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水上市場


 濃い水の香りとかすかな塩の香りがする。無理もない。ここは水の上で、この水の流れは海へと繋がっているのだから。あるいは、塩の香りは海原からやってきた船が運んできたものかもしれないが。
 揺れる渡し板の上で器用にバランスを取って、冷泉神無は船から船へと渡り歩く。本来なら広いはずの川の水面は、集まった無数の船によってほとんどが覆い隠されている。最新型のボートから、随分と古いエンジンを搭載したものまで形は様々。共通しているのはどれもさほど大きくはない、同じくらいの高さの船だということ。そうでなければ、船同時をつなぎ合わせて渡し板で自由に移動できるようにすることなんて、出来なくなってしまうから。
 今日は不定期に開かれる水上市の日だ。市自体は、この学園都市においても珍しいものではない。西区のマーケットは毎日市が並ぶし、区画王主催のフリーマーケットやリンクが企画で行う特別市、生徒の有志が行う市もある。
 だが、この水上市は少しだけ趣が違う。
「あら、ごめんなさい」
 渡し板の反対の端で神無が通り過ぎるのを待っている人影に気づいて、神無は小さく頭を下げた。水上という不安定な場所では譲り合いが基本だ。そうしないと、人か物かあるいは両方が川に落下してしまう。
 学園内を流れる川は、ライザーインダストリーと各区画の管理者、それに大リンクの幹部などの苦労もあって、落ちれば即死ぬとか悪臭が耐えがたいとかというほどの汚染レベルではない。しかし、いまだに世界大戦の傷跡は完全に消えたわけではないのだ。自然は毒をはらんでいる。そんな水につかりたい人間は、多くない。
「ま、そんな危険な水なら水上市なんて開かないだろうけど」
 もっとも、世界にはそういう汚染レベルの土壌もあるらしい。50年以上も経つのに自然の回復力が間に合わないなんて、人間の破壊力はたいしたものだと思う。
 ふと視線を向けると骨董屋の船に入り込んでいた。古びた招き猫と目が合う。神無は足を止めた。それほど古いものではない。機械生産品でこそないが、どこかの工房製でも名の知れた窯のものでもないだろう。だが、悪くない表情をしている。
 神無が足を止めたのを見て、店主と思しき少女が走り寄ってくる。
「いかがですか? 良いものですよ。これはですね、旧時代の」「20世紀ごろのものだね。悪くはない材質だけど、それだけだ」
 ばっさりと神無は切って捨てた。その口調で同業者であることに気づいたのか、少女の声は客に対するものからもっとくだけだものになる。
「手厳しいな、おねえさん。でも旧時代の中程度のものっていうのは、案外珍しいんだよ? 骨董なんて戦中にみーんな破壊されちゃったんだから。国宝級なら保護されてるから残ってるの多いけど、こういう普通の人向けはかえって貴重なんだよ?」
「珍しさが市場価値を決めるわけじゃないよ。買うとしたら、せいぜい一万WC(ワールドクレジット)だね」
「そりゃあないよ、おねえさん」
 その値段に少女は大げさに空を仰いで見せた。
「私を破産させる気かい?」「破産するほど可愛い商人はここにはいません。でもまあ、可哀想だから、一万二千」
「可哀想な相手にいう金額じゃないよ。桁一つくらいは上げて貰わないとね。十万」
「さようなら」
 くるりと神無は踵を返した。一歩、二歩。少女が追ってくる気配はない。駄目かと思いながら渡し板に足をかけた時、降参するような声がした。
「八万」
「強気だね。そんなに売れると思ってるの? 一万五千」
 してやったりという笑みを心の奥に押し込めて、つまらなさそうな顔で神無は振り返る。少女は顔をしかめた。
「売れると思ったから仕入れたんだ。七万五千」
「扱いが悪いわよ。こんな直射日光と風雨が当たるような場所に置いちゃって、劣化してるんじゃないの? 二万」
「出したのは今日だけです。七万二千」
