立ちあがった。そして、ミヒャエルの襟首を引っ掴む。今度こそミヒャエルは死を覚悟した。しかし、そうはならなかった。
「あれ?」
 力任せに、少女はミヒャエルを引きずっていく。そして玄関まで来ると躊躇わずに外へと出た。その先で一人でに門が開く。
「さようなら」
 そして彼女はミヒャエルを敷地内から叩きだすと静かに門を閉めた。
 後に聞いたところによると、彼女が侵入者を生きて返すのは非常にまれなことで、ミヒャエルはおそろしく運が良かったのだという。しかし、その後も珠月の住む屋敷に憧れたミヒャエルは侵入を繰り返し、その度に珠月に叩きだされていた。そして、出会いから数カ月がたった頃、



「出てこい」
 有無を言わせない支配者の声に、ミヒャエルは恐る恐る隠れ場所から姿を現した。いつもと同じように珠月は足を組んで椅子に座っていた。今日はかなり大きな木製の椅子に腰かけている。その椅子は、小柄な珠月が座ると足が微妙に床から浮き上がる程度のものなのだが、不思議と不格好な感じはない。むしろ、そう意図して作られたかのように見える。それはきっと、彼女があまりにも堂々と椅子に座っているからだ。隣のテーブルでは紅茶が湯気を立てている。
 初めてあった日と変わらぬ光景。違うのはその顔に諦めの色がにじんでいることか。
「懲りろ」
 命令系だった。「懲りないな」という感想ではなく、ミヒャエルへの命令。だが、勿論聞く気もなければ聞かなくてはならない義理もない。珠月のほうも期待していないだろう。
「まったく……また隠し通路増やして……」
 そう言いながらも、珠月は怒っている様子はない。
 ここ数カ月の観察と交流で判明したことだが、世間一般で思われているほど、この”人類最狂”の娘は短気でもなければ、根っかたの悪人でもない。では善人かと言われるとそうでもないのだが。
「いい加減にしないと、セキュリティレベル引き上げるよ?」
「それを侵入者に対して通告していいのか?」
「だって引き上げたら、貴方死んじゃうじゃない。無駄な殺生は好まないよ。恨みばかりが増える」
 ウンザリしたような声で珠月は言った。
「それと、貴方の国ではどうか知らないけど、日本では目上には敬語だよ」
「目上……?」
 記憶違いでなければ、ミヒャエルと珠月は同じ年のはずだ。入学したのは珠月のほうが早いので学年ではミヒャエルが後輩に当たるが、それでも目上と言えるほど目上ではないはずだ。
 ミヒャエルの不満を感じとったのか、珠月はかすかに視線を上げて口元を釣り上げた。
「私が目上でなくて、誰が目上だというの? この家の中では、私より目上なのは私が招いた客と私の両親だけだよ。よって貴方は私に敬意を払うべきだ」
「意味が分からない」
 まるで自明のことであるかのように、珠月は言いきった。清々しいまでに偉そうな態度に、ミヒャエルは感動に近い何かを覚える。
 珠月は偉そうだ。著名人や金持ちの子息には偉そうな態度の人間が少なくないが、珠月のそれはまた次元が違う。
「おや、嫌そうな顔をするね。嫌なら出ていけ」
「していません」
 わずかに口調をあらためて、ミヒャエルは答えた。命令することに慣れた人間の言葉というものは、人を動かさずにはいられない妙な重みがある。
 ミヒャエルが背筋を伸ばすと、とりあえず満足したのか珠月はお茶に戻った。自分で出てこいと呼び付けたくせにミヒャエルにはもう興味をなくしたようだ。放置されたミヒャエルは、なんとなく室内に視線を彷徨わせる。
 珠月の住む館は基本的に個人が一人ですむには広大だ。そして、隙がない。最新のセキュリティとかキッチン設備というかいう意味でもそうだが、それ以上に生活感というものがほとんどない。客が訪れる部分は、さりげなく一流の調度品で完璧に演出されているし、それ以外の部分はみての通りまるで子供部屋のようだ。とにかく子どもっぽい可愛いもので溢れている。もっともミヒャエルが足を踏み入れることのできた空間よりそうでない場所のほうが多いので、なんとも言えないが。