 白熱したやり取りが続く。これはこの船の上だけで行われているものではない。見渡せばどこの船の上でも、電卓を手にした店主と客の値段交渉、あるいはほしいものが同じ客同士の交渉が行われている。何もしていない船は、いまだに客を見つけられていないだけだ。
 水上市。それは、船に商品を乗せたまま参加し、終わったらすぐに帰れるようにと考えられた市のスタイル。つまりは逃走に適している。陸より早く動け、足がつかない。それに海と繋がっているここには、普段海原を自由気ままに旅しているような類の輩も現れる。
 人が集まれば、物も情報も集まる。
 水上市はそういう珍しいものが集まる市でもあるのだ。一般客も勿論多いが、それ以上にバイヤーの姿が目立つ。合法非合法含めて新商品となりそうなものを探しているのだ。合法的な品は、今の神無のように船の上で、非合法な品は船の中でやり取りされる。綺麗なものも、汚いものも、船は運んでくる。
「ああもう、分かった。五万!」
「この猫、売れてないでしょ? ほら、動かすと猫の形に埃の跡が残るよ。 これを逃したら売れ残るかもよ? だから二万八千」
「鬼!」
 とうとう少女は叫び声をあげた。それが敗北を示している。
「分かった。分かったよ。三万二千。流石にそれ以下となると赤字だ」
「ま、そんなもんか」
 神無は手を差し出した。少女はそれを握る。交渉成立の合図だ。
「支払いは現金ですよ」
「勿論。でも届けてはくれないのよね?」
 水上市の船は、ほとんどがすぐにこの場所を離れてしまうので、配達をしてくれるものは少ない。それに配達してもらう約束をしてそのまま金だけ持ち逃げされる危険もある。
「配送屋の船なら、ここから十隻くらい西のところにいたよ」
「ありがと」
 とはいえ、荷物が多くなると大変。だから、代わりに荷物を運ぶ専門業者が存在する。
 神無は金を払うと招き猫を持ち上げた。赤ん坊ほどもあるそれは、かなり重い。
「まいど……」
 やや怨念のこもった声を背に、神無はその船を後にした。店主の顔が見えなくなるところまで歩いて、そして神無は顔をほころばせる。
「いい買い物をした」
 店主に言った言葉は、嘘ではないが本当でもない。この招き猫は、学術的芸術的価値は確かに低い。だからみんな見落とした。しかし、これを作った職人の腕は悪くない。調べなくては分からないが、有名な職人が修行中に作ったものの可能性がある。それに、仮にそうでなかったとしてもこの招き猫は良い表情をしている。きちんと綺麗にすれば、欲しがる人間はそれなりにいるだろう。
 上機嫌で神無は渡し板の上を歩く。ふわりと鼻孔を何かがくすぐった。花の香りだ。それも生の花ではなく、花の香料の。
「石鹸……かな?」
 視線を向けると、花ではなく色とりどりの石鹸を並べた船の上に来ていた。篭に入った石鹸を若い女性たちが目を輝かせてみている。その中に知人の姿を見つけて、神無は足を止めた。
「エイミーさん」
 金色の髪を縦に巻いた少女が振り返る。相変わらず、一部の隙もない姫ぶりだ。髪は一筋の乱れもなく、服には皺の一つもない。お化粧はしっかりしているのに一見するとそうは見えず、どういう技術を用いているのかファンデーションもマスカラも絶対に崩れない。
「あら、冷泉さん」
 エイミーと呼ばれた女性は振り返った。手に持った色とりどりの石鹸や造花や他にも綺麗なモノがいっぱい入ったかばんが揺れる。
「こんにちは、景気はいかが?」
 エイミーは微笑んだ。動作の一つ一つに品がある。友人である空多川契も隙のない美しい動きをするが、彼女のそれはもっとゆったりとして妙な余裕がある。同じく友人の篭森珠月は、周囲の視線や思惑を意識した貴族的な言動をすることがあるが、彼女のそれはもっと自然だ。
 【プリンセスシンドローム(お姫様症候群)】エイミー・ブラウン
 校内最大級の商業系リンク《エンジェルエッグ》の社長であり、組織のトップ。この学園の生徒の多くが、頭脳や戦闘能力にすべてを注ぐ中、美しくあることにすべてを注いだ女性。だから彼女の姿は、仕草は、雰囲気は、声は、心は美しい。そうであるように、彼女が決めたから。ただし、その美しさはすべて彼女基準だ。
 だからだろうか。彼女を見ると、綺麗とは思うけれど――――彼女のことを学園で一番美しいという人はきっと誰もいない。容姿だけなら、ぎりぎり普通の美しさだ。仕草も、雰囲気も、声も、心も、きっと一番ではない。でも、総合的にみると美しい。彼女自身が望む通りに。
「その石鹸、良いですか?」
「良い香りですわ。性能自体は取り立てて突出したところは御座いませんが、人体に無害な天然成分のみでこの香りを出すのは、かなり難しいと思います」
 ふんわりとエイミーは微笑んだ。すぐ後ろにその石鹸を売るひとがいるというのに、欠点を口に出すことも躊躇わない。ただまっすぐに彼女は言う。
「私のところももっと精進しなくては。で、そちらは? 質問に答えていただいていませんよ」
「私は一つ買ってきたところ。招き猫が可愛くて」
 布の袋に入れたそれを持ち上げて見せる。エイミーは目を細めた。
「まあ、可愛らしい。それ、譲ってくださらない?」
 予想の斜め上をいく反応に、神無は目を瞬かせた。聞き間違いかと思う。あの、美意識の塊のような――それもどっちかというと西洋のお姫様のようなエイミーが招き猫などという庶民的なものを欲しがるとは。
「……これを? 商売繁盛祈願?」
「今度、新しい店を出すのですけど、館内全体を西洋的日本風にまとめようと思って、日本のアンティークを集めているんです」
「ああ、なるほど」
 神無は頷いた。普通はトップがするような仕事とは思えないが、美に命をかけているエンジェルエッグなら十分にあり得ることだ。
「でも、これ状態があまり良くないから一度修復したほうがいいと思いますよ」
「では修復が終わり次第送ってくださる? お値段は修復込でこんなものでいかがかしら?」
 つい先ほど支払った値段の倍以上が記されたメモを見て、神無は心の中でガッツポーズを決めた。今日は景気がいい日だ。
「ありがとう御座います。これからもご贔屓に」
「こちらこそ。あと、火鉢と車箪笥の良いのが見つかったらご連絡いただけるかしら?」
「喜んで」
 二人は握手を交わした。勝手に人の船の上で商談が成立する。船主が苦い顔でこちらを見ているが、それは気にしない。
「じゃあ、私はこれを配送屋にところに持っていくから」
「ご一緒しますわ」
 二人は並んで歩きだす。学園を代表する成績優秀者のうち二人が並んでいれば、当然のごとく目立ちそうなものだが、そうではない。戦闘能力も特殊な血筋や血統も持たず、音楽や役者のように大勢の人の前に立つこともない二人は、トップランカーの中でも比較的顔を知られていない。だから、歩いても多くの人は彼女らがそれと気づかない。
 美に魅入られたリンクの女王と、神の目と手を持つとされる鑑定士だとは。
「あら、あのお花、綺麗ね。あちらの洋服も素敵」
 歩きながら、エイミーの視線は絶えずあちこちに移る。神無は苦笑した。これだけ完璧に美しくあろうとする人なのに、その言動はどこか子どもっぽい。
「本当に、綺麗なものが好きなんですね」
「ええ、勿論。美しいということは私にとって生きる価値そのものですもの」
 嬉しそうにエイミーは答えた。嘘ではないと神無は感じる。だが、その価値観は残酷だとも思う。世の中には、美しくありたくともなれないものもあるというのに。
「美しく、ね。美しさは確かに力だ」
 ぽつりと神無は呟いた。神無自身も、ある意味では美を職業とするものだ。美しい価値あるものを探し出し、時に修復して元の美しさを取り戻させ、時に偽の美しさを暴く。骨董屋にして、鑑定士であり、修復師でもある神無の仕事。美を求めてそれに価値を見出す人間相手の仕事。
 それに不満はない。けれど――――けれど、例えば唯美主義、美至上主義の人間に触れる度にふとした嫌悪感を抱く。そしてそれに気づいて自己嫌悪に陥るのだ。