「――――――背後に立つな」
 冷やりとした声が聞こえて、ミヒャエルは踏み出しかけていた足を止めた。ミヒャエルの動きが止まったのを確認すると、珠月は再び視線を紅茶の水面に落とす。ミヒャエルは冷や汗をかいた。
「す、すません」
 珠月は死角に入ったり、気を抜いているところを見られるのを激しく嫌う。以前、うっかり書庫で大量の書物に囲まれている珠月に遭遇した時は、ひどい剣幕で罵られた。着替え中にうっかり入室した時は笑っていたのに納得がいかない。
 とはいえ、一応は不法侵入の身。機嫌を損ねるわけにはいかない。ミヒャエルは素直に頭を下げる。だが、その時にはすでに珠月の興味はミヒャエルからそれていた。
 ミヒャエルはさらに視線を巡らす。窓辺でくるくると球体が回っていた。天球儀の一種、それも現在進行形で今の太陽系の状態を模している模型だ。ゆっくりと金星や火星が太陽の周りをまわっている。
「触らないでね。動きが狂う」
 この人は背後に目玉でもついているのだろうか。あきれてミヒャエルは珠月を見た。そこまで周囲で何が起きているのか把握できるなら、背後に立たれるくらいなんでもないように思えるのだが、そうでもないようだ。この部屋のモチーフは宇宙なのだろうか。ぼんやりとミヒャエルは思った。天井には派手にならない程度に星空が描かれている。調度品は青を基調としていて、美しいがなんとなく寒々しい。
「触りませんよ」
「なら、いい」
 ミヒャエルは再び珠月に視線を戻すが、彼女は顔を上げることすらない。ひたすら紅茶の入ったカップを傾けることに熱中している。鼻に紅茶の優しい香りが届いた。フレーバーティなのか、紅茶の中に甘い香りが混ざっている。だが、ミヒャエルの視線は別のところに行った。
「ふむ……マイセンのブルーオニオンシリーズ。18世紀から続く定番の図柄ですか」
 マイセン陶磁器ブルーオニオンシリーズ。
 錬金術師ベドガーが1709年に作り出したヨーロッパ発の硬質白磁器マイセンが、1739年に作り始めた食器のシリーズである。ザクロや竹など縁起の良いとされるものがびっしりと描かれているのが特徴である。
「陶磁器好きなの?」
 それまでほとんど紅茶から意識をそらさなかった珠月が、まっすぐに顔を上げた。表情はまったく変化がないが、それでもかすかな声色の変化が珠月の関心がミヒャエルに戻ったことを示している。
 ミヒャエルは肩をすくめて見せた。
「私は建築家なので、インテリアについての知識もあります。特に高価なアンティークをお持ちの方は、それに合わせて部屋の改装や家の建築を行う場合もあるから重要です。それに、一応は自国のメーカーだったものですから」
「なんだ。そういうことか」
 納得したように珠月は頷いた。今度はミヒャエルが首をかしげる。
「マイセンが御好きなのですか? イギリスのウエッジウッドやミントンではなく?」
 いずれも今の世でも珍重されるイギリスの陶磁器である。すでに存在しないか、どこかに吸収されてしまったメーカーもあるが、それらが作り出した名器の数々は今でも多くの人の憧れだ。
「それも好きだよ。ウエッジウッドのワイルドストロベリーの図柄は定番だし、ロイヤルクラウンダービーの花柄は繊細で好ましい。けれど、別に紅茶はすべてイギリスのアンティーク食器で飲まなくてはいけないわけじゃない。マイセンもあるし、ジノリやロイヤルコペンハーゲンもある。景徳鎮の磁器や伊万里は紅茶向きではないけれど、中国茶や緑茶を飲むなら欠かせない」
 あっさりと珠月は答えた。それが今の世でどれくらいの値段がつくものかを考えると恐ろしい。一体この家一つで何億、あるいは何十億の金がかかっているのかと考えて、ミヒャエルは目眩がした。
「……イギリス人はなぜ何時間もかけて、しかも高い金を出してお茶を飲むのか理解できん。珈琲ブレイクならまだ分かる……っと失礼」
 本音がこぼれかけて、ミヒャエルは慌てて口をつぐんだ。だが、珠月は肩をすくめただけで激昂するようなことはなかった。
「いいんじゃないの? 紅茶が好きでないなら仕方がない。紅茶でも緑茶でも珈琲でもチョコレートでも好きなものを飲めばいい。他人が好む飲み物にまでは口出ししないよ」
 珠月の顔は穏やかに見えた。本当に他人が好む飲み物にまでは拘りはないのだろう。だが、
「まあ、私にコーラを飲ませよう強要したら、コーラの瓶で頭を殴ってやるけどね」
「そこまで嫌いですか」
「あんな黒い水は飲み物と認めない」
「今貴方は、多くの人を敵に回しました」
「別に飲むのは構わない。ただ私に飲ませるな。私に関わらないところでなら、存在することは許してやる」
「何様のつもりです!?」
 珠月は、自分の好みのことに関しては果てしなく心が狭かった。
「何様もくそも、私が私の領域で何をしようと誰かに咎められる筋合いはない」
「この前もそんなことを言って、ほぼ裸でうろうろしてましたよね!?」
「不法侵入者に文句を言われる覚えはないよ。それに裸じゃなくてバスローブでうろついていただけだ」
「恥らってください!!」
 バスローブ一枚の肌もあらわな珠月にうっかり遭遇したミヒャエルは、おかしな悲鳴を上げて一目散に逃走した。対する珠月は、迷惑そうに眉をひそめただけだった。
「なぜそんなサービスを貴方にしないといけない?」
「サービス!? 何が!?」
「女の恥らいなんて、半分は社交辞令のサービス。残り半分は裸等に自信がない故の焦りと怒り、そして少しの自意識過剰と複雑な乙女心で構成されている」
「その乙女心の部分を大事にしてくださいっていうか、どれだけ自分の裸に自信満々なんですか!?」
 ミヒャエルは頭を抱えて左右に激しく振った。まるで良く動くおもちゃを見るような目で、珠月はそれを見やる。
「裸に自信はない。けれど、貴方に裸を見られたからと言って何を動揺する必要がある?」
「…………それは要約すると、恋愛的にも生物的にも対象外だから、裸を見られても犬猫に見られた程度の恥らいしか覚えないということですか?」
「それもある。そもそも、バスローブを自宅以外のどこで着るというの? 家の中ならバスローブ姿でくつろぐなんて普通でしょう? 外で着ているようならただの変態だけれど……それでも肝心な部分が隠れていれば法的にはセーフなわけだし」
「社会的にアウトです! そして自宅でも人目はあります!!」
「見たくないなら、そもそも家に侵入するな」
「そういう問題じゃありません!!」
 そこまで叫んで、ミヒャエルは正気に返った。いったい何の話をしているのかとひそかに落ち込む。珠月は欠片も表情を動かさない。それがさらに落ち込みに拍車をかける。
「……何だかよく分からないけど、喉、平気?」
 あきらかに憔悴しているミヒャエルを見て、珠月はやっと椅子から立ち上がった。ミヒャエルは首を横に振る。
「お気づかいなく」
「珈琲でも入れてあげようか?
 ミヒャエルは顔を上げた。意外な単語が聞こえた。
「この家に珈琲豆が!?」
「………………貴方は私を何だと思っているんだろうね。豆くらいあるよ。お望みなら、抹茶でも緑茶でもココアでも――――ジュース類は果物を絞らないとないけど、酒類は色々あった気がする。赤ワインと麦酒はないかな。でも、日本酒とブランデーなら」
 正確に食糧庫を把握しているらしい様子で、珠月は言った。あまりの意外さに、ミヒャエルは何度も瞬きを繰り返す。てっきり、この家には紅茶以外の飲み物は存在しないと思っていた。
「…………コーラはないよ?」
「まだその話題を引きずりますか。違います。今のはそういう瞬きじゃありません」
 ミヒャエルの視線をどう勘違いしたのか、珠月は釘を刺した。ミヒャエルはなぜかがっかりした気持ちになる。コーラが飲みたかったわけでは断じてないが、会話がことごとく予想の斜め上をいくこの展開は、精神的にくるものがある。
「……炭酸は嫌いなんだ。カクテルならぎりぎり許せるんだけど」
「誰も聞いていません」
 どうでもいい珠月の弱点を知ったミヒャエルであった。本当に激しくどうでもいい。