 濁った水面が日光を弾く。光の加減で、濁りが見えなくなり、水面は輝く光の帯となる。
「綺麗ねぇ」
 視線を向けるとエイミーはにっこりと笑った。その目は、神無が見ていた水面を見つめている。濁って薄汚れた川の上を。
「綺麗……かな?」
 神無は小首を傾げた。綺麗でないとは言わないが、所詮は濁った川だ。もっと綺麗なものに囲まれている人が言うセリフではない気がした。
「綺麗じゃないですか。汚染された水でも光が当たれば、輝く。綺麗ですわ。泥でも石ころでも磨けば光ります。綺麗です」
 にこにことエイミーは笑う。姫君のような無邪気な笑みで。
「磨けば光るからこそ、私のような商売が成り立つんですもの」
「磨いても無駄なものもあると思うけど」
 神無は肩をすくめた。
 世界最高峰の修復師であっても直せないものはある。どれだけ磨いても光らないものもある。誰が悪いわけでもなく、そういうものはあるのだ。世界はそういう形をしているから。
「それに美しく光輝くばかりが、道でもないし」
「その通りですね。美しさに拘らない人がたくさんいるのは知っていますわ。でも、そういう人たちが美しくないかといえば、そうではないと私は思うのです」
 そう言いながらもエイミーの視線は次々と移っていく。ここにいるのに、彼女は神無を見ていない。否、見てはいる。神無だけを見てはいないのだ。彼女は出来るだけ多くのものを見ようとする。一つでも多く、『美』を視界に収めるために。
「物語の姫君や王子が美しいのは、なにも外見の美貌のせいだけではありませんわ。彼らは考え、行動し、足掻き、嘆き悲しみ、怒り、間違え、恨み、愛し、憎み、殺すから美しいのです」
 風が彼女の髪を撫で上げる。それを見つめながら、神無は少しだけがっかりして、そして納得していた。彼女はこの学園の生徒だ。
 この学園都市・トランキライザーの住人なのだ。
「本当の美しさとは整っていることではありません。『シン』です」
 トランキライザーとは、精神安定剤。そして今だ覚醒せぬものの意味。
 だからこの学園の住人達は――――――誰もかれもが狂っている。自分に、他人に、憎しみに、愛に、過去に、現在に、未来に。あらゆる何かに対して狂っている。
 この人は美しさに狂っているのか。
 神無は納得した。そして残念に思う。正気のまま狂っているこの人の見る何かを、自分は見ることができないことを。彼女の目にうつる世界はどれだけ美しいのだろう。
 骨董屋で美術商としての己の魂が、疼く。叶う事なら、その目を通して見てみたいものだ。
「『シン』とは、芯であり心。己の心と思いに殉ずるもの。そして、信にして真。求める先に存在するもの」
 目を細め、夢見るように彼女は言う。姫君のように微笑み、恋人の話をするように頬を赤くして、彼女は自分の狂気をかたる。語って騙る。
「求める人は美しい。己の欲するモノを知り、必死で手を伸ばす。上を目指し、己を磨き、己を律し、理想に手を伸ばす。それが『美』。私がしていることはそういう上を目指す誰かに、まずか形から少しばかりのお手伝いをしてあげることだけです。私は神様ではないから、人の心は救えない。けれど、目に見える何かだけならば変えて差し上げることはできる」
「それが偽りだったら?」
 つい神無は口をはさむ。意地悪な質問だと思う。けれど、気になった。
 にっこりと、エイミーは微笑む。
「目に見える形があるんです。偽りなどではありません。仮にそうだとしても、それによってその誰かが、明日へと上へと突き進む力になるならば、それは素晴らしいことだと私は思いますの。誰もが輝けるとは申しません。すべての人が己を変えていくことができるとも思いません。けれど、今より前へ行く事なら誰でもできる」
 エイミーは知らない。かつて、彼女とよく似たことを言った少女が学園都市にいたことを。その彼女は、美しさではなく輝きを求め、一瞬でも輝く瞬間を与えるためと称して非合法な薬を作り、そして処分されてしまった。その薬は沢山の人間をあやめたから。