「紅茶以外の飲み物も飲むんですね」
「というか、そもそも私はこの世の何よりも紅茶が好きで好きでたまらないというわけじゃないよ。好きだけど、何よりも優先させるほどではない」
 あっさりと珠月は白状した。ミヒャエルは唖然とした表情になる。
「え……ではあの、大量の茶器や巷で噂のアフタヌーンティは一体…………」
「お茶会が好きだから。私のために時間を割かせるんだもの。それ相応の、お茶会に来る価値があると思わせるくらいのものを用意するのは当たり前でしょう?」
 珠月は断言した。
「私が用意した、私しか用意できないお菓子やお茶で客をもてなして、みんなが楽しんでくれるのが好きなのよ。そして話を聞いた人が、次はいきたいと言ってくれるのが楽しみなの」
 ふっと珠月は笑った。今までの人の悪い嫌な笑みではなく、心の底からのこぼれるような笑みに思わずミヒャエルは呆けた。今更ながら、相手が同じ年くらいの少女だったのだと思いだす。
「それに、人間っていうのは美味しいものを食べさせてくれる人間に心の底から敵意を抱くことは難しいからね。お茶会のもてなしは、友達を増やしてくれる」
「いや……何と言うか」
 あまりにも意外な本音にミヒャエルは本日何度目になるか分からない度肝を抜かれる。ミヒャエルは、珠月のお茶会は本人の趣味の延長くらいにしか思っていなかった。
「おや、自己中の塊みたいな私がそんなことを考えているのが意外?」
 ミヒャエルの心を読んだかのように、珠月は意地の悪い笑みを浮かべた。先ほどまでの無意識のうちにこぼれたような笑みはなりをひそめる。
「いえ……意外などということは…………貴女が悪人でないことは知っていますから」
「嬉しいような嬉しくないような評価だね」
 珠月は肩をすくめて見せた。
「私は、傲慢で気まぐれな嫌な奴って思われるのが嫌いじゃないんだけど」
「…………マゾなんですか?」
「死にたいの?」
 笑顔で珠月は尋ねた。ミヒャエルはぶんぶんと首を横に振る。
「とんでも御座いません」
「傲慢で気まぐれな嫌な奴が生きて必要とされているということは、それだけ私の能力や立場が評価されているということだ。そう考えると、最高の褒め言葉だと思わない?」
「それ以外に褒め言葉はないんですか?」
「後は、紅茶のブレンドを褒められることだね」
 紅茶と人格評価が同じレベルである当たり、篭森珠月という人間の価値観はおかしい。紅茶が来る位置が高すぎるのか、あるいは自己の人格評価が低すぎるのかは謎だが、どちらだとしてもあまり嬉しくない。
「……ふむ、そこまでのものなら飲んでみたいものですねぇ」
「いいよ。茶葉は?」
「はい?」
 あっさりと返された言葉に、ミヒャエルは耳を疑った。珠月は繰り返す。
「だから、茶葉は何にする? 悪いけど、ディンブラは今朝切れてしまってない。あと、ミルクやレモンはいる?」
 ミヒャエルの知識にない茶葉が登場して、ミヒャエルの脳は動きを止めた。彼の知っている紅茶と言えば、ダージリンとかアッサムとかせいぜいアールグレイである。どんな茶葉がいいかといわれても答えようがない。
「ち、ちなみにどんな葉が……?」
「えーと、ダージリンストレートフラッシュ・アッサム・ウバ・ジャワ・ケニア・キャンディ・ニルギリ・キームン・ヌルラエイヤ・ルフナ……ああ、ダージリンセカンドフラッシュも少しは残っていたかも。ハーブやスパイスは一通りあるはず」
 半分も聞き取れなかった上に、聞いてもそれがどんな物体なのか分からなかった。だが、ここで妙な返事をするわけにはいかない。ミヒャエルの背筋を汗が流れる。
「ブレンドもできるけど?」
 問題はそこではない。ミヒャエルの顔が引きつる。
「ああ、今日はミルクの良いのが残ってるね。私は次の一杯はミルクティにしよう」
「わ、私もミルクティを! えーと、えーと、アッサムとキャンディで!!」
 咄嗟にミヒャエルは叫んだ。珠月は目を細める。
「アッサムとキャンディでミルクティ?」
 しまった。外した。ミヒャエルは思った。そして、これから自分の身に起こるであろうことを考える。
「…………すみませんでした」
「ふうん、アッサムもキャンディも比較的ミルクティに合う茶葉ではあるけど……あえてポピュラーなウバ茶を避けて、アッサムとキャンディ。しかもブレンドティか。悪くはないけど、どういう配合にすべきかな」
「は?」
 戻ってきたのは予想外の反応だった。脳内でどういう結論が出たのか、仕切りに珠月は頷く。
「気に入った。試してみよう。おいで、ミヒャエル」
「へ?」
 唐突に名前を呼ばれて、ミヒャエルは目を丸くした。てっきり珠月は自分の名前など覚えていないだろうと思っていたから、なおさらだ。ミヒャエルが茫然としている間に、珠月の姿は廊下へ消える。慌ててミヒャエルはその後を追った。
「ど、どこに行くんです?」
「特別に、私のティキャディボックスを見せてあげる」
 ティキャディボックスとは18世紀ごろ、当時貴重だった茶葉を保管したり、ブレンドするために作られた専用のボックスのことだ。紅茶愛好家にとってはおそらく大事なのものだろう。
「えーと、何故私に?」
「茶器と茶葉が分かる、あるいは分かりそうな人間がほしくてね」
 上機嫌で珠月は答えた。しかし、返答になっていない。
 そうこうしているうちに、キッチンと思しきところに着いた。思しきというのは、すでにキッチンの域を通り越して厨房の領域に近付きつつあるため、一瞬それと認識できなかったせいだ。
 だが、珠月はそのままそこを通過して、その横の部屋に鍵を差し込んだ。かすかな音がして扉が開く。そこに保管してあるのだろうか。
「これが、私のティキャディボックス」
 一歩横に避けて珠月は部屋の中を見せた。
 広くはない部屋だった。正面は厚いカーテンが下ろされた窓。そことドアをのぞく全面は棚で埋め尽くされている。そこに並んでいるのはすべて茶葉が入っていると思しき箱。まるでお茶屋だ。プレートには紅茶だけでなく、烏龍茶や日本茶の名前も書かれている。そして部屋のど真ん中には大きな木製のテーブルがあり、その上には天秤やスプーン、すり鉢など、まるでこれから錬金術でも始めるかのような器具が揃っている。
 毒草使いの調合室。
 そういう不吉な単語がミヒャエルの脳裏をよぎった。
「茶葉が傷まないようにここに仕舞ってるの。空調は最新型」
 珠月は説明した。別にミヒャエルは空調を気にして立ち止った訳ではない。
「…………ここは?」
「ティキャディボックス。お茶の保存と調合を行うの」
 この小部屋をボックスと言い張るか。
 喉元まで出てきた台詞をミヒャエルは飲み込んだ。珠月はあくまでも楽しげだ。
「一緒に調合してみようか。案外と、センスあるかもよ」
 ふわりと珠月は笑った。影のない無邪気な笑みが良い意味で子どもっぽく、予想外に可愛らしくて思わずミヒャエルは微笑んだ。そして、珠月に本気で嫌われながらも毎度愛の言葉を囁く友人――ジェイルのことを思い出す。彼が今ここにいなくては良かった。もしこの笑みを見ていたら、例のごとく怒涛のような愛の言葉を囁いていただろう。
「一緒に……?」
「そ」
 珠月はさっさと『ティキャディボックス』と呼んだ小部屋に入っていく。ミヒャエルはゆっくりとその後を追った。部屋にはいると肺の奥まで紅茶の香りが広がる。
「…………いい香りですね」
「いい茶葉だもの。ここにあるのは全部手摘みなの。流石に旧時代のように露地で太陽の光いっぱいに育てることは難しいけれど、工場栽培でも栽培方法を選べば土で育てるよりもずっと香り高いものが」
 珠月は振り向いた。薄暗い、それこそ気味が悪いと言ってもいい部屋の中なのに珠月はその空間に見事になじんでいる。子ども部屋にいた時も、お茶会をしていた時も同じだ。この屋敷の中のどこにいても妙に絵になる。たとえ、こんな怪しい妖術師の部屋のような場所でもだ。
「………………」
 とにかく茶葉を見つめて唖然とするしかないミヒャエルをしり目に、珠月は嬉々として茶葉について語りだす。今なら何を言っても怒りそうにないほど機嫌がいい。