 神無は思う。
 なぜ、みんな先へ先へといきたがるのだろう。振り返ってみればいい。過去だって、そんなに悪いものではないのに。未来だって、そんなに良いものとは限らないのに。この水上市のように何処からともなく集まってきて、そしていつの間にやら散開してしまうような、そんな不安定なものなのに。
「ああ、そうか」
 綺麗な言葉。綺麗な心。綺麗な理想。
 彼女は語る言葉や思想すら美しい。彼女がそうであれと望むから。それが事実である必要はない。そうであれと望むことを彼女は口にし、信じる。
「貴方は希望しか見ないんだね」
 困ったように神無は肩をすくめた。
 それはとても狂っている。絶望しか見ないのと同じくらいに。ただ、光に満ちているから一見そうは見えないだけ。どうにか正気を保っている神無にはよく分からない思考回路だ。けれど、思う。
 きっと彼女が見る世界は光に溢れて美しいのだろうと。
「己の身が泥だというのなら、綺麗に丸めて整えて磨いて、世界で一番美しい泥団子になればいいんですわ。宝石にも負けず輝くでしょう。己の心が塵だというのなら、その身をかがり火として暗闇をひきさく火の粉になればいいのです。人を導くこともできましょう。己の魂が傷だというのなら、それを拒絶せず誇れば良いのです。傷も聖痕となりましょう。けれど、もし、もし諦めてしまうならそれはただの泥、ただの塵、ただの傷」
 手にいっぱいの綺麗なものを抱えて、くるりとエイミーは振り返った。
「それじゃあ、楽しくないじゃありませんか。人は、心だけで誰でも美しくなれるのに。一番にならなくても、光輝かなくても、唯一にはなれるのに、それでは楽しくありません。だから私は世界中のみんなをお姫様に、王子様に、したいのです」
「貴女なら出来るんじゃない?」
 神無はあいまいに笑った。他の人間が同じセリフを言ったら笑い飛ばすが、彼女の場合はやりかねない何かがある。なんと言っても、理想の白馬に乗った王子様をいまだに盲信していて、人の可能性を限りなく信じている人間だ。天井を見ない人間の行動には、果てがない。
 やるかもしれない。彼女なら。
「でも私は良いからね。なるなら、自分だけの力である」
「ふふふ、冷泉さんのことなら心配しておりませんわ。貴女はもう、十分に美しいですもの」
 神無は足元の渡し板を踏み外しそうになった。たたらを踏んでなんとか留まる。
「変なこと言わないで……」
「美しいですわよ。自分に正直で、己の欲するところを知っていて、優しくて、可愛らしい。ほら、法華堂さんが懐く人ってごくごく珍しいですし」
「なっ!?」
 よく店に遊びに来る仕事仲間の名前に、神無は表情を強張らせた。顔が赤くなったり青くなったりする。
「あれはただの同業者。それにうちに来ても、ぼけーとしてるかカピバラと遊んでるかで、そんな期待されてるようなことは何もありません」
「あらあら」
 エイミーは人が悪い笑みを浮かべた。勘弁してくれと神無は空を仰ぐ。
「まあ、互いに意識しないうちに近付く距離というものも御座いますわ。ウエディングなら、是非うちに声をかけてください。冠婚葬祭の演出も手掛けていますの」
「どんだけ事業分野広いの!?」
 エンジェルエッグは、『美のため』ならばどんな努力も惜しまない。
「ふふ、最近は芸術家の支援事業にも乗り出しましたの。私は立ち止りませんわ。世界を美で埋め尽くすまで!!」
「そう…………頑張ってね」
 頭痛がする。
 神無はこめかみを押さえた。ついさきほど感じた寒気を覚える狂気が気のせいだった気がしてくる。実際、気のせいだったのかもしれない。
「あら、早くいかないと。あんまりおしゃべりをしていると、市が終わってしまいますわ。船が散開する前にもうひとめぐりしなくては」
「あ、私も買い付け」
 思いがけず時間がたっていたことに気づいて、二人は足を速める。
 足元で水面が揺れた。

おわり