 だからだろう。ミヒャエルは普段なら絶対に言わなかっただろうことを頼んでみた。
「…………あの」
 振り向いた珠月はことんと首を横に傾ける。不思議なことがあったときにこうして小首をかしげるのは珠月の癖だ。
「何?」

「部屋を貸していただけませんか?」

 珠月はミヒャエルを見上げた。血色の瞳がミヒャエルを見上げる。
「うちは下宿じゃないよ」
「知っています。でも部屋は余っているでしょう? 私を置いていただけませんか?」
「そんなに金に困ってるの?」
「この家が好きなんです」
 珠月は目を瞬かせた。
「珍しいね。だいたいの人は緊張するか、気味悪がるか、趣味が悪いと罵るのに」
「それはそれでどうかと思いますが」
 特に最後。
「この家は……好きです」
「何度も聞いたよ」
「だから住みたいです」
「私の家でも?」「はい」「唐突な」
 まさか、貴女が今ならなんでもOKを出してくれそうなほど機嫌がよかったから、とはいえない。
 探るように赤い目がミヒャエルを見つめる。ミヒャエルは背筋を伸ばした。返事は帰ってこない。
「…………ジェイルをこの屋敷の敷地内に入れないならいいよ」
 たっぷり数分後、珠月は答えた。
「良いんですか?」
「悪意がないことはここ数カ月で分かっているし、我慢できないほど嫌いでもない。それで使えそうなら、置くことに異論はない。茶葉のセンスも面白いしね。そもそも、追い出すだけ無駄なことはもう分かっている。その代わり」
 一瞬だけ血色の瞳が深くなる。余裕のある表情が崩れて、その下からもっと生々しい――背筋が冷たくなるような何かがのぞく。
「この家の中で見聞きすることを人に話してはいけない。私のことを知ろうとしてはいけない。何を見ても、何を知っても、口を閉ざしなかったことにしないといけない。それに耐えられる?」
「…………分かりません」
 ミヒャエルの返事に、珠月は意外そうな顔をした。
「情けない返事だね」
「なってみないと分からないものです」
「正直だね。気に言った」
 くすりと珠月は笑った。
「貴方がいいなら、それもいいんじゃないのかな。後悔する時間ならたっぷりある」


      **


「どう考えても悪役の台詞じゃないですか」
 陽狩は一言で感想を終えた。珠月は首をかしげてみせる。
「ん? 別に感動の出会いのストーリーだなんて言った覚えはないよ。ミヒャエル受難の始まりの話だもの。それに当時は一応、警戒してたしね。今はそう簡単に殺す気はないよ。だからこそ、背後に控えることを許しているんだ」
 昔話の中では立つことができなかった位置に立つミヒャエルを顎でしめして、珠月は微笑んだ。陽狩は嘲笑する。
「ろくな人生じゃない」
「あら、貴方はろくな人生をおくってるの?」
「言いなおしましょう。ろくな人間じゃない。私も貴女も」
 ひとしきりギスギスしたやり取りを終えて、二人は同時に口を閉ざした。沈黙の隙間を埋めるように、ミヒャエルがお茶を注ぎ、お菓子を継ぎ足す。
「珠月さんはこうおっしゃいますガ……受難ではないですよ」
「そうなの?」
 疑問の声を上げたのは珠月だった。ミヒャエルは苦笑を返す。
「案外と面白いんですよ。貴女は」
「そ?」
「ええ。命令されても不快ではない類の人間です」
「ありがとう」
「…………鬱陶しい」
 珠月から始まり、最終的にミヒャエルへと語り手を変更して、昔話は終わった。だが、陽狩の表情はさえない。
「何ですか? あれですか? 壮大な惚気話ですか、今のは? そんな恋に落ちた瞬間(はあと)みたいな話は聞きたくありません」
「え? 落ちてないよ」
「落ちる要素がありません」
 陽狩の感想に、間入れず珠月とミヒャエルは声を上げる。慌てるような声ではなく、あっけにとられたような、心底不思議そうな声だ。
「ミヒャエルはただの建築馬鹿だもの」
「珠月さんは脆い面もありますが、私にはそんな可愛い側面はまず見せてくれません。私に特殊な性癖はないので恋に落ちるのは無理です」
「息ぴったりじゃないですか」
 馬鹿にしたように陽狩は笑った。珠月はそれに笑みで返す。
「その理屈だと……陽狩と夏羽は恋に落ちているの」
 金属音がした。
 振り下ろされた波状の刀身を持つ刃物――フランベルジュをすぐ目の前で、袖口から取り出したナイフで受け止めた珠月は、刃越しに微笑んだ。
「新聞みたよ。ラブラブ♪」
「貴女だって同じでしょうが。ジェイル・クロムウェルと随分うまくいっているようで」
「……殺す」
 珠月は瞬時にキレた。
 殺気立つ二人の動きを察して、ミヒャエルはすばやくくそ高いロイヤルクラウンダービーのティセットを批難させた。直後、陽狩はそれが乗っていたテーブルの上にとび乗る。
「首と手足をバラバラにして殺して差し上げます」
「二度と喋れないように喉を切り裂いて殺す」
 互いに同じくらい物騒なことを呟いて、二人はぶつかった。どちらも相手の発言が見事に怒りのツボにはまったらしく、しばらく落ち着きそうにない。
 いつものことだから死傷者はでない。そう判断して、ミヒャエルは食器を片づけ始める。こんなやり取りに慣れてしまう当たり、自分もつくづく常識が狂っている。
 今日は仕事がない日だから時間の許す限り、珠月の怠惰な一人お茶会に付き合う予定だったのだが、完全に予定が変更された。午後は家の掃除の手伝いになるだろう。
「死ね。紅茶で溺れて死んでください!」
「死んじゃえ。メタボになって、脂肪のせいで身体壊して死んじゃえ!」
「微妙に具体的かつ嫌な死に方を指定しないでください!」
「紅茶でおぼれ死ぬ馬鹿が、どこの世界にいるのよ!?」
 激しく低レベルな言い争いが聞こえる。これが学園600万人を代表する生徒の一角だと思うと、世の理不尽を感じる。
「さて、落ち着くのは10分後くらいでしょうか。それまでに掃除用具を準備して――気分が落ち着くハーブティでも用意するか」
 独り言を呟いて、ミヒャエルは部屋をそっと抜け出した。勿論、大事なティセットは回収していく。閉めた扉の向こうでまた音がした。
「さてと。忙しいいそがしい」
 チクタクとミヒャエルの腕時計が音を立てる。ミヒャエル自身がデザインした特殊な腕時計だ。一部がスケルトンになっている文字盤の奥で歯車が複雑に動いているのが見える。この動きが、デジタルにはないアナログ時計の良さだ。
「リラックスには、ローズかリンデンのお茶がいいでしょうね。用意しなくては」
 珠月には言っていなかったことがある。ミヒャエルはこの家に住みたいと思ったのは、この家があまりにも現実離れしていたからだ。
 完璧に整えられ、演出された空間。それは本来、人が住むべき場所ではない。映画とか舞台とか人に見られるためだけにある虚構だ。だが、珠月はそこで生活している。しかもその空間を壊すことなく、むしろその空間のすべてが彼女の存在を飾るために作られている。それが面白いと思った。
 建物というのは、所詮はただの空間を内包した物体。それが意味を持つのは住人を迎えた時だけだ。ミヒャエルは建物を愛している。そして同じくらい、その建物の良さを引き出す主という存在を尊敬している。だから、彼は珠月に使われることに異論はない。この屋敷は威厳を演出するために存在していて、そこにいる珠月はそれを見事に操っているのだから。偉いと思える人間の世話をすることに異論はない。この空間の中でなら、彼女は間違いなく館の主で最高権力者だ。そういう風に舞台が整えられている。
「勿論、実際はそうではなく――こんなのはただの妄想であることは分かっているのですがね」
 だがそんな妄想を抱かせるために、複雑怪奇な建築の歴史はある。かつてカトリック教会が威信を示すために派手な外装の教会作りに熱中したように。あるいは各国の王者が競うように宮殿を立てたように。
 ミヒャエルは歩き出す。上質な床とそこに敷かれた分厚いカーペットは彼の足音を見事に吸収する。次に館の主のためにすべきことを考えながら、ミヒャエルの姿は廊下の奥に消えた。

おわり